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『ロボット工学者が考える「嫌なロボット」の作り方』(松井哲也)を読んで2

 相手のことを知りたい、心の動きを把握したいと思うのは自然な考え方だろうか。相手が何を考えているか分からない時、自分は不安になり居ても立っても居られなくなる。例えば、恋人が相手ならそういう焦燥に陥るだろう。それが恋人ではなく、友人でもない他者であればどうだろう。確かに相手のことを知りたいとは思う。ただそれだけではない。私が相手を知りたくなるために、目新しい興味をかきたてる栄養がほしい。相手からそういう栄養が絶えず与えられていたら、私もまたその相手のことを知りたいと思い、飽きることはないだろう。

 ただそういう対人関係を日常に落とし込んでいくと、相手を知るために好奇心を常にかきたてているわけではない。強い感情ばかりでは疲れてしまう。そこには感情や思考とは次元の違う、存在の問題があるように思う。そこに居るのが自然な状態で、相手の存在が当たり前になっている。そこに居ないと困るし、不安にさえなる。相手の存在でありながら、自分の存在にも関わる。相手の存在が危うくなれば、自分の存在も立ち行かなくなる。好奇心や相手の感情も、私が相手に向かう要素ではあるが、土台の部分に存在のことがある。

 ロボットにそういう存在になることを期待できるだろうか。これまで様々なロボットが開発されてきたが、残念ながら人間からは飽きられて、充電されないまま停止してホコリをかぶっている。著者が提案するように他者の外部性を保ったロボット。人は相手を理解しようとして、相手を自己の内部に取り込んで把握しようとする。しかし他者は常に外部にあって、取り込むことはできない。外部にいるからこそ相手に向かうベクトルが生まれる。人が操縦可能で予測可能で内部化されたロボットでは、関係は長持ちしないのだろう。外部にありながら存在の問題も満たしている他者。それとも外部にいるからこそ、そこに存在する。内部化してしまえば、存在は存在でなくなるのかもしれない。

 他方で、相手の振る舞いを見て、自分のことを気遣っていることを感じ、相手の思いの中に自分を見出す。思い遣りの先にある温もりと、その先にいる相手の存在を感じる。思い遣りとは違うが、人がロボットに質問した時に、ロボットが返答しなかったという例が紹介される。ロボットはその人がヘッドホンを着けているのを見て、何を言っても聴こえないと思い、返答しなかったのだ。人がそのロボットの振る舞いを理解した時、人間的なあるいは人間以上の理知と想像力を感じ、他者として認めるのではないか。私ならヘッドホン越しでも聴こえるように大声で返答してしまいそうだが。

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