組織における軍師という存在の考察― なぜ軍師型の知性は現代で排除されるのか
僕は最近、黒田官兵衛や司馬懿といった「軍師」という存在が現代組織においてどうなったのかをずっと考えている。歴史を見れば、軍師というのは極めて魅力的な存在だった。主君のすぐそばにいて、盤面を読み、誰も見えていない一手を提示する。時に主君の判断を否定し、退くべきときに退くと言い、攻めるべき瞬間を切り出す。いわば、意思決定の質そのものを引き上げる存在だった。
そして何より重要なのは、その発言がどれほど耳に痛くても、最終的には受け入れられる構造があったことだと思う。理由は単純で、戦乱期においては誤った判断が即死に直結したからだ。主君が誤れば、主君自身が死ぬ。最悪は家臣一同みんな死ぬ。この一点がすべてを規定していた。だからこそ軍師は、「気に入ることを言う人」ではなく、「生き残るために必要なことを言う人」として、“懐刀”の位置に置かれた。
しかしこの構造は、近代に入って大きく変わる。戦争は巨大化し、鉄道や通信、工業生産が勝敗を左右するようになる。戦場の一手で局面をひっくり返す余地は相対的に小さくなり、意思決定は参謀組織や官僚機構に分散されていく。軍師という存在は消えたわけではない。ただ、その役割は個人から組織へと吸収された。ここまでは合理的な進化だと思う。問題はその先だ。
近現代において、軍師型の人物は確かに存在する。しかしその役割は、もはや「勝ち方を教えること」ではなくなっている。僕の感覚では、現代の軍師とはむしろ、「このままでは必ず負ける」と言ってしまう人だ。制度の歪み、KPIの欠陥、組織の空気の異常、誰も触れたがらない構造的問題、予見される敗北。そういうものを言語化する役割を担う。
つまり、かつての軍師が盤面の中で最適手を提示したのに対し、近現代の軍師は盤面そのものの欠陥を暴く存在へと変質している。そしてここからが本題だが、こういう存在は現代の組織において極めて扱いにくい。なぜなら、正しいほど不快だからだ。その指摘が的確であればあるほど、誰かの責任が露呈する。それまでの合意が揺らぐ。見ないふりをしていた前提が崩れる。つまり、正しさそのものが“組織の気分”を不安定化させる。だから多くの場合、その発言は内容ではなく「立場」の問題として処理される。「なぜそんな視座からものを言うのか」という違和感にすり替えられる。
ここには、近現代組織特有の構造がある。意思決定の結果が、時間差で、分散して現れるという構造だ。戦国期は誤れば殿が死んだ。一族郎党皆殺しにあった。しかし現代では、誤った判断をしてもすぐには誰も死なない。代わりに、数年後に現場が疲弊し、若手が辞め、組織が静かに弱っていく。いわば「ゆでガエルの死」である。しかもこの死は、大抵の場合、自分ではない誰かに降りかかる。現場、顧客、未来の組織。意思決定者自身はその場にいないことが多い。このとき、耳の痛い正論を受け入れるインセンティブは著しく低下する。
結果として、近現代の軍師型人物は、「まだ起きていない死」を言語化する存在になる。そしてそれは、ほとんどの場合歓迎されない。なぜなら、それは現在の安定や良い気分を壊すからだ。日本が無謀と知りながら、徐々に太平洋戦争に突入していったのも、「即死性」がない分、反対の声をあげる軍師の声を無視して始めやすかったのだと思う。
この構造の帰結として、もう一つ興味深い現象が起きている。軍師機能の外部化である。組織は内部に軍師を持つことに失敗し、その機能をコンサルに委ねるようになった。外部であれば、嫌われても組織内の人間関係は壊れないし、正論の責任を外に置くこともできる。必要なときだけ使い、終われば切れる。つまりこれは、軍師の「毒」だけを安全に使う仕組みだ。ただし当然ながら副作用もある。知の責任と実行の責任が分離される。正しいことは提示されるが、実装は現場で歪むか、あるいは最悪止まる。ここに現代組織の限界がある。
さらに言えば、日本型組織ではこの傾向がより強く出る。合議と同質性を重んじる文化、内部キャリアに依存した正統性、そして相談役のような無毒化された役職。これらはすべて、軍師型知性を制度として取り込むことを難しくしている。一方でベンチャー企業も例外ではない。創業者のカリスマが組織そのものになると、そのカリスマを相対化する軍師は、「補完」ではなく「脅威」として認識される。結果として、軍師は置かれないか、後から一部外部的に導入される。このことは学校現場にもそのまま当てはまる。排除される「軍師型教員」は確かにいるからだ。このタイプの教員は遠慮なく改善を提言し、その結果、存在感まで増してしまう。結果、管理職から脅威と疎んじられ、切れ者窓際族としてのキャリアを歩むことになる。
ここまで考えてくると、一つの結論に至る。
軍師は消えたのではない。ただ、現代においてはその役割が、主君の隣にいて耳の痛いことも言う存在から、組織の外に置かれる無害な存在へと移動した。そして内部にいる軍師人材の場合は、多くの場合「空気を壊す人」として扱われる。
僕はこの構造を、かなり深刻な問題だと思っている。なぜなら、ゆでガエルのような死が主流になる時代においては、見えない敗北を言語化できる存在こそが、最も重要だからだ。にもかかわらず、その存在は最も排除されやすい。結局のところ、現代における軍師とは何か。僕はこう考えている。
それは、勝ち方を教える人ではない。
組織が見ないふりをしている、現在や未来の敗因を言語化してしまう人間である。
だから必要とされる。しかし同時に、嫌われる。
この矛盾の中に、現代組織の構造的な限界があるのだ。
そんな現代組織の中で、僕は黒田如水の如く、水面の“波紋の打ち方”で局面を変えていく手法を、今考察しているところだ。
