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「日本初の女性首相」論(10)-憲法学者百地 章の,「明治謹製」珍・迷説に「だんだん腹が立ってきた。なーにが『伝統的家族』ですか」と立腹した毎日新聞記者・吉井理記の批判は,現在の日本首相高市早苗の立場にも全面的に当てはまる

 1 本日の標題は以下「a)のような」長ったらしい文をなんとか短めにしてみたつもりのものである。この記述はとくに全体の論旨として「百地 章=高市早苗」とみなしてよい中身になっている。すなわち,高市早苗⇒百地 章というほぼ百%完全一致性を請けあえる議論が展開されている。

 というしだいなので,以下の記述中には高市早苗の氏名はごくわずかしか出てこない。だが,実質では百地 章が代身になって「高市早苗の家・家族観」を,それも法律家として語っている。そういった読みかえを念頭に置き,いつものように長い記述であるが,我慢して付きあってほしい。

事前の断わり 

 a)「明治謹製」だったに過ぎない,それも国家神道もどき「家観念・家族イデオロギー」を振りまわし,その「反近代的な過去の遺物的発想」に拘泥しつづける「単なる疑似古式思想の追求者」の代表格,百地 章の珍・迷説に対して「だんだん腹が立ってきた。なーにが『伝統的家族』ですか」と立腹した毎日新聞社「オピニオン編集部」の記者・吉井理記の批評が書かれていたのは,『毎日新聞』2025年3月19日夕刊紙面でのことであった

 百地 章に対して吉井理記が書いたその論説がこれであった。

百地のいった「長い年月」の中身は実は相当眉唾モノであった

いわば履歴詐称でなければそのサバの読み方だけは
「長い年月」を「耐えて残っていく可能性」を期待していたのかもしれない

だがそれはまだ「未来にかけての話」だったから
「昔話を伝承するほうの世界」には全然当てはまらない

 付記)冒頭の高市早苗「画像」は,「intarouさんの投稿」Rintarou2025年10月23日 から借りた。

付記)冒頭画像について

 ところで,その吉井理記のその批評文を紹介する前に--たまたま昨日,2026年4月12日の本ブログの記述で取りあげていた吉井の一文もあった関係で--,日本の首相である高市早苗の極右イデオロギーに対しても,ぴったりそのまま妥当する議論を,吉井が別途おこなっていたので,こちらもこのさい,画像資料で紹介しておく。

 こちらで高市が叫んでいた「反省なんかしておりません」という迷文句は,多分,学究である百地 章からも事後,別様に吐かれる可能性もなきにしもあらず,である。

高市早苗は「自分は戦争を知らない世代」だから
過去に自国が起こしてきた戦争史に自分はなにも関係がない反省などしていない

などとアンビリバボーの発言を堂々と放っていた

その一言で日本初の女性首相はみずから
政治家の資格をそもそも欠如していた事実をゲロした

 この種の「日本初の女性首相」になったはずの,高市早苗という人の「観念形態の特異性というか畸型性」は,いかに時代錯誤の,というか歴史の歯車を逆転させたい脳細胞の持主であるかという事実をもって,それこそ自分の「政治の立ち位置」を▼鹿正直に露呈(反映?)させていた。

 本来,日本古来の伝統とはなんら本質的な関連性を有しない,つまり,明治時代において「明治維新的に独自に創られた」に過ぎない「教育勅語的な封建遺制の概念」に凝り固まった発想に「いまだに自縄自縛的に拘泥して」いながら,おまけに,近現代民主主義の根本理念とはまったく異質であった「自身の観念そのもの」を客体視できなかった,

  「学究の百地 章」および「政治屋の高市早苗」

といったそれぞれの人間存在は,これをこの国の政治から剔抉しておかないことには,これからの日本の民主主義を健全に進捗させえないどころか,ブレーキ役にしかならない。いってみれば,民主制政治に対してならば,典型的な見本としての反動形成分子たりうる,つまり学界と政界におけるそれぞれのみごとなまでの実例であった。

 b) 前段においてさきに紹介した吉井理記のその文章,「〈今日も惑いて日が暮れる〉百地 章氏のご意見=吉井理記」『毎日新聞』2025年3月19日夕刊,https://mainichi.jp/reporter/yoshiiriki/ は,なんというか「ごく自然な感想としてその根源から百地に向けて提示した疑問あるいは批判」に,本ブログ筆者は興味を惹かれた。

 というしだいでこの吉井理記が,頑迷固陋なる「極右・保守・国粋・観念」路線を,いままでよろよろと徘徊してきた憲法学者百地 章に直接向けて書いたその「率直な筆致になるこの記事」を紹介することは,これなりに意義がある。

 補記)2015年度,当時の安倍晋三政権は日米安保関連法を成立・施行させていたが,この政治過程のなかで日本の憲法学者たちの大部分が反対したのに対して(違憲だという判断であった),わずかつぎの3人の賛成しかえられなかった。

 その2015年度に国会で議論された「安全保障関連法(安保法制)」改正に賛成(合憲)の立場をとった憲法学者は,当時の国会審議において自民・公明の与党が参考人として招致した,つぎの3名のみであった。

  西  修(駒澤大学名誉教授)
  長尾一紘(中央大学名誉教授)
  曽我部真裕(京都大学大学院教授 ※政府側が
          合憲の立場として挙げた学者の一人)

 当時,衆議院憲法審査会で参考人質疑に立った長谷部恭男・早稲田大学教授(当時)や小林 節・慶應義塾大学名誉教授(当時)が違憲性を指摘したこととは対照的に,上記の学者たちは安保関連法案を「合憲」とする見解を示した。

 なお,この時期はほとんど,多くの憲法学者が「違憲」を表明し,反対する声明を出したため,全体として賛成派の学者はごく少数であった。そのころ安倍政権で幹事長を務めていた菅 義偉が,あるとき「合憲だと主張する憲法学者はいっぱいいる」と,ひどくデタラメの発言をしたことが記録されている。

 百地 章は,この「安全保障関連法(安保法制)」改正について,もちろん「合憲の立場」であった。

日米安保関連法問題

 日本の政治の世界のなかでは,いまだにこのように時代がかった家・家族思想をかたくなに抱く知識人(ここでは大学教授)が,「自分たちがこの国の世界観・価値観」を代表・代弁しているかのような態度で,関連する議論をしていたのだから,この種の知識人の存在じたいが,そもそも問題にならざるをえなかった事実を,よくしっておく余地がある。 

 ここで,吉井理記の『毎日新聞』2025年3月19日付夕刊「百地 章氏のご意見」を,あらためて活字(テキスト)にして再掲しておこう。 

 夫婦が改姓せずに結婚できる「夫婦同姓・別姓選択制」に反対する百地 章・国士舘大名誉教授の意見が〔『毎日新聞』2025年3月〕7日付朝刊に載った。見出しは「『伝統的な家族』崩壊に危機感」である。一読してその場にへたりこんだ。

 「伝統的家族」なるものについて,家族社会学者への取材や大正期の国勢調査をもとに,その「非伝統性」を本紙「特集ワイド」で書いたのは2017年のことだった。日本一つとっても,家族のあり方なんて時代や地域,階層によってさまざまだ,ということを論文をいくつも読みつつ,結構がんばって書いたんですよ……。

 なのに,8年後のいまもなお,「伝統的家族」という幻想が堂々と語られることに,おのれの非力さを思いしったのだった。百地氏への反論は近く「特集ワイド」で書くが,ここでは一点だけ。百地氏の〈保守派は長い年月に耐えて残ったものには価値があると考える〉との主張である。

 百地氏の抱く家族像が「長い年月耐えて残った」ものかはさておき,長く続くことが「価値」を意味するわけではない,という例はいくらでもありますね。〔なお,吉井理記の記述はここでいったん途切れ,少しあとに残りの段落の引用に復帰する〕

百地のいいぶんはあくまで明治以来にのみ妥当しうる「長い年月耐えて残った」
という指摘であってそれ以上昔にまで遡れる確証などまったくない
いわば非科学的・反学問的・没歴史的な一方的発言


 ところで,百地 章がそのように「長い年月耐えて残った」「伝統的家族」だといったつもりの「日本の家・家族の伝統」とは,あくまで明治半ば以来のそれとしてしか,実在していなかった。せいぜいのところで20世紀になってから,なんとかしてだが確かめられる程度の「伝統そのもの」であった。

 しかも,旧大日本帝国が敗戦した直後には,この家・家族の制度については「近代化というか現代化」が必要であったにもかかわらず,まったくにその必要性をないがしろにしたまま固執し,継続させてきせてきた。

 それがために,21世紀になっても百地 章のごときに,19世紀のどん詰り期にデッチ上げられた「明治謹製の家・家族制度」に込められていた,つまり,封建遺制を片足に絡みつけて引きずったままの状態での「エセ革新性そのもの」ではなく,

 近現代史の時代環境のなかでは,まさに反動形成史を意味するほかなかった事情の経過を,まるで金科玉条に錯覚したかのようにしてきたがために,「21世紀も第一四半期が過ぎ去った時期」になっても,つまり2世紀も以前の家・家族制度であったその観念体系を,後生大事と,いまだに昂揚してやまない。

 ここまで記述したところで,吉井理記が問題にしていた,それも百地 章の精神世界にあっては,「21世紀にもなってだから,19世紀末に構想されていた〈日本的家・家族観〉をもちだして喧伝したがる説法じたい」が,そもそも「眉唾モノ」だといわれる以前に,確かな理由や現実的な根拠,依拠すべき背景などのすべてを欠落させていたゆえ,理想論どころか空想論としてしか,その着地をめざす目標そのものがみつけにくかったという一大特徴を孕んでいた。

 c) 百地 章は,日本の家・家族制度には「長い年月」が控えているのだと表現していたが,もしも学者の見解であるならば,その長さそのものについての話を,もっと具体的に指示・明証したうえで口に出すべきことがらであった。それなのに,学術上の言及が必要なものごとについて,「なんとはなしに」語るような口調は学究には禁物であった。いわずもがなの注意事項であるが,そうした論旨で自説を走行させるという特性もあった。

 こういう話をしておきたい。皇居内・宮中三殿の賢所に勤務していたある巫女が,皇室においては『いにしえのとても永ーい,二千年にも遡れる,それはもうとてもすばらしい伝統と歴史があるのです』といったふうに,しかもしばしば,ただ分かったつもりでしか語りえないような,換言すると,その具体的な根拠のほうがさっぱり明快ではなかったというか,歴史のなかにその根拠が全然みつからないいいぶんは,そもそも初めから説得力がなかったという前に,完全なる作り話であった。

 つまり「古(いにしえ)ぶった(振りをしただけの)」,それも一方的にただ,ともかくすばらしい伝統,権威が備わっていたのだとだけ強調するかのように,無条件にかつ問答無用的に唱えてきた「皇室神道流のあの姿勢と瓜二つな口吻」を得意とし常用するのが,百地 章の問答の立て方であり,見解の示し方であった。

 だからここではともかく,いきなり断わっておくが,そのような論法を繰り出すだけの立場に終始しているようでは,相手に対してなにか議論をしかけ,対話を交わし,また批判を投じたり返したりするにしても,初めから無理が過ぎた薄弱な意見や脆弱な立場しか保持できていない。

 d) 本ブログ筆者が記憶している話。昔,学生時代のころでの話題となるが,機会があってある女子学生となにかの議論をしていたら,この彼女たまたま創価学会員であった事実が,その議論の最中に判明したのだが,双方の意見が合わず対立したなかで,彼女のいいぶん(創価学会の立場そのものである主張)に対して,こちらが真っ向から反論・批判したら,その瞬間からこの2人の議論は一巻のお終い(臨終:凍結状態)になった。

 要は,こちらとしてはそれなりに議論をしていたつもりであったが,相手としてはまた,別にそちらなりに宗教論争の次元に早々と自分の話を変換させて議論をしていた(?)らしく,その心底(背景)に控えさせていたあちら側の『核心の忌諱』に触れてしまった「当方の発言」を彼女に聞かせた瞬間,そこからの議論はもう絶対に一歩も前に進めない雰囲気に一変した。

 以上のような経験にもとづく “たとえ話” をもちだしてみたのは,百地 章がそもそも開陳した主張をめぐっては,本日のこの記述で紹介した『毎日新聞』記者,吉井理記の文章(立場)と百地のいいぶんとの間で発生していた対立に,その “たとえ話” が酷似していたからである。学究の立場に居るはずの人間が,宗教的な信条の次元で語り出したらその瞬間に,そのいいぶんは学問・科学の圏域には収まらなくなる。

 いずれにせよ,吉井理記が百地 章に向けて提示した批判とは別個に,本ブログ筆者の立場(場合)なりに,百地の見解の背後に色濃く漂う「主義・イデオロギー」の超絶的な飛躍ぶりに体現されていた問題性をめぐっては,これを放置しておくわけにいかない「根本的な疑念」が浮上していた。

 e) ここで併せて記述することになるが,前段でとりあげた彼女(創価学会員)の頑迷固陋ぶり--自分「たち」は絶対的に正しい真理の立場に居るという傲慢そのものであった態度--に接したさい,その態度からただちに汲みとれた感触は,「対話をするとかしないとかいった以前において」すでに,オカルト気分的には彼女のほうが「自分は絶対的に正しい」という〈超越的な正義の確信観〉を抱いていた様子が,先験的にかつ露骨に表出されていた点であった。

 それはいわば,彼女の立場においては最初から絶対最上級的に,それも非常なる自信をたずさえた気分としても披露されていた。それゆえ,相手をしたこちら側としてもこれまた,対話する面にのみ限るとしてもただちに,意識的に絶対的な境地に立たざるをえず,そちらの立場はけっして許容できないとみなし,対峙するほかなくなった。

 そのときは「ああ,これでは,この人とは永久に対話そのものが成立しえないな」「この人は妥協だとか調整だとか折り合いだとか」を付けつつも,さらに他者と対話を重ねてしてゆき,相互に理解を高め深めようとするための努力というものは,同じ穴のムジナ同士である創価学会の信者連を相手にする場合以外は,初めから完全に無駄骨になるなといったたぐいの感触しかもてなかった。

 2 百地 章はすでに大学の名誉教授で,相当に高齢の人物であるとかないとかいう以前に,昔から「極右・保守・国粋・観念」路線を着実に歩行してきた憲法学者


 a) 百地 章(ももち・あきら,1946年10月4日- )は,憲法学を専攻してきた日本大学名誉教授で,現在は国士舘大学特任教授。前々世紀風味の化石的な憲法学者だったと観察できるが,ただしこの化石は本物の化石ではありえなかった。その証拠はこの記述内であれこれ論じつつ説明する。

百地章:画像

〔ここからはひとまず,前項のからいったん離れていた(残してあった)吉井理記の論説に戻る ↓ 〕

 奴隷制は古代から人類社会に存在した。中国には20世紀に至るまでの1000年もの間,女性の足を縛って小さく変形させる「纏足(てんそく)」の習俗があった。

 奴隷を使役する側や,女性に小さな足を求めた男性には「価値」があっても,当人にとっては長く続いた非人道的な悪習でしかない。というわけで,近代の人権思想によっていずれも否定されたのは読者もご承知のとおりである。

 さて,個人的なことを申し上げれば,僕には娘が2人いる。普段は姓名判断や占いなどは信じないが,生まれた時ばかりは,姓名の画数やバランス,字義などを漢字辞典で調べつつ,妻と一生懸命考えて名前をつけた。

 結婚したらどうなるか。

 改姓を強いられるのはほぼ女性だ。名前という宝物を捨てさせられる痛みは,本人のみならず,親も同じだろう。妻も改姓した。妻は一人娘だ。義父母が懸命に愛娘に名前を付ける姿を想像すると,胸が痛んだ。

 というわけで百地氏の記事を読み返していたら,だんだん腹が立ってきた。なーにが「伝統的家族」ですか。(オピニオン編集部)(『毎日新聞』の引用終わり)

「なーにが伝統的家族」?

 この吉井理記の発言(かなり明確に反発する気分を表現した文言)は,本ブログ筆者が当初から感得していた問題点に,基本から関連していた。いってみれば,百地 章のそうしたいいぶんじたいに特有であった,その古くささ(といっても19世紀末期以降からの「人工的な産物」であった明治後期からのそれ)の,まさにその陳腐さ加減に吉井理記が呆れてしまったせいか,文章の末尾になると,とうとう,つぎのごとき表現まで噴出させていた。

 つまり,百地 章たちの特定集団が必死になって語っていた「『伝統的家族』がなんだっていうんだ(!)」(⇒そんなものいまどきありえない),というような語調にもなった「結語のいいぶん」が書かれていた。

 b) ところで,われわれがごく常識的というか,一般論で想起できるような日本の家ないし家族「像」とは,いったいどのようなものでありえたのか? もちろんそれは,21世紀における〈現時点の話題〉として考えるその「実像」のことである。

 ここではまず,つぎのような統計図表を参考の資料に挙げ,関連する論点をあれこれ考える手がかりにしたい。

この図表からは百地章の想定していた「家」や「家族」の観念を
当てはめておきたい対象がすでに圧倒的な少数派になっていた事実しか読みとれない

単身世帯や核家族世帯の伸びに対して3世代世帯やその他の世帯の
相対的かつ絶対的な減少傾向などおかまいなしに

家の観念が大事だとか家制度を守るべきだという発想は
絶えず現実に推移していく事情とは別個に

「明治謹製」の家・家族の観念を物差しに当てて価値判断を下す
といった倒錯の迷路に入りこんでいる

 たとえば,2020年の1人世帯と2人世帯の合計が66.1%,平均の世帯人数は2.11人であったものが,2025年以降にはどうなっているかというと,それがさらに下降していく傾向は当然のなりゆきとなる。

 厚生労働省ホームページが公表していた「日本における世帯人数」は,いまのところまででもなお「限りなく2.00人の水準にまで」近づいている。2人未満にまで切れ(落ち)こむ日(年)が,もしかするとあと4年後の2030年までには,到来するかもしれない。

 単純に極端にいってのける。2人の世帯というのは,いまの日本では高齢の夫婦(両名ともに生きていて,いっしょに暮らしている場合)を,偏って想像させる「表現・字句」になったと,そのようにいえなくはない。この指摘は事実を観てした表現である

 しかし以上の関連する数字は,あくまで総じての平均であったから,あれこれと,その家・家族としての世帯の中身:実像をめぐっては,関連する各様の分布状態をさらに,具体的にしっておく必要もあった。

 c) いまからだとほぼ2年前の統計での説明となるが,「3人までの世帯は8割超… 構成人数別世帯数の推移(最新)」という記事を掲載していた『ガベージニュース』2024年7月23日 02:42,https://garbagenews.net/archives/1871772.html は,総務省統計局のデータベース e-Stat をもとに作成した統計図表を作成していたが,そのなかからつぎの3点がとくに指摘されていた。 

 ▼-1 世帯単位における人数じたいが総体的かつ絶対的に減少してきた

 ▼-2 2022年からは1人世帯が一番に「躍り出た」

 ▼-3 2023年における1人世帯と2人世帯の合計比率が66.6%にもなっていた。2020年だと66.1%であった〔から,じわじわその比率は上昇してきている(高齢社会の現状のなかでは当然の趨勢だが)〕

2022年からは1人世帯が一番多い

 要するに,日本の出生率はいままで,ともかくじりじりと低落してきた。2024年の日本の出生数は,前年比で約4万1千人減少し,68万6061人で過去最少をさらに更新した。これは,統計開始以来初めて70万人を下回った数値となり,また,合計特殊出生率は全年の 1. 20をさらに下回る 1. 15となり,これも過去最低を記録した。

 補記)2026年4月13日現在ではまだ,2025年の出生率のほうがまだ公表されていない。厚生労働省からその発表があるのは6月となる。

 本格的に高齢化している日本社会のことだから,ともかく「1世帯あたりの人数も減るのは必然的な傾向」である。婚姻数の統計そのものも,もちろん減少している。そして,当然,子どもが生まれる統計も減少する方向性にしかなりえない。

 しかし,出生率の統計関係で観ると,結婚している男女が構成する世帯そのものにあっては,だいたいにおいて子どもを2人は儲けたいと思っている場合が多い。実際にもそういう世帯がけっこうあった。

 d) 「子どもは何人ほしい? 理想と現実の割合や人数ごとのメリット,よくある質問をご紹介!」『こどもとわたしの出発点 COKARA』2024年4月26日,https://media.postmate.jp/how-many-children/ という記事は,現在日本における家・家族事情に関して,つぎのような現実に触れ説明していた。

 国立社会保障・人口問題研究所による『第16回出生動向基本調査』では,夫婦が望む子ども数の平均(平均理想子ども数)は 2. 25人と,継続的な減少傾向です。一方で,実際に計画している子ども数の平均(平均予定子ども数)は 2. 01人で,前回の調査結果から横ばいとなっています。

 「子どもは何人ほしい?」

 多くの夫婦が理想とする子どもの数をもたない主な理由としては,子育てと教育に伴う経済的負担がもっとも多い回答です。続いて,高齢での出産への抵抗感,子どもを望むものの叶わない状況,さらには育児の精神的および身体的な負担の大きさが挙げられています。

 これらの洞察は,現代の家族計画における課題と変化を浮き彫りにしています。

子どもは何人ほしい?

 いまから半世紀も以前から実は,多くの夫婦(子どもを産める年齢層の話題だが)であれば,すでに子どもは2人程度〔は〕欲しいと考えていた。だが,問題は「結婚そのもの」がしにくい日本社会の造り--構造と機能--になっていたところにあった。

 非正規雇用で働く,それも夫婦2人ともにその立場である場合,結婚はしているけれども,子どもを儲けるのには2人の年収合わせてもなんとか500万円あたりの水準では,妻が仕事を停止した瞬間からこの夫婦はたいそうきつい,つらい生活状況に追いこまれる。

 e) 最近は育児休暇の取得がなんとか順調になりつつ趨勢をみせてはいるものの,この話題は正規雇用で働く労働者層にのみあてはまり,少子化の傾向に歯止めをかけたかったとしても,おのずと限界があった。

 現状,非正規雇用で働く人びとが全労働者の37%もある日本の労働経済社会のなかでは,「女性が妊娠可能な年齢は40代前半から閉経までが目安となり,45歳から50歳ころにかけて排卵・生理がなくなる閉経をむかえると妊娠できなくなる」という現実的な問題の時期が,

 とりわけ「彼女らの人生経路」にあっては,あれこれと経済的事情でも迷っているうちに,あっという間に押せ寄せてきては通り過ぎていく,というような印象を強いられているのが「経済社会・産業経営」界内の実情である。

 もっとも,正規雇用のもとにある女性たち労働者であっても,仕事に就き職業を有しているからこちらもまた,いつ子どもを儲けて育児していくのかなどと迷っているうちに,どんどん年齢が増していき,気がついたら高齢出産の年齢域に到達してしまったという経過も,よくある話である。

 --以上のように説明できる人口統計問題をめぐる具体的な問題は,半世紀以上前から分りきっていた,この国の人口ピラミッド構成をめぐる趨勢,展望であった。けれども,国家行政のあり方においては,効果が挙がりうるなんら具体策が積極的に講じられてこなかった,という判定を下さざるをえなかった。

 いってみればすでに,1990年ころから非正規労働者が増加しはじめ,それ以前の1980年代後半以降においてから,派遣労働者や,高度経済成長期から大勢いた女性パートタイム労働者群が増加していた事情もあって,いよいよ非正規雇用ばかりが増加していく時代となった。

 とりわけ,1990年代以降の景気後退や経済構造の変質が,正規雇用を停滞・減少させ,これに対応するかたちで非正規雇用が顕著に増加したとなれば,高齢化が確実に進行していった日本社会のなかでは,婚姻にまでたどりつけない若者層の増加にともない必然的に,少子化社会の本格的な到来がよりいっそう早まるほかなかった。


 3 ところが,半世紀も経った現段階になってみれば,とりわけ「子育てと教育に伴う経済的負担」という重たい問題をろくに考慮すらしない要領で,家の観念や家族制度に関した,それも空想的に時代がかった理想像ばかりを高唱してきた百地 章の弁論は,もともとたかがしれていた

 a) 百地 章の発想は,ただ「古いだけで現実的な中身の伴わないイデオロギー」としてのそれであったゆえ,当初からなんら実際的な妥当性をもたない架空論に終始していた。百地が日本の家・家族を議論しようとするとき,ともかく大前提に置いてみたかった「イエの想像図」(現時点ではほぼ少数派)が,おそらくこれであった。

いまどきは稀少価値に相当するかもしれないサザエさん宅の家族構成

 しかし,この磯野家などの家族構成は,ひとまず昭和時代(敗戦後か?)に想定されていた標準的な「家の人びとの存在」を概念化していたに過ぎない。21世紀のいまどきだと,少数派の部類でしかなくなった「家・家族」のイメージ図になっている。

 百地 章の頭中に錨を降ろしていたと思われる,いわば現在となってみればその少数例に属するほかなく,事実上「だいぶ現実離れした『世帯・像』の理想的な理解」をもってして,本当に,現在における家や家族の問題を論じうるかといったら,これがきわめてあやしかった。

 b) ここであらためてとなるが,日本〔国籍〕人の場合,結婚した夫婦(結婚⇒入籍にとらわれる必要はないのだが)が,自分たちは子どもが何人欲しいかという話を,あらためてしてみよう。

 そこで,「子どもは何人ほしい? 理想と現実の割合や人数ごとのメリット,よくある質問をご紹介!」『こどもとわたしの出発点 COKARA』2024年4月26日,https://media.postmate.jp/how-many-children/ という記事が冒頭で関連する事情の概略を,つぎのように述べていた点を紹介しておく。

 国立社会保障・人口問題研究所による「第16回出生動向基本調査」では,夫婦が望む子ども数の平均(平均理想子ども数)は 2. 25人と,継続的な減少傾向です。

 一方で,実際に計画している子ども数の平均(平均予定子ども数)は2. 01人で,前回の調査結果から横ばいとなっています。

 多くの夫婦が理想とする子どもの数をもたない主な理由としては,子育てと教育に伴う経済的負担がもっとも多い回答です。続いて,高齢での出産への抵抗感,子どもを望むものの叶わない状況,さらには育児の精神的および身体的な負担の大きさが挙げられています。

 これらの洞察は,現代の家族計画における課題と変化を浮き彫りにしています

おそらく百地の頭中にはこの現実は想定外

 このようにだが,『こどもとわたしの出発点 COKARA』2024年4月26日が提示していた,つまり,現実に即した問題状況の理解が要請されているにもかかわらず,百地 章の議論は,そのような「現実の理解はさておき」といった風情にもとづく議論に閉塞していた。

 ここでは,この『こどもとわたしの出発点 COKARA』が「子どもは何人ほしい? 理想と現実の割合や人数ごとのメリット,よくある質問をご紹介!」もしていたので,こちらの説明も聞いておきたい。

 日本の場合と同様に海外の諸国でも,少子化現象がはなはだしくなっているが,とくにアジアをみると全25カ国中で,人口を維持するために必要な出生率 2. 06 から 2. 07 以上を記録しているのは,2022年の統計によれば,1位のパキスタン 3. 410 から8位のミャンマーの 2. 127 までであり,このすぐ下のインドでさえそれ未満となっている時代である。

 c) 以上に記述した材料を当てはめただけでもいえる事情は,百地 章の「時代錯誤以前の,状況認識すらがまるで錯乱状態かとみまごうごとき,しかも元祖がそもそも〈明治謹製〉由来になっていた,いわば完全に倒錯した家制度・家族関係の想定」は,基本から批判されてしかるべきであって,このような現実軽視の発想は非常にまずい。学究の構想として披瀝すべき価値ありや,という問題になる。

 まず,日本じたいに向けるべき姿勢として,すでに完全に時代錯誤そのものであったどころか,法律学者の立場からする「人口統計に対する基本的な理解」以前にも,そのあまりも常識次元の認識すら欠落させた「主観のそのまた以前の感情的(郷愁的)な主張」は,まったく呆れかえるほどに19世紀的の時代錯誤であった。

 これから,吉井理記が百地 章に向けてさらにするかもしれない追加の議論が,どのようになるかはまだ分からないので,ここではさきに,百地 章流に「それはもう呆れかえるほどに時代遅れだった」というべきか,それよりも「時代の歩みそのものから脱線したか」のような,すなわち「非常なまでに特異というか,異様なまでの独断に」して,しかも現実遊離のはなはだしかった「家・家族」観は,それこそ,この地球上(の日本国内)に生きてきた関係の識者が考えたのものだとは,とうてい思えないシロモノになっていた。

 ここではさきに,本ブログ筆者がこのようにたとえ極論的にであっても,百地 章という憲法学者の開陳していたその「家・家族」観の,陳腐というにはそもそも初めからその比較する材料(基準)すらなくなっていたような,「現実の日本社会における家や家族のありよう」からはかけ離れた,つまり完全に夢想的な着想であった事実は,これじたいとして事前によく踏まえておく必要があった。

 本日のこの記述では最初にとりあげた,吉井理記による『百地氏への反論』は,さらにこれからもあとに追論する予定があると断わっていたから,百地への批判の矢をさらに継ぐ予定になっているらしい。

 ここでは以上の点を付記しておいてうえで,『毎日新聞』紙上にさらに掲載されていた,それも百地 章が「自説を真正面から述べていた記事」を,つぎに紹介してみたい。この百地の文章を批判的に分析しつつ論破するための「前論をなす議論」は,この段落まで本ブログ筆者がここまでアレコレと,それこそグジグジとこだりながら議論し,批判してきたが,さらに追い撃ち的に次項の討議を重ねておかねばならない。

 4「〈BeMe 私らしく〉夫婦別姓は『伝統的な家族』を崩壊させる 百地 章・国士舘大名誉教授」『毎日新聞』2025年3月8日 17:00,更新 3月9日 09:50,https://mainichi.jp/articles/20250307/k00/00m/040/375000c の紹介

【事前の断わり】

 皆さんもこの百地 章の弁説に接し,一度,じっくり読んでもらってからとなるが,批判的な思考をめぐらしてほしいところである。家・家族観としてはまさに完全なる『地動説』が誇示されている。しかもいまどきだと,完全に日本でしか支持されえないそのお説であった。冗談もほどほどにしたらと助言してみたいほど,拙劣で幼稚な弁舌であった。

事前の断わり

 --希望すれば結婚後も夫婦それぞれがこれまでの名字を維持できる「選択的夫婦別姓」を導入するかどうかが,国会の焦点の一つになっている。1996年に法相の諮問機関である法制審議会が導入を答申したものの,自民党の保守系議員の反対などから棚上げされてきた。子どもの立場を含め,長年の懸案をどう考えるのか。国士舘大の百地章名誉教授に聞いた。

 選択的夫婦別姓の論点を有識者に取材しました。(以下の記事は当時,『毎日新聞』がさらに意見を訊いた識者たちの話を紹介したものの一覧である)

 夫婦同姓・別姓ともに希望を満たす制度を 二宮周平・立命館大名誉教授
 メディアも理解していない「真の論点」  木村草太・東京都立大教授
 子の立場,先入観捨て声聞いて      柳原由以弁護士
 改姓強制されぬ法改正を         中満 泉・国連事務次長

別姓の問題


  ★ 夫婦別姓は強制的な「親子別姓」★ 

 同姓と別姓の両者が選べる制度であっても,夫婦別姓の導入には反対である。夫婦が別姓になれば「家族の絆」を弱め,伝統的な家族制度や家族観を破壊するおそれがある。「同一戸籍同一姓の原則」が崩壊し,家族を表す「ファミリーネーム」もなくなる。

 もっとも重大なのは,子どもに選択の自由がなく,強制的な「親子別姓」になることだ。子どもの権利条約は子どもの最善の利益を考慮するよう要請しており,親の利益優先の夫婦別姓は条約違反だ。

 補記)この主張は話題の前提がそもそも無理筋,話の展開が倒錯的でトンチンカン。そもそも,世界各国の実情を比較制度論的に比較して勘案したわけでもなく,それもまともに踏まえた議論すらなっていない。

 家族の問題を議論しようとするのに,「ファミリーネームという英語のことば:表現:概念(?)」をもちだしたところが,そもそも奇っ怪。学者の理論であるつもりならば,あれこれといろいろ考慮,詮索,吟味したうえで,話題の準備とその展開を,用心深くして進めてほしいところであった。

 なんといっても,夫婦別姓の国々においては,ここで百地 章が指摘する問題が「実際に起きているかどうか,きちんと実例・証拠を挙げて議論すべきところ」だが,このところが完全に架空論(邪推と決めつけ)に突っ走っている。

〔記事に戻る→〕 別姓の場合,子の姓を決めるタイミングをめぐっては婚姻時や出生時という案が出ている。たがいに自分の姓を譲らないから別姓を選ぶのであり,子どもの姓をすんなり決められるのだろうか。実家が介入して子の姓の取り合いが起きたり,姓が決まらないため出生届を出せず,無戸籍児になったりするおそれもある。

 補記)ここのいいぶんは極論。「出生届を出せず,無戸籍児になったりするおそれ」は,別姓問題とはまた別の次元において,いまの日本の制度のもとでは,別の方向でも発生している。こちらの問題はそっちのけで,無国籍児の問題を,姓の問題に引っかけては,針小棒大に騒いでとりあげている。これもまた奇っ怪一辺倒の理屈。

〔記事に戻る ↓ 〕
 結婚で改姓した人も実の親とは「親子別姓」になるが,別の話で,血縁関係による一体感は失われない。だが,婚姻による人為的家族は共同体維持の努力や仕組みが必要で,その一つが姓を同じにすることだ。

 また,国際結婚や離婚による別姓家族の一体感がないとはいえないが,制度として考えると,別姓は同姓より家族の一体感を弱める。保育園の送迎で混乱が起きる懸念も。

 補記)別姓の国々の人たちが聞いたら,耳を疑うような主張である。日本ではともかく,同姓の結婚だから問題はない(少ない?)みたいな発言は,前段でも触れたように比較制度論からすべき詮議・討議すらないままに,自身の思いつき的に,いいなりに放つべきものではなかった。

 そもそもが『別姓だからダメで,同姓だから大丈夫』みたいな思考のあり方,この先験的な固定観念じたいが要注意というか,聞く者を驚愕させるに十分であった。

 なかでも,「国際結婚や離婚による別姓家族の一体感がないとはいえないが,制度として考えると,別姓は同姓より家族の一体感を弱める」といういいぶんは,これを聞かされた方はビックリするだけである。

 たとえば,フランスの場合,生まれる子供の約60%が法律婚をしていないカップル(事実婚やPACS)から誕生しており,婚外子割合は欧州でもっとも高い部類に入る。手続が簡単な事実婚制度。

 補記)フランスのそのPACS(パクス:連帯市民協約)は,1999年に導入された,同性・異性を問わず2人の成人が「結婚に準ずる」安定した共同生活を営むための契約制度である。

 市役所への登録で,婚姻とほぼ同等の税制優遇や生活上の権利(1年以上の同棲で滞在許可など)がえられ,かつ手続や解消が簡便であるため,近年では結婚件数に迫る勢いで普及している。

PACS(パクス:連帯市民協約)

 話を日本に戻そう。たとえば,戦前において日本の家・家族は,別姓でなく同姓であってもそれなりに各種各様の難問・難題を,いくらでも豊富に抱えていたのではなかったか? この「歴史的な事実」をまさか百地 章先生はしらずに,そのように断定していたのか?

 また「保育園の送迎で混乱が起きる懸念」という指摘になると,これは「奇っ怪中の奇っ怪」。親が誰かであるかは,当人のその顔と名前(姓)を,園側に一度憶えてもらえればそれで住む話である。なにゆえこのように,針小棒大に「ともかく同姓は弊害ばかりある」と語っていなければならないのか?

 理解しかねるような,つまり想像を絶する別姓排除論が,語られているのである。唱えている同姓論も別姓論もともに,現実離れの架空論でしかなく,ともかく「想像をたくましくした発言」ばかりであり,説得力なし。 

 百地 章先生,もしかするとまだ大学で教鞭をとっているのか? これまた,くわえて尋常ならざる「奇っ怪」な模様に映ってしかたがない。いまの日本の大学には各国から来た留学生がたくさんいる。

 以上にとりあげたようなヘンテコな理屈を講義で語ったら,世界中から来ている彼ら・彼女らは「この教授,いったいなにをいいたいのか,理解しかねる」という反応しか示せないのではないか。

〔百地の記事にともかく戻る ↓ 〕 
 親子別姓では,海外で親子の証明書がない場合に誘拐と疑われたり,身近な例では保育園の送迎で本当の親かどうかを確認するため混乱が起きたりするといった懸念の声がある。別姓を認める海外とは事情が異なるが,日本でも問題が起きないとはいえない。

 補記)ここは「日本でも問題が起きないとはいえない」といういいぶんに対しては,そうではない(?)とだけ,ただいい返しておけばよかった。百地流に独自であるそれぞれの主張は,どのような批判,反論,反証がありうるかを想定していなかったのか。学究の発言としては粗雑,杜撰,不用意などが顕著であった。

 たとえば誘拐の問題となると,いきなり前後で言及している話題に収まるような話題ではありえなかった。あまりにも突飛な発想を聞かされ,「それでは,いったいなにをおっしゃりたいのか」と思わせるばかりで,不審さも右往左往する様子になっていた。

〔記事に戻る→〕 各種世論調査で,制度に対する賛否を2択で問うと,〔別姓に〕賛成が多い。これは日本人の寛容さ,悪くいえば無責任さも背景にある。マスメディアの影響で別姓反対を表明することをはばかられる空気がみなぎっているからだ。

 補記)百地 章先生,それでは,ともかく問題としている論点については,海外事情との比較研究ぐらいしてから発言をしたらよろしかったのだが,この付近の研究はいかに? また「メディアの影響で別姓反対を表明することをはばかられる空気」というのも,かなり不可解。なにをいいたかったのか,そもそも自身の採った表現法に問題はなかったのか?

〔記事に戻る→〕 一方,「同姓維持」「同姓を維持し,旧姓使用を拡大」「別姓支持」の3択の調査だと,前者の二つを選ぶ人が多い。

 3択は真ん中の選択肢が選ばれやすいが,2択よりも「同姓維持だが,通称使用なら認めてもよい」という国民の細かい心理をくみ取れる聞き方だと思う。それゆえ,3択の調査を実施すれば「同姓維持」が国民の多数派だ。別姓導入なら戸籍制度は崩壊に向かう。

 補記)統計調査法にかかわる疑念まで講義しだした百地 章先生であったが,戸籍制度を2008年に廃止した韓国は,相当に深刻な少子化の問題を抱えているなかにあるが,戸籍をなくしたことでもって,社会制度そのものになにか重大な問題が起きたのか? 一言あってしかるべきでは? 本ブログ筆者がしるかぎりではとくに問題視すべき話題(重要な出来事)は聞かない。

〔記事に戻る→〕 婚姻制度や姓の決め方は国により異なり,日本では別姓を望むなら事実婚を選ぶしかない。生まれながらの姓でありたいというアイデンティティーは,主観的であいまいな概念だ。人権とは違い,法的保護の対象にはならない。

 補記)この見解は極端なまでご都合主義。日本は特殊な,特別な国柄なのだと,ともかくいいはりたいらしい。つまり,法律の守備範囲から別姓の問題を追放したいだけの,このような「話題の方向付け」は,問題そのものを真正面から本格的にとりあげ,議論しようとする立場からも逃亡したも同然。人権問題にもなりうる論点を,ただ単にそうではないと一方的に専断し,追放しているつもりなのである。

〔記事に戻る→〕 昨年,国連の女性差別撤廃委員会は選択的夫婦別姓を導入するよう日本政府に4回目の勧告を出した。「女性差別撤廃」の視点だけで家族問題を断じており越権行為だ。

 もし,選択的夫婦別姓制が導入されて戸籍に別姓の夫婦が記載されれば,戸籍制度は崩壊に向かう。重婚や近親婚を防いだり,祖先をたどれたりする世界に冠たる戸籍制度をわざわざ変える必要があるのか。保守派は長い年月に耐えて残ったものには価値があると考える。伝統的な家族には貴重なものがあり,それが崩れることに危機感がある。

 --以上で【聞き手・深津 誠】 による「百地 章」へのインタビュー記事の紹介と議論は終える。

 補記)「世界に冠たる」「戸籍制度」だりうるならば,なぜこれまで世界各国にその制度が広がらず,むしろわずかに存在させていた一国であった韓国が,結局,廃止していたのか? 「世界に冠たる日本」の憲法学者である百地 章の立場が,おおよそ前段のごとき答えしか返せないようでは,相手に対する説得力はない。

 「世界に冠たる戸籍制度」のために苦しんでいるのが,結婚時に同姓の姓として夫側の姓を選んできた女性の立場である事実についてはすでに,日本経団連が「世界経済・国際企業」となっている多くの大企業体制側を集約して代弁し,結婚時に別姓を選択できるよう政府に要求している。

 百地 章にはその声は聞えないのか。

 「戸籍に別姓の夫婦が記載されれば,戸籍制度は崩壊に向かう」という論説となると,もはや,どうしようもないくらいに,噴飯モノ。戸籍制度をかつて植民地として日本が教えた韓国では,その戸籍は廃止したなかで,以前のとおり夫婦の別は別姓で記載(登録)されている。

 韓国の婚姻はもともと夫婦別姓が原則であった。結婚しても改姓せず,夫婦は個人の姓を維持する。また2008年以降,戸主制が廃止される同時に,「家族関係登録簿」という個人単位の登録制度へ移行した。婚姻届を出しても姓や住民登録は変わることはない。

 百地 章は日本社会の場合,別姓にすると,いったいそのなにをもって家や家族が崩壊に向かうと,たいそう憂えているのかまったく理解に苦しむ。韓国では家族の絆が各家庭・全世帯において崩壊が不可避であったか? 中国も別姓だが,同じに問うてみる必要があった。

 ここで興味ある韓国関連の記事を『日本経済新聞』から,つぎに紹介しておく。韓国の婚姻事情が急に「日本よりさきに進み(動き)だした」とみるべきか,それとも「日本が遅れている(あいかわらずだ)」とかなどと,あえてこだわった議論は不要である。

なにが問題でなにが困難な課題になっているのか
家だとか家族だとかいった用語にこだわっているようでは
当面する問題を捕捉・認識できないのではないか
日本は特別で違うなどいって無視できるのか

 もっとも,社会学的な視点から両国が個別に抱えている「特殊な独自の事情を踏まえた分析・解釈の余地はある」点は申すまでもない。日本で婚外子の比率は,ここ20年ほどは2%を超えて2. 3%前後にまでなっているが,韓国のほうは明確にまさに本当に正直に急増しており,対照的な経過をたどっている。

 ここまで理屈が発展してくるともはや,百田 章風にするあれこれの詮議は初めから不要であった,としか評言のしようがなくなる。最後に断わって置くが 百地 章が「長い年月に耐えて残ったものには価値があると考える。伝統的な家族には貴重なものがあり,それが崩れることに危機感がある」と強調した点は,つぎの留保が要求されている。

 百地 章のいいぶん・議論・主張は,「明治謹製」(より正確にはその中期からのそれ)になる大日本帝国時代の旧民法精神にもとづく戸籍制度が,いまの21世紀にも基本的に有用・有益だと懸命に主張する立場からのものであった。要は,確たる根拠も合理的な議論すらともなわない規範論に終始しており,つまるところ現実論を歪めるほかないような,その規範に関する議論が独立専行していた。

 だいたいにおいて,敗戦前の日本においては,女性の人権など半人前にしか認めておらず,男性でも軍隊にいったら兵卒は「一銭五厘」の命あつかい。つまり,オンナもおとこも,人権面では粗雑にあつかってきた人権欠落の国家が旧日帝ではなかったか。

 けれども,いまの日本にはなお戦前の時代からのすばらしい戸籍制度(民法)がまだあるのだ,それに過去においては他国にはなかったから,たとえば植民地にした台湾や韓国に教えてやったのだなどと勘違いするのは,いい加減にしておいたほうが懸命である。

 韓国では最近まで戸籍を維持していたのに廃止したのは(2008年),愚かな変更措置だということになりそうだが,隣国からはそういった声は聞こえない。韓国ではより現代的に合理性ある住民登録制度に変更した。問題がなにもないとは思えないが,それでも百地 章の異様なまでの戸籍擁護論を根本から批判するためには,役立つなにかがある。

 この付近に控える制度上の問題についてはむろん,より専門的な議論をおこなう必要がある。しかし,日本はなんといっても,戸籍制度を備えているゆえ,「世界に冠たる国民管理の制度」を保持しているから特別に秀でているのだといった,空元気的な自慢話はたいがいにしておいたほうがよい。

 外国にいって本気でそのように語ったら,この人「?・・・」と思われるのオチ。それでもまだ,そのように自慢したい人びとがいる場合は,とりあえず自家の飼い犬や飼い猫に向かって,とくと語るがよし。

 5「選択的夫婦別姓 いつ実現? 『国会議論本格化』高める声」『毎日新聞』2025年3月8日朝刊「特集」の紙面による紹介 

 夫婦同姓を法律で強いている国は「世界に冠たる戸籍制度をもつ日本」だけ? もしかすると「世界の底たる日本」になりかねないこの国だったのか?

 ちなみに一番新しい「ジェンダーギャップ指数」は,以下の順位であったが,あいかわらず,G7中では「ダントツ」に最下位である。単純にいうと,調査対象が全10カ国あったとして,この順位内で表わすと7位となり,ほぼ完全に発展途上国水準。

下降傾向は回復できるのか?
『毎日新聞』2025年3月8日朝刊22面
『毎日新聞』2025年3月8日朝刊27面

 100番よりもずっと下の順位に居続ける「世界に冠たる戸籍制度を有する日本」は,結局というか,もちろん「G7中でも挽回が不可能なくらいに最下位」に着けており,韓国や中国よりも劣後したままである。

 さて,百地 章先生の発想でこの順位が飛躍的に上昇させるのか? 否である。ただ,その逆効果ならば発揮できる。肝心の高市早苗首相の立場は,百地 章先生の立場にほぼ99%は合致するはずである。

 最後に紹介しておくのがつぎの百地 章の寄稿である。一言でいってこの首相は時代錯誤の観念論の最たる見本であって,おっしゃることが地に足が着いていない。

 なにをいおうが自由であるが,学究として現代日本社会の現実から即座に跳ね返ってくるはずの,「予想しうる各種の反証にとうてい耐えられない,陳腐のてんこ盛りになる奇抜一点張りの家・家族観」を,いつまでも開陳しつづけるのは,率直にいわせてもらうと「21世紀における▼論」である。もっと現実に根ざした思想にもとづき語り,議論してほしいものである。

【参考文献】


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