誰が為の世界で希う-4

 首輪を再びつける巷一の顔から、ゆっくりと表情が抜け落ちていく。
「どっちでもいい。片手を、おれの前に出してくれないかな」
 冷たく細い線が、触れたらはじけ飛んでしまいそうなほどに張り詰められたような。そんな雰囲気が、日の落ちて暗くなった公園を支配する。
 その空気に吞まれたかのように、亮は自らの手を差し出した。
 巷一はそれを片手で支えるように摑み、反対の手を亮の手の上にそっとかざして。
「……目を閉じたほうが、いいかもしれない」
 ふと、柔らかさを含んだ声で、忠告した。
「あまり、見ていて気持ちのいいものではないだろうからね」
 けれど、亮は目線を自分の手から動かすことはなかった。瞬きひとつせず、すべてを見届けるのだと言いたげな、真剣な面持ちで、今から起きることと対峙しようとしていた。
 小さなため息をひとつ。なにかを託すような目で蓮人の方を一瞥して、巷一は深呼吸をする。
 言葉もなく、同化の魔法は始まった。
 巷一の手からこぼれ落ちる粒子は、亮の手のひらに積もっていく……わけではなく、水面に霧雨が降り注ぐときのような波紋を起こして消えていく。なにかが変わったような、あるいは自分の中を探られるような、そんな感覚はなにもなかったが、同化しているはずなのに違和感がない、そのことの方に亮は少しだけ、居心地の悪さを覚えた。
 巷一が眠るように目を閉じる。
 自らの師をじっと見守りながら、蓮人は心もとなそうに自分の腕を抱えた。思わずのんだ息の音が、異様に大きく聞こえる。師匠ならきっと大丈夫。そう思いながらも、もやもやとした不安が心の中を塗りつぶしていくのを感じる。
 どれほど、時が経っただろうか。
「――師匠っ」
 静寂を引き裂いたのは、蓮人の震えた叫びだった。
 つられたように亮は顔を上げると、そこにあったのは目を疑うような、普通起こりえない光景。
「……どうして」
 ゆらり、と。
 巷一の姿の輪郭が、揺らいでいた。
 風が吹けば消え去ってしまいそうな姿に、蓮人が弾かれたように駆け寄っていく。
 どこを摑めばいいのかも分からない彼の腕に縋りつくようにして、蓮人は必死に呼びかけた。
「師匠、おれの声が聞こえますか? 戻ってきてください!」
 ――同化の魔法は、自分を見失う恐れもある。
 輪郭の揺らぎはそのまま、巷一の存在が揺らいでいることを示しているのだと気づいたとたん、亮は深い戦慄を覚えた。どうしたらいいのか分からぬまま、とにかく摑まれているその手を離そうとしたが、存在は揺らいでいるはずなのに力は思いのほか強く、動かすことができない。焦ると同時に、なぜなのか理由は見当もつかなかったが、足元が崩れて落ちていくような、そんな感覚を抱いていた。
 蓮人は悲痛な声で何度も巷一のことを呼んでいたが、不意になにかを思い出したのか、苦々しい表情へと一変する。負の感情を全てごちゃまぜにしたような、なんとも形容のし難い目で大切な人のことを見上げ、そして、のちに自分でも驚いてしまうほどの大きな声で叫んだ。「――神田巷一!」
 ぴたり、と。
 時が止まったかのように、揺らぎが収まる。
 亮の手から青い光を伴って粒子が浮かび上がり、再び巷一の手を形作っていく。
 そして、光が霧散して手が元通りになったのち、ようやく、巷一はゆっくりと目を開けた。亮の手を離しながら困ったような笑みを浮かべ、腕に縋りついていた弟子に気がついたのか、優しく見つめる。
「……すまないね」
 巷一が口を開くよりも早く、蓮人がその胸に飛び込んで抱き着いた。
「いなくなったら、おれはどうしたらいいのかって……! だから無茶はしないでくださいって言ったのに!」
「……俺も、さすがに不安になりましたよ。頼まないほうがよかったのかもしれないって、思っちゃいました」
 ぽつりと思いをこぼして立ち尽くす亮と、存在を確かめるかのようにしがみついて離れない蓮人。二人を交互に見て、亮の肩に手を置き、蓮人の背をそっと撫でた。
「本当にごめん。今のはおれが悪かった。蓮人の言う通り、無茶をしすぎたね。……ありがとう、蓮人。おれのことを呼び戻してくれて。よく覚えていたね」
「尊敬する大切なひとのことをフルネーム呼び捨てにするなんて、すっごく気分が悪かったですよ。二度としたくないです」
 少しは安心したのか、蓮人はようやく巷一から離れてそっぽを向いた。
「かなり複雑な封印だったんだ。無効化するためにはどうしたらいいか探し続けて、方法が分かった時にはもう自分が分からなくて、足元からすべてが崩れていくような感じがしてね。……こんなことを言っても言い訳にしかならないな」
 言いながら、空中に指を滑らせる。それと同時に青い光が紡ぎだされ、言語とも文様ともつかないなにかが描き出されていった。
「それは?」
「きみの魔力の封印を無効化する魔法だよ。直接かけることもできるけど、こっちの方がいいかと思ってね」
 亮の問いに答えながら、魔法を描き終わった巷一はひとつ手を叩く。瞬間、青い光は一か所に集まって、形を変えた。その下に巷一が手を差し伸べると、光は銀色の物体になって、音を立てて落下する。
 それを受け止めて、そのまま、亮に差し出した。
「無効化の魔法を具現化したんだ。これを身につけていれば封印は解けるし、魔法を使う必要がないときは外しておけばいい。きみに似合うといいんだけど」
「……すんなりやってのけますけど、魔法の具現化なんて空間魔術師の師匠じゃなければ無理ですからね」
 呆れたような蓮人の補足を聞きながら、亮はそれを手に取った。
 銀色の、タグのような飾りがついたネックレスだった。数秒前まで形のないものだったとは思えないほどにしっかりとしていて、タグを爪で叩けばこつこつと金属らしい音がする。
「つけてごらん」
 促されるままに、亮はネックレスを身につける。見えない首の後ろで留め具をつけることに難儀していたが、なんとか成功させて、銀のチェーンから手を離した。
 瞬間、風もないのに亮の髪がふわりとなびく。
 同時に、胸の奥からなにかがあふれ出して、自分の中で緩やかに渦を巻き、燃え上がるように熱を持つ。黒い髪は、メッシュをいれたかのように赤く染まった。
 これが魔力だ、と。教えられたわけでもないのに理解する。
 力の奔流は指の先、足の先までにも行き届く。そして、流れが消え、髪色が元に戻ったのちも、たしかに胸の奥に魔力があることを感じられた。
「うまくいったみたいだね」
 言いながら、巷一は安堵の表情を浮かべる。蓮人も「ようやく『色』が見えましたよ」とどこか嬉しそうに笑みを浮かべた。
 身に起きた変化に驚いたように目を見開いていた亮だったが、徐々に口角があがっていく。亮の目に興奮と好奇の色が滲みだし、いつしか飛び出していた声は普段よりもトーンが高くなっていた。
「あのっ……俺、魔法が、使えるんですよね?」
「そうだよ。……けれど今日はもう夜になったし、魔法の練習は別の日にしたほうがいいと思う。感覚を摑むのに時間がかかるし、説明も難しいことだから」
 いつの間に戻していたのだろうか、腕時計を見ながら言う巷一に、亮は辺りを見回して見上げる。狭く切り取られた都会の空に、欠けた月とまばらな星が浮かび上がって懸命に光を放っていた。
「そうですね。明日も講義がありますし、あんまり遅くなっても困るので」
「じゃあ、連絡先を交換しておきませんか」
 少しだけ残念そうに、でも微笑んだ亮に、蓮人がそう提案する。「いいですね」と亮は、そして巷一も、スマートフォンを取り出した。
 二人分の連絡先が増えたメッセージアプリの画面を眺め、蓮人の方に向き直り、亮はずっと心の片隅で思い続けていたことを口にする。
「あの……先輩に敬語で話しかけられるの、なんか違和感あるんですけど」
「っ、そうだよね。こうやってちゃんと話すのは初めてだったから、つい。これからは、お互いに堅苦しいのはなしで話せたら、気軽に声をかけてもらえたら、嬉しいな」
 蓮人の申し出に、亮は少しだけ考え込む。
「……時間はかかるかもしれないですけど」
「うん、それでもいいよ。よろしくね、清水くん」
 丸い垂れ目をぎゅっと細めて、蓮人は笑った。左目を隠してしまっていること、そして、今は外しているが普段はフードを被っているせいで表情が見えないことが残念に思えるほどに、眩しく、朗らかで幸せそうな笑みだった。亮も、思わずつられたように微笑みを浮かべる。
 そんな二人を見守っていた巷一は、そっと二人の肩を叩くように声をかけた。
「さ、じゃあ帰ろうか。おれは東池袋駅まで行くけど、二人は?」
「俺は、池袋からバスで」
「おれは学生寮に戻ります」
 学生寮は、池袋駅から電車で一駅のところにある。
 唯一方向の違う巷一とは公園で別れ、学生二人は池袋駅まで向かった。
「そういえば、自分の魔力の色って確認できないんですね」
「いや、魔法を使えば見れるよ。清水くんの『色』はね、」
 答えを言いかけた、蓮人の言葉を亮は慌てて止める。
「練習のときの、お楽しみにしておきます」
「……たしかに、その方がいいかもね。あ、あと、それのことなんだけど」
 それ、と言いながら、蓮人は亮のネックレスを指さした。
「魔法を使わないときは、外したほうがいいかもね。使い方をちゃんと知らない今は、特に。魔力が封印されていた理由を覚えている?」
 ――自分が魔術師と知らないときに、無意識のうちに魔法を行使して誰かを傷つけることのないように。
 巷一の説明を思い返し、「覚えています」と頷いた。魔術師としての自覚はあっても、魔力を操れないのであれば状況はさして変わらない。亮はネックレスを外し、ポケットにしまった。
 そのあとは特に会話もなく、無言で歩き続けているうちに、駅が見えてきた。
「それじゃ、またね」
 すっとフードを被りなおし、蓮人は人混みに紛れるように歩き去っていく。
 その後姿を見送って、亮はちょうどやってきたバスへと乗り込んだ。

 一方、その頃。
 無人となった公園を、街灯が静かに照らし出す。
 その明るい光に吸い寄せられた蛾のように、ふらり、ひとつの人影が現れた。
 裾の長いジャケットを羽織ったその影は、なにもないはずの地面をじっと見つめ、ふいに目線の先に手を伸ばすと、遊具たちを見渡してブランコに指を差し向ける。
 瞬間、乾いた音とともに、なにかがブランコの鎖を破壊した。すぐに切れて落ちはしないが、そう、例えば、一人の子どもが座れば、完全に切断されて壊れる程度に。
 その人影は小さく息をついて額の汗を拭い、あたりを見回す。
 ふと街灯が照らし出したそのひとの顔に、表情らしいものは見当たらなかった。

(続く)

*この物語はフィクションです。実在の地名・人物とは一切関係ありません。
*全話をマガジンにまとめています→【長編小説「誰が為の世界で希う」】