「陽キャ文明」「陰キャ文化」論
各々振る舞い方、感じ方は当たり前に異なるのに、陽キャ、陰キャみたいに大別されることに違和感がある。ただ、嫌だとしてもその分類から逃れることは容易ではない。
まずその分類を受け入れるとしてみて、何を持って分類されるのか。どちらかが人間として優れているかを指し示すものなのか。「陽キャ」「陰キャ」について見つめ直してみる。
陽キャは文明。陰キャは文化だ。
さっそく結論だが、陽キャは文明、陰キャは文化と言っていいんじゃないか。もっと言うと陽キャ、陰キャを分ける要因は他者とのつながり方の違いでしかない。つながり方が陽キャは文明の、陰キャは文化を深めていく過程のようである。
陽キャ文明論
人的ネットワーク形成を重点と置く。
文明化とは普遍性、共通性を推し進める動きとして定義する。
陽キャはその明るさをもって、多くの人とかかわり多くの情報を取得し、他者とともに評価を行い自身へと還元する。
まず、他者とのつながりを求める。
陰キャ文化論
個人そのものの価値形成を重点と置く。
文化を独自性、他者との差異の強調として定義する。
陰キャは自分の好きなこと、自身独自の世界の形成をしてから共有することで他者とつながる。
まず、自身を深めることを求める。
選択可能性
陽キャ陰キャの分類は個人を形作る振る舞いによって決まる。
このことを認識できていれば、意図して振る舞いを変容し、望ましいものを選択が可能だと思われる。
ただ、生まれ持っての性格があるので、合う合わないはもちろん出てくるだろう。
危機的状況
学生時分はあまりに陰キャが生きにくい。
ネットワーク形成を特徴としているので、自ずと多数派になる。その空間のコミュニティの第一人者、優位な参画者となる。
他者尊重が未熟であると、コミュニティ外の人間に対し攻撃的な振る舞いをする傾向があるからだ。
また、SNSの発展が意図しないネットワーク形成にへの振る舞いとなり、文化と成りうる機会を手放している可能性が高い。
最後に
文明・文化という言葉の使い方はおそらく正しさを持ち合わせていない。
イメージの行いやすさ、着想に近いものとしてこの言葉を使用している。
キャラ付けによるコミュニケーションの取りやすさを優先する姿勢にはそもそも納得していないし、同意できない。
とはいえ、分類されることからの逃れられなさは重々承知している。
陽キャ陰キャが優位性を示すものなのか?という提案がしたく投稿に至った。
読んでくださった方の考えるきっかけとなれば幸いだ。
