福音派を蝕むエマージェント(エマージング)・チャーチ
最初に結論を述べると、エマージェント・チャーチ(またはエマージング・チャーチ)は、聖書の真理を破壊する危険性を持つ運動です。
エマージェント・チャーチは、20世紀後半から21世紀初頭にかけて登場したキリスト教運動であり、ポストモダンの価値観や思想を教会に取り入れようとする試みとして発展しました。そのため、教会のあり方(教会組織)や礼拝の形式、伝道方法において従来とは異なるアプローチを模索しています。
「emerging」には「現れる」「台頭する」「出現する」「発展途上の」「新興の」といった意味があります。そのため、「新興教会」と訳すこともできます。本来であれば「エマージング・チャーチ」と表記することも可能ですが、日本では「エマージェント・チャーチ」という呼称が広く用いられているようなので、この記事では表記を「エマージェント・チャーチ」に統一しています。
エマージェント・チャーチは、もともと福音派の中から生まれた運動であり、ポストモダン社会における教会のあり方を再考しようとするものでした。一方で、その思想や神学にはリベラル派の影響が見られるという指摘もあります。ただし、主要な指導者や提唱者の多くは、福音派の背景を持つ人物として位置づけられています。
エマージェント・チャーチの特徴の一つは、その思想や概念が非常に理解しにくい点にあります。
抽象的な表現が多く用いられ、さらに従来の神学用語を独自の意味で再解釈する傾向があるため、その考え方を正確に把握することは容易ではありません。
「エマージェント・チャーチのポストモダン神学の源流は非常に複雑で多岐にわたっているため、十分な神学教育を受けた学生でさえ、それらを理解することに大きな困難を覚えるほどである。(中略)私は35年以上にわたってキリスト教神学を学んできており、神学の学位も取得している。それでもなお、このような困難を感じたのである。それでは、そのような専門的な訓練を受けていない人々はどうだろうか。キリスト教徒がエマージェント・チャーチを理解するのに苦労するのも、無理はないことである」
一方で、エマージェント・チャーチはキリスト教の用語や概念、さらには聖書的な表現を用いるため、その思想的な問題点が見えにくいという側面があります。
エマージェント・チャーチを理解するうえで参考になるのが、この運動を研究し、その危険性を指摘しているBob DeWaay氏の著書「The Emergent Church: Undefining Christianity」です。
エマージェント・チャーチについて論じたブログやキリスト教関連の情報サイトも数多く存在しますが、この記事では、内容が比較的整理され、理解しやすいBob DeWaay氏の著書を主な参考資料として用いています。そして、エマージェント・チャーチが何故危険であると考えられるのか、その理由についてまとめていきます。
なお、この記事はかなりの長文です。分割することも考えましたが、あえて一つにまとめました。読む側の負担は増えますが、ご了承ください。
・エマージェント・チャーチに影響を与えた者たち
ユルゲン・モルトマン氏は、エマージェント・チャーチに大きな影響を与えた神学者の一人です。その他にも、ヴォルフハルト・パネンベルク氏やF. LeRon Shults(レロン・シュルツ)氏などのリベラル派の神学者からの影響が指摘されています。
その中で、比較的例外的な存在とされるのが、福音派の神学者であるStanley Grenz(スタンリー・グレンツ)氏です。
これらの神学者の思想は、エマージェント・チャーチの思想的背景を形成する重要な源流となっています。しかし、後に詳しく取り上げるように、その思想的ルーツは単にポストモダン神学者だけに限定されるものではありません。
モルトマン氏は、新正統主義の流れを受け継ぐ代表的な神学者として知られており、妻のエリザベート・モルトマン=ヴェンデル氏もフェミニスト神学を代表する神学者の一人です。夫妻はいずれも、現代神学に大きな影響を与えたリベラル神学の潮流の中に位置づけられています。
一方、スタンリー・グレンツ氏は福音派の神学者でありながら、ポストモダン思想を積極的に神学へ取り入れた人物として知られています。また、彼はヴォルフハルト・パネンベルク氏をはじめとする新正統主義の神学者から影響を受けました。(グランツの師に新正統主義のヴォルフハルト・パネンベルク氏です)
そのため、グレンツ氏の神学は、福音派の内部にポストモダン神学や、リベラル神学と接点を持つ思想が広がる一つの要因になっています。
・エマージェント・チャーチの推進者
エマージェント・チャーチを語る上で、まずあげられる人物がブライアン・マクラーレン氏です。
ブライアン・マクラーレン氏は、エマージェント・チャーチの中心的人物の一人として広く知られています。彼はもともと福音派の背景を持つ牧師でしたが、後に進歩的なエキュメニカル運動を支持する立場を示すようになり、その思想は伝統的な福音派の神学から大きくかけ離れていると指摘されています。
彼が設立した「ZOE」は、「LGBTQ+を肯定すること」や「宗教間協力と世俗科学や活動を含む多様な知恵源からの学び」を理念として掲げています。
また、「ZOE」の使命声明には、ポストモダン思想の影響が強く表れています。その内容では、あらゆる人を受け入れる包括的で肯定的なコミュニティの形成が目標として示されています。この「包括」という概念には、キリスト教信仰者だけでなく、不可知論者、他宗教の信奉者、さらには伝統的なキリスト教の立場から異端的と見なされる人々も含まれるとされており、これは従来の福音派における教会理解とは大きく異なる特徴です。
「ZOE」の使命声明については、後の章で改めて詳しく取り上げます。
エマージェント・チャーチの主要な代表者としては、以下のような人物があげられます。
Doug Pagitt(ダグ・パジット)
Leonard Sweet(レナード・スウィート)
Dan Kimball(ダン・キンボール)
Tony Jones(トニー・ジョーンズ)
Rob Bell(ロブ・ベル)
Barry Taylor(バリー・テイラー)
Dwight J. Friesen(ドワイト・J・フリーゼン)
ただし、エマージェント・チャーチには、中心的な指導者として知られる人物だけでなく、思想的な協力者や関連する神学者・作家も数多く存在します。そのため、この運動に関わったすべての人物を完全に網羅することは容易ではありません。
・エマージェント・チャーチの問題点
ここからは、エマージェント・チャーチが抱える問題点について整理していきます。
なお、説明の中では、同じ表現や用語が繰り返し登場する箇所があります。これは、それぞれの問題点が互いに密接に関連しており、個別に取り上げながら段階的に説明する必要があるためです。そのため、同じ内容に触れたり、異なる章で類似した説明が繰り返されたりする場合があります。
また、一見すると相互に矛盾しているように見える主張や特徴についても扱います。しかし、それらはエマージェント・チャーチの複雑な思想的背景を理解するうえで重要な点であり、各問題点を取り上げる際に、その背景や理由を詳しく説明します。
問題点①ポストモダン
この運動の問題点の一つは、ポストモダンの価値観を教会に取り入れようとしている点です。
ポストモダンは、認識論的相対主義、多元主義、普遍主義、自己意識の重視などを特徴とする思想として理解されています。
第一の問題は、真理を相対化し、その絶対性を弱めてしまうことです。この考え方がキリスト教に持ち込まれると、聖書の真理も相対化され、「聖書の教えを誰も確実に知ることができない」という考え方に繋がる危険性があります。
第二の問題は、客観的な真理よりも主観的な経験や認識を重視する傾向です。ポストモダンでは自己の認識や体験が重視されるため、客観的な真理よりも「自分にとっての真理」が優先されやすくなります。この傾向は、一部のカリスマ派教会やプロテスタント諸派にも見られておりますが、エマージェント・チャーチの問題点としても同様のことが論じられています。
第三の問題は、多元主義や普遍主義の影響です。その具体的な現れの一つとして、エキュメニカル運動を積極的に推進する姿勢があげられます。ここでいうエキュメニカル運動は、キリスト教諸教派間の対話や協力にとどまらず、他宗教との対話や融和も重視する点に特徴があります。
このような他宗教との対話が活発になることで、キリスト教の中に他宗教の思想や価値観が取り入れられる余地が生じています。また、その結果として、従来から異端的教理とされてきた万人救済説(普遍救済主義)が受け入れられやすい土壌が形成されつつあります。
このように、ポストモダンの価値観には、聖書の権威や真理の絶対性、さらには教会の教理に影響を及ぼし得る要素が数多く含まれていることが、エマージェント・チャーチの問題点として指摘されています。
・聖書は何と言っているのか?
第一の問題については、
「あなたがたには聖なる方からのそそぎ油があるので、だれでも知識を持っています」(1ヨハネ2:20)
「神は、すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられます」1テモテ2:4)
第二の問題については、
「心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りにたよるな」(箴言 3:5)
「人の心は何よりも陰険で、それは直らない。だれが、それを知ることができよう」(エレミヤ 17:9)
第三の問題については、
「この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい」ローマ12:2)
「不信者と、つり合わぬくびきをいっしょにつけてはいけません。正義と不法とに、どんなつながりがあるでしょう。光と暗やみとに、どんな交わりがあるでしょう。キリストとベリアルとに、何の調和があるでしょう。信者と不信者とに、何のかかわりがあるでしょう」(2コリント6:14-15)
問題点②脱構築(deconstruction)
エマージェント・チャーチの特徴として、しばしば「脱構築」という概念があげられます。
ここでいう脱構築とは、端的に言えば、「これまで信じてきたこと、あるいは教えられてきたことは本当に正しいのか」と問い直すことから始まり、最終的には神学用語の定義、伝統的な教義や教理、さらには確立された教えそのものを解体し、再構成しようとする姿勢を指します。
そのため、従来の神学において矛盾として退けられてきた事柄であっても、それらを排除するのではなく、あえて併存するものとして包含しようとします。彼らにとって重視されるのは、体系的な整合性を維持することよりも、多様な意味や解釈を受け入れ、それらを内包することなのです。
彼らは脱構築の過程において、まず従来の聖書解釈や教会の伝統に対する疑念を提示します。その後、伝統的な聖書理解や教会における教えについて、それらは「信じさせられていたもの」に過ぎないと主張し、新しい(彼らが「正しい」とする)聖書理解を提示します。しかし、この新しい聖書理解は、神学用語や聖書に基づく概念の定義を曖昧にし、最終的には真理そのものの境界を不明確にするものです。
彼らは聖書を一貫した神学体系の中で理解する方法や、「聖書が聖書を解釈する」という伝統的な解釈原則を十分に重視しません。その代わりに、共同体の対話を通して意味を形成していく解釈方法を重視します。以下の引用は、DeWaay氏がF. LeRon Shults氏の著作から引用しているものです。
「単一の神的主体の全能の意志という概念から出発し、その後で聖書や宗教的体験の意味を解明しようとするのではなく、むしろ、共同体における私たちの生きた経験を構成する範疇の内部から、神の作用という問題を明らかにしようと試みるべきだと私は提案している。その際、常に再構築される可能性に開かれた横断的な対話を展開していくのである。(引用132:Shults, Doctrine,253.)」
このような解釈法が行き着く先は、「聖書本文の意味は読者によって決定される」という考え方です。その結果、聖書そのものではなく、個人の経験や共同体での対話、さらには他者との関係性が解釈の基盤となります。
彼らは、このような共同体による解釈が正当である理由として、「聖霊は、私たちを神に近づけるために、キリスト教共同体の中で働いているのです(kindle位置No.1517)」と説明しています。
しかし、聖書的な立場に立つならば、その働きが本当に聖霊によるものかどうかを判断する基準もまた聖書です。聖書は聖霊によって霊感された神の言葉であり、聖霊がご自身によって与えられた聖書と矛盾する教えを導かれることはありません。
Bob DeWaay氏も、このような脱構築的な聖書解釈について次のように指摘しています。
「これは、著者の意図が意味を決定し、テキストに対する文法的・歴史的な分析によってその意味が明らかにされるという解釈学が、もはや有効ではないことを意味する。私の見解では、脱構築は、著者ではなく読者に意味に対する主導権を与えるものだ。
このポストモダン的なテキストへのアプローチがもたらす歪んだ影響は、今日あまりにも一般的になっている多くの聖書研究に見られる。聖書の一節が読まれ、「あなたにとって、それはどういう意味がありますか?」という質問が投げかけられる。そのため、聖書の著者が意図した唯一の意味を探求するのではなく、参加者はそのテキストに対して抱いた様々な感想を共有することになる。聖書はもはや誰をも一つの正当な意味に縛り付けるものではなくなったため、聖書の権威は意味をなさない概念となってしまっている」
この指摘は、私が以前、個人主義的礼拝の問題点として取り上げた内容とも共通しています。
本来、聖書研究とは、「聖書が何を語ろうとしているのか」「著者が何を意図しているのか」を探求する営みでした。しかし、その目的が失われると、真理を探究することよりも、自分の体験や生き方、あるいは実践を共有することが中心となってしまいます。その結果、「聖書を学ぶこと」が、実質的には「体験/生き方/実践」を「共有/追求すること」へと置き換えられてしまうのです。
・聖書は何と言っているのか?
・共同体の中で形成される解釈について
「それは何よりも次のことを知っていなければいけません。すなわち、聖書の預言はみな、人の私的解釈を施してはならない、ということです。なぜなら、預言は決して人間の意志によってもたらされたのではなく、聖霊に動かされた人たちが、神のことばを語ったのだからです」(2ペテロ1:20–21)
「しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導き入れます。御霊は自分から語るのではなく、聞くままを話し、また、やがて起ころうとしていることをあなたがたに示すからです」(ヨハネ16:13)
・聖霊によるものかどうかを判断する基準
「ここのユダヤ人は、テサロニケにいる者たちよりも良い人たちで、非常に熱心にみことばを聞き、はたしてそのとおりかどうかと毎日聖書を調べた」(使徒17:11)
「愛する者たち。霊だからといって、みな信じてはいけません。それらの霊が神からのものかどうかを、ためしなさい。なぜなら、にせ預言者がたくさん世に出て来たからです」(1ヨハネ4:1)
・体験を求める
「悪い、姦淫の時代はしるしを求めます(後略)」(マタイ16:4)
「確かに、私たちは見るところによってではなく、信仰によって歩んでいます」(2コリント5:7)
問題点③キリスト教神学の定義を解体する
エマージェント・チャーチの思想には、言語によって物事を正確に理解することに対する懐疑的な姿勢があります。つまり、聖書を読んだとしても、その意味を客観的かつ正確に理解することは困難であると考えてしまうのです。そのため、言葉によって聖書の教理を体系的に整理する組織神学に対して否定的な立場を取ります。
中には、キリスト教神学における重要な教義である原罪や贖罪などの定義そのものを否定する人物もいます。彼らは、体系的な神学を構築すること自体を「啓蒙主義的キリスト教の産物」として批判し、従来の神学的方法論を退けます。
一方で、エマージェント・チャーチは「罪」や「神の国」といったキリスト教神学の用語を使用することもあります。しかし、その用語が伝統的な神学における意味と同じ意味で用いられているとは限りません。
もし神学用語を従来とは異なる意味で使用するのであれば、本来はその定義を明確にする必要があります。しかし、エマージェント・チャーチでは、こうした用語について厳密な定義を避ける傾向があります。むしろ、「多様な視点が存在するため定義できない」「一つの枠組みに当てはめることはできない」と主張することで、定義を行わないことを正当化する場合があります。
それにも関わず、彼らが神学用語を用いる理由は、読者がその言葉に対して持っている既存の理解を利用して、自らの主張を受け入れやすくするためです。
DeWaay氏は、このような特徴はかつてフランシス・シェーファー氏が起こりえると警告した問題であると指摘しています。シェーファー氏は、このような言葉の扱いについて「意味論的神秘主義(semantic mysticism)」という表現を用いて説明しました。
「あらゆる言葉には二つの側面がある。一つは辞書的な意味(定義)であり、もう一つはその言葉が伴う含意(コノテーション)である。言葉どうしは定義の上では同義であっても、その含意はまったく異なることがある。そのため、たとえば十字架のような象徴が、文章や絵画の中で用いられると、たとえキリスト教を退けていたとしても、キリスト教文化の中で育った人々の心には特定の連想や感情が呼び起こされる。……それゆえ、新しい神学がそのような言葉を定義することなく用いると、そこには意味があるかのような錯覚が生み出される。そして、その錯覚は、人々の深い動機や感情を呼び覚ますうえで、実際上きわめて有効に機能するのである」(引用234:The God Who Is There P57)
エマージェント・チャーチは、脱構築によって既存の概念を問い直した後、関心のあるテーマについては新たな意味づけ(再構築)を行います。しかし、自分たちが扱いたくないテーマや不都合な教義については、明確な定義を避け、「人間には知ることができない」「既存の枠組みには収まらない」として議論を回避する傾向があります。
このように教義や用語の定義を曖昧にする結果、彼らは聖書のみから導き出される教義を絶対的なものとして扱うことを拒むようになります。その代わりに、現代の人類学、哲学、あるいは個人的体験など、聖書以外の領域から得られる知見を、神を理解し神に近づくための重要な手段として位置づけます。
この点については後に詳しく取り上げますが、聖書以外の領域を重視する姿勢は、エマージェント・チャーチが「一般啓示」と「特別啓示」の区別を十分に認めていない、あるいは特別啓示である聖書に独自の権威を置いていないことを明らかにしています。
こうした思想的背景が、次に取り上げる「問題点④希望に満ちた終末論」へと繋がっていきます。
・聖書は何と言っているのか?
・客観的かつ正確に理解することは困難という主張について
「また、ラッパがもし、はっきりしない音を出したら、だれが戦闘の準備をするでしょう。それと同じように、あなたがたも、舌で明瞭なことばを語るのでなければ、言っている事がどうして知ってもらえるでしょう。それは空気に向かって話しているのです」(1コリント14:8–9)
「ところで、私たちは、この世の霊を受けたのではなく、神の御霊を受けました。それは、恵みによって神から私たちに賜ったものを、私たちが知るためです。この賜物について話すには、人の知恵に教えられたことばを用いず、御霊に教えられたことばを用います。その御霊のことばをもって御霊のことを解くのです」(1コリント2:12–13)
「教えにかなった信頼すべきことばを、しっかりと守っていなければなりません。それは健全な教えをもって励ましたり、反対する人たちを正したりすることができるためです」(テトス1:9)
「あなたは、キリスト・イエスにある信仰と愛をもって、私から聞いた健全なことばを手本にしなさい」(2テモテ1:13)
・神学用語を解体し、定義を行わず、主張を曖昧なままにする
「また、ラッパがもし、はっきりしない音を出したら、だれが戦闘の準備をするでしょう。それと同じように、あなたがたも、舌で明瞭なことばを語るのでなければ、言っている事がどうして知ってもらえるでしょう。それは空気に向かって話しているのです」(1コリント14:8–9)
・聖書以外の知識を用いる
「あのむなしい、だましごとの哲学によってだれのとりこにもならぬよう、注意しなさい。それは人の言い伝えによるもの、この世の幼稚な教えによるものであって、キリストによるものではありません」コロサイ2:8 )
問題点④希望溢れる終末論
エマージェント・チャーチに関わる指導者達は、ある共通した終末論的理解を持っています。それは、この世界は未来に向かうほど改善され、より良い方向へ進んでいくという楽観的な将来観です。
そのため、彼らは社会をより良くするための活動に参与することを、キリスト信仰者の重要な使命として位置づけます。これは神の創造の働きに参与することであり、神と共に世界を回復し、最終的には「神の国」がこの地上に現れるために必要な「ミッショナル」な働きであると考えます。
ここに、伝統的な福音派が理解する「ミッショナル」との違いがあります。
伝統的な福音派におけるミッショナルの理解は、福音の宣教を中心としています。すなわち、神が人となって来られ、罪の贖いのために十字架上で死なれ、復活されたという救いの知らせを人々に伝えることです。その目的は、人々が罪を悔い改め、神との和解を得て、神の裁きから救われ、永遠の救いにあずかることにあります。このように、伝統的な福音派においては、ミッショナルとは第一義的に福音の内容を宣べ伝える宣教理解として位置づけられています。
一方、エマージェント・チャーチの指導者たちが持つ終末論は、ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲルの哲学や、それを受け継いだマルクス主義的な進歩史観、さらに新仏教主義者ケン・ウィルバー氏などの思想的影響を受けていると指摘されています。そのため、歴史は未来に向かって発展し、最終的にはより良い状態へ到達するという希望的な世界観が強調されます。
このような終末論においては、神の裁きという教義は存在しません。あるいは、裁きそのものを否定しない立場の指導者であっても、終末における神の裁きについて不確かだと、明確な立場を示さない場合があります。
この「希望溢れる終末論」は、最終的には無神論者であれキリスト信仰者であれ、全ての人類が将来的により良い世界、つまり神の国に住むと考えます。
その背景には、神が全てのものをご自身へ「引き寄せる」という理解があります。つまり、悪を含めた万物が最終的には神のもとへ引き寄せられ、回復され、善へと変えられていくため、神は世界を裁くのではなく回復される、という希望ある結論に至ります。
しかし、このような理解は、伝統的なキリスト教神学から見ると、万物が神へと融合するという汎神論そのものです。
通常、無神論的世界観と有神論的世界観は互いに異なる前提に立つため、両者を同時に成立させることはできません。しかし、エマージェント・チャーチの思想においては、こうした矛盾や緊張を受け入れるプロセス自体が、神の国の顕現へ繋がると考えています。
これは哲学的な枠組みに基づく考え方であり、聖書から直接導き出されるものではありません。
要約すると、エマージェント・チャーチの終末論では、神の裁きよりも世界の回復と改善が強調されます。そのため、主イエス・キリストの再臨による裁きや救いを中心とする福音を語ることよりも、この世界をより良くするための社会的活動への参与が神の御心として重要視されます。彼らは、このような働きを神の創造の業への参与であり、神の夢の実現に関わるものとして語ります。
・聖書は何と言っているのか?
・福音とは
「兄弟たち。私は今、あなたがたに福音を知らせましょう。これは、私があなたがたに宣べ伝えたもので、あなたがたが受け入れ、また、それによって立っている福音です。また、もしあなたがたがよく考えもしないで信じたのでないなら、私の宣べ伝えたこの福音のことばをしっかりと保っていれば、この福音によって救われるのです。私があなたがたに最もたいせつなこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書の示すとおりに、三日目によみがえられたこと」(1コリント15:1–4)
・終わりの日
「終わりの日には困難な時代がやって来ることをよく承知しておきなさい」(2テモテ3:1)
「しかし、悪人や詐欺師たちは、だましたりだまされたりしながら、ますます悪に落ちて行くのです」(2テモテ3:13)
・裁き
「神は、そのような無知の時代を見過ごしておられましたが、今は、どこででもすべての人に悔い改めを命じておられます。なぜなら、神は、お立てになったひとりの人により義をもってこの世界をさばくため、日を決めておられるからです。そして、その方を死者の中からよみがえらせることによって、このことの確証をすべての人にお与えになったのです」(使徒17:30–31)
「人々が「平和だ。安全だ」と言っているそのようなときに、突如として滅びが彼らに襲いかかります。ちょうど妊婦の産みの苦しみが臨むようなもので、それをのがれることは決してできません」(1テサロニケ5:3)
・この世
「しかし、今の天と地は、同じみことばによって、火に焼かれるためにとっておかれ、不敬虔な者どものさばきと滅びとの日まで、保たれているのです」(2ペテロ3:7)
・信徒が求めるもの
「しかし、私たちは、神の約束に従って、正義の住む新しい天と新しい地を待ち望んでいます」(2ペテロ3:13)
問題点⑤実存主義ーーーー体験を重視する
エマージェント・チャーチでは、主イエス・キリストによる罪の贖いや終末における神の裁きについて語ることよりも、主イエスがどのように生きられたのか、また共同体(あるいはクリスチャン)がどのように生きるべきなのか、さらには主イエス(あるいは神)とどのような関係を築くべきなのかという点に関心を向けます。つまり、個人的な信仰経験、人間関係、そして神との生き方といった側面を重視します。
その中でも、特に重視されるのが「関係性」という概念です。つまり、個人が神とどのような関係を持つのか、他者や共同体とどのような関係を築くのか、そして信仰者がどのような生き方をするのかという点です。 こうした「関係性」を中心的なキーワードとして用いることで、彼らは従来の教会には問題があると批判します。そして、自分たちは主イエスの教えへ戻り、失われた本来の教会を回復し、再構築しているのだと主張します。
しかし、このような批判を行う一方で、実際にはエマージェント・チャーチの方が聖書の中心的な教えから離れています。
聖書は、信仰者の歩みについて、「実」や「行い」という言葉を用いて説明しています。しかし、その根底にあるのは信仰です。そして、その信仰は主観的な体験ではなく、神によって啓示された客観的な真理に基づいています。その源泉となるのが聖書です。
一方、エマージェント・チャーチが強調する「信仰の実」や「生き方」は、聖書が示す信仰の実践とは異なり、セーレン・キェルケゴールや、彼の影響を受けた新正統主義の実存主義的な思想と共通する特徴を持っています。
つまり、「体験すること」「感じること」を重視し、「教義を知ることよりも生き方が重要である」「真理を理解することよりも真理のうちに生きることが重要である」「神の前でどのように生きるかが重要である」など、客観的な真理や教義ではなく、個人がどう生きるのか、神とどう関係性を持つのかを重視します。
これらの表現は一見すると非常に聖書的に聞こえます。しかし、聖書が本来教えている中心的な事柄は、神が客観的に啓示された真理をどのように受け取り、それに従ってどう生きるかということです。
聖書を通して神の御心を知り、その御言葉を基準として物事を判断し、神のみ言葉によって養われながら信仰生活を歩むことが求められています。何故なら、神が与えてくださる信仰、そして神の啓示である聖書がなければ、人は神を知ることも、神に近づくこともできないからです。
言い換えるなら、伝統的な福音主義では、聖書という客観的な神の啓示を出発点として「神は何を語っておられるのか」を学びます。
一方で、実存主義的な神学の影響を受けた立場では、聖書という客観的な真理を出発点とするよりも、人間を主体として「自分は神に対してどのように応答するのか」「神との関係をどのように経験するのか」と問い、神に対してどのように応答し、体験し、感じるのかが中心となります。
・聖書は何と言っているのか?
「心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りにたよるな」(箴言3:5)
「おしえとあかしに尋ねなければならない。もし、このことばに従って語らなければ、その人には夜明けがない」(イザヤ8:20)
「ユダヤ人はしるしを要求し、ギリシア人は知恵を追求します」(1コリント1:22)
聖書は世の人の知恵のむなしさ、無関係さを教えています。
また、実践を求めることは良いことですが、順序が逆になっている方々がおられるかもしれません。
クリスチャンが行う実践ーーーー信仰の歩みとは、まず先に聖書のみ言葉を求め、学び、み言葉に基づいて生活することです。実践を教える源泉もまた聖書だけであり、聖書のみ言葉に寄らない歩みは、人から出たものだからです。
また、「神を体験することを求めよ」とは聖書は教えていません。その逆に主イエスは言われました。「邪悪で不義な時代はしるしを求める」と。それは本当の信仰と呼べるのでしょうか?
「確かに、私たちは見るところによってではなく、信仰によって歩んでいます」(2コリント5:7)
しるしとは、目に見え、肌で感じ、手で触れるものであり、明確にそこに「神がいる」という証拠を求めることです。神を体験すること・感じることを求めることは、ある意味ではしるしを求めることと同じです。
問題点④実存主義ーーーー体験を重視する の補足
ここで、実存主義的な神学で用いられる言葉について補足しておく必要があります。
実存主義が語る「生き方」や「実践」と、聖書が語る信仰者の歩みとの違いを理解することは、現代社会に生きる私たちにとって容易ではありません。特に私自身を含めた若い世代にとっては、その違いを見分けることがさらに難しくなりつつあります。
その理由の一つは、彼らが「主イエス」という言葉を用い、信仰生活を連想させる表現を多く使用するためです。しかし、その言葉の背後にある思想には注意を払う必要があります。
彼らの思想の根底にあるものは、聖書が啓示する神の御心や、主イエス・キリストが父なる神に従い、十字架による贖いを成し遂げられた救いの御業ではありません。むしろ、彼らが重視するのは「主イエスという人格」や、その生き方から受け取る意味や経験です。
新正統主義は、聖書と主イエスを対立的に捉える傾向があるため、聖書の教義的側面を軽視する結果に繋がります。その結果、健全な聖書教理に基づく判断基準が失われ、「どのような主イエス理解が正しいのか」、また「どのような生き方が正しいのか」を識別するための土台である聖書の位置づけが弱められてしまいます。
そして、エマージェント・チャーチは新正統主義の影響を受けているため、「聖書」や「信仰」によって神を知ることよりも、「体験」を通して神に近づき、神を感じることを強く求めます。
彼らにとって聖書は、必ずしも信仰の歩みや教えを形成するための絶対的な基準としてではなく、自らの主張を正当化するための一つの資料や手段として用いられています。そのため、聖書の御言葉そのものよりも、過去の著名な神学者、宣教師、あるいは信仰の有無を問わない哲学者などの言葉を引用することを好みます。
そして、それらの言葉を用いることによって、自らの主張に根拠を与え、その正当性を示そうとします。
このようなエマージェント・チャーチの姿勢は、先に脱構築で引用したような「悪影響」へと至ることになるのです。
問題点⑤聖書以外から真理を見出せる
マクラーレン氏が設立した団体「ZOE」には、エマージェント・チャーチに見られる思想の一側面が示されています。
「私たちは宗教間関係と多宗教協力にコミットしており、キリスト教の宗派を超え、世界の多様な宗教の中、世俗科学やその他の学問分野、芸術や積極行動主義、瞑想的実践を通じて、多様な知恵の源泉から学び、真理を見出せると信じています」
「完全にLGBTQ+を肯定し、他の宗教的・非宗教的グループと共通善のために協力することに意欲的で、霊的活力、社会正義、環境責任、平和構築に生涯献身する瞑想活動家となるキリスト教徒の育成に専念しています」
ポストモダン思想の特徴の一つには、普遍的真理に対する懐疑や、多元主義的な価値観があります。「ZOE」の使命は、こうした思想的背景を反映したものです。そのため、「宗教間協力」や「世俗科学、その他の学問、さまざまな文化的実践を含む多様な知恵の源泉から学ぶこと」を否定するのではなく、むしろそこから「真理を見出すことができる」と肯定的に捉えています。
しかし、伝統的な福音派の立場から見るならば、神によって啓示された真理は、聖書以外の源泉から得られるものではありません。また、他宗教の教えや人間の知恵を混合することによって形成されるものでもありません。神が啓示された救いの真理と福音は、特別啓示である聖書によってのみ知られるものです。
この観点から見ると、エマージェント・チャーチが強調しているのは、聖書に根差した信仰そのものよりも、現代社会の中でどのように生きるかという「生き方」です。
彼らが提唱しているのは単なる「生き方」であり、聖書に根差した「信仰による歩み」を教えることではありません。何故なら、それは彼らにとっては虚しいことだからです。
・聖書は何と言っているのか?
「この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい」(ローマ12:2)
「不信者と、つり合わぬくびきをいっしょにつけてはいけません。正義と不法とに、どんなつながりがあるでしょう。光と暗やみとに、どんな交わりがあるでしょう。キリストとベリアルとに、何の調和があるでしょう。信者と不信者とに、何のかかわりがあるでしょう」(2コリント6:14-15)
「神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。 それゆえ、彼らは神を知っていながら、その神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなりました。 彼らは、自分では知者であると言いながら、愚かな者となり、 不滅の神の御栄えを、滅ぶべき人間や、鳥、獣、はうもののかたちに似た物と代えてしまいました。それゆえ、神は、彼らをその心の欲望のままに汚れに引き渡され、そのために彼らは、互いにそのからだをはずかしめるようになりました。それは、彼らが神の真理を偽りと取り代え、造り主の代わりに造られた物を拝み、とこしえにほめたたえられる方です。アーメン」(ローマ1:20-25)
聖書以外の何から、私たちは真理を得ることができるでしょうか?
もし、他宗教が神ご自身に関する真理を一欠片でも持っていたのであれば、何故彼らは偶像を拝んだのでしょうか?
彼らが持っていた真理について、聖書は明らかにしています。それは、「神がおられる」ということです。しかし、彼らは罪のゆえに、その真理を偶像へと置き換えてしまったのです。
「そのように、信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです」(ローマ10:17)
唯一真の神を知ること、そして遣わされた救い主イエス・キリストを知ることができるのは、聖書を通してのみです。
エマージェント・チャーチの主要な指導者であるマクラーレン氏の思想は、聖書が示す真理と明確に対立しています。
「しかし、私たちであろうと、天の御使いであろうと、もし私たちが宣べ伝えた福音に反することをあなたがたに宣べ伝えるなら、その者はのろわれるべきです」(ガラテヤ1:8)
「あのむなしい、だましごとの哲学によってだれのとりこにもならぬよう、注意しなさい。それは人の言い伝えによるもの、この世の幼稚な教えによるものであって、キリストによるものではありません」(コロサイ2:8)
問題点⑥狭い門を否定する
これは「ZOE」のサイトに掲載されている内容ですが、そこでは保守的な教会において重視されている考え方が批判されています。
「聖書とキリスト教信仰の狭く教条的かつ文字通りの解釈に従っており、社会の進歩や常識、科学と調和する解釈の余地をほとんど残していません。彼らはしばしば、自分たちが活動する大学やカレッジの知的使命に対して公然と敵対的です」
ここで用いられている「教条」という言葉は、一般的な辞書においては「教会が公的に認めた教義。また、その箇条。ドグマ」と定義されています。
したがって、「教条的であること」を否定することは、公的に認められた教義そのものを否定することであり、キリスト教信仰の基本的な枠組みに対する否定へと繋がっていきます。
人は神の御言葉に従うことが求められます。すなわち、罪を悔い改め、神が啓示された信仰を受け入れ、聖書に従って生きることが教えられています。その意味において、聖書は信仰者が受け入れるべき教条(ドグマ)があることを明らかにしています。
もちろん、このような考え方に対しては「律法主義である」と批判する立場もあります。しかし、神ご自身が語られたことに従うよう求められていること、また従わない場合にどのような結果がもたらされるのかを神ご自身が示されていることを否定するならば、それは聖書が示す神の権威そのものを否定することになります。
エマージェント・チャーチが教条的な理解や文字通りの聖書解釈を批判する背景には、「人間は聖書を完全に正しく理解することはできない」という考えがあります。
確かに、聖書に限らず、あらゆる文章を読む際には解釈という作業が伴います。人は文章を読み、その意味を理解しようとするからです。そのため、「聖書本文を正しく理解できると、誰が保証できるのか」という疑問が提示されます。
しかし、このような解釈という作業が伴うのは聖書に限った問題ではありません。
ビジネス文書、契約書、小説など、あらゆる文章においても同じように解釈の過程は存在します。それでも人は文章の意味を理解し、意思疎通を行っています。そうであるならば、神が与えられたみ言葉についても、人間が理解することは可能です。
そして聖書は、聖霊なる神のお働きによってみ言葉を理解することが可能であると教えています。つまり、聖霊が内在していない者(新生していない)が聖書を読む場合、その真の意味を理解することはできないと聖書自身が示しているのです。
さらに彼らは、人間が「聖書を正しく理解している」と主張すること自体が、聖書から権威を奪い、人間が聖書の上に立つ行為であると批判します。その結果、エマージェント・チャーチが強く問題視するものの一つが、伝統的な意味での「説教」という行為になります。
・聖書は何と言っているのか?
・神の啓示された教え(教義・教条)を守ることについて
「教えにかなった信頼すべきことばを、しっかりと守っていなければなりません。それは健全な教えをもって励ましたり、反対する人たちを正したりすることができるためです」(テトス1:9)
「あなたは、キリスト・イエスにある信仰と愛をもって、私から聞いた健全なことばを手本にしなさい」(2テモテ1:13)
「もしあなたがたがわたしを愛するなら、あなたがたはわたしの戒めを守るはずです」(ヨハネ14:15)
・聖書を理解できることについて
「しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導き入れます。御霊は自分から語るのではなく、聞くままを話し、また、やがて起ころうとしていることをあなたがたに示すからです」(ヨハネ16:13)
彼らが一般的な文章を解釈して理解できるのであれば、聖書も同じように理解することができます。
しかし、聖書を理解するためには、聖霊なる神の働きが必要不可欠です。彼らが聖書を理解することはできないと主張するのは、彼ら自身が聖書を理解できていないからでしょう。何故なら、彼らには聖霊なる神が内住しておられないからだと、聖書に照らして確認することができます。
問題点⑦説教を否定する
エマージェント・チャーチは、説教そのものに対して疑問を呈し、説教が説教者による会衆の支配に繋がる危険性を持つものとして捉えています。何故なら、説教とは、一人の人物(多くの場合は牧師)が聖書本文の解釈や適用を決定し、それを会衆に伝える形式で行われるものだからです。
しかし、本来の説教の性質は、聖書の教えに根差しています。言い換えれば、聖書の教えから離れた内容は、本来の意味での説教とは認められません。重要なのは、誰が語るのかではなく、何を語っているのかという点です。
だからこそ、正しい教師や説教者は、「自分が語ったから信じなさい」とは教えません。むしろ、語られた内容を聖書のみ言葉と照らし合わせて確認するよう求めます。そして、説教者が語った内容について、そこにいる一人ひとりが聖書を開き、その内容が聖書に一致しているかどうかを吟味する責任があります。
このことを誰よりも理解しておられたのは、ほかならぬ主イエスご自身でした。主は、ご自身がメシアであることを疑う民に対して、旧約聖書に記されていることへ目を向けさせ、み言葉によって自らがメシアであることを明らかにされました。(ヨハネ5:46–47)
神は、長い時代を通して啓示を与えられることによって、聞き手であった人々(パリサイ派を含む)が、メシアが来られた時に聖書によって確認できるようにされたのです。(ヨハネ5:39)
したがって、説教台に立つ者だけではなく、聖書のみ言葉について発信する全ての者は、その内容が聖書と異なる場合、訂正され、あるいは退けられなければなりません。これこそが、宗教改革においてマルティン・ルターが主張した「聖書のみ」の意味であり、聖書こそが最終的な権威、決定者であるという考えです。
しかし、エマージェント・チャーチは、「対話」や「共同体による解釈」を重視するため、唯一の確定的な答えを求めるよりも、異なる意見や多様な解釈を受容していきます。そこでは、例え解釈同士に矛盾や対立が存在していても、それ自体が問題とはされないのです。
その結果、聖書によって検証される真理ではなく、人間の多様な意見や経験そのものが真理の基準となってしまう危険性があると批判されています。
このことによって起こるのは、聖書によって確認される真理ではなく、人の多様な意見そのものが真理とされることです。
・聖書は何と言っているのか?
・聖書によって吟味すること
「ここのユダヤ人は、テサロニケにいる者たちよりも良い人たちで、非常に熱心にみことばを聞き、はたしてそのとおりかどうかと毎日聖書を調べた」(使徒17:11)
「愛する者たち。霊だからといって、みな信じてはいけません。それらの霊が神からのものかどうかを、ためしなさい。なぜなら、にせ預言者がたくさん世に出て来たからです」(1ヨハネ4:1)
・権威は聖書のみ
「聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練のために有益です」(2テモテ3:16)
「神のことばは、すべて純粋。神は拠り頼む者の盾。神のことばにつけ足しをしてはならない。神が、あなたを責めないように、あなたがまやかし者とされないように」(箴言30:5-6)
・説教を否定する
「みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。寛容を尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい」(2テモテ4:2)
「あなたは、これらのことを十分な権威をもって話し、勧め、また、責めなさい。だれにも軽んじられてはいけません」(テトス2:15)
「語る人があれば、神のことばにふさわしく語り、(以下略)」(1ペテロ4:11)
1テモテ1:1-5を読んでも、テモテは教会を牧するためにいることが理解できます。キリスト教における説教とは、教え、叱り、勧めるために行われるものです。
しかし、エマージェント・チャーチのように、説教を否定し、牧師など教会を預かる方々を否定するものたちがいます。彼らは教会に集っている会衆を守る存在を否定することによって、多くの会衆を惑わし、異端や偽りの教えを説く者たちがつけいる隙を生んでいるのです。
問題点⑧新仏教主義者ケン・ウィルバー
DeWaay氏は、ウィルバー氏の思想がエマージェント・チャーチに取り入れられていることを指摘しています。
エマージェント・チャーチを代表する人物の一人であるブライアン・マクラーレン氏の著書「A Generous Orthodoxy(直訳:寛大な正統派)」では、ケン・ウィルバー氏の著作や概念が紹介されており、読者に対して、さらに理解を深めるためにウィルバー氏の著作を読むよう勧めています。
DeWaay氏によれば、ウィルバー氏の思想の源流には、ヘーゲル哲学に見られる統合の概念があります。しかし、それを複雑な用語を用いて説明しているため、理解することは容易ではないと述べています。
一方で、仏教的な世界観に馴染みのある日本人にとっては、ある程度理解しやすい側面もあります。しかし、その概念は非常に抽象的であり、明確に言語化することは容易ではありません。
ウィルバー氏の思想を簡潔にまとめるならば、外的世界(人間社会)がより良い方向へ進化しているのであれば、内的世界(人間の精神)もまた同様に進化している、という考え方です。つまり、人間の内面や精神にも進化の過程があるとする「内的・精神的進化論」を提唱しています。この考え方を宗教的領域に適用すると、「上層」と「下層」という概念として表現されます。
エマージェント・チャーチにおける「上層」とは、神の領域、すなわち主イエスが示された道を指します。この領域は、現在の人間世界である「下層」と完全には重なっていません。しかし、人類が未来へ進むにつれて両者は徐々に近づき、最終的には異なる二つの層が統合されると考えます。
この統合という考え方は、ヘーゲル哲学における弁証法的統合の思想と関連しています。上層に存在する神は再創造の働きを進めており、下層に生きる人間が神の御心を理解し、その働きに参与することによって、神の国の到来を促進するという理解になります。これが、エマージェント・チャーチに見られる希望的な終末論の基盤となっています。
・聖書は何と言っているのか?
「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、わたしの道は、あなたがたの道と異なるからだ。―主の御告げ― 天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い」(イザヤ55:8-9)
「イエスは答えて言われた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません」(ヨハネ3:3)
このエマージェント・チャーチの理解と、伝統的なキリスト教理解との違いは、次のような例えで説明することができます。
伝統的な理解では、唯一の経営者である主なる神が、困窮し、住む場所すら持たない人間を憐れみ、住まいを備え、必要なものを与え、養ってくださります。人間は神の恵みによって救われ、神から与えられた務めに仕える存在です。
一方、エマージェント・チャーチの理解では、唯一の経営者である主なる神の隣に人間のための椅子を置き、人間が共同経営者として神の働きに参加しようとしています。
「創造の業に参与する」という考え方は、上記の例え話のように、共同経営者となることを意味します。しかし、伝統的な神学理解において、創造は神ご自身にのみ属する主権的な御業であり、他者と共有されるものではありません。み使いでさえ創造の業を担う存在ではなかったとされる中で、何故罪ある人間がその業に参与できると考えられるのでしょうか?
問題点⑨神秘主義
長々と説明が続きましたが、ここで最後の問題点について述べます。
DeWaay氏は、エマージェント・チャーチの思想には多くの異なる要素が複雑に絡み合っていると指摘しています。その中の一つとしてあげられるのが、神秘主義です。神秘主義は、歴史的に見ても教会の中で繰り返し現れてきた思想的潮流の一つです。
DeWaay氏は、エマージェント・チャーチが「新しいもの」を強調しているものの、実際には全く新しい思想ではなく、過去に現れては消えていった思想や実践が、現代的な表現や他の思想的要素と結びつき、より巧妙な形で再提示されているに過ぎないと主張しています。
DeWaay氏は、次のように述べています。(引用文の太字はEliによるもの)
「エマージェントは神の言葉の意味を解体し、真理や意味を霊的体験に求めるため、その結果として生まれる「体験に基づく霊性」は、異教徒による神の探求と何ら変わりがない。霊的体験やスピリチュアリティそのものは、歴史が記録され始めて以来、人類にとって重要なものであった。問題は、こうした神秘的な体験の追求が、常に偶像崇拝と滅びへと導き、聖書に啓示された神へと至らない点にある。聖書を通じた神の啓示のみが、神の和解の計画を示している。「天の下で、人の子らが救われるべき名は、この名以外に与えられていない」(使徒行伝 4:12)。エマージェント・ムーブメントは、自由奔放なスピリチュアリティや「経験を通じた意味」を受け入れることで、単に現代的な用語、言葉、実践を用いた昔ながらの異教に過ぎない。私たちは、霊的な経験を通じてではなく、神ご自身の御言葉――神をこの目で見、触れ、肉耳で聞いた人々が書き記した言葉――を通じて、意味と真理を求めるべきである(Ⅰヨハネ4:1)」
この引用の前に、DeWaay氏は、神秘的な体験を追求することが、歴史的に偶像崇拝と結びついてきたことについて警告しています。また、彼はエマージェント・チャーチの一部の指導者たちが、瞑想やヨガ、さらにはカトリック修道院において実践されてきた神秘主義的な黙想を推奨していることをあげ、そこに異教的要素が入り込む危険性を指摘しています。
・聖書は何と言っているのか?
「愛する者たち。霊だからといって、みな信じてはいけません。それらの霊が神からのものかどうかを、ためしなさい。なぜなら、にせ預言者がたくさん世に出て来たからです」(1ヨハネ4:1)
「いや、彼らのささげる物は、神にではなくて悪霊にささげられている、と言っているのです。私は、あなたがたに悪霊と交わる者になってもらいたくありません」(1コリント10:20-21)
「というのは、人々が健全な教えに耳を貸そうとせず、自分につごうの良いことを言ってもらうために、気ままな願いをもって、次々に教師たちを自分たちのために寄せ集め、 真理から耳をそむけ、空想話にそれて行くような時代になるからです」(2テモテ4:3)
・最期に
「真の信仰は体験を追い求めません。どのような体験をするかにかかわらず、神の言葉を信じることで満足するのです」
エマージェント・チャーチの関係者たちは、聖書的な言葉を用いて語ります。中には、本当に聖書がそのように教えていると思わせるものもあり、非常に福音的に感じられることもあります。しかし、DeWaay氏や他の批判者が指摘しているように、それは見せかけに過ぎません。
彼らが組織神学を「人間の教え」として退けるのは、自分たちが聖書全体との整合性を検証することなく、文脈を無視した独自の私的解釈を進めようとしているからです。
また、神学用語を否定しながらもそれらを用いるのは、その用語が本来持っている意味や信頼性を利用し、自分たちの思想を受け入れやすくするためです。つまり、既存の神学用語を借用することで、自らの主張を覆い隠しながら広めようとしているのです。
さらに、彼らが「聖書の教えを誰も確実に知ることはできない」と主張する最大の理由は、彼ら自身が真理を知らないからです。そのため、彼らは説教を否定します。説教によって語られる神の言葉を、権威ある教えとして受け入れることを望まず、会衆が聖書への理解を深めることを望まず、「自らの主張を聖書的な教えとして」受け入れることを望むからです。
DeWaay氏の著作「The Emergent Church: Undefining Christianity」では、モルトマン氏やスタンリー・グランツ氏、マクラーレン氏など、エマージェント・チャーチに関係する人物の著作から引用を取り上げ、具体的に論じています。
洋書ではありますが、是非購入してご自身で読むことを強くお勧めします。
・引用
・ZOE 概要
・ZOE:Launch a ZOE Pod
・wayoflife.org/free_ebooks/downloads/What_is_the_Emerging_Church.pdf by Way of Life Literature
・出典&おすすめ
・The Emergent Church: Undefining Christianity by Bob DeWaay
・What is the Emerging Church? by Way of Life Literature
このPDF資料を配布しているのは、Bethel Baptist Church内にあるFundamental Baptist missionary publishingです。この団体は原理主義の立場を保持しています。
PDF資料は456ページとボリュームがありますが、内容はDeWaay氏と同じことを語っています。
この資料はDeWaay氏以上に神秘主義に関する歴史を取り上げており、神秘主義が行う黙想と、一般的に考えられている黙想の違いについて解説しています。
キリスト教神秘主義における黙想は、マントラ(真言)のように同じフレーズを何度も繰り返すことだと説明しています。つまりキリスト教神秘主義とは、心を整え、意識を高めるための聖なる言葉や音の連なりを用いて、内面へと向かうことによって神を体験することとです。
Fundamental Baptist missionary publishingは、原理主義の立場であるため、今の穏健な福音派に対して批判的なため、この点で引っ掛かりを覚える方もいるかもしれません。
簡潔に要点を取り上げたサイトは以下のものがあります。
・What is the emerging / emergent church movement? | GotQuestions.org
エマージェント・チャーチについての問題点を重点的に取り上げていませんが、問題点の要点について簡潔に提示しています。
・Surrender is not an Option: An Evaluation of Emergent Epistemology
