【読後雑記】ダークウェブ・アンダーグラウンド:②多元社会はいかに成立するのか

要旨: 前編で確認したダークウェブ的な構造(暗号が育む思想の自由な生成・増幅)は、現実の多元社会(プルラリティ)と本質的に連続している。両者の分岐点は、コミュニティ間の対立に対する「調整可能性」への楽観と悲観の差にある。調整のための制度は不可欠だが、新たな対立を生む循環構造が露呈し、多元社会の持続可能性が問われる。
4. プルラリティとダークウェブはどこで分岐するのか
前編では、暗号という技術が「思想を生み出す」のではなく、「思想が育つ条件」を成立させるものであること、そしてその条件のもとで、新反動主義のような既存の政治的枠組みを無効化する思想が現れることを確認した。
では、このような構造が現実の社会において展開されるとき、それはどのような形をとるのか。
ここで参照されるべき概念が、いわゆるプルラリティ、すなわち多元的な価値観を持つコミュニティが併存する社会である。プルラリティは一般に、個人の生きづらさを軽減し、多様な価値観を尊重する社会として肯定的に語られる。異なる文化や思想を持つ人々が共存し、互いに干渉しすぎることなく、それぞれの在り方を認め合う。そこでは単一の正解は存在せず、多様性そのものが価値として肯定される。
しかし、ここで一度立ち止まる必要がある。
こうした多元社会の構造は、前編で見たダークウェブ的な社会と、本質的にどの程度異なるのだろうか。
両者はいずれも、統一的な価値や権威に依拠しない社会である。そこでは複数のコミュニティが並び立ち、それぞれが独自の価値観や規範に基づいて存在している。個人はその中で振る舞い、コミュニティは相互に並存する。少なくともこの構造においては、プルラリティとダークウェブ的社会の間に明確な差異は見出しにくい。
違いがあるとすれば、それは構造そのものではなく、その構造に対する前提にある。
プルラリティは、コミュニティ間の価値観の違いが何らかの形で折衝され、調整されうることを前提としている。対立は存在するが、それは最終的には共存可能な形に収束するという、ある種の楽観がそこには含まれている。
これに対して、ダークウェブ的な構造はそのような前提を置かない。コミュニティは互いに分断され、場合によっては敵対し、その内部で価値観は純化され、先鋭化していく。対立は調整されるのではなく、むしろ増幅される方向に働く。
したがって両者の違いは、構造の差ではない。むしろ、同一の構造に対する異なる前提、すなわち「調整可能性」に対する楽観と悲観の差にあると言えないだろうか。


5. 調整はどこから来るのか
ここで問題は現実的なものとなる。
プルラリティが成立するためには、コミュニティ間の対立が何らかの形で調整されなければならない。しかし、その調整はどのようにして可能となるのか。
単純な価値観の違いであれば、相互不干渉や住み分けによって解決することもできるだろう。しかし現実の対立の多くは、単なる好みの問題ではなく、資源配分を伴う。教育、福祉、インフラ、公共空間の設計といった問題においては、どの価値観に基づいて資源を配分するのかという選択が不可避となる。
このとき、コミュニティ同士が自発的に調整を行うことは極めて困難である。当事者はすべて利害関係者であり、中立的な立場は存在しない。むしろ、譲歩するよりも対立を維持した方が合理的である場合すらある。コミュニティの数が増え、利害が複雑化するほど、この調整は困難になる。

したがって、調整を可能にするためには、何らかの制度的な枠組みが必要となる。国家、法、裁判、あるいは多数決といった仕組みは、その典型である。しかしここで新たな問題が生じる。これらの制度自体が、特定の価値観や前提に基づいて設計されている以上、それは別のコミュニティにとっては外部からの強制として現れる。
つまり、調整のための制度は不可欠であるが、その制度自体が新たな対立を生む。ここに循環が生じる。
この点において、プルラリティの議論はしばしば消化不良を起こす。多様性の尊重や共存の可能性は強調されるが、それを具体的にどのような制度によって担保するのか、その設計が明確に提示されることは少ない。
このように考えると、プルラリティは規範的なモデルとしては魅力的であるが、その成立条件は決して自明ではない。それは自然に実現するものではなく、極めて繊細なバランスの上に成り立つ構造である。
結び:多元社会はどちらに向かうのか
以上を踏まえると、プルラリティとダークウェブ的社会の関係は、対立的なものというよりも、むしろ連続的なものとして理解されるべきである。
両者は同一の構造を共有している。複数のコミュニティが並び立ち、統一的な価値が存在しない社会である。その分岐は、コミュニティ間の調整機能がどの程度成立するかに依存している。
しかし、その調整は容易ではない。資源配分を伴う対立において、自発的な合意形成は困難であり、制度的な介入は新たな対立を生む。この条件のもとでは、対立が先鋭化し、分断が固定化される方向に社会が傾くことは、むしろ自然な帰結であるようにも思われる(例:SNS上のエコーチェンバーやカルチャー戦争など)。
この意味で、プルラリティはあるべき姿として提示される一方で、現実の社会は徐々にダークウェブ的な構造に近づいているのではないか、という疑念が生じる。
もちろん、この結論は断定的なものではない。しかし少なくとも、「多元社会は本質的に不安定であり、その帰結は制度設計と調整機能に強く依存する」という点は否定しがたいのではないだろうか。
そして最後に残るのは、次の問いである。
多元社会は本当に持続可能なのか、それとも不可避的に分断へと向かうのか。
この問いに対する明確な答えはまだ存在しない。しかし、その不確実性こそが、現代社会そのものを示しているのかもしれない。
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