調査052 戦犯処理は保守再編へ移った
問い
占領初期に進められた戦犯容疑者の拘束、公職追放、財閥解体、非軍事化は、冷戦の進行によってどのように変更されたのか。
また、岸信介、児玉誉士夫、笹川良一、正力松太郎らの釈放・追放解除と、反共政策、保守政党の再編、自由民主党の成立、アメリカ情報機関との接点を分けて整理する。
史実
1945年8月、日本はポツダム宣言を受諾した。
同年9月2日、日本政府代表は降伏文書へ署名した。
日本は連合国軍の占領下に置かれた。
連合国軍最高司令官総司令部(GHQ・SCAP)は、日本政府を存続させ、日本政府へ指令を出す形で占領政策を実施した。
占領初期には、日本軍の解体、軍需産業の制限、戦犯裁判、公職追放、財閥解体、農地改革、教育改革などが進められた。
第二次世界大戦後、アメリカとソ連の対立が強まった。
1947年、アメリカ大統領ハリー・S・トルーマンはトルーマン・ドクトリンを表明した。
1948年、アメリカ国家安全保障会議は対日政策文書NSC13/2を採択した。
NSC13/2では、日本の経済復興、政治的安定、占領政策の調整、講和への準備などが扱われた。
1949年、中華人民共和国が成立した。
同年、ソ連は原子爆弾実験に成功した。
1950年6月、朝鮮戦争が始まった。
朝鮮戦争の開始後、日本はアメリカ軍および国連軍の後方拠点となった。
日本国内の港湾、飛行場、鉄道、工場、通信施設などが、朝鮮半島における軍事活動と接続した。
アメリカ政府は、日本の占領を終了させながら、日本を東アジアの安全保障体制へ接続する講和方針を進めた。
ジョン・フォスター・ダレスは、アメリカ大統領特使として対日講和条約の準備を担当した。
1950年6月、ダレスは日本を訪問し、吉田茂首相らと講和および安全保障について協議した。
1951年1月から2月にかけて、ダレスは再び日本を訪問した。
ダレスは吉田茂との会談で、講和後の日本の安全保障と再軍備について意見を求めた。
吉田茂は、日本の再軍備を直ちに進めることに慎重な姿勢を示した。
吉田は、再軍備には国民の反対、経済負担、周辺国の警戒などの問題があると説明した。
日本政府は、経済復興を優先しながら、講和後もアメリカ軍の駐留を認める安全保障構想を検討した。
日本側は、アメリカによる対日防衛の保証を含む協定案を提示した。
アメリカ側は、日本が相応の防衛義務を負わない段階で、アメリカだけが防衛義務を負う条約を結ぶことに慎重であった。
アメリカ側は、日本に対する防衛義務よりも、アメリカ軍が日本国内の基地を使用する権利を確保する条約案を示した。
1951年3月、吉田茂とダレスの協議を通じ、日米間の安全保障協定案が作成された。
平和条約案と安全保障条約案は、別の条約として並行して交渉された。
サンフランシスコ平和条約は、日本と多数の連合国との戦争状態を終了させる多国間条約として作成された。
日米安全保障条約は、日本とアメリカの安全保障関係およびアメリカ軍駐留を定める二国間条約として作成された。
1951年9月4日、サンフランシスコ講和会議が開会した。
1951年9月8日、日本と連合国48か国はサンフランシスコ平和条約へ署名した。
日本側では、吉田茂を首席全権とする6人の全権委員が平和条約へ署名した。
平和条約第1条は、条約発効によって日本と各連合国との戦争状態が終了することを定めた。
同条は、連合国が日本およびその領水に対する日本国民の完全な主権を承認することを定めた。
平和条約第5条は、日本が国際連合憲章第51条に基づく個別的または集団的自衛権を有することを確認した。
同条は、日本が集団的安全保障の取極を自発的に締結できることを確認した。
平和条約第6条は、連合国の占領軍が原則として条約発効後90日以内に日本から撤退することを定めた。
同条は、日本と一国または複数国との間の二国間または多国間協定に基づく外国軍の駐留を妨げないことも定めた。
この規定により、占領終了後も、別の条約に基づいて外国軍が日本へ駐留することが可能となった。
1951年9月8日午後、日本とアメリカは旧日米安全保障条約へ署名した。
旧日米安全保障条約の正式名称は「日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約」である。
日本側では吉田茂のみが旧日米安全保障条約へ署名した。
アメリカ側では、ディーン・アチソン国務長官、ジョン・フォスター・ダレスらが署名した。
平和条約と旧日米安全保障条約は同日に署名されたが、署名場所と署名者は異なった。
旧日米安全保障条約前文は、日本が平和条約発効後に固有の自衛権を行使する有効な手段を持たない状態にあると記載した。
同前文は、日本が自国の防衛のため、漸増的に自ら責任を負うことをアメリカが期待すると記載した。
旧日米安全保障条約第1条は、アメリカの陸軍、空軍および海軍を日本国内およびその付近に配備する権利を、日本が許与することを定めた。
アメリカ軍は、極東における国際の平和と安全の維持に寄与するために使用できるとされた。
アメリカ軍は、外国による武力攻撃から日本の安全に寄与するためにも使用できるとされた。
日本政府から明示的な要請があった場合には、大規模な内乱および騒擾の鎮圧を援助するためにも使用できるとされた。
旧日米安全保障条約には、アメリカが日本を防衛する義務を明記した条項は設けられなかった。
日本には、アメリカ軍へ基地を提供する義務が生じた。
アメリカには、日本防衛のために必ず軍事行動を取る義務は条文上明記されなかった。
旧日米安全保障条約第2条は、日本がアメリカの事前の同意なしに、第三国へ基地や軍事上の権利を与えないことを定めた。
旧日米安全保障条約第3条は、アメリカ軍の配備を規律する条件を、日米間の行政協定によって決定することを定めた。
1951年9月8日、吉田茂とアチソン国務長官との間で、日本による国際連合活動への協力に関する交換公文も取り交わされた。
交換公文は、朝鮮半島で活動する国際連合軍に対し、日本が施設や役務を提供する枠組みと接続した。
1951年10月から11月にかけて、日本国会は平和条約と旧日米安全保障条約を審議した。
国会審議では、全面講和か多数国講和か、米軍駐留、再軍備、基地提供、沖縄、領土、賠償などが議論された。
日本社会党などは、ソ連や中国を含まない講和や、米軍駐留の継続に反対した。
日本政府は、講和による独立回復と安全保障上の空白を避けるため、旧日米安全保障条約が必要であると説明した。
衆議院は1951年10月26日、平和条約と旧日米安全保障条約を承認した。
参議院は同年11月18日、両条約を承認した。
1952年2月28日、日本とアメリカは日米行政協定へ署名した。
日米行政協定の正式名称は「日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約第三条に基く行政協定」である。
日米行政協定は、アメリカ軍が使用する施設・区域、出入国、関税、租税、刑事裁判権、民事請求、労務、経費負担などを定めた。
占領中にアメリカ軍が使用していた施設の一部は、講和後も日米行政協定に基づく施設・区域として提供された。
施設・区域の具体的な提供と返還は、日米間の合意によって行われた。
日米行政協定に基づく協議機関として、日米合同委員会が設けられた。
1952年4月28日、サンフランシスコ平和条約が発効した。
同日、旧日米安全保障条約と日米行政協定も発効した。
平和条約の発効により、日本と署名・批准国との戦争状態が終了した。
GHQ・SCAPによる日本本土の占領統治は終了した。
日本は主権国家として独立を回復した。
占領軍としての連合国軍の法的地位は終了した。
一方、アメリカ軍は旧日米安全保障条約および日米行政協定に基づき、日本国内への駐留を継続した。
占領期に使用されていた基地の一部は、講和後の条約に基づく在日米軍基地へ移行した。
日本の独立回復とアメリカ軍駐留の継続は、同じ日に発効した異なる条約を根拠として成立した。
サンフランシスコ平和条約は、日本の主権回復と占領終了を定めた。
旧日米安全保障条約は、講和後のアメリカ軍駐留を定めた。
日米行政協定は、駐留軍の基地使用と法的地位の具体的条件を定めた。
日本は講和後も、アメリカ軍の基地、装備、兵力に安全保障の一部を依存した。
日本政府は、独自の大規模な軍備の整備よりも、経済復興と限定的な防衛力整備を優先した。
1950年に創設された警察予備隊は、1952年に保安隊へ改組された。
1954年、保安隊は陸上自衛隊へ移行した。
海上警備隊は保安庁警備隊を経て海上自衛隊へ移行した。
日本の防衛力は、警察予備隊、保安隊、自衛隊という段階を経て整備された。
アメリカ軍の駐留と日本の防衛力整備は、並行して進められた。
旧日米安全保障条約には、条約の有効期間や一方的な終了手続が明確に定められていなかった。
日本国内では、対日防衛義務の不在、内乱条項、基地提供、条約の非対称性が議論された。
1957年、岸信介が内閣総理大臣へ就任した。
岸内閣は、旧日米安全保障条約の改定交渉を進めた。
1960年1月、日本とアメリカは新日米安全保障条約へ署名した。
新条約は、アメリカの対日防衛義務、事前協議、条約の有効期間と終了手続などを定めた。
新日米安全保障条約は1960年6月23日に発効した。
同日、日米行政協定に代わって日米地位協定が発効した。
旧日米安全保障条約は終了したが、アメリカ軍の日本駐留と基地使用は新条約の下で継続した。
主要人物
吉田茂
内閣総理大臣。
サンフランシスコ平和条約の日本側首席全権を務めた。
旧日米安全保障条約には、日本側を代表して単独で署名した。
大規模な再軍備に慎重な姿勢を示し、経済復興とアメリカ軍駐留を組み合わせる政策に関与した。
ジョン・フォスター・ダレス
アメリカ大統領特使、国務長官顧問。
対日講和条約の起草、連合国との調整、日本政府との安全保障交渉に関与した。
吉田茂へ日本の再軍備と講和後の安全保障方針を確認した。
ハリー・S・トルーマン
アメリカ大統領。
冷戦初期の対外政策と対日講和方針を進めた。
サンフランシスコ講和会議の開会演説を行った。
ダグラス・マッカーサー
連合国軍最高司令官。
1945年から1951年まで日本の占領政策を統括した。
講和条約の署名前に解任され、マシュー・リッジウェイが後任となった。
ディーン・アチソン
アメリカ国務長官。
対日講和政策、安全保障政策、朝鮮戦争への対応に関与した。
旧日米安全保障条約へアメリカ側代表として署名した。
マシュー・リッジウェイ
1951年4月、マッカーサーの後任として連合国軍最高司令官へ就任した。
講和条約発効までの占領政策を統括した。
岸信介
1957年に内閣総理大臣へ就任した。
旧日米安全保障条約の改定交渉を進め、1960年の新日米安全保障条約へ署名した。
主要組織
日本政府
講和条約と安全保障条約の交渉、署名、批准、国内実施を担当した。
講和後はアメリカ軍へ施設・区域を提供した。
GHQ・SCAP
日本の占領政策を実施した機関。
1952年4月28日の平和条約発効に伴い廃止された。
アメリカ政府
対日講和条約、安全保障条約、アメリカ軍駐留政策を形成した。
アメリカ国務省
ジョン・フォスター・ダレスを中心に、講和条約と安全保障協定の外交交渉を担当した。
アメリカ国防総省
日本および極東におけるアメリカ軍の基地、兵力、作戦運用に関与した。
アメリカ統合参謀本部
講和後の日本国内における基地と軍事上の権利について検討した。
在日米軍
講和後、旧日米安全保障条約と日米行政協定を根拠として日本国内へ駐留したアメリカ軍。
国際連合
平和条約第5条で、日本が国際連合憲章の原則に従うことが定められた。
朝鮮戦争では国際連合軍が編成され、日本は施設・役務を提供した。
日米合同委員会
日米行政協定に基づき、施設・区域や駐留条件について協議した日米間の機関。
接点
独立
降伏文書
↓
連合国軍の占領
↓
サンフランシスコ平和条約
↓
条約発効
↓
戦争状態終了
↓
主権回復
駐留
占領軍
↓
旧日米安全保障条約
↓
日米行政協定
↓
在日米軍
↓
基地使用の継続
交渉
アメリカ政府
↓
ジョン・フォスター・ダレス
↓
吉田茂
↓
講和交渉
↓
安全保障交渉
↓
平和条約・旧安保条約
防衛
アメリカ軍駐留
↓
日本の安全への寄与
警察予備隊
↓
保安隊
↓
自衛隊
条約構造
サンフランシスコ平和条約
↓
独立・占領終了
旧日米安全保障条約
↓
米軍駐留の権利
日米行政協定
↓
施設・区域・裁判権・経費・労務
検証ポイント
確認済み
1950年に朝鮮戦争が始まった。
ジョン・フォスター・ダレスは対日講和条約の準備を担当した。
ダレスと吉田茂は講和後の安全保障と日本の再軍備について協議した。
吉田茂は直ちに大規模な再軍備を進めることに慎重だった。
平和条約案と安全保障条約案は別の条約として交渉された。
1951年9月8日にサンフランシスコ平和条約が署名された。
日本側の6人の全権委員が平和条約へ署名した。
旧日米安全保障条約は平和条約と同じ日に署名された。
旧日米安全保障条約には吉田茂のみが日本側代表として署名した。
旧日米安全保障条約はアメリカ軍の日本国内およびその付近への配備を認めた。
旧日米安全保障条約にはアメリカの対日防衛義務が明記されなかった。
1952年2月28日に日米行政協定が署名された。
1952年4月28日に平和条約、旧日米安全保障条約、日米行政協定が発効した。
平和条約発効によってGHQ・SCAPによる占領統治が終了した。
日本は主権国家として独立を回復した。
アメリカ軍は旧日米安全保障条約に基づいて駐留を継続した。
占領期の施設の一部が講和後の在日米軍基地へ移行した。
警察予備隊、保安隊、自衛隊の順に日本の防衛組織が整備された。
1960年に新日米安全保障条約と日米地位協定が発効した。
追加検証
日本政府が講和後のアメリカ軍駐留を正式方針とした時期。
吉田茂とダレスの全会談記録。
日本側が提示した安全保障協定案の全文。
日本側が求めたアメリカの防衛保証の内容。
アメリカ側が対日防衛義務の明記を拒否した経緯。
旧日米安全保障条約の各草案。
アメリカ国務省、国防総省、統合参謀本部の意見の相違。
吉田茂のみが旧安保条約へ署名した経緯。
日本全権団内部における旧安保条約への意見。
国会審議における米軍駐留と再軍備に関する政府答弁。
占領期の基地から講和後の施設・区域へ移行した施設の一覧。
講和発効時点のアメリカ軍兵力と基地数。
日米行政協定の交渉記録。
駐留経費の日本側負担額。
日米合同委員会の初期合意。
朝鮮戦争における日本の施設・役務提供の範囲。
吉田内閣の再軍備方針と警察予備隊の関係。
1960年の条約改定までに旧安保条約が運用された実例。
仮説
講和とアメリカ軍駐留を別の条約に分けることで、日本の主権回復と基地使用の継続が同時に処理された可能性がある。
吉田内閣は、軍事費を抑えながら経済復興を進めるため、アメリカ軍の駐留を安全保障上の補完として利用した可能性がある。
アメリカ政府は、日本防衛の義務を負うことよりも、日本国内の基地を使用する権利の確保を優先した可能性がある。
朝鮮戦争によって、日本の基地、港湾、工場、通信網を継続して使用する必要性が高まった可能性がある。
日本の防衛力整備は、アメリカ軍駐留を代替するのではなく、駐留と並行して段階的に進められた可能性がある。
旧日米安全保障条約の条文だけでなく、日米行政協定と日米合同委員会が基地運用を具体化した可能性がある。
独立回復後も占領期の基地配置が継続したことで、戦後の基地体制に地理的な連続性が生じた可能性がある。
1960年の安保改定は、基地体制を廃止するものではなく、旧条約の非対称性を修正しながら駐留を継続する制度変更であった可能性がある。
注釈・出典
一次資料
「日本国との平和条約」
「日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約」
「日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約第三条に基く行政協定」
吉田茂・ダレス会談記録
日本側安全保障協定案
アメリカ側安全保障協定案
サンフランシスコ講和会議議事録
吉田茂平和条約受諾演説
アチソン・吉田交換公文
平和条約及び日米安全保障条約特別委員会会議録
アメリカ国務省『Foreign Relations of the United States, 1951, Asia and the Pacific』
アメリカ国家安全保障会議文書NSC13/2
警察予備隊令
保安庁法
自衛隊法
公的資料
外務省「サンフランシスコ講和への道」
外務省外交史料館「日本外交文書 サンフランシスコ平和条約 調印・発効」
外務省外交史料館「旧・日米安全保障条約」
国立公文書館「サンフランシスコ平和条約・日米安全保障条約が調印される」
国立公文書館「サンフランシスコ平和条約が発効し、独立を回復する」
国立国会図書館「日本占領関係資料」
国会会議録検索システム
アメリカ国務省歴史資料室
二次資料
西村熊雄『日本外交史27 サンフランシスコ平和条約』
豊下楢彦『安保条約の成立』
楠綾子『吉田茂と安全保障政策の形成』
五百旗頭真『米国の日本占領政策』
坂元一哉『日米同盟の絆』
原彬久『日米関係の構図』
吉田ドクトリン研究
サンフランシスコ講和体制研究
日米安全保障条約成立史研究
在日米軍基地史研究
関連法令
日本国との平和条約
日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約
日米行政協定
警察予備隊令
保安庁法
自衛隊法
日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約
日米地位協定
注釈
サンフランシスコ平和条約と旧日米安全保障条約は同じ日に署名されたが、異なる目的を持つ別の条約である。
平和条約には日本側の6人の全権委員が署名したが、旧日米安全保障条約には吉田茂のみが日本側代表として署名した。
日本の独立回復とアメリカ軍駐留の継続は、それぞれ平和条約と安全保障条約を根拠として同日に成立した。
旧日米安全保障条約には、アメリカの対日防衛義務は明記されていなかった。
日米行政協定は、旧日米安全保障条約に基づく駐留条件を具体化した。
「独立と駐留」は、占領状態が継続したことを意味しない。占領軍としての法的地位は終了し、条約に基づく駐留へ移行した。
吉田茂の安全保障政策については、本人の発言、日本政府の決定、後世の「吉田ドクトリン」という整理を区別する必要がある。
