【感想】Tokyo Melody Ryuichi Sakamotoを観て
1.前提知識ゼロで見たTokyo Melody
今日は坂本龍一のドキュメンタリー映画「Tokyo Melody Ryucihi Sakamoto」を鑑賞したので、その感想を書き連ねたい。
私自身坂本龍一の音楽をほとんど聴いたことがなく、前提知識ゼロで挑んだが、想定したよりもかなり強いインパクトを受けた。
彼の音楽が素晴らしいのはもちろんだが、この映画、1本の映画として、非常に完成度が高いのではないだろうか。
2.背景だったはずの音が、前に出てくる
ドキュメンタリー映画という位置付けではあるが、一般的な伝記的構成とは少し違い、どちらかというと実験映画に近いと感じる。
映画中、いたる箇所でレンタルビデオ店やパチンコ店で流れるBGM、ゲームセンターのBGM、祭りのお囃子といった、日常的な匿名性の高いバックグラウンド音楽が切り取られ、組み合わされ、あるいは反復されている。
興味深いことに、本映画の中では、これらのバックグラウンド音楽が前面に押し出されている。私たちは半ば強制的に、これらのバックグラウンド音楽を意識的にかつ集中的に聴き入ることになる。
これらの音は、普段であれば意識されることなく日常に溶け込んでいる音であり、そうした音の連なりの中に、坂本龍一本人の語りが重ねられ、映画は静かに進んでいく。
3.名曲が「名曲」でなくなる瞬間
印象的だったのは、「戦場のメリークリスマス」の間奏部分が繰り返し流れていたことだ。この楽曲は坂本龍一の代表作として知られており、強い情緒性を持つ曲だが、映画の中では感動を盛り上げるためのクライマックスとしてではなく、映画のいたるところに、断片的に、そして反復的に配置されていた。そうすることで、この楽曲は「名曲」としての意味から一度切り離され、他のバックグラウンド音楽と同じような存在として扱われている。
4.音に身を委ねる時間感覚
こうした音の使い方によって、映画を見ている私たちの時間感覚は大きく変化する。
物語を前に進めるための音楽が排されることで、観客は出来事を追うというよりも、音と映像が生み出す持続や反復の中に身を置くことになる。時間は直線的に進むばかりでなく、滞留したり、循環したり、ときに過去と現在が重なり合うようだった。
本映画における音楽は、感情を説明するための映画音楽というよりも、私たちの時間感覚を編集するための装置として機能しているように感じた。
5.意味を主張しない音楽について
それを象徴しているのが、彼自身によるピアノの演奏である。
映画内では彼がピアノを演奏するシーンが頻繁に流れる。
彼自身によるピアノの演奏は、意図していないにせよ、一般に想像される情緒的なものとは異なり、どこか機械的で、感情が排除されているように感じられた。音の強弱は抑えられ、均質な音の断片を、ただ同時にあるいは連続的に鳴らしているだけのようである。
この彼の演奏は、本映画の中での「音楽」のバックグラウンド性を強めていた。
意味を強く主張するのではなく、日常に遍在するバックグラウンド音楽のように、どこを切り取っても成立する音。
坂本自身がそのような音楽を目指したのかどうかは不明だが、少なくともあの映画からは、彼の音楽にそのような慎ましさを感じ取らずにはいられなかった。
