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【読後雑記】世界共和国へ(柄谷行人) ― 関係に入れる権利

要旨:
柄谷行人『世界共和国へ』は、資本・ネーション・国家の三位一体を批判し、それを超える理念として「世界共和国」を提示する著作である。本稿では、柄谷の交換様式論を概説したうえで、資本主義を単なる商品交換ではなく「貨幣を媒介した互酬関係」として読み替える。そのうえで、貨幣が関係をどのように変容させるのかを考察し、最終的に資本とは「関係に入るための権利」として機能しているのではないか、という視点を提示する。


はじめに:世界共和国とは何か

柄谷行人の『世界共和国へ』は、現代社会を理解するための大きな見取り図を与える著作である。本書の中心にあるのは、現代世界が単なる資本主義社会ではなく、資本・ネーション・国家の三位一体によって成り立っている、という認識である。

市場は自由な交換を可能にするが、同時に格差や不安定性を生む。国家はそれを調整し、安全や秩序を提供する。ネーションは、人々に共同性や帰属意識を与える。三者は対立しているようでありながら、実際には互いを補完し合っている。

柄谷は、この構造を超える理念として「世界共和国」を提示する。ただし、それは単純な世界政府ではなく、資本・ネーション・国家という三位一体を相対化し、それとは異なる結合原理を構想するための理念だと言える。


1.柄谷の交換様式論

柄谷は社会を、生産様式ではなく「交換様式」から捉える。大まかに言えば、交換様式には以下の四つがある。

  • 交換様式A:互酬

  • 交換様式B:支配と再分配

  • 交換様式C:商品交換

  • 交換様式D:Aを高次元で回復するもの

交換様式Aは、贈与と返礼を中心とする共同体的関係である。そこでは、交換は単なる物のやり取りではなく、贈ること、返すこと、返さなければならないことによって、人々の関係が維持される。

交換様式Bは、国家的な支配と再分配である。交換様式Cは、貨幣を媒介とする商品交換である。そして交換様式Dは、原始的互酬への単純な回帰ではなく、国家や資本主義を通過した後に、互酬性を高次の形で回復するものとして構想される。

世界共和国とは、この交換様式Dの理念に関わるものである。


2.資本主義をどう捉えるか

ここで問題となるのは、柄谷が批判する資本主義を、どのように理解するかだろう。

典型的な商品交換を考えるなら、たとえばコンビニで買い物をするような場面が想定される。商品を取り、代金を支払う。店員が誰であるか、客が誰であるかは基本的に問題にならない。支払いが完了すれば、関係も完了する。

この意味では、商品交換は即時的であり、匿名的であり、清算的である。

しかし、現実の資本主義社会をそのような場面だけで捉えるのは、やや単純化しすぎではないだろうか。企業間取引は一回限りで終わるものではない。継続的な信用、実績、評判、ブランド、契約関係が重要になる。個人の生活においても、市場を媒介しない社会的行為は依然として存在している。

つまり、現代の資本主義社会においても、互酬的な要素は消滅していない。

そうであれば、単純に「資本主義=即時的な商品交換」「互酬=長期的な関係」と分けるだけでは不十分である。むしろ問うべきなのは、こうではないか。

資本主義とは、貨幣を媒介物とした互酬関係なのではないか。
だとすれば、「貨幣を媒介すること」は、関係をどのように変容させるのか。

ここに、本稿の読み替えの出発点がある。


3.貨幣を媒介することは何を変えるのか

互酬関係とは、単に物を贈り合う関係ではない。そこでは、物を媒介として、信用、義務、承認、期待が交換されている。

誰かを助ける。贈り物をする。協力する。世話をする。情報を共有する。これらは完全な無償ではない。少なくとも、その行為は関係の中に記憶される。すぐに返礼される必要はない。むしろ、即座に清算されないことによって、関係は維持される。互酬とは、関係の中に負債や期待を残す仕組みである。

資本主義もまた、広い意味では関係を前提としている。企業も個人も、信用や評判を失えば関係から排除される。

ただし、決定的な違いがある。

互酬関係においては、信用は「私とあなたのあいだ」にある。過去に何をしてくれたか、どのように振る舞ってきたか、その履歴が信用を支える。しかし資本主義においては、信用はしばしば「その人がどれだけ資本を持っているか」に置き換えられる。資産がある。支払い能力がある。信用スコアが高い。担保がある。市場価値がある。

このとき、信用は関係のあいだから、主体の側へと移される。
言い換えれば、資本は「関係がなくても関係に入ることを可能にするもの」として機能する。


4.価値は関係から資本へ移し替えられる

ここで、マルクス的な視点が重要になる。
マルクスにおいて、資本主義の核心には剰余価値の問題がある。労働者が生み出した価値のうち、賃金を超える部分が剰余価値として資本家に取得され、それが資本として蓄積されていく。

ただし重要なのは、単に「搾取がある」という点だけではない。
より深い問題は、本来は社会的関係の中で生じた価値が、資本そのものの力として現れることである。労働者、消費者、取引先、社会的インフラ、制度、信頼、慣習、教育、文化。資本の増殖は、これら無数の社会的関係に支えられている。しかし資本主義においては、その価値が資本そのものの能力であるかのように見える。

資本が価値を生む。
資本が成長する。
資本が機会を生み出す。
資本が信用を生む。

このとき、関係としての価値は、資本という対象へと移し替えられる。
したがって、資本主義の問題は、利益を追求すること自体にあるのではない。互酬関係においても、人は承認、安全、所属、返礼、名誉といった広い意味での利益を求めて行為する。

問題は、関係の中で生じた価値が、資本として抽象化され、蓄積され、主体の所有物のように扱われることにある。


5.自他関係から自自関係へ

互酬関係において重要なのは、自分と他者との関係である。
私は誰とどのような関係を結んでいるのか。誰に何を負っているのか。誰から何を期待されているのか。誰とどのような履歴を共有しているのか。

そこでは、信用は自他のあいだにある。

一方、資本主義においては、関係を維持するためにも、まず自分自身が資本を持っていることが重要になる。資産、収入、学歴、職歴、信用情報、市場価値、実績。これらはすべて、関係に入るための条件として機能する。

もちろん、資本主義社会においても長期的な信頼関係は重要である。しかし、その長期的関係すら、しばしば資本の一形態として扱われる。評判はレピュテーション資本になるし、人脈は社会関係資本になる。知識は人的資本になるし、信頼は信用力になる。経験は市場価値になる。

つまり、関係そのものが、資本として蓄積・運用されるものへと変換されていく。互酬関係においては、関係を維持するために行為する。資本主義においては、関係を維持するためにも、まず資本を蓄積しなければならない。

ここで、自他関係は自自関係へと移行する。
他者との関係をどう築くかではなく、自分がどれだけ資本を持つか。自分がどれだけ価値ある主体として見られるか。自分がどれだけ交換可能性を保持しているか。資本主義は、他者との関係を不要にするのではない。むしろ、他者との関係を結ぶために、自分自身を資本化することを要求する。


6.時間的奥行きの変容

単純に「資本主義には時間的奥行きがない」と言うのも不正確であろう。現実の資本主義には、長期的投資、信用形成、ブランド構築、顧客関係、企業間関係など、時間的奥行きは明らかに存在する。しかし、資本主義において時間の意味は変容する。

互酬関係における時間は、関係の持続として現れる。過去の履歴、現在の関係、未来の返礼期待が、緩やかにつながっている。

一方、資本主義における時間は、資本蓄積の時間として再編される。将来の関係を保証するために、現在の資本を蓄積する。将来の不安に備えるために、資産を持つ。将来の信用のために、実績を積む。将来の選択肢のために、市場価値を高める。

このとき、長期的な関係形成ですら、資本蓄積の一部として位置づけられる。
つまり、資本主義に時間的奥行きがないのではない。時間的奥行きが、関係の持続から、資本の増殖・防衛・蓄積へと組み替えられるのである。


7.資本とは「関係に入るための権利」である

ここまでを踏まえると、資本は単なる富ではない。
資本とは、関係に入るための権利である。

資本があるから、住む場所を選べる。
資本があるから、教育を受けられる。
資本があるから、信用される。
資本があるから、事業を始められる。
資本があるから、交渉の場に立てる。
資本があるから、失敗してもやり直せる。

もちろん、資本だけですべての関係が成立するわけではない。資本があっても、人間的な信頼を失えば関係は壊れる。しかし資本は、少なくとも関係の入口に立つための強力な条件になる。

ここで問題が生じる。
資本が「関係に入るための権利」であるならば、資本を持たない者は、関係に入る前に排除される。

能力を示す前に排除される。
信頼を築く前に排除される。
努力する前に排除される。
関係を作る前に排除される。

これは、単なる貧困の問題ではなく、関係以前の排除である。


8.排除はどこで起きるべきか

ここで重要なのは、排除そのものを完全には否定できない、ということだろう。
どのような社会であっても、関係には維持条件がある。互酬関係であっても、誰もが無条件に受け入れられるわけではない。信頼を裏切る者は排除されるかもしれない。協力しない者、暴力的な者、責任を果たさない者は、関係を維持できないかもしれない。

したがって、問題は排除があることそれ自体ではない。問題は、排除がどこで起きるかである。

資本主義においては、排除はしばしば入口で起きる。資本がない者は、関係に入る前に退けられる。信用を築く機会さえ与えられない。これに対して、より望ましい社会を考えるなら、少なくとも関係に入ることは誰にでも開かれるべきではないか。そのうえで、関係を維持できるかどうかが問われる。つまり、

関係に入る権利は普遍的に保証されるべきであり、
関係を維持する権利は、関係の内部で問われるべきである。

このように考えることができる。


9.互酬関係の限界

ただし、互酬を安易に理想化することもできない。
互酬関係にも排除はある。むしろ、互酬関係の排除は見えにくい。身内びいき、同質性、暗黙の規範、空気、共同体への適応能力。そうしたものが、関係に入るための別のハードルになる。

資本主義的排除は、冷酷ではあるが、可視的である。資産、信用、収入、実績、資格といった形で、条件がある程度明示される。一方、互酬的排除は、しばしば曖昧である。なぜ受け入れられないのかが明示されない。努力の方向も分からない。

したがって、資本主義から互酬へ戻ればすべてが解決する、とは言えない。必要なのは、閉じた互酬ではなく、開かれた互酬である。関係への入口はできるだけ開かれており、関係の維持は内部で問われる。しかし、その評価は固定化されず、やり直し可能でなければならない。

排除を完全になくすことはできない。
しかし、排除が事前に固定されることは避けなければならない。


10.世界共和国をどう読み替えるか

柄谷の世界共和国は、資本・ネーション・国家の三位一体を超える理念である。本稿の読み替えにおいては、世界共和国とは次のように理解できるだろう。

世界共和国とは、資本を持たない者であっても、関係に入ることができる世界である。

それは、すべての人が無条件に承認され続ける世界ではない。

関係に入った後には、当然、振る舞いが問われる。信頼を築けるか、責任を果たせるか、他者と協力できるか、関係を維持できるかが問われる。しかし、少なくともその問いは、関係に入った後に問われるべきである。

資本を持たないから入口に立てない。
信用履歴がないから排除される。
実績がないから機会を得られない。
失敗したから二度と戻れない。

そのような社会では、関係そのものが資本によって事前に配分されてしまう。世界共和国とは、その事前配分を解除する理念として読み替えることができる。


結論:関係に入る権利としての世界共和国

資本主義は、単に貨幣によって商品を交換する仕組みではない。それは、社会的関係から生じた価値を資本として抽象化し、その資本を通じて再び関係への入口を配分する仕組みである。

資本を持つ者は、より多くの関係に入ることができる。
資本を持つ者は、失敗してもやり直すことができる。
資本を持つ者は、信用を買うことができる。
資本を持つ者は、さらに資本を蓄積し、関係への権利を強化していく。

一方、資本を持たない者は、関係に入る前に排除される。
ここに、資本主義の根本的な問題がある。

互酬関係は、この問題を解決する可能性を持っている。なぜなら、互酬においては、価値は資本ではなく関係の中にあるからである。しかし、互酬をそのまま理想化することはできない。互酬にも排除はある。閉鎖性もある。同質性の強制もある。

したがって、必要なのは、資本なき単純な共同体回帰ではない。必要なのは、開かれた互酬である。すなわち、関係への入口は誰にでも開かれ、関係の維持はその内部で問われ、評価は固定されず、やり直し可能であるような社会である。

この意味で、世界共和国とは、単なる国家制度の構想ではない。それは、資本を持つ者だけが関係に入れる世界を超えて、すべての人がまず関係に入ることを保証される世界の理念である。

資本とは、関係に入るための権利である。
世界共和国とは、その権利を資本から切り離すための理念なのだろう。

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