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『大品般若経』睡魔・雑念 格闘中22 ― 般若波羅蜜の功徳とは ―

注:画像は、国立文化財機構所蔵品統合検索システム   
  (https://colbase.nich.go.jp
  “光背”(所蔵:東京国立博物館)の一部を切り取って利用

現在『大品般若経』を読み進めているのであるが、数品、般若波羅蜜の功徳くどくについて述べられているものが、続くのである。

その為、この記事ではまとめてそれらの品を取り上げて見たい。


■ 般若波羅蜜の有り難い功徳くどく(ご利益りやく)の提示

お経にはそれぞれ、そのお経の功徳を伝える品があるのだが、なかでも『法華経』(『妙法蓮華経』)の「観世音菩薩普門ふもん品」が、もっとも有名なものであろう。(独立したお経として読経される場合もある。)

  仏告無尽意菩薩。善男子。
  若有無量百千万億衆生受諸苦悩。聞是観世音菩薩。
  一心称名。観世音菩薩即時観其音声皆得解脱。
  若有持是観世音菩薩名者。設入大火火不能焼
  由是菩薩威神力故。
  若為大水所漂称其名号即得浅処
  (中略)
  仮使黒風吹其船舫。飄堕羅刹鬼国。
  其中若有乃至一人。称観世音菩薩名者
  是諸人等。皆得解脱羅刹之難

『妙法蓮華経』,『大正新脩大蔵経』,Vol.9,No.262,56Cより抜粋

無尽意という名前の菩薩に、問われたのに対して、釈尊がお答えになる場面なのだが、“観世音菩薩”の名を称える者は、火にも焼かれず、大水に流されても、足が着くような浅い所へ流され、船に乗っていて風に流され、鬼が住むような場所に着いたとしても、“観世音菩薩”の名を称えれば、その難から逃れると告げられたのである。

『妙法蓮華経』「観世音菩薩普門品」では、上記のように、称名(観世音菩薩の名を称える)の功徳が示されているのである。

現在読み進めている、『大品般若経』においても、「三歎さんだん品」、「滅諍めつじょう品」、「宝塔大明品」、「述成じゅつじょう品」「勧持かんじ品」、「遣異けんい品」などに、“般若波羅蜜”の功徳が示されている。

 「〔前略〕是の般若波羅蜜に於いて、若し聴受し持し、親近〔しんごん〕
 し、読誦し、他の為に説き、正憶念〔しょうおくねん〕して薩婆若心
 〔さっぱにゃしん〕を離れずば、〔中略〕横死〔おうし〕せず。〔中
 略〕終に怖畏〔ふい〕せず。」

 『国訳大蔵経』,経部第二巻,国民文庫刊行会,1927,p.278

「三歎品」では、横死(非業の死)せず、怖畏(畏怖のこと)することがないとしている。

「滅諍品」では、争いごとを起こすようなことが静まり、「宝塔大明品」では、戦場においても、命を失わず、刀や弓矢によっても傷つけられないとしている。さらに、「述成品」では、“無量無数不可思議不可称量無辺”という、かなりな福徳が得られるとしているのである。

また、「勧持品」・「遣異品」では、自身の功徳に留まらず、他者(天部の者や、阿修羅、外道〔仏教以外を信じる者〕)まで功徳が及ぶことが示されている。

■ 大明呪だいみょうじゅ・無上呪としての般若波羅蜜

「宝塔大明品」には、般若波羅蜜について、以下のように説明している。

 「〔前略〕是の般若波羅蜜は是れ大明呪、是れ無上呪なればなり。〔中
 略〕過去の諸仏も、是の大明呪を学びて当に阿耨多羅三藐三菩提を得た
 り、当来の諸仏も、是の大明呪を学びて当に阿耨多羅三藐三菩提を得べ
 し、今現在の諸仏も、是の大明呪を学びて阿耨多羅三藐三菩提を得ればな
 り。」
    〔旧字体を新字体に改めた。〕

『国訳大蔵経』,経部第二巻,国民文庫刊行会,1927,p.291

ここでは、般若波羅蜜が大明呪であり、無上呪であり、過去、未来、現在の仏も、般若波羅蜜を学ぶことで、阿耨多羅三藐三菩提あのくたらさんみゃくさんぼだい(正しく完全なる覚り)を得るとしている。

ホラー映画の題名で使われる、“呪”の文字であるが、仏教の意味合いでは大きく違っている。松原泰道先生は、ご著書のなかで、“呪”の文字について以下のように解説されている。

 「この『呪』には、二つの原語があります。一つはマハー・マントラで、
 『悪法をさえぎり、善をまもる秘密の言句』で、呪〔しゅ〕あるいは
 言
と訳されます。この『秘密の言句』が、『不思議な霊力』として<まじ
 ない・のろい>の様相を帯びるようになったのでしょう。
  いま一つは、ダーラニーで、音訳して『陀羅尼〔だらに〕』と書かれま
 す。〔中略〕ダーラニーの意味は<能持・保持・総持>で、『持ち続け
 ている。保有している』ということです。」

松葉泰道,『般若心経入門 -276文字が語る人生の知恵』,祥伝社〔祥伝社新書〕,2022,p.258

松原泰道先生のここでの“呪”の意味を援用すると、般若波羅蜜=悪法をさえぎり、善を守る秘密の言句ということになるであろう。

■ 仏の智慧の源泉としての般若波羅蜜

「「遣異けんい品」」の最後で、釈尊は、釈提桓因しゃくだいかんにん(帝釈天のこと)に、告げるのであった。

 「諸仏の一切智は即ち是れ般若波羅蜜、般若波羅蜜は即ち是れ一切智な
 り。何を以ての故に、憍尸迦〔きょうしか:帝釈天のこと〕、諸仏の一切
 智は皆般若波羅蜜中より生じ、般若波羅蜜は一切智に異ならず
、一切智は
 般若波羅蜜に異ならず、般若波羅蜜と一切智とは二ならず別ならざればな
 り。」

  〔旧字体を新字体に改めた。〕

『国訳大蔵経』,経部第二巻,国民文庫刊行会,1927,p.310

ここで、釈尊自身が一切智〔すべてを知る仏の智慧〕は、般若波羅蜜であると告げているのである。このことからすると、般若波羅蜜を学ぶということは仏の智慧を学ぶことに異ならないことになるのである。

ここまでの、数品で功徳について述べられて来たのであったが、仏教を志すものにとって、この最後の部分が何よりの功徳になるのではなかろうか。