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心がお金に支配されていいのか

 給料日前になると、気弱になってくる。どうも自信が持てなくて声が小さくなる。財布の中にはわずかなお札。給料日までの日数が気になって、目の前のことに集中できない。

 懐具合と気持ちの強さは比例するのか。手元のお金が減ると気持ちは萎縮して、社会から隠れたくなるように控え目になる。給料日がきてお金を手にすると、街なか、道の真ん中を肩で風を切って歩く自分がいる。

 これは翻って、自分の心はあり金の額に左右されるということではないか。お金は何かの事を為すための手段であるはずが、これ自体を集め増やすことが目的と化している。そればかりでなく、目的以上の存在として、拠り所になっている。このことが問題なのは、いつの間にか心を支配していることだろう。

 あり余る金で買い物をして、満足感を得る。買い物だけに限らない。目標としたものが手に入って、達成感を得ることもある。自信にもつながるだろう。お金を原初とした自信は形成されやすいかもしれない。

 達成感は報酬として脳に刻まれ、同時にお金の価値も高まる。人によっては、お金が万能の働きをして何にも代えがたい存在になる。あるいは逆に、困窮の中でお金が食料に代えられた時に、この上なく価値あるものになる。お金がないと始まらない、という観念が形作られる。

 しかし、生活全般がそっくりそのままお金に置き換えられるかというと、そうではないだろう。ゴミ捨てに行ったり窓を拭き終わった後の充実感はどうか。赤ちゃんをあやして寝かしつけられた時の達成感、洗濯と皿洗い、朝ごはんの準備までやり遂げて夜眠りにつく時の満足感、これらは値段がつけられるだろうか。子どもを抱っこしてその瞳を見つめることに値段はつくのか。

 社会には金額による価値判断が蔓延している。どんな物でも「それいくら?」が二言目の質問である。この社会通念はお金への依存が広がっている裏返しではないか。その依存は心の奥底まで根を下ろしている。逆に値段がつけられないものは、価値が与えられない、ということが起こっていないだろうか。

 心の土壌から栄養を得る自己有能感もお金の有無に左右される。お金をたくさん持っていれば、有能感が高く何でもできるような気分になる。お金がなく窮していれば、有能感も下がり、何もできることがないと落胆する。

 本来、お金の量が心の在り方を規定するものではない。社会は値段のつかないことで溢れている。自己有能感はもっと別のところで育つはずだ。そして、お金の増減にかかわらず立ち続ける。 

 金額が価値を決めようとする時、その判断に疑問を投げかけられるか。それが持つ社会的な意味、表層からは見えない本質、機能性などを見抜けるだろうか。お金による価値判断が絶対ではないと、その支配力に常に注意を払えるか。その支配力が心にまで及んでいないか。

 お金がなくても心をしっかり持とう。弱気に陥りそうな時、自らにそう声をかける。背筋を伸ばして、顔を上げ前を見る。お金がないからといって、気弱になることなどない。お金が規定するのは全体のほんの一部でしかないと、周りを見回し自分を見つめ直す。お金に依拠しない有能感と自信を取り戻すために。

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