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【コラム】止められない市場をどう統治するか:①金融危機はなぜ防げないのか

要旨:
ティモシー・ガイトナーの回顧録を読み解くと、金融危機時の監督機関の役割は、平時にイメージするような「事前の統制」や「危険の未然防止」ではなく、システム全体の崩壊を防ぐ「壊れ方の管理」にあることがわかる。金融機関と監督機関の間には、速度・情報・創造性の深い非対称性があり、監督側は常に後手に回らざるを得ない。本稿ではこの現実認識を基に、モラルハザード論の限界を指摘し、「何が起きても自分で処理できるようにしておく」というストレステスト的な責任の置き方が、現実的な方向性であることを論じる。


ティモシー・ガイトナーの『ガイトナー回顧録』を読むと、金融危機における監督機関の仕事が、平時に私たちが思い描く「規制」や「監督」とはかなり異なることが分かる。監督機関といえば、ルールを定め、危険を事前に防ぐ存在を想像しがちである。しかし本書に描かれるのは、そのような整然とした世界ではない。何が起きているのかを完全には把握できず、しかも一手遅れにならざるを得ない中で、システム全体の崩壊だけは防ごうとする、きわめて不自由な意思決定の連続である。

本書は、2008年前後の金融危機を政策当局者の立場から描いた回顧録であり、リーマン破綻やAIG救済、公的資金注入、ストレステストなどの判断の舞台裏を伝えている。だが、その価値は個別のエピソード以上に、危機時の監督とは何か、その限界はどこにあるのかを示している点にある。危機のたびに「なぜ防げなかったのか」「なぜもっと厳しく規制しなかったのか」「なぜ救済したのか」という批判が噴き出す。しかし本書を読むと、そもそも金融市場というものが、事前にきれいに統制できる対象なのか、という問いそのものが立ち上がってくる。

本稿ではまず、『ガイトナー回顧録』が描く監督機関の役割を整理したうえで、金融機関と監督機関のあいだにある非対称性を確認したい。そのうえで、危機対応をめぐる定番の争点であるモラルハザード論を取り上げ、一般的な制度設計論だけでは金融機関のリスク行動を十分に抑止できないことを論じる。最終的には、だからこそ、事前にすべてを縛るのではなく、「何が起きても自分たちで処理できるようにしておけ」という方向で責任を課す、ストレステスト的な発想の方が現実的である、という立場を示したい。


1 『ガイトナー回顧録』が描くもの――危機時の監督とは何か

危機時に監督機関に求められる役割は、平時とは大きく異なる。平時の監督は、規制や審査を通じてリスクの蓄積を抑え、個別金融機関の健全性を確保することにある。だが危機時には、個別の規律を教科書通りに適用する余裕はない。ある金融機関への厳格な責任追及が、市場全体の信用不安や連鎖破綻を引き起こしかねないからである。

そこで監督の仕事は、逸脱の摘発というより延焼の防止へと変わる。ある金融機関の問題が市場全体のパニックに広がることを、どこまで食い止められるかが最大の焦点になる。ガイトナーが描く政策当局者は、市場を自由に操る存在ではない。むしろ、完全な情報も十分な時間もなく、法的・政治的制約を抱えたまま、最悪だけは回避しようとする災害対応機関に近い。

この意味で、本書の核心は、金融危機時の監督とは「理想的な市場規律を貫くこと」ではなく、「壊れ方を誤らせないこと」だという冷たい現実認識にある。


2 金融機関と監督機関の非対称性

この現実認識の背景には、金融機関と監督機関のあいだの深い非対称性がある。

金融市場のプレイヤーである金融機関は、個別に、分散的に、しかも非常に速く動くことができる。新しい商品を設計し、既存規制を迂回し、他社と異なるエクスポージャーを取ることで利益を狙う。彼らは市場の内部からルールの意味そのものを変えていく存在である。

これに対して監督機関は、常に後追いの立場にある。何が起きているのかを定義し、それが既存ルールのどこに当てはまるのかを判断しなければならない。しかし監督側は、市場の全体像を常に把握できるわけではない。各金融機関のポジション、契約の相互連関、新商品の実質的リスクが危機時にどう顕在化するかを、事前に完全に見通すことはほぼ不可能である。

ここには速度の非対称性、情報の非対称性、創造性の非対称性がある。プレイヤーは自ら商品を作り、収益機会を求めて逸脱できるが、監督側はそれを後から解釈し、必要があれば対処するしかない。この構図の下で、監督機関に「すべてを未然に防げ」と求めるのは無理がある。

しかも金融市場のリスクは、単純なルール違反の形では現れない。平時には高収益の機会に見えていたものが、危機時には突然、システム全体の脆弱性の源泉になることがある。監督機関は、まだ危険として確定していないものを、危険かもしれないものとして扱わなければならない。ガイトナーの問題意識の根底には、この「監督する側の不利」がある。


3 モラルハザードか、システム安定か

もっとも、この非対称性を認めたとしても、危機時の救済措置が簡単に正当化されるわけではない。そこでは必ず、モラルハザードの批判が現れる。

論点は単純化すれば二つである。

  • ひとつは、何があっても救済しないという態度を明確に示すことで、市場に規律を与えるべきだという立場である。金融機関が最終的には助けてもらえると期待するからこそ、平時に無謀なリスクを取るのだ、という考え方だ。ここではモラルハザードの抑止が優先される。

  • もうひとつは、他の金融機関や市場全体への飛び火を防ぐために、危機時には不本意でも救済を行うべきだという立場である。ここでは個別の責任よりも、システム全体の安定が優先される。

この対立は単なる価値観の違いではない。前者が見ているのは長期的なインセンティブ設計であり、後者が見ているのは短期的な崩壊回避である。モラルハザード論は「将来の無謀な行動をどう抑えるか」を重視し、システム安定論は「今この瞬間の連鎖崩壊をどう止めるか」を重視する。

ガイトナーの立場は明らかに後者に傾いている。危機時に規律を優先しすぎれば、規律どころか市場全体の崩壊を招きかねないからである。あるプレイヤーの破綻がどこまで波及するのか、危機時には誰にも完全には分からない。そうした状況で「原則だから救わない」と言い切ることは、美しいようでいて危険な賭けになりうる。

とはいえ、ここでモラルハザード論が消えるわけではない。問題は、システム安定を優先せざるを得ないとすれば、長期的な規律をどのように担保するのか、という点に移る。


4 一般的なモラルハザード論・制度設計論はなぜ不十分なのか

一般的なモラルハザード論は、金融市場の文脈では十分ではないと思われる。なぜなら、「救済しない」と言うだけでは、金融機関の行動を本当の意味で抑止できないからである。

たとえば、ある金融会社が業績不振に陥り、先行きも暗いとする。この企業が安全運転を続けても、結局は破綻するかもしれない。そうであれば、ギャンブル的に大きく賭ける方が合理的になる。当たれば一発逆転できるし、失敗してもどうせ会社を解散するだけだからである。しかも金融市場では、そのリスクを債権者や契約者、市場全体に転嫁できることがある。

このとき、「何があっても救済しない」というスタンスは、必ずしも抑止にならない。むしろ、どうせ助からないなら最後に大きく張るという行動を誘発しかねない。問題は、平時の利益と危機時の損失とがきれいに対応していないことにある。成功時の利益は個別に享受され、失敗時の損失は分散・外部化される。この構造のもとでは、非救済だけで規律を作るのは難しい。

では、制度設計を厳しくすればよいのか。
ここにも限界がある。ハードな規制を作れば、それを迂回する商品や取引が現れる。逆に柔軟な原則ベースで縛ろうとすれば、何が違反なのか、どこからが過大リスクなのかを事後的に立証しにくくなる。厳格にすれば潜脱され、柔軟にすれば執行が曖昧になる。この板挟みは金融規制の宿命である。

しかも監督機関は、どの商品が本当に危険なのかを事前に断定できない。平時には高収益商品として歓迎されていたものが、危機時にはシステムの脆弱性の源泉になることもある。つまり、「危険な行為を事前に定義して禁止する」という発想そのものが、金融市場の現実にうまく適合しないのである。

ここから見えてくるのは、金融監督とは「何をしてはいけないか」を網羅的に列挙する作業ではないということだ。市場の創造性と監督の後追い性の差が埋まらない以上、行為規制だけで市場を飼い慣らすことには限界がある。


5 だからこそのストレステスト

以上を踏まえると、やはりガイトナーの発想を支持したい。

金融市場において何が起きるのかは分からないし、それを制度で事前に縛ることは現実的に困難である。そうであるならば、金融機関に取らせるべき責任は、「危険なことをするな」ではなく、「何があっても自分たちで処理できるようにしておけ」という形であるべきではないか。リスクに応じて資本を積み上げておくストレステスト的な発想は、その意味で理に適っている。

ここで重要なのは、ストレステストを未来を正確に予測する装置として理解しないことだ。もちろんリスク評価は万能ではない。既存モデルが想定していなかった形で危機が来ることもある。したがって、十分に資本を積ませても、なお不足することはありうる。それでもこの発想には意味がある。なぜなら、それは各金融機関に対して、「自分たちはどのようなリスクを想定しているのか」「それに耐えるにはどれだけの余力が必要なのか」を事前に示させるからである。

ストレステストとは、単なる診断ではなく、金融機関に自己認識を申告させ、その自己認識に見合う防波堤を持たせる仕組みである。監督側が市場のすべてを見通せない以上、完全な答えは出せない。それでも、各金融機関に「何を想定していたのか」「なぜそれで足りると思ったのか」を言わせることはできる。そして、実際に不足が生じたなら、そのときには「何が足りなかったのか」を説明する責任が生じる。

この点で、ストレステスト的発想は一般的な制度設計論より建設的である。ルールのいたちごっこを続けるよりも、不足が生じたときに「では何が足りなかったのか」を問い、その不足分を積み増していく方が、監督と市場の関係を前向きに組み替えやすい。危機をなくすことはできなくても、責任の所在を、曖昧な理念ではなく、具体的な自己評価と資本の厚みに結びつけることはできる。

さらに重要なのは、この発想が救済判断にも一定の筋道を与えることである。どこかの金融機関がスタンドプレーで無謀な行為に走り、事前の想定に照らしても明らかに過大なリスクを取っていたのであれば、その積立不足は単なる不運ではない。その場合には、「救済に値しない」と判断する理由もより明確になるだろう。逆に、一定の想定と備えを行っていたにもかかわらず、それを超えるショックが生じたのであれば、そこではシステム安定の観点から救済を検討する余地が大きい。

つまり、救済するか否かを、単なる規模や政治的影響力ではなく、事前にどれだけ自己防衛義務を果たしていたかという基準に引き寄せられるのである。


6 結論

市場の創造性を止めることはできない。だが、その創造性が失敗したときの責任を、資本と説明責任の形で事前・事後に引き受けさせることはできる。金融監督とは、理想的な行動規範を押しつけることではなく、壊れたときに誰がどれだけ持ちこたえ、なぜ持ちこたえられなかったのかを問うことに近いのではないか。

金融危機は、おそらくこれからも完全には防げない。だが、防げないからといって何もできないわけでもない。防げないことを前提に、どのように壊れ方を管理するか。その問いに対して、ガイトナーの発想は、いまなおかなり有力な答えを与えているように思える。

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