ハードボイルド書店員日記【269】
「先日はどうも」
日曜の朝11時半。細身の男の子がレジを訪れた。半袖の白いシャツに生地の薄そうな黒いスラックス。校章らしきマークが入った紺のリュックを背負っている。たちまち既視感を覚え、記憶の糸が繋がった。理系的な学生。少し前に芥川龍之介「蜃気楼」を探していた子だ。
「いらっしゃいませ」
「ちくま文庫の『芥川龍之介全集6』は無事に買えました。面白かったです。『蜃気楼』をたしかに体感できました」
また左耳の後ろを掻いている。表情は変わらない。
「よかったです」
「ところで芥川は今月」
「7月24日が命日ですね」
いわゆる河童忌だ。男の子の細い首がかすかに動く。
「最近知ったんですけど、本好きの人には文豪が亡くなった日の前後に著作を読む習慣があるとか」
「ですね。太宰治の『桜桃忌』とか」
「いつですか?」
「ちょうど先月でした。6月19日」
「夏目漱石の命日をご存知ですか?」
「12月9日です。『漱石忌』と呼ばれています」
「『草枕忌』や『三四郎忌』ではないんですね」
「言われてみれば」
視線が合う。何かが溶け去ったように感じた。
永遠に話していたい。だが外国人観光客の集団がカウンターへ近づくのを視界の隅で捉えた。提げている籠から大量の文房具と雑貨が顔を覗かせている。
「何かお探しの本がございましたら」
「ああ、すいません。実は河童忌にオススメの本を教えていただけたらと」
「オススメというか、私が今年読む予定の一冊でよろしければ」
「ぜひ」
「少々お待ちくださいませ」
ベルを鳴らして応援を呼び、大股で文芸書のコーナーへ向かった。
「お待たせ致しました」
いつしか有人レジの前に列ができている。カウンター内へ戻り、立東舎から出ている『蜜柑』を手渡した。
「こういう絵本があるんですね」
「『乙女の本棚』というシリーズです。ただ必ずしも女性向けとは考えていません。敷居が高くなりがちな文豪の短編小説をカジュアルに楽しめるので」
「すべての人の入り口として最適。なるほど」
相変わらず飲み込みが速い。
「ページ保護のためにシュリンクを施しています。外して内容をご確認いただくことも」
「いえ、どうせならこの状態で店員さんの印象に残ったページを教えてほしいです」
「……やってみましょう」
短い話だと逆に難しい。即座に頭に浮かんだのは42ページ。迷っている時間はない。たしかこんな文章が記されていた。
私はこの時始めて、云いようのない疲労と倦怠とを、そうしてまた不可解な、下等な、退屈な人生を僅に忘れる事が出来たのである。
「まさに、芥川の遺した作品たちがくれるものですね」
男の子は小さく頷き、いただきますと本をこちらへ差し出した。
「私も同意見です。彼がそういう意図を込めて書いたかどうかはわかりませんが」
「そこまでの余裕がないからこそ。むしろ令和の世に生きるぼくらと同じく、芥川が現実を忘れさせてくれるひと時に飢えていたからこそ。偉そうなことを口にできる立場ではないし上手く言語化もできませんが、そんな気がします」
「たしかに」
ポイントカードの有無を訊ね、レジを打ち、スマートフォンが表示するQRコードを専用端末で読み取り、レシートと控えをカルトンへ置く。決済が終わった後も広告案件のしおり配布、キャンペーンのご案内など慌ただしい。いつから本屋はかくも息苦しく、忙しない空間になったのか。不可解で下等で退屈と評されたら返す言葉が見当たらない。
プラスチックの袋へ入れた本を手渡す。
「今日もいろいろ教えていただき、ありがとうございました」
「こちらこそ。本当は一冊の本、ひとりのお客さんともう少し丁寧に向き合いたいところです」
本音が漏れた。
「十分に向き合ってもらえましたよ。おかげで将来や受験勉強に関するモヤモヤを」
「忘れましたか?」
「いえ」
再び視線が合う。口元がかすかに緩んでいる。私のマスクの下もおそらく一緒だ。
「でも間違いなく楽しかったです」
頭を下げてくれた。本当に中学生もしくは高校生なのか。サリンジャーが著した某小説の主人公みたいに前世の学びを記憶に残しているのでは? そんな考えが一瞬脳裏を掠めた。
「そう言っていただけると」
「漱石忌の頃はもっとお店が混んでそうですね」
「ご来店をお待ちしております」
商売でもありつつ純度100の主観で。心のなかで付け加えた。
もうすぐ河童忌。今年は特に忘れ難いものになりそうだ。
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