崔健【中国ロックの父】
中国ロック黎明期

ローリング・ストーン誌中国版創刊号の表紙。特集に「U2」の文字が見えますが、この表紙を飾った人物こそ、「中国ロック界の父」とも呼ばれる崔健(ツイ・ジェン)です。
崔健は、1961年北京で生まれました。両親の民族籍は朝鮮族、父親は解放軍軍楽隊のトランペット奏者で、母親は中央民族歌舞団のバレリーナという芸術一家です。崔東という7歳年下の弟がいます。両親は中国語があまり達者ではなく、そのせいか、幼い頃の崔健も少しどもっていたそうです。崔健が内面世界を育んだのには、その影響があったのかもしれません。
貧しいながらも、家にクラシック音楽が流れる恵まれた音楽環境で育った崔健は、14歳の時に父からトランペットを買ってもらい、19歳の時には北京交響楽団に入団します。トランペットの腕前はなかなかだったようです。
折しも権力中枢に復帰した鄧小平の号令一下、様々な分野で改革開放路線が推し進められていた時代。その自由化、民主化の波は音楽の世界にも及び、文革時代は限られた革命歌しか許されなかったのに、この頃になると、人々は自然の美しさ、人生の厳しさ、そして恋愛の歌を歌い始めました。それらは当初は「軽音楽」、やがては「流行音楽」と呼ばれるようになりました。
が、中国音楽界の変化は、そんな「内圧」だけではなく、「外圧」もあったのです。
1980年9月6日・7日、フォークシンガーのさだまさしが北京の北京市展覧館でコンサートを開催します。
1980年10月22日・23日、「モンキーマジック」や「ガンダーラ」などのヒットを飛ばし、日本で大変な人気だったたゴダイゴが、天津の天津第一工人文化宮で開催された「第一回中日友好音楽祭」に出演。これが名実ともに中国で行われた初めてのロックコンサートと言われています(さだまさしはロックではなくフォークというくくりなのでしょう)。
公演当日の天津市は雨。冷たい秋雨にうたれながらも、当日券を求め多くの人が集まり、定刻の19時15分には2,370人の会場は満席となる。
小編成のオーケストラ、女性歌手、手品、演芸など5演目が披露され、司会者の紹介の後、20時40分頃ゴダイゴの登場。司会の言葉は確認できないが、当日のコンサートパンフに天津テレビ局の副経理(=副社長)のコメントが載っており、「ゴダイゴの歌は国際上、トップでクリエイティブな歌曲」とある。おそらくそのような紹介がなされたのであろう。
この音楽祭でゴダイゴは、リハーサルも含め都合3回演奏を行なっている。前売券が事前に全てハケてしまい、急遽、リハーサルにも政府要人を含む招待客を1000人ほど入れて演奏したそうだが、そちらもなかなかの盛り上がりだったようだ。
翌1981年8月には、アリスが北京の北京工人体育館で日中共同コンサート「ハンド・イン・ハンド北京」を開催します。これが縁になったのか、後年、谷村新司は上海音楽学院の教授に就任しています。
それまで聞いたことのない音楽に対してどう反応したらよいかわからず、観客席がまったく盛り上がらない状況に危機感を持った谷村が、客席に下りて懸命のアピールをしたところ、客席にいた鄧小平が真っ先に立ち上がって拍手してくれたという。これによって、会場の雰囲気が一転して大盛り上がりになってコンサートは大成功を収めたという。
日本人だけではありません。1981年10月にはフランス人シンセサイザー奏者、ジャン・ミッシェル・ジャールが北京都上海で欧米人として初のコンサートを開催しました。
また少し時代が飛びますが、1985年には、当時、世界的な人気を誇っていたジョージ・マイケル率いるワム!が、北京でコンサートを開催しました。

こうした動きに中国の音楽青年たちは大いに刺激を受けたことでしょう。それだけではなく、改革開放路線により、海外からやって来た留学生、ビジネスマン、観光客、また商用、私用で海外に行ってきた中国人によってもたらされたカセットテープ、楽譜、楽器からも海外の音楽が中国に流入したのです。この小林克己氏が書いたギター教則本は、中国の音楽青年たちの間で競うように読まれ、皆、見よう見まねでギターの練習に励んだということです。ちなみに千昌夫の「北国の春」、五輪真弓の「恋人よ」、尾形大作の「無錫旅情」など日本の歌も中国でヒットしました。
そしてその海外音楽の受容の様は、ブルーズ→フォーク→ロックのように段階を踏んだものではなく、中国の音楽シーンと関わりの深い爆風スランプの元ドラマー、ファンキー末吉氏の言葉を借りれば、「ロックもジャズもテレサテンもいっぺんに同時に入って来た」状態というべきもので、中国の音楽青年たちは同時多発的にあらゆるジャンルの音楽の洗礼を受けたのです。
崔健誕生
そんな中、崔健も楽団でトランペットを吹く傍ら、海外から持ち込まれたカセットテープを聴き、またビートルズの映画を観る機会もあって、次第にロック――当時はそうとは知らず、ただ「外国の音楽」程度の認識しか持っていなかったようですが――に興味を持つようになり、1984年、仲間を募って「七合板」というバンドを結成します。いまだ発掘されていないようですが、このバンドはアルバムを2枚発表しているようです。
七合板の演奏曲を収録したアルバム。オリジナルは12曲入りで、その半分が、マイケル・ジャクソンの「Say Say Say」やライオネル・リッチーの「Hello」、日本映画「人間の証明」の主題歌などのカバー。崔健は「跟難行」というオリジナル曲を1曲提供しています。

こちらには、黄小茂という人物が作詞し、崔健が作曲した曲が10曲収録されています。注目は「‘85回顧」に収録されていた「跟難行」が、シンセサイザーの音を加えられ、「為什麼」とタイトルで再収録されている点です。当時流行していた黄河上流の陜西省北部発祥の、チャルメラやドラのような伝統楽器を用い、男性が野太い声で歌う「西北風」のスタイルを踏襲しているようです。
七合板は1985年に解散してしまいましたが、翌1986年5月9日、崔健は、連合国国際平和年を記念して北京工人体育館で開催された第一届百名歌星演唱会(第1回100人歌手コンサート)に有望な新人ミュージシャンの1人として参加します。そしてその場で歌われたのが、欧米で大ヒットした「Do They Know It's Chrismas?」「We Are The World」といったチャリティソングに影響を受けて作られた「譲世界充満愛」。もちろん崔健も参加しています。
そしてその歌が終わった後、1人の小汚い男がステージに上がり、中国全土に生中継されていたテレビの映像に映りました。何を隠そう崔健その人です。彼が「一無所有」(俺には何もない)歌い始めると、観客席からどよめきが起きました。恐らくこれまで耳にしたことのない旋律と律動を持った歌に驚いたのでしょう――これが中国に揺滾(ロック)が誕生した記念すべき瞬間です。
母「会場に入ると、誰かが、このおばさんこんな所で何しているんだ、チケットをよこせ、と言っていました。黙って席に着きました。崔健が出てくると、あまりにみすぼらしい格好で、普段、私たちの歌舞団は衣装も、照明もきれいなのに、なんでこんな格好で。。。と泣いてしまいました」
王迪「ライブの反応はすごくて、帰りに終わって外へ出てくると、一無所有のフレーズを口ずさんでいる人がいました」
姜文(俳優/映画監督)「田舎で撮影があり、”芙蓉鎮”とか”赤いコーリャン”とかを撮影して暫く北京を離れていて、久しぶりに戻ってきたら、なぜかみんなが崔健崔健、と崔健の話をしている。最初、知り合いの話をしているのかと思ったらそうではなかった。どうやら今までになかった人物が出てきたらしい。そいつは歌を歌う。。。その後東陵へロケに行ったが、その行き帰りはずっと、みんなが崔健の歌を歌っていた。テープに合わせて歌うんだ。メロディアスな曲もあった。”花房姑娘”だ」
この頃になると、崔健はADO(スワヒリ語で「友達」という意味)というバンドを行動を共にするようになります。「共にする」というのは、崔健はADOのメンバーではなく、またADOも崔健のバックバンドではなく、あくまでも両者は別のグループだったからです。
ADOのメンバーは流動的だったのですが、注目すべきは、バンドのメンバーに、中国人の他にマダガスカル人、フランス人、ザイール人などの外国人が参加していたということです。これが崔健の音楽性に影響を与えないわけがない。畢竟、崔健が作る音楽は、中国の伝統音楽やジャズやレゲエやヒップホップがないまぜになった、欧米のそれとはかなり異なったものになっていきました。
第一届百名歌星演唱会で「一無所有」を披露したことで、崔健は俄に注目を集め、北京や上海などの中国の大都市でParty(派対)――中国ではロックのライヴのことをこう言うそうです――を開催するようになります。が、このことにより、崔健は、体制にとって有害と思われるものを排除する「精神汚染批判キャンペーン」の標的になってしまい、半ば追い出される形で北京交響楽団を去ることになります。
そして「一無所有」で衝撃的なデビューを果たしてから3年後、遂に崔健の1stアルバムが発表されました。
一無所有/新長征路上的揺滾
1989年2月、香港・台湾では「一無所有」のタイトル、ジャケ違いでカセットテープが発売され、4月には「新長征路上的揺滾」のタイトルで中国でも発売されました。そしてこのアルバムは、公式発売されたカセットテープだけで500万本以上、海賊版を合わせる1億本とも噂されるほどの空前の大ヒットとなったのでした。
一無所有 作詞・作曲/崔健
ずっとずっと言っていたんだ、お前はいつ俺と来てくれるのかと
でもお前は俺のことを笑うだけ、一無所有だと
俺はお前にあげるよ、俺の理想も、俺の自由も
でもお前は俺のことを笑うだけ、一無所有だと
ああ……お前はいつ俺と来てくれるのか……
作詞する際、崔健は、あまり抽象的にならず、具体的、現実的になるように心がけているということですが、それなのに、というより、それゆえ、というべきでしょうか、歌詞はいかようにも解釈できるようになっているものが多いです。そのため、時に崔健には「中国のボブ・ディラン」の呼称がつけられることもあります。が、もちろん、ディランは偉大ですが、崔健の前には、マディ・ウォーターズもウディ・ガスリーもエルヴィス・プレスリーもいなかったのですから、中国ロックにおいては、崔健はディラン以上の存在なのです。もっともその中国ロックの市場は日本のそれよりも小さいのですが(涙)
新長征路上的揺滾 作詞・作曲/崔健
2万5千里の長征? 聞いてはいても、見たことはない
とても無理だろう 口で言っても、誰もやらない
黙々とただ前へ進め 自分自身を探しに
あっちへ行きこっちへ行き 根拠地はない
……
どう言ってどうやれば ほんとうの自分になるのか
どの歌をどう唱えば この心は晴れ晴れするのか
歩きながら想うのは 雪山や草原のこと
歩きながら唱うのは 領袖毛主席のこと
ここで崔健はこれから自分が歩いていくロックの果てしない道を長征になぞらえています。ちなみに崔健はややもすれば政治的に捉えかねない歌詞をぼかすためか、非常に早口で歌っていて、時に中国人でも聞き取り難いということです。
アルバムは大ヒット、中国発のソロロックライヴとなる北京展覧館でのライヴも大成功。崔健の「長征」は順風満帆かに思えました――が、アルバム発売後の6月4日、崔健の音楽活動のみならず、中国現代史を揺り動かす大事件が起きたのです。(正確には第二次)天安門事件です。
天安門事件
民主化を求めて天安門広場に集まった人々は、シュプレヒコールを上げるとともに様々な歌を歌いました。その一つが中越戦争をテーマとし、歌詞に「もしも俺が倒れたら血染めの旗を俺の姿と思って欲しい」とある「血染的風采」。
そしてもう一つが崔健の「一無所有」。崔健自身も広場に顔を出して、デモを行っている人々を激励し、ライヴを行いました。が、これにより崔健は「反体制の旗手」で祭り上げられ、当局から睨まれることになります。また当局は、これまで単に騒々しい音楽として認識していなかったロックという音楽が反体制の象徴になり得ることに気づき、これ以降、中国、特に首都・北京でロックのライヴを開くのは著しく困難になりました。崔健もしばらくなりを潜めざるを得なくなります。
崔健は当然後者ってことだけど、やはり中国権力には面白く思われてないようだ。見方によっちゃあ、文字通りに文化革命って意味で西洋化された新・紅衛兵って感じしなくもない。むしろ、中国共産党的には、彼を模範音楽あるいは揺滾英雄として讃えなければならないはずなのだが、皆"保守"的な観念と感性・価値観しか持ち合わせてない"旧弊"な官僚ばかりのようで、文革の頃なら、江青や紅衛兵達に"反革命分子"として罵られ、首からプラカードさげさせられ市中引き廻されあげく集団暴行を受けて殺害されかねないところだ。
が、翌1990年より新長征路上的揺滾ツアーと銘打って、鄭州、武漢、西安といった中国主要都市を回る大規模なツアーを開始します。途中、成都であまりの観客の熱狂に恐れをなした当局によってツアーは中止させられますが、翌1991年には再開され、中国全土が崔健の音楽に酔いしれました。
解決

そしてツアー中もニューアルバムのレコーディングは進んでおり、91年3月、香港・台湾で、すぐに中国でも2ndアルバム「解決」が発売されました。サウンドは前作よりもアコースティックでライヴ感を重視した感じです。また今回、バックを務めたのはADOではなく崔健が集めたミュージシャンで、その中には日本人ギタリスト、甘利匡輔氏もいました。
一塊紅布 作詞・作曲/崔健
あの日お前は、ひと切れの赤い布を取り出し
俺の目隠しをして、空を見えなくした
そして尋ねた 何が見えるかと
俺は答えた、幸せが見えると……
この曲を演奏する時は、崔健が赤い布で目隠しをし、トランペットを吹くのが定番になっています。
ニューウェーブ期のUKやアイルランドのバンドを思わせるMV(中国ではPVではなくMUsic Video=MVといいます)。このMVはMTVの「最も観衆に好まれたアジア歌手賞」という賞を授賞しました。
これは1979年の中越戦争をテーマにした曲らしいのですが、歌詞が検閲に引っかかって削除を余儀なくされ、インスト曲になってしまいました。

1993年には、崔健は、張元(チャン・ユアン)監督の「北京バスターズ」という映画に出演しました。脚本の執筆にも関わっているようですが、内容は、セックス、ドラッグ、ロックに彩られた現代北京の若者の青春を赤裸々に描く……というもので、崔健のライヴシーンもあります。
そしてこの映画は第6回東京国際映画祭に出品されたのですが、グランプリを授賞した「青い凧」とともに中国政府の許可を得てないことに抗議した中国代表団が映画祭から引き上げるという騒動を引き起こしました。
結局、この映画は中国では公開されず、監督の張元もしばらく国を離れることになりました。
こんな状況下で上映された張元(チャン・ユェン)監督の『北京バスターズ』 ではあったけど、これは全然面白くない作品だった。 注目していた中国のロック歌手崔健(ツイ・チエン)が出るというので期待してたのに、 できの悪いドキュメンタリーを見たという感じだった。 何組かの若者達をただだらだらとカメラで追っただけで何のインパクトも 感じられなかった。
アルバムを発表すると、崔健はロンドン、パリ、ベルリンの音楽フェスに参加します。
そしてこの頃になると、日本でも崔健が注目されるようになり、度々メディアで採り上げられた他、1992年には、ぴあ20周年記念コンサート、1993年には、たまライフ21、福岡アジア映画祭に参加して日本の聴衆の前で演奏しました。
ここで90年代前半の中国ロック事情を概観しておきましょう。
90年代に入ると、劉徳華(アンディ・ラウ)、梅艷芳(アニタ・ムイ)、譚詠麟(アラン・タム)、郭富城(アーロン・クオック)といった日本でも馴染みのある香港・台湾のトップスターたちが中国本土を席巻します。
これに対して中国で起きたのは「紅太陽」ブーム。ロックアレンジされた文革時代の革命歌がラジオから頻繁に流れ、カセットテープは飛ぶように売れました。また街角では毛沢東のプロマイドが売られ、乗用車やタクシーのルームミラーには毛沢東のお守りがぶら下げられていたといいます。猫も杓子も毛沢東――その背景には、市場経済の導入による貧富の格差の拡大、失業者の増大、インフレの進行などの人々の生活不安がありました。ちなみに「新長征路上的揺滾」では毛沢東を茶化していると怒られた崔健ですが、崔健自身は毛沢東のことを建国の父として大変尊敬しているそうです。
そしてもう一つがヘビメタ――中国語では「重金属」――ブーム。黒豹楽隊、唐朝楽隊、眼鏡蛇楽隊、面孔楽隊、1989楽隊といった重金属楽隊(楽隊とはバンドの意味)が若者から熱い支持を受けます。こうした動きに対して崔健は「外国のコピーじゃないかな」という感想を持ったようですが、たしかにそのきらいはあったにせよ、彼らの実力自体は大したものだったのです。
1991年に発売された1st「黒豹」は正規盤だけで150万枚売れ、ロックバンドのアルバムとしてはいまだに最高記録だそうです。またこの「Don't Break My Heart」は香港チャートで3週間連続No.1に輝きました。ちなみに1stアルバムだけで脱退した竇唯は、その後、ソロアーチストとして大成功し、中国ロック界において、崔健と双璧をなす存在になっており、崔健もその音楽性を高く評価しているようです。また1992年に発表した1stアルバム「唐朝」は200万枚を超える大ヒットを記録しました。
紅旗下的蛋
1994年。前2作よりもワールドミュージック色濃い意欲作ですが、売上は下回ったようです。
洋題?は『Balls Under the Red Flag』、かっこよすぎ。U2みたいだ。どうせ中国のロックなんてコテコテの古いヤツだろ?なんて思ったら、1曲目から驚愕。フリーキーなサックスに「Beck以降」のラップが絡むヒップホップチューン。素晴らしい。2曲目はすでにアルバムの最後クライマックスなんじゃないかというような感動的なバラード。サザンやチャゲアスっぽい、80~90年代前半の匂い濃厚。その後は、フリーキーなサックスや意図的な中華アレンジ、中国語のせいで呪術的に聞こえるボーカルもあってかなかなか前衛的な仕上がり。
とにかく、モダンなアルバムだと思う。1994年の作品なんだがぜんぜん風化してない。Beckのアルバムが今なお古びていないのと同じ。全8曲58分という時間も冗長だとは思わない。新鮮さがはるかに勝る。中村とうよう10点、は伊達じゃない
意味深な歌詞(私、分からないのですが)とMVが話題になったそうです。ヴォーカルがまったくラップテイストで、ミクスチャーロックみたいですね。
僕自身が今よく聴いている音楽がパワフルな音楽なんだ。特にラップが僕にとって最もパワフルな音楽なんだけど。なぜならラップの特徴は「現実に直面している」ということで、歌詞で言っていることはきれいごとではなく、彼らはとても勇敢に抗っていて、しかも現実の矛盾とか心の内面の痛みを表しているから。こういうことが僕にとって一番新しい「勇敢」の価値、或いは概念だと感じている。だから今、話し方が回りくどくなると疲れたと感じるようになってきたんだ、過去にはそういうやり方をとったこともあったんだけど。今度新しい方式としてより直接的に、簡単に、問題を言ってみた(崔健)
紅旗下的蛋 作詞・作曲/崔健
現実は石みたいに硬い
精神は卵みたいに脆い
石は硬いけれども
卵には生命があるのだ
お袋はまだ生きている
親父は旗振りをやっている
俺たちは何なのだと聞くなら、答えよう
赤旗の下の卵だと
ちなみにいつの頃からかトレードマークになった白地に赤い星の帽子は、元々ただの白い帽子だったものを、ホテルの従業員の方に頼んで赤い星を縫い付けてもらったものだそうです。
アルバムを発表すると、崔健は、1994年から1996年にかけて中国国内だけではなく、日本とアメリカでツアーを行います。特にアメリカでは中国人のソロミュージシャンとして初のアメリカツアーだったそうです。
そんな崔健の日本での初めてのソロコンサートが行なわれた。約七〇〇人収容の 全席立ち見のリキッドルームというところで行われ会場は満パイ状態だった。 ほんの一年前までまさか彼のアルバムが日本で発売されたり、 コンサートをやるなんて考えてもみなかったので感激もひとしお。 三枚目の新しいアルパム「紅旗下的蛋」の曲を中心に以前の曲も歌われた。観客は日本人がほとんどだったけど中国人もけっこういた。 中国語の掛け声も飛びかいライブらしい雰囲気だった。アンコールでは 「新長征路上的揺滾」を歌ってくれた。
崔健は94年と95年に来日している。95年には新宿日清パワーステーションでソロライヴを敢行。圧倒的な支持を受けた。僕もその場にいたがあれは本当に素晴らしいライヴだった。しかしその年の秋に行われたクラブASIAではBOOM目当ての日本人は彼の音楽が理解できず、その結果、参加した艾敬、崔健、ディック・リーは揃って、その後日本から遠のき、アメリカで活躍するようになる。あれは今考えると日本人の音楽的感性の貧困さを露呈してしまった事件だった。
ということがあったらしく、これ以降、2010年まで崔健の来日公演はありませんでした。
中国ロック事情
ここで再び中国ロック事情を概観しましょう。
天安門事件以降、当局のロックに対する締めつけは徐々に厳しくなっていき、1993年頃には北京市内では事実上ロックのライヴは全面禁止になりました。崔健も様々な妨害を受けたようで、以下のブログにその模様が描かれています。
とりわけ崔健に対する取り締まりが厳しかったのは、崔健の歌が「政治的」だったからでしょう。が、果たして政治的とはどういうことでしょうか? そのことについて崔健は各所でこう語っています。
……芸術は民主化運動ではない、と俺は思う。芸術は、表現なのだ。芸術とは物理的反応ではない……そうではなくて化学反応みたいなもの……俺はみんなに自分を愛してもらいたい。国家を愛してもらいたい。歴史を愛してもらいたい。自分の履歴を愛してもらいたい。自分の未来を愛してもらいたい
政治的な歌詞が多いのではないかという質問に対して)「そう、だけど実際それらの歌詞、たとえば「運動」などは、僕たちが受けてきた教育の痕跡のひとつで、これらは避けたくても容易ではないものだし、実際に歌詞の中で言っていることは僕たちの心理であって決して単に政治をさすものではない。僕たちの受けてきた教育は事実、基本的に拭い去ることができなくなっている、もうこんなに何年も経っているからね。だから詞として使用してはいるけれど、描写していることは決して政治ではなく、『心理の政治に対する反応』、或いは『より政治的色彩を帯びた心理反応』の方なんだ」
スポーツは成果を上げれば国を振興し、国に栄光をもたらす。スポーツが強いほど、国も強い。しかしロックがその力を出せば、その煽動性はスポーツの比じゃない。そしてこのパワーは反対の方向のもので、音楽が強くなるほど、国の権力が弱まるかのようだ。実際、僕らの社会にはある種の利益における混乱が発生する。あるいはそれを「職業の混乱」と呼んでもいいかもしれない。例えば、ある芸術家は国家を至上とし、政治家は政党を至上とみなす。でも僕の考えでは、芸術家は人間性を至上とすべきだし、政治家は国家をこそ至上としなければならないはずだ。これらの食い違った関係は利益と道徳の領域において人々に混乱を巻き起こす。もし僕らが一つの標準的利益を確認できるなら、目の前の混乱を免れ、なおかついわゆる人間性と国家は利益の面においても統一されるだろう。なぜなら、僕ら一人一人がみな国家をつくる人として存在するからだ。
芸術家特有の言い回しで少々分かり難いが、崔健は人民VS政府という単純な二項対立で世の中を捉えてはいません。それは毛沢東を単に大躍進や文化大革命で中国を混乱させた人物ではなく、建国の父として尊敬していることでも明らかでしょう。
恐らく崔健は社会、そして人間を「ありのまま」に見ようと努めているのでしょう。そしてその社会に、人間の生活に政治の影を見て取れば、畢竟、歌わざるを得ない。つまり崔健の歌が「政治的」というのなら、それは中国の社会が、人々の生活が政治的であることの「結果」でしかありません。この点、3rdアルバムの「War」を「政治的」と評されて、「あれは政治的というよりも感情的なアルバムなんだ」と答えたボノの言葉に深く頷くところです。
とにもかくにも崔健が中国国内でソロライヴを行うのに支障をきたすようになり、例えば癌基金目的のチャリティライヴに出演して数曲演奏する形でしかライヴを行えなくなりました。崔健が海外に活路を見出したのには、そういった事情もあったのでしょう。
一方でロックは段々ビッグビジネス化していき、万単位の観客を集める大規模なライヴを開催したり、海外のレーベルと大型契約を結ぶミュージシャンも現れます。当局もようやくロックのビジネスとしての可能性に気づき、政治色の薄いミュージシャンについては、外貨獲得手段として大目に見るようになります。
こうして中国のロックは本物志向と商業化路線に二極化します――といっても商業化路線に走ったミュージシャンを一概に責められないのは、中国のロック市場は日本のそれに比べても著しく小さく、本物を志向すると政府から妨害を受けるだけではなく、極貧生活を覚悟しなければならないという事情があるからです。本物志向で食べていけるのは崔健のようなほんのひと握りもいないカリスマだけ(そんな崔健でも一般の中国人よりはいい暮らしをしているようですが、決して金持ちというわけではないようです)――そんな状況に直面すれば、誰しもが商業化に舵を切らざるを得ない……のですかねえ、やはり(涙)。

そして1995年5月11日、中国ロック界のリードオフマンの1人だった唐朝のベーシスト、張炬がバイク事故で亡くなるという事件が起きました(なお彼の追悼ライヴには崔健も参加している)。
表立って中国国内で活動できなくなった崔健と張炬の死――2人の重心を失った中国ロック界は、ますます海外からの音楽の流入が激しくなり、グランジ、パンク、ハードコア、V系、フォークと多様になっていったものの、商業化路線をひた走っていきました。海賊版や粗悪な企画物のアルバムの乱造といった状況も相まって、中国の音楽関係者から中国ロックの行く末を案じる声も漏れ聞こえるようになったといいます。
無能的力量
1998年。英訳すれば「 The Power of The Powerless」、邦訳すれば「無力の力」といったところでしょうか? どこかボノがU2の1stアルバム「Boy」を評して「ナイーブであることの強さを表現したいと思った」と言った言葉に通じるところがあるように思います。サウンド的にはこれまでの路線を突き詰めて、ややエキセントリックになった感じです。
真唱運動

2002年8月7日、崔健はCD CAFEで真唱運動の狼煙を上げました。これはライヴでもカラオケや口パクが横行している現状に業を煮やし、「仮唱」(偽りの歌)を排し、「真唱」(本当の歌)を取り戻そうという運動だったのですが、具体的にやっていたことといえば、これまでどおり真摯に音楽活動をすることだったのようです。
が、中国の音楽業界にカラオケ、口パクが横行するのには、それなりの事情があるようです。『中国同時代文化研究』創刊号掲載の「中国音楽界の電気工時代」って評論に、中国のPAのダメさが思う存分書かれています。
1.崔健が某テレビ局でPAにステレオかモノラルか聞いけど、意味が通じなかった。
2.某権威ある音楽賞の授賞式ではナマで歌ったのはよいが、スピーカーが一台、スイッチOFFのままだった。
3.某コンサートでは、PAがコンサート中、麻雀打ってた。
4.某コンサートでは、PAがコンサート中、トイレに行ったまま帰ってこなかった。
5.某ロックフェスティバルでは、ギターアンプがなかった。
これに対して崔健はこう言っています。
真唱運動というのは、現象に対しての運動であり人物に対しての運動ではない。しかも音楽を愛する全ての人々によるものであり、我々小さな団体による結果でもない。これからはもっと多くのバンドが、良い音響技師とどんな会場であっても一緒にできるようになるよう希望する。そうすれば口パクで歌う言い訳が無くなる。来場しているバンドのみんなも早くそういう音響技師を見つけ、一緒に活動して欲しい。そしてこの運動の本当の意義を理解して欲しい。・・・象徴的にカウントダウンする。世界中から口パクを地下に追いやり、我々が地上に出よう
この崔健の真唱運動が功を奏して、2005年、営業性演出管理条例が修正され、中国国内では、原則、口パク演奏は禁止になりました。同年、崔健は成功宣言をして真唱運動を終了します。
2003年、崔健は「再見 ツァイツェン また逢う日まで」という映画に出演します。アメリカでクラシックの指揮者として成功した中国人女性が、北京に凱旋帰国した際、生き別れになった兄弟姉妹を探すというストーリーだそうで、崔健はその兄弟姉妹の父親役だそうです。なぜか本人は「人生の汚点」と言っているらしいですが、映画の評判自体は悪くないようです。

21世紀に入っても、国内外で活発に音楽活動をしていた崔健ですが、この頃になると、海外の大物ミュージシャンと共演する機会も増えました。
2003年には上海で、2004年には北京で、ドイツで国民的人気がある(らしい)ウド・リンデンバーグ(Udo Lindenberg)のライヴにゲスト出演します。

また同2004年、広州で行われた「深紫 VS 崔健」と称するライヴは、ディープ・パープルと共演しました。
その他、ジギー・マーリーやソニック・ユースと共演を果たしています。すっかり中国ロックの顔ですね。
给你一点颜色
2005年。7年ぶりのニューアルバム。テクノやヒップホップの要素を採り入れていますが、自宅のスタジオでレコーディングしたので、いまいち音がしょぼい。が、それがまた味になっている、そんな作品です。
アルバム名は、崔健が2001年に音楽を手がけた香港のミュージカルと同じタイトル。崔健は、このアルバムで赤・黄・青の三色で時代の移り変わりと中国人の変化を描くと語っている。 この三色は同名ミュージカルでもテーマ色として使われ、赤が中国社会の過去、黄が現在、そして青が未来を比喩するとされていたが、今回のアルバムでは赤がロック、青が知性、そして黄色は肉体や感情を表しているのだとか。 彼ならではのロックに、テクノやヒップホップといった要素も盛り込み、昔ながらの顔を残しつつ急速に発展を遂げる中国の都市を象徴するようなサウンドとなっている。
またこの映像は2006年のものですが、2005年、崔健は北京首都体育館でソロライヴを行いました。実に14ぶりの北京でのソロライブです。この頃になると当局の締めつけもだいぶ緩やかになり、崔健はテレビやラジオ番組に頻繁に出演するようになったということです。長征通信のブログ主がライヴ当日のレポートを書かれております。
2006年4月8日、上海で行われたローリングストーンズのライヴにゲスト出演。「Wild Horses」をデュエットしたが、緊張しているせいか、いまいち声が出ていないようです。ちなみに中国語でローリングストーンズは、転石楽隊、ミック・ジャガーは魅躯邪我(音読み)、「Jumpin Jack Flash」は大跳西九光、「Sympathy for the Devil」は悪魔憐歌と書きます。
外国のミュージシャンを中国語に翻訳するときには、パターンが2つあるようです。1つは「音読みが同じになるように漢字を当てはめる」――、が、この場合、その漢字が他の意味を持つようです。もう1つは「その意味に合うように漢字を当てはめる」というパターンです。
ビートルズ 披頭四樂隊(長髪の男四人組という意味)
ビーチボーイズ 海辺少年合唱団
ザ・フー 誰楽隊
ブラッド・スウェット&ティアーズ 血汗涙合唱団
イーグルス 老鷹合唱団
カーペンターズ 木匠兄妹合唱団
アース、ウインド&ファイアー 球、風、火、合唱団
クラッシュ 衝撃合唱団
クイーン 皇后楽隊
キッス 磕死(音読みで「叩き殺す」の意味)
メタリカ 莫答理她(音読みで「女に構うな」の意味)
ミートローフ 肉塊
デュラン・デュラン 都烂都烂(音読みで「みんなボロボロ」の意味)
ザ・キュアー 怪人合唱団
ブロンディ 金髪美女合唱団
ガンズ・アンド・ローゼズ 干死个骡子(音読みで「ラバが枯死」という意味)
ソニック・ユース 音速青春楽団
ニルヴァーナ 你妈呢(音読みで「(母ちゃんは?」の意味)
ナイン・インチ・ネイルズ 九吋釘
スマッシング・パンプキンズ 非凡人物合唱団
ディープ・フォレスト 森林物語
エニグマ 謎
アンダーワールド 地底世界楽団
リンキン・パーク 林肯公園
ノー・ダウト 不要懐疑合唱団
システム・オブ・ア・ダウン 堕落體制合唱団
フージーズ 流亡者三人組
チューブ 夏之管
ドリームズ・カム・トゥルー 美夢成眞
ブリリアント・グリーン 緑
モーニング娘。 早安少女組
2009年、崔健は携帯配信用の短編映画を監督しました。短編とはいえ、崔健の初監督作品です。が、タイトルは「修復処女膜時代」(絶句)――なんでも祖母、母、娘の三世代に渡る処女膜に対する異なった考え方を考察し、抑圧された思想を批判的に描いたものらしいです。
そして2010年、15年ぶりの来日公演が実現しました。
オープニングアクトを務めたのはFUJI ROCK FESTIVALにも出演経験のある痩人楽隊(THIN MAN)の4人。なんとドラマーは日本人のHAYATOさん。会場はオープニングからオールスタンド状態です。客席の反応の良さに驚かされました。崔建さんの登場で客席は更にヒートアップ。アジアンテイストの曲からロックンロールまで、タップリと聴かせてくれました。ラストはステージに観客も上がり大合唱。2度のアンコールで興奮覚めやらぬまま終演を迎えました。
行った、観た、聴いた、踊った よかった!!!! アンコールの「一無所有」、当時の思い出も含め、本当に、涙ながら、共に、歌い、踊ってました、私ってば・・・隣の崔健命親父は、最初から、立ちっぱなし、歌いっぱなし、叫びっぱなしでした。お前、血管切れるんじゃないのと、突っ込みを入れたくなるほどに・・・・・そこに、確かに、ロックの神は、降臨されておりました。というか、中国ロックというような、何ロックというような、何かでくくられてしまうような、そんな、甘ったれたもんでは、ございませんでした。崔健のロック魂というものが、そこにはありました。サックスあり、チャルメラあり、ドラムあり、銅鑼あり、ヒップホップあり、ラップあり、でも、それのどれもが、崔健でした。時代に、振り回されない、逆に、時代を切り裂いてきた人間の、魂の叫び、ありましたです。
2013年、2011年の元旦に北京工人体育館で、かつて在籍していた北京交響楽団と共演したニューイヤーズライヴが「超越那一天」というタイトルで3D映画化されて、中国で公開されました。
2013年末、中国の紅白歌合戦である春節晩会に崔健が主演するというニュースが流れました。遂に中国政府も崔健を認めたのか、それとも中国ロックも飼いならされてしまったのか……と様々な憶測を呼びましたが、結局、「一無所有」を歌いたいという崔健の要望を当局が受け入れず、この話は流れました。崔健も中国ロックも死んでいなかったのです。
2013年、崔健は映画を監督しました。タイトルは「給[イ尓]一点顔色」収録曲と同じ「藍色骨頭」。撮影監督はウォン・カーウァイとの仕事で有名なクリストファー・ドイルです。文革時代、地方の農村に下放された美しい女性が、そこで地元の男性で結ばれるが、実はその男性は政府のスパイで、女性は男性を住で撃ち殺し、国を去る……という内容らしいです。公開に先立ってローマ国際映画祭で特別推薦賞を授賞したとのことです。
以下、気力があったら加筆予定。
