🔍 ケアマネジャーはるかの事件簿 第63話 施設を嫌う理由
📞 一本の相談
つばきケアプランセンター。
朝礼を終えたはるかが記録を確認していると、電話が鳴った。
「はい、つばきケアプランセンターです」
相手は、地域包括支援センターの坂口啓介だった。
「はるかさん、少し相談してもいいですか」
「もちろんです。どうされましたか」
「一人暮らしの男性です。最近、転倒や服薬の間違いが増え、ご家族は施設への入所を考えています。ただ、ご本人が強く拒否しているんです」
「理由は話されていますか」
「施設には絶対に行かない。家で死んだほうがいいと繰り返すだけです。施設の生活を説明しても、聞こうとしません」
はるかはペンを置いた。
「一度、一緒に伺いましょう」
「説得するためですか」
「いいえ。その方が何を嫌がっているのかを聞くためです」
「分かりました。お願いします」
🏠 施設には行かない
男性の名前は黒田年雄。82歳。
妻に先立たれたあとも、長年暮らしてきた自宅で一人暮らしを続けていた。
室内では壁や家具につかまりながら歩いている。近くに住む長男が定期的に訪れていたが、毎日様子を見ることはできなかった。
はるかと坂口が居間へ入ると、黒田は二人の顔を見るなり言った。
「施設の話なら帰ってくれ」
何度も同じ話をされてきた苛立ちが、その一言ににじんでいた。
「今日は、施設へ入ってくださいとお願いしに来たわけではありません」
坂口が答えると、黒田は疑うように二人を見た。
「じゃあ、何をしに来た」
「黒田さんが、これからどのように暮らしたいのかを聞かせていただきたいんです」
はるかが静かに言った。
「そんなことは決まっている。この家で暮らす。ここを出るつもりはない」
居間には、古い家族写真や湯飲み、丁寧に手入れされた鉢植えが置かれていた。
「大切なお家なんですね」
「俺が働いて建てた家だ。妻と暮らして、子どももここで育った。ここには全部残っている」
黒田は家族写真へ目を向けた。
「この家を出たら、俺の暮らしじゃなくなる」
「家を離れたくないお気持ちは分かります」
坂口が言うと、黒田の表情が再び硬くなった。
「分かるわけがない。お前たちは、危ないとか、一人では無理だとか、そんなことばかり言う。俺の気持ちなんて誰も聞かない」
はるかは、すぐには答えなかった。
「黒田さんは、施設と聞くと、どのような場所を思い浮かべますか」
「大勢の年寄りが集められて、決められた時間に飯を食わされる。自由なんてない。一度入ったら、二度と家には帰れない場所だ」
坂口が説明しようとしたが、はるかは小さく首を振った。
今は、黒田の考えを否定する時ではなかった。
「そこへ入った人は、どのような気持ちになると思いますか」
黒田はしばらく黙り、低い声で答えた。
「家族に捨てられたと思うだろうな」
その言葉が、静かな部屋に重く落ちた。
📷 父の記憶
棚には、若い頃の黒田と作業着姿の男性が並んだ写真があった。
「お父様ですか」
「ああ、親父だ」
黒田は写真立てを手に取った。
「親父も、最後は施設に入った。一人では暮らせなくなってな。俺には仕事があったし、妻も子どものことで精いっぱいだった。家族だけでは無理だと言われた」
黒田は膝の上で手を組んだ。
「仕方がなかった。ほかに方法はなかった。そう思うことにした」
はるかと坂口は黙って聞いていた。
「面会へ行くたびに、親父は言ったんだ。家へ帰りたい。ここから出してくれって」
柱時計の音だけが響いていた。
「帰ろうとすると、俺の腕をつかんだ。置いていかないでくれと言った。それでも俺は、職員に任せて帰った」
黒田は写真を見つめた。
「本当に、ほかに方法はなかったのかって、今でも考える。親父は家に戻れないまま死んだ」
そして、ゆっくり顔を上げた。
「だから俺は施設には行かない。親父と同じように、家へ帰りたいと言いながら死ぬのだけは嫌なんだ」
黒田が拒んでいたのは、施設そのものではなかった。
父親を残して帰った日の記憶と、自分も同じように置いていかれるのではないかという恐怖だった。
「黒田さんは、お父様と同じ思いをすることが怖いんですね」
はるかが言うと、黒田は何も答えず、写真立てを握りしめた。
☕ 坂口の言葉
黒田宅を出たあと、はるかと坂口は住宅街を歩いた。
「私は、施設の説明が足りないと思っていました。設備や暮らし方を丁寧に話せば、分かっていただけると考えていたんです」
「でも、黒田さんが見ていたのは、今の施設ではありませんでした」
「お父様がいた頃の施設ですね」
「ええ。施設という言葉を聞くたび、あの時のお父様の声がよみがえっていたんだと思います」
坂口は足を止めた。
「人は場所ではなく、記憶を怖がることがあります」
「黒田さんにとって施設は、介護を受ける場所ではなく、お父様を置いてきた場所だったんですね」
「だから、どれだけ説明しても届かなかったんです」
はるかは静かにうなずいた。
「拒否されると、私たちは説得を急いでしまいます。でも、その言葉の奥にある理由を知らなければ、本当の支援にはつながりません」
「まずは、黒田さんの記憶を否定しないことですね」
「はい。昔とは違うと説明する前に、あの時の思いを受け止める必要があります」
🤝 見学という提案
数日後、はるかと坂口は再び黒田を訪ねた。
今回は、施設のパンフレットを持っていなかった。
「また施設の話か」
「入所を決めていただくためではありません。お父様のことを、もう少し聞かせていただきたいと思いました」
黒田は写真立てを手に取った。
「親父は無口だった。でも、俺が困った時は必ず助けてくれた」
仕事で失敗した時のことや、面会のたびに父親の好きな菓子を持っていったことを、黒田は少しずつ話した。
「それでも、家へは連れて帰れなかった」
「できなかったことだけが、お父様との時間ではありません。何度も会いに行ったことも、お父様を大切に思っていたからできたことです」
黒田は目を伏せた。
「施設という言葉を聞くと、親父の声を思い出すんだ」
「忘れなくてもいいと思います。ただ、その記憶だけで、黒田さんのこれからを決めなくてもいいのではないでしょうか」
はるかは少し間を置いた。
「一度だけ、今の施設を見てみませんか。入所を決めるためではなく、お父様がいた頃と同じ場所なのか、ご自身で確かめるためです」
「見たら、入らなきゃならないのか」
「いいえ。嫌だと思えば、そのまま帰りましょう。決めるのは黒田さんです」
長い沈黙のあと、黒田は写真を棚へ戻した。
「見るだけなら、行ってもいい」
それは入所への同意ではなかった。
けれど、固く閉ざされていた扉が、わずかに開いた瞬間だった。
❓ 拒否の本当の理由
事業所へ戻ったはるかは、黒田の言葉を思い返していた。
施設には行かない。
家で死んだほうがいい。
その言葉だけを聞けば、頑固な人に見えるかもしれない。
けれど、その奥には、誰にも話せずに抱えてきた記憶があった。
人が何かを拒む時、本当に拒んでいるものは、目の前の選択肢とは限らない。
過去の痛みや、忘れられない誰かの声が、今の選択を止めていることがある。
支援者にできるのは、無理に扉を開けることではない。
その扉の向こうに何があるのかを、本人と一緒に見つめることだった。
はるかは記録の最後に書き込んだ。
――拒否には、理由がある。
その理由を知らずに説得しても、心には届かない。
人の暮らしには、言葉にできない物語がある。
その物語を聞くことから、本当の支援は始まる。
