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第23回​「12歳の証拠と、栞の卒業式」



今、私の手元には一枚の卒業証書がある。 


栞は、私の背を追い越すほどに大きくなり、
美しい袴姿でそこに立っていた。

​その眩しさに目を細めながら、

私はこの画面を開けては、止まった。
また開けては、止まった。
その繰り返しの間に、娘は卒業式を迎えた。

「先生、ありがとう。」


深い紫の袴、白い半衿。

少女だった栞の顔に、
確かに女性の輪郭が宿っていた。

シャッターを押しながら、
私はあの頃のことを思っていた。



当時の自分の愚かさと向き合わなければならない。読んだ人に軽蔑されるかもしれない。
その恐怖が、私の指を何度も止めた。


けれど、隠したままでは前に進めない気がして、今日、ようやくここに戻ってきた。


7歳の七五三。河原で風に吹かれながら、
着物姿の栞を3人で囲んで写真を撮った日。


あれは、本当にあったことなのだろうか。


​3年ぶりに夫に連絡をしたのは─


子どもたちのため、という言葉は、
いつだって都合のいい免罪符になる。
けれど本当のところは—終わりの見えない孤独と、お金の不安と、
「このまま一人でやっていけるのか」という恐怖が、私の指を動かした。

夫は変わっていた。少なくとも、そう見えた。


「もう大丈夫だ」


「前の家に戻ってきてほしい」

夫の最初の提案に、
私は首を横に振った。
子どもたちの転校だけは、させたくなかった。


翌日、夫は笑顔で言った。

「じゃあ、この辺に一戸建て買っちゃおっか。」

あっけらかんとした、その一言。 
夫は確かに歩み寄っていた。

なのに私の本音は、残酷なほど単純だった。

 (夫と、会いたくない。)


だから平日、自分が買った家に帰れず遠方の仕事場で車中泊をする夫を、
私は薄情にも「好都合だ」と思っていた。

新しい木材の匂いが、鼻の奥を刺した。

真っ白な外壁、最新のキッチン、 
子どもたちのための個室。

階段を駆け上がる翼と栞の歓声が、
まだ何も染まっていない白い壁に響く。
そこには、私が喉から手が出るほど欲しかった「普通の家族」の形が、完璧なまでに用意されていた。

その背中を見ながら、私はリビングの真ん中に立ち尽くしていた。

これが、私が選んだ場所だ。


喜ぶべきだと、わかっていた。
けれど、ツンとした建材の匂いを嗅ぐたびに、私の肌だけが正直に粟立った。


新築の部屋で子どもたちと手足を伸ばして眠りながら、夫の孤独な車中泊を想像しては、 

「酷いことをしている」と自覚していた。

それでも、摩擦が起きない日々の静けさが、何より有り難かった。

シェルター、施設…。
そして家賃の支払いに追われたアパート生活。
子ども達に転居、転園を繰り返させてしまったという
消えない罪悪感が、私の判断力を静かに侵食していた。

母でさえ
「あの人はずいぶん歩み寄っているね。」と言った。

​3年ぶりにお父さんが来ると告げた時、
栞は過去の記憶が少し薄らいでいたのだろうか、
嬉しがっているようだった。

翼はどことなく違った。
複雑な、
どこか諦めたようなニヤニヤした表情をした。
シェルターで失って見てきたもの、
施設の記憶、
そこに辿り着いた子ども達が
どんな境遇を背負っていたか
—9歳の翼は、すでに多くのことを知りすぎていた。

​それでも子どもたちは健気だった。

買い物帰りの道で遠くに夫の姿が見えると、
私たちは3人で大きな声で叫んだ。
「パパーッ!」夫が振り返って手を振る。

翼は夫とチェスをして、ゲームをして、笑った。
「この賞は1年の時のだよ!」
「見てこれパパ!」
「お!凄いな!」
子ども達は3年間の空白を埋めるように
それまでの保育園や学校での功績を夫に見せて
自慢した。
七五三では、着物姿の栞を3人で囲んで、
河原で写真を撮った。
 「綺麗だね」「可愛いね」
   と口々に言いながら。

最初の1年、私たちは確かに笑っていた。

週末だけ帰宅する夫を、
栞は玄関で待ち構えていた。
ドアが開く音がするたびに、廊下を全力で駆けていく小さな背中。父親の胸に飛び込んで、
そのまましがみついて離れない。

その光景を見るたびに、私は自分に言い聞かせた。

これでいい。
この子の笑顔が、正解を物語っている。

夫は週末、穏やかだった。
かつての怒声が嘘だったかのように、
静かに子どもたちと過ごした。


あの1年は、本物だったと思う。
少なくとも、子どもたちにとっては。

けれど私の体は、心より正直だった。

​亀裂は、静かに始まった。

夫婦としての距離を求められるたびに、私の体は強張った。拒絶するたびに夫の怒りが積み重なり、夜中に子どもの物が蹴り飛ばされる音が階下から聞こえることもあった。生活習慣の細かなすれ違い、防犯への感覚の違い、地域の親たちの中での孤立—それぞれは小さな棘だった。
けれど棘は抜かれないまま刺さり続け、 
気づけば私の中で夫への恐怖と嫌悪が、
じわじわと輪郭を取り戻していた。
そしてその気持ちを、
私は子どもたちにこぼしていた。
少しずつ、少しずつ。


​1年が過ぎた頃から、金曜日の夜が怖くなった。

玄関の鍵が開く
「ガチャリ」という音。
それだけで、喉の奥が締まり、
心臓が早鐘を打ち、頬に微熱が灯った。

本来なら「おかえりなさい!」
と労うべき場面で、私は死んだように寝たふりをした。


彼が一人、寂しく電子レンジで夕食を温める音を聞きながら、私の心は氷のように冷え切っていた。
階段を上る足音さえも、心臓を打ち鳴らす凶器になった。

「ママは聞けないけれど、僕は聞けるよ。」と、
まだ幼い子どもたちを連絡係として使い、
夫との間に立たせた。

その健気な背中を見送るたび、
私は自分を母親失格だと思った。
子どもが不憫でたまらないのに、
私は自分を守るために彼らを「盾」にしていた。私は、家族という名の戦地に、
子どもを一人で送り出す卑怯な人間だったのだ。

​週末が近づくたびに、私は静かに、けれど激しく願った。


〈今日帰れなくなった。土曜日に変更する〉

​スマホの画面に躍るその一行を見た瞬間、
私は天にも昇るような心地になった。

全身の力がふっと抜け、
凍りついていたリビングの空気が、
ようやく私の呼吸を許してくれる。

「今日は、帰ってこない。今夜は、誰も来ない。」

それは、この白い一戸建てを手に入れてから、
私が唯一心から「自由」を感じられる、
神様からの贈り物のようだった。

​けれど、その安堵は長くは続かない。

彼が帰宅する日は、私にとって「時間との戦い」だった。

​夜遅くに玄関の鍵が開く音。

その音が響くまでに、
私は何が何でも子供たちを寝かしつけなければならなかった。

彼が帰宅し、私の部屋に勝手に入り込んでくること。

寝ぼけた子供たちを無理やり起こし、
自分のペースで「父親」を演じ始めること。

そのすべてが、生理的な嫌悪感とともに、
私の防衛本能を逆なでさせた。

​(早く寝て。お願い、パパが帰ってくる前に。)

​暗い寝室で、翼と栞と一緒にいる私の顔には、
焦燥感からくる力がこもっていた。

子供たちを深い眠りの中へ、あの男の手が届かない安全な場所へ隠してしまいたい。

寝息を立てる二人を確認し、
部屋の明かりを消した瞬間、私はようやく戦場に一人残された兵士のような心境で、
嵐を待つのだった。


「このまま帰ってこなければいいのに。」



私は自分の部屋に鍵をつけた。
それは、壊れ行く自分の防衛本能だった。

「何これ、簡単に壊れるけど。ここ俺の家だ。」

鍵を壊されたあの日から、
私の中で「夫」という存在は、愛する対象でも、家族でもなく、ただただ避けるべき「災厄」へと変わっていった。

​子供たちは、私の顔色を伺うようになった。
私が夫の足音に怯えれば、翼と栞もまた、
呼吸を止めて気配を消す。私が夫を拒絶すれば、子供たちもまた、父という存在を遠ざけていく。

​「ごめんね、こんなお母さんでごめんね。」

​心の中で繰り返す謝罪は、誰にも届かない。
夫が「家族のため」と信じて建てたこの真っ白な一戸建ては、いつしか、私と子供たちを閉じ込める、出口のない白い箱になっていた。


子供たちの純粋な瞳が、
徐々に私と同じ「拒絶」の色に染まっていくのを見て、私は言いようのない罪悪感に震えた。
けれど、その罪悪感さえも、次に聞こえてくる「ガチャッ」という解錠の音にかき消されてしまう。

​私は、
自分の手で子供たちの「父親」を奪い、
自分たちの「居場所」を壊しているのではないか。


いつしか会話は消え、
私は連絡事項は紙で伝えた。
翼と栞は、冷え切った両親の間を繋ぐ「連絡係」になっていた。



ある日、夫が事故を起こした。

そして、会社を退職した。

「動画制作は俺の仕事だ!」
家で動画制作を始めた頃から、私は限界を超えた。
毎日、家にいる。
その気配から逃れるように、
家計を支えるために、私は外へ働きに出た。
家を空ける不安よりも、同じ屋根の下にいる
恐怖の方が、はるかに耐えがたかった。

​ある夜、仕事から疲れ果てて帰ると、
翼が引き攣った顔で待っていた。

「ママ、今日はずっとパパが部屋に来て…
大変だったんだよ。
やばいと思って、宿題をするふりをして、
PCで動画を撮ったよ。」


学校の宿題の画面の裏で、
密かに回り続けていた録画ボタン。
12歳の息子が、自ら「証拠」を残さなければならないほどの切迫感。
見せてもらった約1時間の動画には、

「今、お風呂動画バズってるから家族のために
動画出てほしい。」
「家族だから協力してほしい。」
動画に出てほしいと繰り返す夫と、
嫌だと言い続ける子どもたちの姿があった。
そして零れる言葉—
「本音を言うとね離婚したいよ。」
「生活費もったいない!」
「エアコンもったいない。」
「サンタなんていない、
お母さんが俺の金で、プレゼント買ってるだけ。」

​私は、呆然と画面を見つめていた。

そして気づいた。

翼が録画ボタンを押したのは、
私が毎日見せ続けた背中のせいだ。
夫を拒絶し、無視し、部屋に鍵を閉める
母親の姿が、子どもたちの中で「父親は敵だ」という感覚を育てた。
翼が証拠を撮ったのは、賢かったからじゃない。

そうしなければならないと、感じさせてしまったからだ。


(子どもたちは健気にお父さんを迎え入れた。
3年分の笑顔を持って、
「パパーッ!」と叫びながら。)

それなのに、
段々お父さんを嫌いになるように仕向けたのは—ある種、私なのだ。




─小学校生活の幕を閉じた栞。
  受験という壁に向き合う翼。


あの日、私がどれほど非情な母親であったとしても、彼らはこうして、強く、優しく育ってくれた。

この節目に、
私はこの「醜い懺悔」を書き残したかった。


私は被害者だった。
けれど、同時に、誰よりも冷酷な加害者でもあった。

​その両方を抱えたまま、
私は今、この静かなアパートで、子どもたちと生きている。



そんな私の手を離さず、黙ってついて来てくれた小さな背中があった。


私はあの地獄をもう一度くぐり抜けなければならなかったのかもしれない。

胸に刺さった棘は、きっと一生抜けないだろう。けれど、その痛みを感じるたび、
私はあの日、叫びながら坂道を下った自分を、
そして必死でついてきてくれた子どもたちを、
愛おしく思うのだ。



  卒業 おめでとう


  


​第23回を最後まで読んでくださり、ありがとうございます。

私のこの「失敗」の記録が、誰かの踏みとどまる力になることを願っています。🌸




* * * * * * * * * * * 


​ここまで読んでくださり、ありがとうございました。

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