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【読後雑記】世界は負債で回っている(リチャード・ヴェイグ) ― 負債のその外側

要旨:
リチャード・ヴェイグ『世界は負債で回っている』は、「現代経済は負債によって動いている」という視点から、信用創造・銀行システム・経済成長の構造を整理した著作である。本書はしばしば、デヴィッド・グレーバーの『負債論』を現代金融の側から実証する試みとして紹介される。しかし、本書で中心的に論じられているのは、グレーバー的な意味での「関係としての負債」ではなく、「信用創造によって成長する金融システム」の説明であるように思われる。

その意味で、本書の核心はむしろ終盤で突如として提示される「永久通貨」という概念にある。そこでは、負債を起点とする経済成長から離脱し、返済義務を前提としない通貨への移行可能性が示唆される。しかし、その制度設計や成立条件についてはほとんど説明されない。本稿では、この「永久通貨」という概念を手掛かりに、本書が本当にグレーバーを補強しているのか、それとも逆に彼の議論を迂回しているのかを検討したい。


1.本書は何を論じているのか

リチャード・ヴェイグ『世界は負債で回っている』の主張は、タイトルそのものが示している通り明快である。現代経済は「貨幣」によって動いているのではなく、「負債」によって動いている、というのが本書の基本的立場である。

ここで言う負債とは、単なる借金を意味しない。銀行融資、国債、企業債務、住宅ローンなどを含む、信用創造全体の構造を指している。本書ではまず、現代金融において銀行がどのように貨幣を創造しているのかが説明される。一般的には、銀行は預金者から預かった資金を貸し出していると理解されがちである。しかし実際には、銀行は貸出を行うことによって預金そのものを創造している。すなわち、信用創造とは「既に存在する貨幣の移動」ではなく、「新たな貨幣の発生」なのである。

この構造のもとでは、誰かの負債は別の誰かの資産となる。企業が銀行から借り入れを行えば、その負債は銀行にとって資産となる。政府が国債を発行すれば、それは投資家にとって資産となる。つまり、現代経済における資産形成は、負債の拡大と不可分なのである。

本書が強調するのは、経済成長それ自体が、この信用拡張によって駆動されているという点である。企業は借入によって設備投資を行い、家計は住宅ローンによって将来所得を前借りし、政府は国債によって財政支出を行う。こうして「未来に生み出されるはずの価値」が現在へと引き寄せられることで、経済は成長していく。

その意味で、金融危機とは単なる市場の混乱ではない。それは、「将来返済されるはずであった負債」が返済不可能となり、「未来価値への期待」が崩壊した瞬間である。リーマンショックにおいて消えたのは貨幣そのものではなく、「将来的に価値を持つはずだった信用」であった。

本書の前半は、こうした現代金融の作動メカニズムを平易に説明することに多くのページを割いている。そして、その説明自体は非常に分かりやすく整理されており、一般向けの金融入門としても優れている。

しかし同時に、ある種の違和感も残る。それは、本書が本当に「グレーバー的な負債論」を論じているのか、という問題である。


2.グレーバーの「負債論」とは何だったのか

本書はしばしば、デヴィッド・グレーバーの『負債論』を現代金融の視点から実証する試みとして紹介される。しかし、実際に本書で論じられている内容は、グレーバーの問題設定とはかなり異なっているように思われる。

グレーバーにおいて負債とは、単なる金融技術ではなかった。彼が論じていたのは、人間社会において「誰が誰に何を負っているのか」という関係そのものだった。そこでは、貨幣以前にまず信用関係が存在している。共同体の中で人々は互いに義務を負い合い、贈与し合い、返礼を期待し、あるいは道徳的責任を背負う。そのような社会関係の制度化された一形式として貨幣や負債が存在する、というのがグレーバーの視点である。

そのため、グレーバーの議論において問題となるのは、金融システムそのものというよりも、むしろ「関係」がどのように構築され、固定化され、権力化されるのかという点であった。負債は単なる経済的契約ではなく、人間関係の形式であり、道徳的・政治的・暴力的側面を伴うものとして理解されている。

これに対して、ヴェイグの議論はかなり異なる。本書が説明しているのは、主として現代金融システムの機能である。そこでは、銀行がどのように信用創造を行うのか、なぜ負債が経済成長のエンジンとなるのか、なぜ金融危機が発生するのかが論じられている。

もちろん、これは重要な論点である。
しかし、ここで扱われている負債は、あくまで「成長システムとしての負債」であり、「社会関係としての負債」ではない。つまり、本書は「負債がどのように経済を動かすか」を説明しているのであって、「負債がどのように人間関係を構成するか」を論じているわけではないのである。

その意味で、本書をグレーバーの実証と呼ぶことには、ある種の飛躍があるように思われる。


3.本書の核心としての「永久通貨」

そのように考えると、本書の核心はむしろ終盤で突如として提示される「永久通貨」という概念にあるように思われる。

ヴェイグは、現代経済が負債によってしか成長できない構造を説明した後で、暗に次のような問題を提起する。もし経済成長が負債の拡大によってしか成立しないのであれば、私たちは永遠に信用拡張と金融危機を繰り返し続けるしかないのではないか。そして、もしそうだとすれば、負債を前提としない経済システムは存在しうるのではないか、と。

そこで登場するのが、「永久通貨」という発想である。しかし、本書ではこの概念が十分に説明されない。返済義務を持たない通貨なのか、減価しない通貨なのか、あるいは無限に供給される通貨なのか、その定義自体が曖昧なまま提示される。

だが、重要なのは定義の曖昧さそのものではない。むしろ問題は、この永久通貨が「何を代替しようとしているのか」という点にある。

現代金融において、負債は単なる副作用ではない。それは経済成長そのものを駆動する装置である。企業は返済義務を負うからこそ利益を生み出そうとし、投資を行い、生産性向上を目指す。家計もまた、将来所得を前借りすることで現在の消費を拡大する。つまり、負債とは「未来への圧力」であり、それが経済活動を推進している。

しかし永久通貨では、その返済圧力が存在しない。すると、なぜ人々は生産を拡大し、投資を行い、成長を追求するのか、という問題が生じる。負債は危機を生む一方で、成長を強制する装置でもあった。その役割を永久通貨は何によって代替するのか。本書は、この点についてほとんど説明を与えない。


4.永久通貨は何によって支えられるのか

ここでさらに重要になるのが、「通貨とはそもそも何によって成立するのか」という問題である。

通貨は、単に「価値がある」と宣言すれば成立するものではない。重要なのは、それが他者との交換に用いることができるという期待である。つまり、通貨とは本質的に「交換可能性」への信頼によって支えられている。

しかし永久通貨では、返済義務が存在しない。だとすれば、なぜ人々はその通貨を受け取るのだろうか。ここで結局必要になるのは、国家による制度的保証や、法定通貨としての強制力、税との接続などである。

だが、その瞬間、問題は再び別の形で戻ってくる。

なぜなら、それは結局、「価値があるから交換する」のではなく、「交換せざるを得ないから交換する」という構造へ接近していくからである。つまり、永久通貨とは「負債による拘束」を消滅させる代わりに、「制度による交換の強制」を導入する構想なのではないか、という疑問が生じる。

しかも、そのような交換が成立したとしても、それは依然として「成長」を説明しない。人々が永久通貨を用いて交換を行ったとしても、そこから新たな価値がどのように創出されるのかは不明なままである。負債経済では、「返済しなければならない」という圧力が未来価値の創出を促していた。しかし永久通貨には、そのような成長エンジンが存在しない。

  • 返済義務を持たない通貨は、なぜ受け取られるのか?

  • 負債が消えるなら、資産はどこから生まれるのか?

  • 成長を駆動する圧力は何に置き換わるのか?

  • 誰が発行し、誰が制御するのか?

  • インフレはどのように抑えられるのか?

  • 希少性が残る世界で、通貨は不要になりうるのか?

この点について考え続けると、永久通貨という概念は、むしろ「負債を不要とするほど生産力が高まった社会」を前提としているように見えてくる。


5.それは共産主義社会なのではないか

もし永久通貨が安定的に成立するとすれば、それはどのような社会なのだろうか。

おそらく、それは極めて高度に自動化され、生産力が飛躍的に高まった社会である。AIやロボティクスによって労働の大部分が代替され、エネルギーや食料の供給制約が大幅に緩和され、希少性そのものが縮小した世界である。

そのような社会では、人々はもはや「返済のため」に働く必要がない。負債による成長エンジンが不要になるからである。

しかし、その時点に至れば、そもそも通貨そのものの役割もまた縮小する。なぜなら、通貨とは本来、希少な資源を配分するための装置だからである。もし生活に必要なものがほとんど無償に近い形で供給されるなら、通貨によって調整すべき領域そのものが縮小していく。

この点で、永久通貨の構想は、むしろマルクス的共産主義社会に近い。マルクスが最終的に想定していたのは、生産力の極限的発展によって希少性が克服され、人間が「生存のための労働」から解放される社会であった。

だとすれば、永久通貨とは「負債経済の代替」というよりも、「負債を必要としないほど生産力が高い社会」における補助的な分配装置に過ぎないのではないか。


6.グレーバーを補強したのか、それとも迂回したのか

以上を踏まえると、本書とグレーバーの違いはかなり明確になる。

グレーバーが論じていたのは、「人間がどのような関係を取り結ぶのか」という問題であった。負債とは単なる金融契約ではなく、人間関係そのものの形式であり、その背後には道徳や共同体、権力や暴力が存在している。

これに対してヴェイグが論じているのは、あくまで「成長システムとしての負債」である。そして永久通貨という発想は、その負債的関係を、制度的な交換システムへ置換しようとする試みのように見える。

その意味で、本書はグレーバーを実証しているというより、むしろ彼の議論を迂回している。

グレーバーが「関係の構築」を問題にしていたのに対し、ヴェイグは「関係を制度によって置換する可能性」を示唆しているからである。そこでは、贈与や互酬といった自発的関係ではなく、「交換可能性を制度的に保証された社会」が構想されている。

しかし、その構想は依然として未完成である。永久通貨は、負債による成長メカニズムを代替していないだけでなく、通貨それ自体の成立条件すら十分に説明できていない。その意味で、本書が最終的に示しているのは、「負債の外側」の存在というよりも、むしろ「負債なしで経済を成立させることの困難さ」なのではないだろうか。

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