第16回:託されたスーツケースと、最後にならなかった「ありがとう」
「前回の第15回、たくさんの方に読んでいただきありがとうございます。
私が経験した児相とのやり取りは、決して楽なものではありませんでした。けれど、同じように孤独や不安の中にいるお母さんに『一人じゃないよ』と伝えたくて、全文無料で公開することに決めました。
あくまで一人の母親としての個人的な体験記ですが、何かを感じていただけたら幸いです。」
*****
ようやく、玄関の扉が開いた。
「ただいま!」
聞き慣れた二人の声。3週間ぶりに抱きしめた翼と栞の体温は、私の震える心を溶かしていくようだった。やっと取り戻した、日常。二度と離さない。そう固く誓ったはずだった。
けれど、帰宅したその日の夕方、翼のおでこが熱いことに気づく。緊張がとけたからだろうか。
いつもならすぐに病院へ行くのに、
その日は、ただずっと一緒にいたかった。
子供の発熱自体はよくある事だと思った。
あんな寂しい思いをさせた分、一分一秒でも長く、この手の中に置いておきたかった。
翌日、深く重い咳をする翼を連れて行った病院で、医師の声が刺さる。
「もう少し早く連れてきてよ。影が出ちゃってるからさ。」
ごめんね。また、自分の判断のせいでこの子を苦しめてしまった。
苦い抗生剤を医師が「いいよ」とアイスの中に混ぜて誤魔化し飲ませようとする私。
しかし二口目で翼は気付き、どうしても拒否した。
必死に飲ませようとする私。
そんな切迫した空気の中で、夫は
「薬、無理に飲ませないでよ!」
喧嘩は容赦なく始まった。
病気の翼の前で、怒鳴り合う私たち。
「もう救いようがない、さっさと別れたい」
限界だった私は、以前の幼稚園の先生に救いを求めて電話をした。
「肺炎でも、即入院になってない時点で
そこまで酷いわけではないのです、
絶対に今、抗生剤を飲まなきゃいけないわけじゃない。お母さん、もっと大切なことがあります。落ち着きましょう。」
その言葉に、また児相に連れて行かれるのではないかとパニックになっていた私は、自分から児相にも電話をかけた。
「お母さん、大丈夫ですよ、とりあえず今は一旦、
投薬をやめてみて後でまたやってみましょう。
一生懸命なのは分かりました。大丈夫ですよ。
ゆったり構えてくださいね。」
職員さんの声は優しかったけれど、どこか遠かった。一時保護を決めるのは警察なのか、児相なのか。私はもう、誰が敵で誰が味方なのかも分からなくなっていた。
自分をコントロールするために、私はある時から
ノンアルコールビールを「隠し飲み」するようになった。
夫の言動を受け流すための唯一の盾だった。
けれど、盾はいつしかボロボロになり、
私はいつしか飲む量を増やしても効き目がなくなり、ビールや焼酎を隠し飲むようになった。
やがて、夫が在宅の仕事で行き詰まり、家の中には常に不機嫌な空気が漂うようになった。
夫が大型免許の合宿で不在にした数週間。
私と子供たちにとって、そこが本当の意味で
「呼吸」ができる時間だった。
数週間が経ち、夫は帰ってきてしまった。
「海の方に仕事決まったよし!引っ越すぞ」
という宣言。
会社の方は試用期間はご主人だけホテル住まいでも良いのではないかと提案されているのに‥。
……幼稚園の友達、慣れ親しんだ街。
翼と栞の思い出を奪うように、翌日には私たちは見知らぬ土地へ運ばれていた。あまりに急なので、母も荷物を運びに手伝いに来た。
翼は健気にも小さな身体で一生懸命荷物を運ぶのを手伝った…。
色々あった、警察が来たり、喧嘩三昧だった
アパートを後にした。
転園先の幼稚園は大人数制で、翼の自己紹介は
帰りの列でまとめて先生がするなど予想とは遥かに違った。
裕福な家庭が多く、列には華やかなお母さん方。私の居場所はどこにもなかった。
夫は仕事を数日で辞め、不機嫌さは加速していく。
また別の仕事を始め、家の空気はさらに澱んでいく。
私と翼と栞と、渡した交通安全の御守りも
─指で弾かれる。
「静かにしてくれ。いいな。」
朝4時に起きる夫の勝手で、夜6時半には家中を消灯しなければならなくなった。
幼い翼と栞が、その時間に静かに眠ることなんて不可能だ。
少しでも音がすれば、暗闇の中で夫の怒声が飛ぶ。
「消えろ!」
翼に向けられたその言葉は、もはや暴力そのものだった。
栞が淋しそうにこちらを見る。
私は夫が静かになった隙に、
夜の闇へ、子供たちを連れて飛び出した。
自転車に子供を乗せて走る、
私の知らない街。タワマンに囲まれる。
頭上には高速をトラックが飛び交う。
子供と一緒に自転車で坂を降りる。
(子供と一緒)という事だけが私の救いだった。
凍てつくような寒さの中、震える手で母に電話をかけた。
けれど、返ってきたのは
「ちょっと寒いじゃないのよ〜翼君栞ちゃんがかわいそう、何でそうなるのよ、家まで来るには遠いから、もう子供を寝かせなさいよ、明日私が旦那に電話して説得しとくから帰りなさい。」という言葉。
絶望に背中を押され、私はまた、あの息の詰まる部屋へと静かに戻るしかなかった。
─決別の日は来た。
ある朝、自分のために焼こうとした目玉焼き。
「揚げ物モードで焼いて。」
夫の、何気ない、けれど絶対的な命令。
その瞬間、私の中で何かが静かに、けれど修復不能な音を立てて千切れた。
「どうして、こんなことまで指示されなきゃいけないの!!」
椅子を投げつけて仕事へ出て行った夫。
翼と栞の悲しそうな顔。
私は一昨日
(ハロウィン楽しかった、こちらでも元気にやってます)
と翼と栞の写真を送ったばかりの
以前の園の知り合いのお母さんにLINEを打った。
「実はとても悩んでいます。」
LINEを幼稚園のお母さんとする事など殆んど
なかったのに、
いつもあまり輪に入らないで過ごしていたのに、
もう溢れるほど、そのまま気持ちを打った。
「何それ、その男のアイデンティティは何?
すぐに出てきなよ。」
「荷物なんて後でどうにでもなる!」
「私が沙織ちゃんを助けるから、いいから何も考えないで、翼君と栞ちゃんと大事な物だけ持って。」
その短く力強い返信が、私の最後の一歩を支えた。
夫がもし、忘れ物をとりに来たら終わりだ!
できるだけ早く動かなければ。
鼓動が高鳴る。
夫に、私の今までのラインやこれからの
足跡を辿らせたくはなかった。
私は子供たちの成長の写真が詰まった
タブレットを勢いよく水の中に沈めた。
画面が消え、泡が消える。
それは、過去の自分を殺し、夫との絆を永遠に葬り去るための、冷たくて静かな儀式だった。
思い出さえ、捨てなければ生き延びられなかった。
もうじき小学生になる翼の早めに買った
ランドセルと、
少し早めに用意していたクリスマスプレゼント。
それだけを両手に抱え、
私はもうじき来る冬に使うコートを羽織り
翼と栞と手を繋ぎ、
駅へ向かった、無我夢中で歩いた。
(偶々見つからなければいい…)
電車に乗り込んだ。
車窓に流れる都会のビルの景色を見ながら、
私は「見つかってはいけない」という恐怖と、
それ以上に深い
「もう、戻らなくていいんだ」という静かな安堵に包まれていた。
駅の改札を出ると、そのお母さんが下を向いて待ってくれていた。
「沙織ちゃん、本当によく来てくれた。ありがとう。翼君、栞ちゃん元気?」
震える私を、彼女の言葉が抱きしめる。けれど、彼女の家も事情があり、泊めることはできないという。
「今、園長先生に連絡したから。今日は園長先生の家に泊めてもらえるよう頼んでみるね。」
フードコートに集まったのは、園長先生と、連絡を受けて駆けつけた数人のお母さんたちだった。
園長先生は、半年前にご主人である前園長を亡くしたばかりだった。いつもお二人は一緒だった。
夫を最期まで愛した人だった。
突然の事態に困惑している様子で、
「明日は歯医者を予約していて。それまでなら。」と、戸惑いを隠せないようだった。
場所を園長先生の自宅へと移す。
広い園長先生のお宅でお友達と遊んでいる
翼や栞、笑い声がきこえる。
そこで、あのお母さんが静かに口を開いた。
「まあ…実際はこれから、どうしようかなとは思うけどね…。
私ね、子供の頃、父が母に酷くあたるのを見て、殺してやりたいってずっと思ってた。」
彼女は途中で言葉を詰まらせ、涙を拭った。
「沙織ちゃんたち夫婦のことだけなら、何も言わない。でも、翼くんも栞ちゃんも、家の息子が
転入した時に、翼君、家の息子と背丈が低くくてずっと一緒に遊んできた大事な子たちだから。
放っておけなかった。」
別のお母さんは、私が抱えてきたランドセルや
クリスマスプレゼントを複雑な眼差しで見つめていた。
「旦那さん、今この時間も働いているんだよね……。沙織ちゃんはどうしたいの?」
(お金がないと、買ってあげられない…。)
それぞれが、それぞれの想いを口にする。
翼や栞にとって、彼はたった一人の父親なのだ。その事実に、私の胸はさらに疼いた。
私は、
以前お世話になったシェルターへ電話をすることを伝えた。
二週間滞在すれば、その先の自立に向けた道筋が見えてくるはずだ。その覚悟を伝えると、皆、静かに頷いてくれた。
夜、皆が帰り、広い家に園長先生と私たち親子だけが残された。
子供のいない園長先生は、長年幼稚園で数え切れないほどの子供たちを愛してきた人だ。ご主人が旅立った後の大きな家には、聖書やキリスト教の本が並び、住み着いた猫に餌をやるのが彼女の日課のようだった。
「お風呂が沸いたわよ。どうぞ。」
差し出されたのは、湯気の立つカレーだった。
園長先生を独り占めするように、子供たちはニヤニヤしながらスプーンを動かしている。
私は、一言も話せなかった。
こんなに多くの人を巻き込み、戸惑わせている自分が、情けなくて仕方がなかった。
四人で並んで布団に入ったとき、園長先生がぽつりと呟いた。
「前から、暴力とか……あったのね。」
それ以上、彼女は何も聞かなかった。ただ、暗闇の中で静かな拒絶ではない、祈りのような沈黙が流れていた。
子供たちの寝息と、園長先生の静かな呼吸。
けれど、私は明日のこと、その先の見えない日々のことを思い、一睡もできないまま朝を待った。
翌朝、何事もなかったかのように静かな朝食の時間が流れた。
朝の連続ドラマを観るのが私のルーティンなんです、と園長先生は言った。
テレビから流れる明るい音楽が、私の張り詰めた心とは裏腹に、淡々と日常を告げている。
私は意を決して市役所へ電話をかけた。
夜が明けると、昨日のお母さん達がまた集まってくれた。新しく顔を出してくれる人もいた。
皆、着なくなった服や日用品をかき集めて持ってきてくれた。
市役所の相談員の方と連絡を長々と取り合い、
戻ると……テーブルにはケーキやご馳走が並んでいた。まるで、私たちの新しい門出を祝うような、けれどどこか祈りのような食卓。
「沙織ちゃん、
とにかくこの2週間、よく考えて。
私からこれだけはお願い。
自分がどうしたいか、それだけを考えて。
結果、それが翼くんや栞ちゃんにとっても一番良い道になるんだから。」
皆が、代わる代わる私を抱きしめてくれた。
私は幼稚園で、お母さん方と深く関わるタイプではなかった。人と話すとどっと疲れてしまうから、いつも一歩引いた場所にいた。それなのに、今、この人たちは自分のことのように私のために涙を流し、動いてくれている。
「私のスーツケース、応援の気持ちで託すね。」
年季の入ったスーツケースを差し出してくれた。
(いつかここに戻ってきたら、またみんなと笑い合えるよね。)
そんな淡い期待を胸に─私と翼と栞は
お母さんたちの車に乗り込んだ。
園長先生の家の前では、残ったお母さん達が
『バイバ─イ!』
力強く手を振っていた。
車に揺られ、
過去に様々な想いで、小さな栞と翼と歩いた、
見慣れた道を通り
市役所の前に……車は到着した。
お母さん二人がスーツケースを持って、
「…待ってるから……行ってきなよ。」
私は翼と栞の手をひき、市役所の門を潜った。
けれど、相談室で事情を話すと、相談員は顔色が変わり、
「待って、お友達が外にいるの? それは……。
私、今すぐ行ってきます。お二人ね、玄関にいるのね。」
相談員は外へ向かった。私は、彼女たちのルールを知らなかった。
DV被害の相談において、外部の人間、たとえそれが善意の友人であっても、場所や状況を介在させることは「情報の流出」を意味する。厳格なルールという壁が、私と彼女たちの間に突如として現れた。
私はお母さんたちに最後の
「ありがとう」
を伝えないままになった。
そのまま私と翼と栞は次の場所へ行った。
あの日以来、私はあのお母さんたちとは一度も会えていない。今も、ずっと。
託されたスーツケースだけが、
あの夜のカレーの温かさと、
皆の涙を今も静かに物語っている。
「あの日から数年。
私は今、社会の温かい支えを借りながら、子供たち3人と静かに暮らしています。
理想としていた自立には、まだ遠い場所にいるのかもしれません。
だからこそ、あの日助けてくれたお母さんたちには、まだ胸を張って会える気がしません。
けれど、あの日もらったスーツケースと、皆が流してくれた涙が、今も私を繋ぎ止めてくれています。
私が私らしく生きるための長い旅は、まだ始まったばかりです。」
🌸いつも読んでくださってる皆様、
スキやフォロ━をくださる皆様
本当にありがとうございます 🍃😷🌸
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