「明治謹製」大日本帝国式『天皇・天皇制』の創作性(14・完)
1 ベン = アミー・シロニー,大谷堅志郎訳『母なる天皇-女性的君主制の過去・現在・未来-』(The enigma of the emperors : divinity and gender in the Japanese monarchy)講談社,2003年の語った日本をくわしく紹介する
1) 天皇の祭祀の役目
ヨーロッパでの君主は,通常,神の命令を実行する任務を帯びた,地上における神の代理人であるのに対し,日本の神々は命令を発することがなく,したがってまた,命令実行のための君主も必要としない。日本の天皇は,行動規範を定める教皇(法王)ではないし,儀式を指図し勢力を率いる祭司長でもない。
天皇は,民びとと神々とのあいだをとりむすぶ仲介者であり,その主たる役目は,神々と自己の神祖たちに向けての,綿密な儀式を祭司としてとりおこなうことによって,十分な食の確保と暮らしの安定をはかることなのである。
註記)ベン = アミー・シロニー,大谷堅志郎訳『母なる天皇-女性的君主制の過去・現在・未来-』講談社,2003年,48頁。
2) 大嘗祭の意味
大嘗祭は,さまざまな女性的要素をふくんだ儀式である。悠紀(ゆき)殿・主基(すき)殿という新殿のそれぞれ中央には,高くしつらえられた「神座(しんざ)」と呼ばれる場所があり,そこに坂枕(さかまくら),御衾(おぶすま)(掛け布団),絹の服,履き物,扇,櫛が備えられている。
天皇は悠紀殿・主基殿につぎつぎに入って祭儀をおこなうが,その間,天皇につきそい,天皇に米飯や酒を給仕するのは,「采女(うねめ)」というふたりの女官なのである。こういった女性的要素は,みずから神性を教与するため新天皇をおとずれてくると想定される天照大神を表象するものだ,と解釈する学者たちもいる。
神座は天照が象徴的に天皇と交わる寝台なのだ,と主張されることも,ときにはある。……大嘗祭は白米と,酒が象徴する精液とを使って,生産・聖職の宇宙的なサイクルを演じてみせているのである,と示唆したことがある。
折口信夫〔おりぐち・しのぶ〕は,本来その台のうえで天皇は采女のひとりとセックス〔性行為〕をし,その采女がのちに天皇の妃となったのだ,と記している。折口はまた,大嘗祭の儀式がおこなわれる過程で「天皇霊」が先の天皇から新天皇に移る,とも主張している。
しかしながら,大嘗祭のもろもろの儀式のなかで見落とせないのは天照大神の不在である。
天皇は八柱の神を奉拝するのだが,その神々のなかに,子産みと生殖の神であるタカミムスビは入っているものの,天照大神は入っていない。礼の神座のなかにも,不思議なことに,天照を象徴する宝鏡の姿がないのである。
おそらく,天照大神にたいする畏怖心が非常に大きく,そのため,今日に至るまで天皇が代々とりおこなってきたもっとも厳粛なこの儀式においても,天照への言及がはばかられているのであろう。
註記)シロニー『母なる天皇-女性的君主制の過去・現在・未来-』65-66頁。〔 〕内補足は引用者。
3) 政治と天皇
歴代天皇は非力な存在ではあったものの,他のだれよりも上位にあった。彼らは支配者ではなかったが,権力への正統性付与者としての天皇の地位は非常な重要性をもっていた。将軍とても,天皇がその地位に任じ,地位にふさわしい位階を授与しないかぎり,将軍ではなかった。
権力をにぎる人間は,要請する官職や称号を手に入れるのがふつうだったが,自動的にそうなるのではなかった。天皇は,官廷の官人たちの助言にもとづいて,手続きをとどこおらせることができた。
源 頼朝は,12歳の後鳥羽天皇によって1192年(建久3年)に征夷大将軍に任命されるが,それまでに7年も待ったし,受けた位階も従二位でしかなかった。日本を 130年も支配した北条の執権たちも,従四位に甘んじなかければならなかった。その大御所・徳川家康も,後陽成天皇による征夷大将軍への任命を3年待たなくてはならなかったし,その位も従一位だったのである。
註記)シロニー,同書,148-149頁。
天皇たるものは軍事や政治という「ハード」な営みは将軍にまかせ,文化や学問という「ソフト」な営みに専心すべきだ,ということである。この考え方は,家康が本多佐渡守正信に語って聞かせた治者の心得のなかにも反映している。家康は,天皇が体現すべきは同情心と儀式儀礼の規範であり,将軍の守るべきは軍事力と規律の規範だという区別を立てた。
註記)シロニー,同書,154頁。
4) 孝明天皇暗殺
孝明天皇の死因は,死去の年に罹った痘瘡(天然痘)だ,というのが公式説明だった。しかし,天皇逝去の発表は実際の死から1週間ほどあとになされたので,薩長の武士と通じた公卿の岩倉具視が毒殺したのだ,という噂が広まった。
1862年(文久2年)から1982年(明治15年)まで日本に勤務したイギリスの外交官,アーネスト・サトウはその回想記のなかで,孝明天皇の死について以下のように書き残している。
数年経ってからのことだが,私は,舞台裏で進行したことがらによく通じたさる日本人から,彼は毒殺だったと確言された。〔孝明〕天皇は信念から,外国人へのいかなる譲歩にもまったく反対だった。そこで,ほどなく幕府倒壊となれば,朝廷も西欧列強と直接的関係に入らなくてはならない以上,その道筋から除かれてしまったのだ。
補記)なお,アーネスト・サトウの著作の日本語訳本は,つぎの2種類がある。
★-1 坂田精一訳『一外交官の見た明治維新 上・下』岩波書店
(文庫),1960年。
★-2 鈴木 悠訳『外交官の見た明治維新』講談社(学術文庫), 2021年。
孝明天皇の死をめぐっては,関連する事情に触れてみたい。
中山忠能は,娘の慶子が孝明天皇の典侍(後宮の女官)としてのちの明治天皇の母となった,尊皇攘夷派の高位の公家であるが,忠能は日記のなかに,自分は天皇は暗殺されたと聞いた,これは最高機密だ,と書いている。
米コロンビア大学教授だったツノダ・リュウサクは,かつてドナルド・キーンにつぎのような話をした。1910年代のことだが,ハワイのパブにいたツノダは,さる見知らぬ日系人が,自分は昔,孝明天皇に毒を盛る陰謀に加わった,だからハワイに送られてきたのだと打ち明けた,というのである。
右〔上〕に述べたいくつかの話を確証するような証拠は存在しない。だが,もしそれらがほんとうであるとするなら,近代日本は,誤った大義に固執した君主の殺害とともにその幕を開けたことになる。
註記)シロニー,同書,191頁。
2 以上の記述は,天皇・天皇制,皇室・皇族の歴史にかかわる古代史と幕末・明治維新あたり問題に関してほんのわずかしか言及していない
だが,ここではあえて一挙に,以下のごとき話題をとりあげ,言及しておきたい。
a) 皇室典範
旧皇室典範は女性の摂政就任は認めていた。同典範21条および23条は,摂政の職が必要となるときには親王が摂政に立てられるが,親王が不在の場合,皇族の女性が,独身か未亡人であれば摂政となる,と規定していた。
この摂政となりうる女性の順序は,皇后,皇太后,太皇太后(先々代の天皇の皇后),その他の内親王および女王(天皇の姉妹および皇女)とされていた。摂政になるのは男子だけだったそれまでと,はっきり異なる部分であるが,実際にこれらの規定が発動されたことはない。
摂政を立てる必要が生じたのは,〔実際には〕大正天皇のとき一度だけであり,このときは,天皇の第一男子で皇太子の裕仁親王(のちの昭和天皇)がいたからである。摂政は皇族たるべしとすることによって,皇室典範は藤原一門による摂政の独占という,1000年来の伝統にピリオドを打つことにした。
註記)シロニー『母なる天皇-女性的君主制の過去・現在・未来-』207頁。
b) 南北朝問題
1880年代,明治政府は5世紀にほぼ1年にわたり,まつりごとをおこなったとされるイイトヨアオノヒメミコ(飯豊青皇女)は女帝とするには足りず,皇統譜には載せるべきではない,との決定を下した。他方,7世紀に8ヵ月だけ統治したとされる天智天皇の皇子(大友皇子)は,第39代天皇として認められ,弘文天皇と追号された。
20世紀に入るまで,14世紀に起こった南北両朝の並立は,日本人の心をとくにわずらわせることなく,明治期の歴史書でも両朝は対等にあつかわれていた。
しかし,1911年の帝国議会で質問が提出されて政治問題化し,天皇は政府の助言にもとづいて,「三種の神器」を保持していた南朝が正統である,との裁断を下さざるをえなくなった。その後の皇統を支配したのは北朝であり,天皇自身も北朝の末裔だったにもかかわらずである。
註記)シロニー,同書,209頁。
c) 写真について
明治天皇は写真に撮られるのが嫌いだった。が,政府の意向のほうが強かった。国の内外に天皇のお姿を広く知らしめるためです,と納得させたのだった。明治天皇の最初の公式写真が撮られたのは1872年である。このときの天皇は,まだ伝統的な宮廷装束で,髷も剃っていた。


その1年後,同じ写真師が第2の写真を撮影したが,このときの姿は,洋風の軍服を身につけ,口髭を生やしている。1年と経たないうちに,公衆のあいだでの天皇のイメージは,はっきり男性的なものに変わった。
そして,この1873年に撮影された写真は,諸外国の外交官たちと,国内では高・中級の官吏に配布されたが,下級官吏と庶民には行き渡らなかった。どの府県庁にも1点ずつ天覧用に天皇の写真が配られ,村人たちはそれぞれの地方の首府に出かけて拝観するようにとの指示がなされた。
註記)シロニー,同書,217頁。
d) 歌会始めについて
天皇が胸中を吐露する舞台だったのは政治でなく,詩歌だった。五七五七七の31文字で構成される和歌という短詩を詠むことは,多くの天皇が打ちこんだ重要な活動だったが,この活動分野で記録を作ったのは近代の明治天皇である。
睦仁が詩歌への興味をかきたてられたのは1869年,京都御所で「歌会始」が催されたときである。1974年,歌会始は東京の皇居でも初めて開催され,以来毎年おこなわれるようになる。1888年には,皇居内に宮内省御歌所(おうたどころ)が設置された。
明治天皇は非常に多作な詩人だった。9万3032首という信じがたいほどの数の和歌を詠んだのである。
日本ではどの天皇,どの詩人をも凌駕するだろうし,世界史上でもおそらくそうであろう。和歌を始めたのが15歳のときだから,天皇はその後,毎年2066首平均,一日で平均6首を詠まれた計算になる。これだけ膨大な作品量のうち,1945年まで公表されたのは,1687の「御製」でしかなく,戦後でも合計8936首にどどまる。
どれくらい多くの手書きの原本が未発掘で残っているのかは,つまびらかではない。ドナルド・キーンは,そうした手稿の多くは侍従たちが書き写したのち,失われてしまったと考えている。公表されているのは,政治的あるいは道徳的なメッセージのこもった和歌である。
註記)シロニー,同書,230-231頁。
補記)ここでは,シロニーの指摘(解釈)であったが,「日本(史)≒ 世界史」という記述には,疑問符がつく。
e) 宮家
かつての4宮家〔伏見宮家・閑院宮家・桂宮家・有栖川宮家という世襲親王家〕でいちばん歴史が古く,規模も大きかったのは伏見宮家で,先祖は,14世紀の北朝の天皇・崇光の皇子である。19世紀半ばの当主は邦家親王だったが,親王は8人の女性とのあいだに38人の子どもを儲けた。1864年(元治1年),邦家の第一王子・晃親王が新しい宮家を立て,山階宮家の当主となった。
さらに1870年代には,邦家の弟と3人の王子によって,新しい宮家が4つつくられた。梨本宮家,東伏見宮家,久邇宮家,北白河宮家である。このうち東伏見宮は,邦家の王子のひとりで,イギリスの海軍兵学校に学んで海軍軍人となっていた依仁親王によって,1903年(明治36年),かつてあった宮家が再興されたものである。
このあとも20世紀の初めにかけて,賀陽宮,朝香宮,東久邇宮の3宮家が,いずれも久慈宮家の王子を当主に迎えることによって創立された。1906年(明治39年),北白川宮の王子によって,竹田宮家がつくられた。これら新しい宮家の創立は,明治天皇の4人の内親王を親王家の王女にめあわせるためであった。
1908年(明治41年),権典侍・園祥子とのあいだに生まれた昌子内親王が,竹田宮恒久王と結婚した。1909年には,昌子の妹である房子内親王も,北白川宮成久王と結婚した。やはり園祥子を生母とする允子(のぶこ)内親王は,1910年,朝香宮鳩彦(やすひこ)王と,下の妹・聡子(としこ)内親王は,1915年(大正4年)に東久邇稔彦王と結婚する。
明治天皇の女婿ともなったこれらのプリンスたちは,もしも皇太子が亡くなるようなことがあれば,だれもが皇位を継ぐ資格を持っていた。しかし,皇太子・嘉仁は早逝することなく生年に達し,皇子を4人も儲けたので,入念に創りあげられた宮家のシステムは,稼働の機会がないままに終わるのである。
註記)シロニー『母なる天皇-女性的君主制の過去・現在・未来-』243-244頁。
3 古来天皇をとりもどそうとした明治政府:天皇神社の造営
注目してよいのは,明治憲法公布に先立って,天皇は古来の宮廷装束に身をつつんで賢所に祈願し,君主制の護持,憲法と皇室典範の堅持を天照大神に誓っていることである。このときの誓願を盛りこんで創られたのが,明治憲法冒頭の「告文」である。祈願のあと,天皇は,伊勢神宮ほかの神社に使いを送って憲法の完成を報告した。こういった方法で,世俗的な憲法に宗教的神聖さが付与されたのだった。
伊藤〔博文〕は,こう書いている。
天地が判然と別れたとき〈神聖位〉が定まったのである。天皇は天の子孫たる神(天縦惟神)でありり,〈至聖〉である。臣民のすべてのうえにそびえ立つ方である。〈欣仰〉されねばならず,犯されてはならない。
近代的天皇の神聖さを強調することは,先帝たちや,いにしえの天皇たちに対する崇拝をも強化した。明治維新以前,固有の神社が奉献されている天皇はごくわずかだった。しかし,1880年代もなかば以降,明治政府は過去の重要な天皇を祀る神社をつぎつぎに造営しはじめる。
1889年(明治22年),憲法公布からほどなく,奈良県に橿原神社が創建された。天皇の王朝の創始者である神武天皇とその皇后を祭神とする神社である。同じ年,同じ奈良県の吉野山に,後醍醐天皇を祀る吉野神宮が創建された。後醍醐天皇に忠節をつくした楠木正成を祭神として,戦死の地・湊川(神戸市)に神社が建てられた。
補記)もっとも,住井すゑにいわせれば,そうやって明治「維新政府」としての「古代史的な存在価値」を再生・復興させる(リバイバルさせる)演出が,意図的に本格化させられたわけだから,
この「天皇・天皇家:天皇制」の歴史の本源的な由来は,もとから,けっして古代史に求められる理由・事情はほとんどありえず,むしろ,伊藤博文や井上 毅,伊東巳代治などの「歴史捏造担当者」たちが鋭意努力して制作した,それも「大日本帝国憲法」に合わせて必置とさせておたい「ある種の賜(たまもの)であった」といえなくない。
しかし,それはあくまで,明治期になって創られた古代史「観」とこの再生「希望」によって,計画的に構築された近代天皇制の具体像:造形であって,それはどこまでも,19世紀米欧の帝国主義国家路線を真似たうえで,この国なりに必要であった「絶対的な心棒たるべき」ところの,しかも「神聖に犯すべからざる理想像」でなければならなかった。
明治以降,睦仁がのちの大正天皇(側室の儲けた男子)になる嘉仁以外,Y染色体・遺伝子は残せず,内親王(娘)たちならば何人もいたのでこの者たちを,古代史からの天皇の系譜を引くとされる「縁戚の男子たちの種を受ける」ための「借り腹子宮」ごときに生かし,
天皇一族「全体」を一括管理していきたいかの様相を採って「子孫繁栄」や「血族未来の豊穣」を狙ったのは,「家・家族」の天皇家なりの紐帯・繁栄を維持し,向上させるために必要かつ十分条件であった,いわば「人的資源」の持続的繁殖性を確保しておくためであった。
もっとも,20世紀の第4四半期から21世紀の第1四半期にかけて観察してみると,天皇家が実際において,その血統性確保へのこだわりは至難の行路をたどってきた。大正天皇も昭和天皇も本妻以外の女性は置かなかったけれども,この配偶者側に関しては暗史的にはあれこれ噂話や推理として,妻(皇后)自身が何種類かの別種を受容していたという《秘話》がないわけではない。
ところが,平成天皇(明仁)から令和天皇(徳仁)の代になると,明治維新以降はわざわざ「男系天皇限定版」であらねばならないと規定してきた「新旧に通約する皇室典範」事情ゆえ,とうとうY染色体・遺伝子が途絶えそうな危機が懸念される時期になっていた。
いまの徳仁天皇には息子はおらず娘の愛子1人しかいない。徳仁の弟秋篠宮が儲けていた息子悠仁が次代天皇になる可能性が高い。だが,そもそも女系天皇制も女性天皇制も絶対に認めないといった,現代におけるそれはみごとなまでの「化石思考回路」が,この国の保守派のなかでもとくに, “極右的に脳軟化症に陥っている連中” にあっては非常に堅固に維持されている。
ジェンダーギャップ指数が「日本の場合,どれほど低迷して」いようと,しかも最近では経済界側からは,夫婦別姓を認めていない「わが国の勤労者(企業人:ビジネスパーソンたち)」が,国際的舞台で仕事をするさい「要らぬ不便・誤解・障害」が絶えない国際経済活動環境を常時強いられ,本当に不便この上ないのだと必死に訴えているのだが,
いまもなお「至宝のごとき天皇・天皇制を戴くわが国」こそは,世界に冠たる八紘一宇精神の,すなわち「神国日本」として「一視同仁」的な国家存立基盤にありうる希有な,そしてそこに強固たりうる国家体制も確立しえているのだなどと,
まるで夢遊病者の寝言・戯言,ただの「恣意的,自慰的,自己満足的な自慢話」に終始していられるのだから,そもそもこの種の発想からして,ディズニーランドに毎日遊びに生けるような身分でないと,とうてい共感できるわけがない。
必要以上に軽視する明治史以降
だいぶ以前であった実際の話を挙げて関説する。それは2000年5月15日の出来事であった。当時の内閣総理大臣森 喜朗が,「神道政治連盟国会議員懇談会」での挨拶のなかで,「神の国発言」と指称されるものを語ったのである。
「今の私は政府側におるわけですが,若干及び腰になるようなことをしっかりと前面に出して,日本の国,まさに天皇を中心にしている神の国であるぞということを国民のみなさんにしっかりと承知をしていただく,その思いでわれわれが活動して30年になるわけでして」
「神様であれ,仏様であれ,それこそ天照大神であれ神武天皇であれ,日蓮さんであれ,宗教は心に宿る文化なんですから。そういうことをみんな大事にしよう,ということをもっと教育の現場で何で言えないのかなあ,信教の自由だから触れてはいけないのか,そうではない。
信教の自由だから,どの宗教も,神も仏も大事にしよう,とういうことを学校でも社会でも家庭でも言うということが,私はもっともっと今の日本の精神論から言えば一番大事な事ではないか,こう思うのです」
このような人物が自分流に唱えた神仏観であったがゆえに
いかんせん誰が聴いても説得力不足
もっとも,自国を『神の国』と思いこんでいる,あるいはそうなのだと思いたい人びとは,なにも日本だけに限定された宗教的観念にまつわる関連事情ではなかった。
たとえば,「ロシアのプーチン」が「戦争目的のために」利用するロシア正教の神父(司祭)たちは,ウクライナ侵略戦争の現場に放りこまれる兵士たちに向かい,この地上で死んでも「オマエタチは神霊になれるのた……」みたいな調子でもって,
「戦場で命を落としても天界では永遠の命がえられる」などと,聖水を振りまきながら説教する動画を実際にみせつけられるにつれ,こまかい手法が彼我間において異なってはいても,「まるで日本の靖国神社の存在理由と同じ」要領で,つまりその「瓜二つのお説教」を垂れていたことになる。
ここで,シロニーー『母なる天皇-女性的君主制の過去・現在・未来-』の叙述に戻ろう。
さて1895年には,京都に壮麗な平安神宮が創建される。794年(延暦13年)にこの地に遷都した桓武天皇を祭神とし,帝都だった時代の最後の天皇・孝明をのちに合祀した神社である。徳川家康を祀る日光の東照宮は,彼に先立つ織田信長,豊臣秀吉というふたりの天下人の霊も,いっしょに祀るようにと指示された。逆に,東京にあった平将門の神社は,彼が天皇に対する反逆者だったために,神社としての社格が下げられてしまう。
註記)シロニー『母なる天皇-女性的君主制の過去・現在・未来-』248-259頁。
4 天皇の葬儀
仏教は宮中から追い出された。が,禁止されたのではない。民衆は相変わらず仏教寺院にお参りしつづけたし,天皇も巡幸のおり仏教寺院をおとずれた。1867年,明治天皇は東北巡幸のさい,仙台地方を訪れ,松島の瑞巌寺で1泊した。
また天皇は,1984年(明治17年),京都にある泉涌寺の大規模改修を命じた。かつて多くの天皇を埋葬した陵(みささぎ)があり,今日に至るまで先帝たちの菩提をとむらう仏教儀式がおこなわれてきた寺院である。
補記)以下に,泉涌寺あたりを撮影した写真(グーグルマップ)を利用して関連する説明をおこなってみる。

左側部分の「60度・30度の三角定規形に近い敷地」の
そのまた左側に上下する位置関係のところに
明治天皇が大改修工事を命じてできたこの「立派な門塀」が建造されていた
この画像( ↓ )である

墓石が並んでいる
だがさすがにこれらの貧乏天皇たちの陵墓は
新規に改築する(いじる)わけにはいかなかった
明治天皇の母にあたる夙子(あさこ)皇太后が1897年(明治30年)に亡くなったとき,皇太后は「英照」をおくり名されて神道による葬礼がおこなわれた。しかし英照皇太后は,亡夫・孝明天皇の陵(みささぎ)のそばにある仏教の泉涌寺に埋葬されたのだった。1907(明治40年)10月に没した天皇の生母・中山慶子(よしこ)も,先帝の他の側室たちもみな,各所の仏教寺院に葬られた。
補記)その孝明天皇の陵墓は「前掲した泉涌寺」「画像の右側部分」(円形の陵がこんもり茂った木々のあいだにその周辺部の一部分だけを観せている)に写っているが,まさに古代史を思わせるこの陵墓を孝明天皇のために建造しておきながら,英照皇太后や中山恵子の葬り方はいかにもズサンというか手抜きのあつかいではないか〔と感じる人びとが居て当然〕。
20世紀に入るまで,日本人の結婚式は,自分たちの家々で宗教的な儀式抜きでおこなわれていた。1900年(明治33年)の2月,のちに大正天皇となる皇太子・嘉仁の婚礼の準備を進めていた宮内大臣が,今後,皇族の結婚は神道の儀式によっておこなわれる,と発表した。
宗教的結婚式というアイデアは西欧のものであり,したがって神道結婚式は日本の西欧化の一部なのである。皇太子の結婚式はこの年5月に挙行されたが,これが日本における最初の神前結婚式であった。それ以来,神道の神社で挙げる結婚式が,新しい伝統となっていった。
註記)シロニー『母なる天皇-女性的君主制の過去・現在・未来-』259-260頁。〔 〕内補足は引用者。
補記)つまり神道式の神前結婚式の由来は20世紀からの出来事であり,前世紀からの方式・格式として執りおこなわれるようになった儀式の方法。
5 天皇と民主制(デモクラシー)は矛盾しない?
天皇と民主制(デモクラシー)とはかならずしも矛盾するものではなかった。当時の指導的デモクラシー唱道者だった吉野作造は,天皇への忠誠はデモクラシーに通ずると論じ,人民が天皇になしうる最大の奉仕が政治参加であると主張した。
右翼の理論家・北 一輝は,1919年(大正8年)に『日本改造法案大綱』を書いたが,そこでは天皇を「国民と民主国家の総代表」と定義している。北はまた,男子普通選挙,貴族の廃止,天皇の料地・料林の国有化を要求した。こうした要求のせいで,『日本改造法案大綱』は〔今風の感覚に照らしていえば奇妙なことに〕発禁となった。
地下に潜行した日本共産党だけが,「天皇制」を否定する唯一の政治集団だった。この「天皇制」は共産党がつくりだしたことばであるが,のちには皇室制度を指す標準的な用語となっていった。
註記)シロニー,同書,277-278頁。〔 〕内補足は引用者。
つぎに「皇族の軍人化」という話題を振りかえってみよう。
秩父宮雍仁(やすひと)は19「45年(昭和20年)には,陸軍少将に昇進した」(296頁)。「高松宮宣仁(のぶひと)」「は海軍大佐となり,また海軍の考え方を天皇に伝えていた。三笠宮崇仁(たかひと)」「は陸軍の騎兵士官で,43年(昭和18年)には支那派遣軍参謀,翌年には大本営参謀となった」
註記)シロニー,同書,296頁。
「昭和天皇の伯父にあたる東久邇稔彦王」「は,陸軍航空本部長をつとめ,のちには本土防衛の総司令官にもなった」
「閑院宮戴仁(ことひと)」「は,1931年から40年まで参謀総長だったし,伏見宮博恭」「は1933年から41年にかけて海軍軍令部長をつとめた。梨本宮守正」「は軍事参議官をつとめた。朝香宮鳩彦」「は上海派遣軍司令官となったが,傘下の舞台は1937年に南京を占領したとき『南京大虐殺』を引き起こした」
註記)シロニー,同書,297頁。
6 GHQの神道処分の甘さ:靖国神社,天皇陵には手を触れず
占領当局は国家神道を解体したが,神道の制度には敬意を払った。皇居や宮中三殿(賢所,皇霊殿,神殿)といった聖域にも立ち入らず,戦前の発掘禁止令にしたがって天皇陵にも手を触れなかった。伊勢,熱田,出雲,日光など主だった神道の神社は私的な施設として機能しつづけた。
戦没者が祀られている靖国神社でさえ,閉鎖されることはなかった。20年おきに社殿の造り替えがおこなわれる伊勢神宮は,1949年(昭和24年)がちょうど解体作業の年にあたっていたが,戦争で必要な準備がととのわず,1953年(昭和28年)まで工事は延期された。
占領当局は,三種の神器も押収しなかった。刀剣の所持禁止令が出ていたにもかかわらず,名古屋の熱田神宮は,収蔵していた古刀・名刀とともに,三種の神器のひとつである天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)(草薙剣)をひきつづき所有することを許された。1946年春,天皇は熱田神宮に参拝,神木である榊の枝を神前に捧げた。
国家が宗教団体を支援することはできなくなったが,天皇は個人としてなら,それができた。このため裕仁は,1故人という名目で,戦前からゆかりの深い神社と寺院にひきつづき寄進をおこなった。
註記)シロニー『母なる天皇-女性的君主制の過去・現在・未来-』315-316頁。
7 マッカーサーの天皇改宗作戦
明治維新のさい,新政府内で力をえた神仏分離・廃仏毀釈のラジカルな動きによって,皇居から徹底的に仏教が締め出され,このため,仏教儀式をふたたび宮中に導入しようと試みる者はいなくなった。
基督教のほうは,皇室によって採用されたためしがなく,したがって宮中に入るのは仏教よりずっとむずかしかった。しかし,1945年以前にも,クリスチャンを宮中の職員として雇うなお,キリスト教にたいする寛容さはみられたし,日本のクリスチャンもそのほとんどが国家神道を受容し,天皇を尊崇していた。
註記)シロニー,同書,317頁。
マッカーサー元帥は敬虔なクリスチャンで,キリスト教だけが民主主義を保障し,共産主義が日本に広まるのを防ぐ手だてとなる,と信じていた。またマッカーサーは,日本がキリスト教を受け入れるのに記は熟していると考え,神道はその障害にならない,と考えていた。
註記)シロニー,同書,317-318頁,318頁。
マッカーサーのすすめで,指導者たちのグループは天皇に会った。それから数カ月の間に,プロテスタント諸派,カトリック教会の関係者がぞくぞくと日本に到着する。SCAPは占領軍施設を彼らの宿所にあてた。1950年までに,これら聖職者の数は2500人に達した。
補記)スキャプ【SCAP】とは,Supreme Commander for the Allied Powers の略語で,連合国軍最高司令官を指す。第2次大戦後の連合国による日本占領・管理の最高責任者として,マッカーサー元帥がこれに任命されていた。
〔本文・記述に戻る→〕 1947年6月,クリスチャンの政治家・社会党の片山 哲が首相に選ばれ,4人のクリスチャンを大臣として入閣させた。日本国民は彼らがクリスチャンであることに気づいてもいなかったが,マッカーサーはこれを重要な突破口とみなした。日本人を改宗させるのに,もっとも良い方法は,天皇にキリスト教の信奉者になってもらうことであった。
註記)シロニー,同書,319頁。
しかし,いったん国家と宗教を切り離した以上,あからさまに自分の権力を行使して改宗を強いることはできなかった。そして結局,間接的に説得を試みるという手段を選ばざるをえなかった。
天皇はマッカーサーの誘いかけに拒否的ではなかった。ある宮中関係者によると,裕仁は神道を宗教とは見ておらず,むしろ「アメリカで過大評価されている」ひとつの儀式体系と考えていた。天皇の弟・高松宮は,神道とキリスト教の組み合わせが望ましいと考えた。
註記)シロニー,同書,320頁。
19「47年」「昭和天皇の母・節子(さだこ)皇太后が『わが国が,いま必要としているのはキリスト教です』と述べるのを聞いた人がいる」 「あるとき,マッカーサー将軍が,アメリカの福音伝道家ビリー・グラハム師に対して,『天皇がキリスト教を日本の国教にしてもいい,と打ち明けたことがある』と語った。しかし,マッカーサーはこの申し出を断った。『なぜなら彼は,いかなる宗教であれ,それを国民に押しつけるのはまちがっていると感じたからだ』という説明だった」
天皇はカトリックに興味を示した。戦時中の日本では,カトリック教会が同盟国のイタリアやビシー政権下のフランスと同一視されたこともあり,カトリックは敬意のこもった評価を受けていた。日本の上流階級のあいだにも,カトリック信者がいた。吉田茂首相の妻も子どもたちもカトリック教徒だった。
註記)シロニー,同書,321頁。
その年〔1947年〕の後半,ニューヨークのフランシス・J・スペルマン枢機卿が東京を訪れ,天皇に謁見し,そして12月には,ヴァチカン発AP電が,天皇はカトリックに改宗するかもしれないと報じた。
註記)シロニー,同書,322頁。
GHQ〔連合国軍最高司令官総司令部〕で宗教関係の業務に深くかかわっていたウィリアム・ウッダードは,つぎのように書いている。
「エリザベス・ヴァイニング夫人が皇太子の家庭教師として赴任したとき,皇太子のキリスト教への改宗は必至と考える人たちがいた。……ボナー・フェラーズ准将も,日本のつぎの天皇は,“まちがいなく”クリスチャンだ,と予言いたといわれている」
ヴァイニング夫人は,日本語・英語の両方で書かれた聖書を読本としてあたえ,グループの授業にキリスト教学者を招いて,キリスト教のテーマで講義をさせた。
註記)シロニー,同書,323頁。〔 〕内補足は引用者。
一方,他の皇室メンバーも,キリスト教の教育を受けた。
1947年4月に帰国した植村〔環(たまき)〕は,天皇・皇后に謁見し,米国長老派教会婦人支部からの贈り物として,美しい装丁の聖書を手渡した。天皇・皇后ふたりの依頼を受けて,彼女は3人の皇女,和子・厚子・貴子内親王に,英語と聖書を教えることになった。
1948年4月からは,良子(ながこ)皇后にも聖書の授業を始め,テキストには新約聖書が使われた。これらのレッスンは4年間におよんだ。ときには天皇が立ち寄り,皇后の歌う讃美歌に耳を傾けることもあった。
「1950」「年,ヴァイニングが任期を終えてアメリカに帰ると,後任には,同じフィラデルフィア出身のクェーカー教徒の女性エスター・ローズが選ばれた。東京にあるクェーカー女子校・普連土学園の園長だった人物である。彼女は57年(昭和32年)までの7年間,皇太子と皇后に英語のレッスンをつづけた。
註記)シロニー,同書,324頁。
宮中へのキリスト教攻勢は,重要なポストに任命された人物の顔ぶれをみれば明らかである。1948年,学習院副院長でクリスチャンの三谷隆信が侍従長に任命された。キリスト教神学者・三谷隆正の弟である。三谷隆信は18年ものあいだ,侍従長をつとめた。他のクリスチャンたちが彼につづいた。
★-1 小泉信三
1949年,戦時中慶応〔義塾〕大学塾長だった小泉信三が,東宮職参与に任命された。戦時下の小泉は天皇のために戦うように学生たちに力説し,自分の息子を海戦で亡くし,彼自身,東京大空襲で傷跡の残る重傷の火傷を負った。同年,キリスト教に改修し,東宮(皇太子)の教育参与として宮中に招かれた。ヴァイニング夫人によると,小泉は皇太子・明仁にもっとも大きな影響を与えた人物である。
1950年,クリスチャンの法学者・田中耕太郎は最高裁判所長官となり,明仁に憲法の講義をした。1951年,カトリックの教育者・浜尾 実が明仁の家庭教師となった。弟はのちに横浜教区司教となるカトリック聖職者である。浜尾 実は後年,明仁の子どもたちの家庭教師もつとめることになる。
このように,宮中の重要なポスト,とくに教育に関するポストはクリスチャンの手中にあった。1953年に国際基督教大学(ICU)が創立されたとき,天皇は寄付をおこない,弟である秩父宮は名誉顧問となった。
註記)シロニー,同書,325頁。
★-2 宮中に浸透する基督教
天皇か皇太子かが基督教を信奉するようになってほしい,というマッカーサーの望みは実現しなかった。宮中における神道の伝統が強よすぎたのと,日本におけるキリスト教の人気が低すぎたため,そのような急激な変化は起こりえなかったのである。
しかし,宮中ではキリスト教の影響力は増した。天皇・裕仁の次男・常陸宮は改宗こそしなかったもののキリスト教に惹かれた。皇室に関する著書がある渡辺みどりは,常陸宮が学習院高等部の学生だったころキリスト教を信奉していた,と明かしている。
当時,彼は就寝前に毎晩,お祈りをしていると広くささやかれていた,というのである。皇室にくわしいジャーナリスト河原敏明は,常陸宮は神道の儀式に出席しつづけたものの,「心はキリスト者なのである」といっている。
皇室のメンバーで公に改宗したのは,裕仁の叔父にあたる朝香宮鳩彦(やすひこ)王だけである。彼は戦時中,南京大虐殺を犯した陸軍軍団の司令官のひとりだったが,皇族身分だったことで罰せられることはなかった。1951年(昭和26年)12月,すでに皇族を離脱していた朝香鳩彦は,悔恨の念から,あるいは訴追をまぬがれるためか,家族とともに洗礼を受け,カトリックに改宗した。
昭和天皇のいちばん下の弟・三笠宮は,政治中〔敗戦時〕陸軍少佐だったが,戦後,東京大学でセム語と古代近東史を研究した。1955年(昭和30年),東京女子大学で教鞭に立った。この女子大学は,アメリカ人宣教師カール・ライシャワーが,〔19〕17年(大正6年)に創立したキリスト教の女子専門学校がその前身である。学者のエドウィン・ライシャワー元駐日大使はカールの息子である。
註記)シロニー,同書,325-326頁。〔 〕内補足は引用者。
三笠宮はクリスチャンではなかったが,神道の神話には批判的で,神武天皇による王権の確立を記念する紀元節が「建国記念日」として復活することに反対した。これに怒った右翼は,1958年(昭和33年),彼の考え方に抗議するため,三笠邸に押し入った。三笠宮は,何度か皇族の身分を離れようと試みたが,法律で禁じられているという理由から,認められなかった。
註記)シロニー,同書,326-327頁。
三笠宮は,昭和天皇の弟たちのなかで,唯一子どもをもうけた親王である。彼の一家は戦後の宮家のひとつとなった。すなわち,戦前の宮家のほとんどが皇族でなくなり,天皇の限られた直系家族だけが宮家として残されたうちのひとつであり,もし裕仁の系統が途絶えた場合,将来の天皇を供給する資格を有している。
三笠宮崇仁(たかひと)の第1皇女・甯子(やすこ)は,近衛文麿元首相の孫・近衛護煇(もりてる)(のちの忠(ただてる)と改名)と結婚した。いちばん下の皇女・容子(まさこ)は,京都の茶道裏千家流家元の息子・千政之と結婚した。結婚によって,皇女たちは皇室を離れた。
三笠宮家の跡継ぎとなる第1皇子・寛仁は「ヒゲの宮さま」という異名で親しまれ,吉田 茂元首相の孫娘でカトリック信者の麻生信子と結婚し,ふたりの娘をもうけた。第2皇子・宜仁(よしひと)は桂宮という別の宮家を立てたが,血液の病気のために結婚しなかった。第3皇子・憲仁は高円宮 となり,カトリックの聖心女子大学からイギリスのケンブリッジ大学に学んだ鳥取久子と結婚し,3人の娘がいる。
註記)シロニー,同書,327頁。
補記)この付近のシロニーの記述となれば,2026年7月下旬に国会で成立した「皇室典範改正(改悪)案」の中身をみれば,三笠宮と姻戚関係をもっていた麻生太郎が「自分の妹や姪たち」を介して,藤原道長の21世紀版を気どってみたい気分だけは,よく伝わってきた。
もっとも,全国民たちの受けとめは,女性・女系天皇の出現可能性を干し上げた,麻生太郎の「隠謀めいたそのやり口」と,これに協働した首相「高市早苗」の立ち位置は,とくに若い女性層や男性の高齢層から大きな反発を喰らっていた。
★-3 軍服から背広へかわった時期:年月日
白馬にまたがる雄々しい大元帥は,背広でほほえむ小父さんの姿へと変わった。1945年11月20日の靖国神社参拝が,最後の軍服姿となった。後年,軍服はまだお持ちですかとたずねられた天皇は答えた。「それはもう処分したものと思っています」
補記)なお「引用者側の付記」としては,この彼の答えには「疑問符をつけるべし!」と書いておきたい。
戦後の天皇は,文人的で受動的で女性的な,という祖先たちがかつて保持していた立場にもどっていった。天皇の母である節子皇太后は,戦後,天皇家の人たちに向かっていったといわれる。「江戸時代以前にもどるだけです。あなたたちも,心配はいりません,うろたえないことです」
註記)シロニー,同書,337頁。
補記)敗戦した1945年8月15日というあの日,日本全国がどのような惨状になっていたかを,この節子皇太后(大正天皇の妻)は,本当に実感したうえでそのようにいいはなちえたのか,疑問なしとしえない。
★-4 明仁・美智子が結婚を神社に報告した行為
皇太子と皇太子妃は,伊勢の天照大神と奈良の神武天皇の霊に,結婚を「報告」する旅に出た。こうした神々の存在を信じていたからではなく,伝統にしたがったのだった。
註記)シロニー,同書,359頁。
補記)それは「いつからの伝統」だったというのか? というのは,明仁はヴァイニング夫人に,「神武天皇が存在したのかどうか,私たちも分りません」と認めていた。この明仁なりに発言した「神武天皇陵の否定」はウソであったことになるのか?
★-5 常陸宮と美智子,聖書事件
キリスト教の信奉者になりかけていた常陸宮正仁は,美智子が天皇家の一員になったことで元気づけられた。ノンフィクション作家の宮原安春は,彼女が皇太子妃となってしばらくしてのこととして,つぎのような話を書いている。
宮中に〔おいて〕は,常陸宮が聖書を読んでいたことを昭和天皇からとがめられ,とっさに美智子妃の影響と答えたことで,〈美智子妃を昭和天皇が即刻呼びつけて叱責した〉という噂が広まった。これは事実無根だったが,噂は増幅して伝えられていった。
昭和天皇負債と息子の嫁との関係は,冷たいものだった。皇太子の家庭教師だった浜尾 実は,明仁と美智子が宮中で週1回の食事会に出席するたび,皇后は嫁への不快感を隠さなかった,と明かしている。その結果,美智子はこうした食事の席を欠席するようになる。欠席が重なると,天皇は怒っていた。
「美智子が来たくないのなら来るにおよばず」
天皇・皇后は皇太子妃の両親を一度も食事に招くことがなく,また,近くに住みながら,美智子妃は特別な許可がないと実家に帰れなかった。皇太子妃だった30年のあいだに,実家に帰ったのはわずか10回,3年に一度の計算になる。彼女の両親は,孫の誕生日,学校の入学式・卒業式のときだけ,東宮御所への訪問が許された。
註記)シロニー,同書,363-364頁。〔 〕内補足は引用者。
補記)正田美智子の両親は,明仁の嫁候補に自分たちのこの娘が上がったさい,それこそ震え上がるほど驚いたはずである。事後,この娘を海外旅行に出させたりして,なんとか皇太子の嫁になることを回避しようとした事実は,誰も否定できない。シロニーはこの種の話題をさらに書いている。
〔本文に戻る→〕 1963年(昭和38年)3月,美智子妃は流産を経験した。その結果,天皇家の子を流産するとはなにごとかという批判が起こった。このような「いじめ」にくわえて,皇太子との外国への公式訪問が重なり,疲れと緊張がたまって,彼女は鬱病になり,夫と息子以外,だれとも話さなくなった。この情報がマスコミに漏らされ,報じられると,鬱病はますますひどくなった。
註記)シロニー,同書,364頁。
★-6 大嘗祭とは?
大嘗祭は天皇が神性の保持者となる儀式だという議論を,政府のスポークスマンは否定した。宮内庁は,これは稲作社会に紀元をもつ古い伝統であり,すべての天皇が即位にさいし,先祖と神々に食べ物を捧げて収穫を祝い,みずからも食するものだ,と説明した。儀式の秘密性は,宗教的見地から弁護された。
註記)シロニー,同書,388頁。
補記)この★-6のごとき宮内庁側の説明は,ほぼ百パーセントの嘘であった。嘘でなければ,天皇家・一族の祖先が保持・継承してきた伝統・格式じたいが,そもそも,アヤフヤの中身でしかありえない「歴史(?)の事実」である点を意味した。
★-7 東條英機
独白録〔『昭和天皇独白録-寺崎英成御用掛日記-』文藝春秋,1991年〕のねらいは,天皇から責任を払拭し,軍部と内閣にそれを転嫁しようというところにあった可能性がある。
しかし独白録からは,裕仁がしばしば口をはさみ,決定的な決断の場面に深く関与した君主だったことも,歴然としてくる。天皇はまた,独白録のなかで,東條英機大将を,正直で献身的な首相だったと賞賛している。
註記)シロニー,同書,389頁。〔 〕補足は引用者。
付記)以上の引照においては,その間に多くの引用・参照文献が付則・追記されていた点を断わっておく。以上の引照では委細かまわず割愛した。
「本稿はこの(14)」でひとまず終稿となる。だが,以上のように尻切れトンボ的な記述で擱筆する。学術論文とはいいにくい体裁でを取った記述に傾いた論稿であったゆえ,その点はいっさい気にすることはなく,自由にいいたい放題に論述をおこなってきた。要は読者になにかを考えてもらえる論考を提示できれば,それで十分だと勝手に思いこんでいる。
----------------------------------
【参考文献】
