大日本帝国元軍人「奥崎謙三の昭和天皇批判」-天子様の恩賜届かぬ兵士からの返答がこうだった理由-
1 大日本帝国大元帥の昭和天皇がいて,この旧軍の一兵士としての奥崎謙三がいて,靖国神社の祀られている英霊となったそれら兵士の場合,あの戦争では6割程度が戦場で餓死したという研究報告があるくらい,この最高指揮官は責任が深刻に重大であった。
a) ところが,朕(昭和天皇)が敗戦した自分の帝国に関しては,自身の責任をもちろん含めて(?)だが,つぎのような,庶民にとっては耳慣れない文言をズラズラ並べては,とどのつまり「いいわけ」ばかりを主調としたなんとも難しい文句:修辞を駆使し,以下のように自己弁護していた。
この『終戦ノ詔書』(1945年8月15日正午にラジオで放送)は,実際の音声でも聴けるので,そのリンク先住所を次段にかかげておく。これらから彼の肉声を耳にすることができる。
ほぼ81年前の「日本人の発音(発声)」だとしても,21世紀のいまに聴くこの録音の特徴は,抑揚や調子の取り方に一種独特な異様感を受ける。その点はさておき,すでに歴史的な実録音声としてあらためて聴くことにしたい
▲-1 宮内庁が公開した玉音放送の原盤
終戦ノ詔書(昭和二十年八月十四日)
朕深ク世界ノ大勢ト帝國ノ現状トニ鑑ミ非常ノ措置ヲ以テ時局ヲ収拾セムト欲シ茲ニ忠良ナル爾臣民ニ告ク
朕ハ帝國政府ヲシテ米英支蘇四國ニ對シ其ノ共同宜言ヲ受諾スル旨通告セシメタリ
抑々帝國臣民ノ康寧ヲ圖リ萬邦共榮ノ樂ヲ偕ニスルハ皇祖皇宗ノ遺範ニシテ朕ノ拳々措カサル所嚢ニ米英二國ニ宣戦セル所以モ亦實ニ帝國ノ自存ト東亜ノ安定トヲ庶幾スルニ出テ他國ノ主權ヲ排シ領土ヲ侵スカ如キハ固ヨリ朕カ志ニアラス然ルニ交戦已ニ四歳ヲ閲シ朕カ陸海将兵ノ勇戦朕カ百僚有司ノ勵精朕カ一億衆庶ノ奉公各々最善ヲ盡セルニ拘ラス戦局必スシモ好轉セス世界ノ大勢亦我ニ利アラス加之敵ハ新ニ残虐ナル爆彈ヲ使用シテ頻ニ無辜ヲ殺傷シ惨害ノ及フ所眞ニ測ルヘカラサルニ至ル而モ尚交戦ヲ繼續セムカ終ニ我カ民族ノ滅亡ヲ招來スルノミナラス延テ人類ノ文明ヲモ破却スヘシ斯ノ如クムハ朕何ヲ以テカ億兆ノ赤子ヲ保シ皇祖皇宗ノ神靈ニ謝セムヤ是レ朕カ帝國政府ヲシテ共同宣言ニ應セシムルニ至レル所以ナリ
朕ハ帝國ト共ニ終始東亜ノ解放ニ協カセル諸盟邦ニ對シ遺憾ノ意ヲ表セサルヲ得ス帝國臣民ニシテ戦陣ニ死シ職域ニ殉シ非命ニ斃レタル者及遺族ニ想ヲ致セハ五内爲ニ裂ク且戦傷ヲ負ヒ災禍ヲ蒙リ家業ヲ失ヒタル者ノ厚生ニ至リテハ朕ノ深ク軫念スル所ナリ惟フニ今後帝國ノ受クヘキ苦難ハ固ヨリ尋常ニアラス爾臣民ノ衷情モ朕善ク之ヲ知ル然レトモ朕ハ時運ノ趨ク所堪ヘ難キヲ堪ヘ忍ヒ難キヲ忍ヒ以テ萬世ノ爲ニ太平ヲ開カムト欲ス
朕ハ茲ニ國體ヲ護持シ得テ忠良ナル爾臣民ノ赤誠ニ信倚シ常ニ爾臣民ト共ニ在リ若シ夫レ情ノ激スル所濫ニ事端ヲ滋クシ或ハ同胞排擠互ニ時局ヲ亂リ爲ニ大道ヲ誤リ信義ヲ世界ニ失フカ如キハ朕最モ之ヲ戒ム宜シク擧國一家子孫相傳ヘ確ク神州ノ不滅ヲ信シ任重クシテ道遠キヲ念ヒ總力ヲ将來ノ建設ニ傾ケ道義ヲ篤クシ志操ヲ鞏クシ誓テ國體ノ精華ヲ發揚シ世界ノ進運ニ後レサラムコトヲ期スヘシ爾臣民其レ克ク朕カ意ヲ體セヨ
この詔書の本旨(狙い)がなににどこにあったかといえば,それは「皇祖皇宗」ならびに「神州ノ不滅」にあったといえなくはない。昭和天皇は天照大神を本気で信じていた。それも,自分の本当の祖先として実在していたかのように……,だから明治以来,皇居に建造された宮中三殿(賢所・皇霊殿・神殿)のうちの「賢所」に,その神を祀っていたわけである。
旧大日本帝国は,たとえ戦争に敗北するような事態を迎えたにせよ,この日本は神州ゆえ「皇祖皇宗」に護られている「御国」なのだから,このたびの戦争には負けた(不利に終結した)とはいえ,臣民たちは今後に向けて捲土重来の決心・覚悟が必要だぞと,
それも,裕仁は天照大神という「架空になる想像上の皇祖」の,その「偉大なる存在性」を念頭に置きつつ,そのように「わが神州の臣民たち」は,これからもけっしてめげることなどせず,この神州の復活・再興のために奮励努力を忘れることなかれ,と説いていた。
b) さて,中国の歴史書『史記』に記されたエピソードに由来する有名な文句があった。それは「敗軍の将は兵を語らず」であるが,1945年8月15日の正午に天皇裕仁が,帝国臣民に語ったその『終戦ノ詔書』は,「失敗した者はそのことについて弁解や意見を述べる資格はない」という意味の故事成語と,実質的に,なにも変わりはなかった。
負け戦の将軍が,戦の是非や武勇を語るべきではないことから,転じて「負け犬の遠吠えやいいわけは聞き苦しい」という戒めとして使われるのが,この「敗軍の将は兵を語らず」という文言の真意のはずであった。だが,天皇裕仁が8月15日にラジオ報道で帝国臣民に語った『終戦ノ詔書』のこの中身に「負け犬の遠吠えやいいわけ」が含まれていなかったとはいえない。
もっとも,以上のごとき『終戦ノ詔書』に対する批判的な見地に対しては,日本国文部科学省が当然のように,徹底的に擁護する立場から「天皇裕仁の立場」を忖度する説明をしていた。だが,そのような一方通行にしかなりえない弁護論はさておき,ここでは委細かまわずに,この詔書に必至であった基本的な問題性を,つぎに議論してみたい。
最初に,天皇裕仁の『終戦ノ詔書』は一般的には,極限状態の国情と世界の大勢を踏まえ,これ以上の犠牲を防ぐために出された「終戦(敗戦受け入れ)の決断」であった,と説明されている。
その表現は,しかも漢文調で難解であり,米英への宣戦布告の正当性を主張する一方で,敗戦を「負け惜しみ」的にも,現実を受け入れたうえで,臣民に対しては「耐え難きを耐える苦渋の決断をせよ」と命じていた。
そもそも1945年8月の段階に至っては,日本全国がいったいどれほどにまで焦土化されていたかを想像してみたほうがよい。1945年8月の日本では、玉音放送(8月15日)による「敗戦の衝撃と悲嘆」にくわえ,原爆の惨禍やソ連参戦による「言葉にならない絶望」など,極限の悲嘆に暮れるさまざまな声が各地の記録や手記に残されている。
なかでも沖縄戦(1945年3月26日~6月23日)は作戦上,本土防衛をするための捨石作戦をする対象に位置づけ,戦いを止めなかった。そのために,沖縄県民は戦乱のなかに大々的に巻きこまれた。
ここでは,推計での統計把握になるが,沖縄戦における沖縄県民の死没者は約12万2000人(一般住民約9万4000人,沖縄出身の軍人・軍属約2万8000人)もの犠牲者を出した。
それは,当時の沖縄県の人口(約40万〜50万人)に対する死亡比率として非常に高く,県民の「4人に1人」以上(約25〜30%)が犠牲になったと把握されている。
それでいて,天皇裕仁は沖縄県に対して戦争中,どのような発言をしていたか? 1945年2月14日時点で彼は,「もう一度,戦果を挙げてからでないとなかなか話はむずかしいと思う」と発言し,沖縄を戦争過程の一段階に位置づけ,この島を消耗戦⇒壊滅戦の場になることを,けっしていとわなかった。
さらには沖縄戦が実質的にすでに,本土防衛のための「捨石にはなれなかった」時期になっていた同年7月末日ころ,彼が心配したもっとも大事な関心事は,「本土決戦さえ叫ばれる状況で」「伊勢神宮と熱田神宮にある,皇位継承の象徴である三種の神器の処理を」することであった。
注記)黒田勝弘・畑 好秀『昭和天皇語録』講談社,2004年,170頁,187頁。
c) 好意的に『終戦ノ詔書』を読みたい人であれば,この詔書のなかは,裕仁みずからを正当化するような「負け惜しみ」と,現実を見据えた苦渋の決断が混在していると解釈することは不可能ではない。
天皇裕仁は,開戦の理由を「帝国の自存と東亜の安定」を維持するためであり,他国の主権を侵すためではなかったと釈明した。だが,それは,戦時体制期日本の実体(実態)がまさに侵略戦争を推進してきた国家主体であった事実を,まるで,片目はつむりながらも裏声で弁解するがごとき理屈であった。
もちろん,彼においてそのように認識させた「敗戦の現実」は,仕方なしであっても結局,自分なりに総括しておく必要があったからだといえなくはない。
ところが,天皇裕仁の立場にあっては,「敵であったとくに米英」に対する非難,いいかえると,アメリカが残虐な爆弾(原子爆弾)を2度使用し,無辜の民を殺傷した指摘し,その非人道性を訴える形にしておくことで,戦争終結(敗北だが)の大義名分を補強しえたつもりであった。
旧日本帝国陸海軍が,東アジア地域や太平洋地域において,どのような戦争行為を重ねてきたのかという「戦争史の現実展開」に照らして判断するに,以上のごとき彼のいいぶんは「おまいう」の一例にしか受けとれない。
また「国体の維持」に関した彼のいいぶんは,敗戦という結果を迎えたにしても,日本の国柄(皇室を中心とした国家体制)が保たれるべき要件を必死になって模索することが,実際には最優先された。すなわち,異常なまでその点にこだわっていた。
要するに『終戦の詔書』において天皇裕仁は,戦争終結に向けた意図を内外に鮮明に伝達するさいして,「終戦のための表現」を上手に表現してまとめねばならなかった。
そのためには,当時の軍部や国民の強い反発(本土決戦の主張など)を抑えこみ,円滑に武装解除をおこなうためには,単なる「負け」の立場からではなく,大義名分を保ちつつ「これ以上戦うと日本が滅びる」という現実的な判断を示す必要というか工夫が不可欠になっていた。
この1における以上のような記述を踏まえたうえで,本述の要点は,つぎの3点に置かれている点を断わっておきたい。
要点1 昭和天皇戦争責任の具体的な一事例
要点2 大日本帝国陸軍1兵卒の大東亜(太平洋)戦争
要点3 天皇裕仁の捨て石にされつづけている沖縄県
2 天皇が餓死させた帝国将兵について-岡崎謙三の天皇・天皇制批判,その要旨-
1)「出版にさいして」
奥崎謙三『ヤマザキ,天皇を撃て! - “皇居パチンコ事件” 陳述書-』(二月社,1974年,新泉社,1987年)の「出版にさいして」という後文において,この著者はつぎのように語っていた。


--数百万の無辜の民衆が死んだ,あの悲惨な太平洋戦争が,天皇裕仁の詔勅で始まり終ったというまぎれもない事実は,日本人のなかで天皇裕仁の戦争責任がもっとも重くかつ大であることを,なによりも如実に証明するものである。
しかるに裕仁は,ヒトラーのごとく追いつめられて自殺せず,ムッソリーニのごとく民衆によって処刑されず,敗戦によってもまだ天皇迷信の蒙から醒めない多数の日本人の無知と怯懦に支えられて,今日の特権的な生活を保障され,存在しつづけている。
この厚顔無恥としかいいようのない,天皇裕仁とその一族の精神構造は,絶対に正常なものではなく,「現人神」(あらひとがみ)であった当時の奇怪異常なそれとまったく同一のものである。
かかる裕仁およびその一族が,今日なお天皇,皇族,皇室として民衆の上に君臨することについて,激しい怒りと大きな疑惑を感じない者は,あの戦争の最高責任者である裕仁にその責任を問うことなく,敗戦前と同様に,尊敬・優遇しつづけてきた多数の日本人のこの感覚と態度は,
去る昭和16年12月8日に無謀な戦争に突入した当時の日本人が示した狂った感覚と態度そっくりであり,そこには30余年の歳月が経過した年輪のあとがまったくみいだせない。
補記)この発言は1974年時点におけるものであって,これに52年をさらに重ねた2026年になってもまだ,奥崎謙三の「天皇・天皇制批判」が闇雲であっても提示した内実は,いまだに有効性・妥当性を失わない。それどころか,時代を貫いて有意義であった事実が否定できない。
それでも否定したい人がいる場合,この奥崎の発言・論理を真正面から論破できる歴史的な観点を,まず提示してからとなる。その論破を試みたい人は,罵倒や愚弄ではなく正面切って,彼の立場・思想をその基盤と土台から突きくずせる論理と納得性を,他者(第3者)に向け披瀝することが必須である。
〔奥崎謙三に戻る→〕 このようにして裕仁が,今日まで誰からも罰せられず,今日なお公然と天皇として存在するゆえに,私は誰よりも激しい怒りと,軽蔑の念を,裕仁と,裕仁を許している者たちに対して,抱かずにはおれないのである。
その激しい感情を持続することによって,私は自己の精神が正気に近いことを確認することができ,人類の未来に絶望することを免れ,天皇がいる体制のなかで不本意に送り迎える暗鬱な日々の生活を,辛うじて今日まで克服してこられたのである。
昭和44〔1969〕年1月2日,私が裕仁に,パチンコを撃ってから,すでに3年半の歳月が流れたが,そのあいだに,私は,何回となく,裕仁を殺そうとしなかったことの是非について,自問自答を繰返しつづけてきたが,いまもって自分が満足できる結論をえるに至らない。
私が,もしあの時,パチンコのかわりにピストルで裕仁を撃っていたならば,いまもなお “菊印” をタブーとする腑抜け同然の日本のマスコミも,私を精神病扱いにして,事件の意味と重大さを故意に無視・黙殺する態度はとりえなかったであろうと思うと,私は,裕仁を必殺できるならば,即座に死刑になってもかまわないから裕仁を殺してやりたいと,いまでも本気で考えずにはおられないのである。
しかし,私が死刑になることを覚悟した上で,私の全知全能を傾注して裕仁を殺そうとしても,多くの番犬たちによって十重二十重に守られている裕仁を殺すことは,非力な私にとって不可能に近いことである。
裕仁が,もし私に激しい殺意さえあれば簡単に殺せる市井の人間であるならば,裕仁を殺すことによって莫大な賞金と名誉を与えられ,法的に無罪を保証されたとしても,私は裕仁に対して殺意を抱くことは毫もできない。
私が死ぬまで裕仁に対する殺意を捨てきれないであろう理由のひとつは,ニューギニアの戦場で飢え衰え死んでいった,戦友たちの無念を忘れることができないからであると同時に,私が死刑になることを覚悟して殺そうとしても殺すことが不可能といっても過言ではないほどに,裕仁が私から遠く隔てられた高いところにいるからである。
ニューギニアの密林で,極限の状況裡にあって,飢え渇えた末に,孤独に淋しく虚しく死んでいった,名もなき多くの兵士たちの亡霊に向って,私は「天皇を撃て!」と,死ぬまで慟哭しつつ叫びつづけることをやめることはできない。
--ともあれ,私の書いた下手くそな陳述書の文章が,ようやく出版される運びとなったことは,長く無限につづく闇夜の道で,前途に一縷の光明をみいだした異常にうれしい想いで,私の胸はいっぱいである。
野蛮人の遺物である天皇と天皇的なものが存在する国を守るために,今日まで,戦時と平時を問わず,犠牲となって非業の死を遂げた無数の人びとの怨念と魂が,この1冊の本が出版されたことによって,いくらかでも慰められるならば,私にとってこれに過ぎるよろこびはない。
私の書いた1冊の本が,1匹の蟻に化身して,体制の巨大で鞏固を堤防に小さな穴を穿ち,やがてはそれを跡形もなく欠壊させるよすがとなることを切に祈り,地上に真の平和が訪れることを,ひたすらに乞い願うものである。
2)『週刊朝日』評
奥崎『ヤマザキ,天皇を撃て!』のカバー(後ろ側)には,当時の『週刊朝日』の評が転載されていた。これもここに,文章に起こして紹介しておこう。
事件のあと独房で書かれたこの陳述書によって,私たちは,天皇の名によって青春を戦争に奪われた1人の庶民兵士が,数えきれぬほどの戦友の恨みを,このような,一見奇矯な行為によってはらさなければならなかったいきさつを,はじめてしるのである。それはグァム島生き残りの横井〔庄一〕元上等兵の言行と鮮烈な対照をなしている。
陳述書の半ばを占めるニューギニア戦線の敗走記は,第1級の戦記文学となりうる。すぐれた描写に満ちている。
戦後25年たって,これだけの記憶を呼びおこせるということは,限界状況を生きた著者の生の重さと,目の確かさを思わせる。それはまた,密林に飢えて空しく死んだ戦友の怨念が,彼の記憶を言葉にほとばしらせる力となったのだともいえよう。
著者は,戦前の「不敬罪」の復活を思わせる裁判で1年半の懲役となるが,「戦争の再考責任者である天皇裕仁にその責任を問うことなく,敗戦前と同様に天皇・皇室を尊敬し,その特権的な存在を許してきた多数の日本人」の感性を責める著者の声は,戦争責任をついにみずから明らかにすることのなかった戦後日本の虚構を激しく撃つのである。
藤原彰『餓死した英霊たち』青木書店 2001年
3 忠良なる帝国臣民が天皇・天皇制に反旗をひるがえすとき
前項2は,戦場に送られたが,そこでの死を辛くも免れえた,旧日本帝国兵士の「天皇・天皇制」批判が強烈に激白されていた事実に触れた。この種の裕仁批判「論」は,研究者・学究であれば,それほど困難もなく記述できる内容かもしれない。
だが,庶民の立場からこのように激しくきびしく天皇の思想・立場・利害を糾弾するものは,ほとんどなかった。戦前・戦中であれば頻繁にあったように,「天皇暗殺の試みにかかわった人物」が「狂人」として処置・始末されることは,しかし,この奥崎謙三には全然通用しなかった。それゆえ,戦後的に通用したのが,この奥崎兼三による,地獄の底から「天皇と天皇制」批判であった。
もとより,狂人でなければ「天皇・天皇制」批判ができない時代ではない。民主主義のなかで天皇・天皇制の占める位置を真剣に考える機会のない一般の国民・市井の市民にとって,奥崎の発言はどのように聞こえるのか?
4 追補記事-『ゆきゆきて,神軍』1987年に関するひとつの感想-
「『ゆきゆきて,神軍』(1987年,日本)- 9.5点。奥崎,狂気の歴史的傑作ドキュメンタリー(投稿日: 2012年7月15日)」という,映画の「DVD版」を視聴した人が書いた〈感想文〉を,以下に紹介しておく。いまからだと14年ほど前の文章になる。
『ゆきゆきて,神軍』(1987年,日本)―122 分
監督:原 一男 編集:鍋島 惇 企画:今村昌平
出演者:奥崎謙三・シズミ夫妻 etc
【点数】 ★★★★★★★★★☆ / 9.5点
“THE Emperor’s Naked Army marches on” あのマイケル・ムーアが,生涯観た映画のなかでも最高のドキュメンタリーだと語る国際的にもっとも評価が高いドキュメンタリー映画の一つとして語りつがれる傑作。
5年間の撮影期間を費やし作り上げられた作品で,ベルリン映画祭カリガリ賞など始め,さまざまな映画賞を受賞した。そんな邦画ドキュメンタリーの伝説的一作を,ふと思い立ってついに鑑賞した。
奥崎謙三は,かつてみずからが所属した独立工兵隊第36連隊のウェワク残留隊で,隊長による部下射殺事件があったことをしり,殺害された二人の兵士の親族とともに,処刑に関与したとされる元隊員たちを訪ねて真相を追い求める。
元隊員たちは容易に口を開かないが,奥崎は時に暴力をふるいながら証言を引き出し,ある元上官が処刑命令を下したと結論づけるのだが……(wiki より引用)。
「暴力をふるっていい結果が出る暴力だったら,許されると…。だから私は大いに今後生きてるかぎり,私の判断と責任によって,自分と,それから人類によい結果をもたらす暴力ならばね,大いに使うと」高々と宣言して暴れまくる奥崎の姿は永遠に不滅……と,いわんばかりにすさまじいエネルギーを感じる作品。
奥崎によってドキュメンタリー映画の至高のカタチにまで昇華した奇跡的な映画世界ではないだろうか。私はその狂気のカリスマ像に陶酔するかのように2時間ノンストップで引きこまれていった。
冒頭の結婚式からどこか狂った奥崎の信念が炸裂する。しかし『アンヴィル』もそうだが,素晴らしいドキュメンタリーというには奇跡がある。追ってゆくなかで,奇跡が起きて,現実に物語が動き出すのだ。それがフィクションで無理やり動かされるストーリー以上の感動がある。
はっきりいって,彼が追求する日本軍の40年前の功罪の真実には,興味深く引きこまれるがそこまで意味はない。それ以上に,過去の罪を背負って生きる人間の現在,そしてそこに神なる暴力で挑む奥崎の姿にこそ意味があるのだ。
もう二度とこんな映画は撮れない。そう思えるさまざまな要因によって起きた衝動,そして奇跡を本作のフィルムから感じとることができた。しかし,これははっきりいって異常な映画だ。
極端な右翼の男をこうもヒーローのように祭り上げている狂気。プロパガンダのような表現の手法をも感じる。奥崎が善なのか悪なのか,そこは曖昧なところであり,みているだけでは奥崎が英雄のように思えてしまう。
それでも奥崎の狂気の過激右翼=神軍平等兵としての活動をフィルムに映したことには大きな価値がある。欠落した小指,洗練された尋問・言葉。暴力。公私混同したことはない,すべて神のため,宇宙の真理だといわんばかり。
私はもう「天皇陛下の剥き出しの神軍」を貫き生きた,奥崎謙三のタフネスさを生涯忘れられない気がしている。 kojiroh
日本国における天皇の戦争責任問題,そして天皇制の問題そのものを考えるうえで,この奥崎謙三という「一兵卒の戦後」を記録したこの映画が役にたつ,ということになる。
なお,奥崎は 2005年6月16日,死去。
ところで,奥崎謙三の死亡を報じたメディア・マスコミはないかと思い,ネット上を「奥崎謙三 死亡記事」で検索したところ,まず『四国新聞』の記事がみつかるほか,関連する記述もいくつか出てきた。
5 奥崎謙三の死去
以下は「 奥崎謙三氏死去 /『ゆきゆきて,神軍』の主人公」『四国新聞』2005/06/26 21:39, http://www.shikoku-np.co.jp/national/okuyami/article.aspx?id=20050626000286 から引用する。
--奥崎謙三氏(おくざき・けんぞう=ドキュメント映画「ゆきゆきて,神軍」の主人公)〔2005年6月〕16日,神戸市の病院で死去,85歳。兵庫県出身。自宅は神戸市兵庫区荒田町2の2の16。
太平洋戦争中,陸軍工兵隊の一員としてニューギニア戦線に従軍。旧陸軍の上官らの戦争責任を追及した原 一男監督の映画『ゆきゆきて,神軍』の主人公としてしられる。
1969〔昭和44〕年1月の皇居一般参賀で,昭和天皇に向けてパチンコ玉を撃ち服役した。1983年に旧陸軍時代の元上官の長男に発砲。殺人未遂罪などで懲役12年の判決を受けた。著書に『ヤマザキ,天皇を撃て!』」などがある。
さらに,奥崎謙三の「死」については,つぎのような記事がみつかった。
エンタメノート: ■ 奥崎謙三死去 [奥崎謙三 ・ゆきゆきて神軍]。blog.livedoor.jp
『奥崎謙三 丸の内交差点 裕仁戦争責任追求演説 四十一年』
奥崎謙三(おくざき・けんぞう) 大正九年(1920年)二月一日兵庫県に誕生。平成十七年(2005年)六月十六日死去。八五歳。ameblo.jp
『ゆきゆきて神軍』の奥崎謙三の出所記念トーク(第二幕と第三幕までをとりあえず)|ロフトプラスワン事件簿|平野 悠 ▽第二幕 1996年8月23日,お昼過ぎ。 靖国通りに面したロフトプラスワンの入り口には、数名の関係者が奥崎謙三の到着……。www.gentosha.jp
この種の死亡公告や関連の記事以外にも,ネットに掲載されている記事がいくつか存在するが,この本項5ではとくに,つぎの記事を紹介しておきたい。2点出ているが,内容は連続ものの構成である。その内容については次項6に段落を移し,さらに紹介・言及する。
木村元彦「極限状態のジャングルを生き抜き天皇をパチンコで撃った元日本兵…寡黙な男を駆り立てたもの 『国に借りは作りたくない』 奥崎謙三という囚人」『文春オンライン』2021/03/13,https://bunshun.jp/articles/-/43762 (後段における引用の目印として#1)
木村元彦「『無知無理無責任のシンボルである天皇ヒロヒトに対して…』 “出過ぎた杭”になった男の刑務所生活「国に借りは作りたくない」奥崎謙三という囚人」『文春オンライン』2021/03/13,https://bunshun.jp/articles/-/43763 (同上,#2)
6 敗戦以来,天皇裕仁の戦争責任論に対しては格別に急先鋒でありつづけた井上 清
天皇の戦争責任を追及し,沖縄訪問に反対する東京会議編・井上 清ほか著『昭和の終焉と天皇制の現在-講座・天皇制論』(新泉社,1989年1月)という本が,天皇の代替わりがなされた時期に公刊されていた。この本の最初に登場するのが井上 潔であった。
a) この井上 清の「昭和天皇に対する根本的な批判」を聞くまえに,前項に登場した奥崎謙三のいいぶんを紹介・分析した『文春オンライン』2021年3月に,木村元彦が書いた文章のなかから,つぎの段落を引用しておきたい。前項において#印を付して断わったように,#1(前編)と#2(後編)からそれぞれ抜き出した部分となる。
「#1から」
戦闘のみならず補給路を断たれたことによる飢餓と熱帯の感染症に苦しめられた,地獄のニューギニア戦線から奇跡の生還を果たした奥崎の戦後の半生は,天皇の戦争責任を問うことと,敗戦を迎えた後に部隊内で起きた戦争犯罪の追及に費やされた。
奥崎が自らを神軍平等兵と名乗り,「ヤマザキ,天皇を撃て!」とニューギニアで餓死した戦友ヤマザキの名を叫び天皇にパチンコを撃つ,あるいはデパートの屋上から天皇ポルノビラを撒く,といった天皇の戦争責任を直接的に問う行動を起こすのは,
この大阪刑務所で10年の刑期を終えてからである。妻,シズミの生前の証言に拠れば,それまでの奥崎は極めて寡黙な人物であり,日常から声高にアジテーションをするようになったのも出所後であったという。
「#2から」
映画『ゆきゆきて神軍』の中で奥崎謙三は「田中角栄を殺すために記す」と大書した街宣車の中から,皇居の前でこんなアジテーション演説をおこなう。
「立派な人間とは,どういう人間でありましょうか。金持ちでありましょうか,天皇でありましょうか,大統領でありましょうか,ローマ法王でありましょうか。私にとって立派な人間とは,神の法に従って,人間が造った法律を恐れず,刑罰を恐れず,本当に正しきことを,永遠に正しいことを,実行することが,最高の人間だと思っとるんであります!」
また自身の弁護人である遠藤 誠弁護士を囲む会の挨拶のシーンでは,「私は,一般庶民よりも,法律の被害を多く受けてきましたので,日本人のなかでは,法律の恩恵をもっとも多く受けてきました無知無理無責任のシンボルである,天皇ヒロヒトに対して,4個のパチンコ玉をパチンコで発射いたしまして,続いて,天皇ポルノビラを,銀座渋谷新宿のデパート屋上からバラまき,その2つの刑事事件にかかわった,法律家であるところの2名の判事と8名の検事の顔に,小便と唾をかけておもいきり罵倒いたしました」と話す。
「 私--この『私』とは以下の記述で語る刑務官のこと--は,19歳のときに大阪刑務所で声をかけてきたあのときの奥崎の顔をいまでも思い出すことがあります。奥崎は偉そうにしている上に対しては激しく抵抗しますが,現場の下っ端の刑務官には悪くないんですよ。特別でしたね。当時,大阪刑務所には受刑者が5000人以上も居た時代ですよ。そのなかでも全然,肌合いが違う人でした」
◆ 参考記事 ◆
「たった一人の過激な抵抗 原一男『ゆきゆきて,神軍』」『好書好日』2018年5月30日,https://book.asahi.com/article/11578305
b) 以上の奥崎謙三「像」に関した感想を聞いたところで,井上 清の「天皇・天皇制批判」を,前掲の『昭和の終焉と天皇制の現在-講座・天皇制論』(新泉社,1989年)に聞こう。以下にしばらく引用する。
--憲法学者はいろんな理屈はいいますけれども,要するに天皇がいなけりゃ日本は動かなくなっている。日本国というものは最終的には,天皇のハンコによってしか活動できない,これが現実ですね。だからこそ,ソフトの面の天皇も生きてくる。ハードなしのソフトだけだったならば,高いゼニ出して天皇なんか置いておく必要ないということにもなりますわね,支配階級からみても。
なぜそのソフトの面が役にたつかといえば,国民を天皇の下に精神的に縛りつけておくことにより,最終的には天皇が任命した政府なり裁判所なりの権力が有効に働くのです。こうしておいて,その天皇に支配階級はいつの間にか政治的にも活動させる。政治状況の変化とともに天皇と天皇制がさまざまに変質していく。
敗戦の年 1945年から 1952年のサンフランシスコ講和条約の発効の年まで,完全な占領下にあったときの天皇および天皇制。それから,サンフランシスコ講和条約と日米安保条約が一体の体制のときの天皇。ついで1960年に日米安保条約が改定されて日米帝国主義軍事同盟条約となるが,その体制下の天皇。
ついで1970年,日米軍事同盟が東アジア支配の目標をはっきりさせる,……こういう段階によって天皇のあり方,国民の前への現われ方が違ってくる。
敗戦日本の資本主義が復興し,それを経済的基礎にして,アメリカの世界戦略が変わっていくこととの関連のなかで,日本の帝国主義,軍国主義が復活し強化されていく。そのそれぞれの段階において天皇のあり方が変わってくる。
占領下の天皇,これは国民の前にはひっそりしている。占領下の天皇は,国民の前から姿を消した同然みたいにしている。で,本当にそうなのかといえば,そうじゃない。
裕仁はマッカーサーと取引して,自分をアメリカ帝国主義の道議として売りこむ。売りこんで,戦犯として裁判されないことにする。その代償は,米軍の沖縄占領をいつまでも続けさせる,米軍が講和後も日本に居座るようにするということだった。それがこの時期だ。
同時に,天皇は敗戦直後,ずーっと日本全国を回って国民に自分を売りこんでいく。それは,1946年と 1947年の初めまでです。新憲法ができて天皇の地位が保障されると地方巡幸はやめる。
そして1947年5月,天皇はその憲法に定めた一定の国事行為以外は政治的機能はいっさいもたないと定めた憲法ができたその直後に,天皇はマッカーサーにメッセージを送って,沖縄を長期にわたって,25年ないし50年〔またそれ以上の年数〕にわたって〔も〕アメリカ軍が占領してくれということをいうんです。これは,ものすごい国事行為ですね。
以下・補記)その天皇の行為は,秘密裏に,つまり彼個人が自分のためを思い,冒した勝手であって,厳密には国事行為などではなくて,あくまで私的な逸脱の行為,恣意にもとづく自己保身のための行為に過ぎなかった。しかも,日本国憲法は1947年5月に施行されている。
太平洋戦争中も末期になった1945年6月23日に沖縄戦は決着した。だが,敗戦後80年以上が経った2026年になっても,つまり「四半世紀」の単位でいえば,その3期以上もの長期間にわたりいまだに,沖縄県は米軍基地によって実質「占領」同然の《半植民地状態》が,なお強固に継続「させられて」いる。
いったいいつになったら,沖縄県から米軍基地がなくなるのか? この時期を予見できる日本の政治学者はいるのか? この該当者になる学者がいつまで経っても登場しえない「現状」は,米日間の服属関係がそれこそ「板に付いている」両国間の力関係を,裏面から実証したことにもなる。
沖縄県は依然,米軍にだけ使い勝手のいい,それもアメリカ本土並みではなくて,「風土や環境」も含めて「人間と社会」が粗雑に扱われる他国の土地になったのは,一重に,裕仁個人の私利我欲を生かすための敗戦処理史的な事情に原因していた。もっとも,その事実は,なんといっても当人が一番よく心えていた経緯ではあった。
だから,裕仁自身は生前,沖縄県にはとうとういけなかったものの,その代身として息子の明仁が嫁さんを同道させるかたちで,1975年7月17日から同県を訪問させた。しかし,当時,皇太子だった明仁夫妻が沖縄へ到着してからその道中に事件が発生した。
この皇太子夫妻を乗せた車列に向かって,〔沿道の建物から〕瓶が投げられたりする不測の事態が発生したなかで,そのままひめゆりの塔へ向かった皇太子夫妻に対してに,さらに火炎瓶投下事件が発生したのである。
c) 視点を変えてこう問うてみるのもよい。明仁夫婦は沖縄県に対してつぎのような感情を抱いていたという解説があった。
「普通の日本人だった経験がないので,なにになりたいと考えたことは一度もありません。皇室以外の道を選べると思ったことはありません」…… 明仁皇太子,1987年。アメリカの報道機関からの質問に対する回答。
「石ぐらい投げられてもいい。そうしたことに恐れず,県民のなかに入っていきたい」…… 明仁皇太子,1975年。沖縄訪問を前に。
「だれもが弱い自分というものを恥ずかしく思いながら,それでも絶望しないで生きている」…… 美智子皇太子妃,1980年。46歳の誕生日会見より。
註記)矢部宏治【文】,須田慎太郎【写真】『戦争をしない国 明仁天皇メッセージ』増補改訂,小学館,2015年から。
追記)なお,矢部宏治が語るつぎの一文も参照されたい。⇒「明仁天皇が紡ぎ出した『光もつ言葉』の数々。国民必読の書『天皇メッセージ』全文無料公開!」『小学館』2019年2月6日,https://sgkcamp2.tameshiyo.me/MESSAGE.
結局,沖縄県にはどうしてもいけなかった生前の昭和天皇裕仁の代身になったつもりで,第2次大戦末期「県民の4人に1人は死んだ」とされる沖縄戦の犠牲者を慰霊する意味もこめて,沖縄県を訪問したのが,皇太子明仁の立場であった。
参考にまでいうと,1940年(昭和15年)の沖縄県の人口統計は,57万4579人であった。以下に引用する記述のなかに指摘される戦争犠牲者(ここでは死者統計)は,いかほどであったかといえば「本土」各地とは,いってみれば量的にも質的にも雲泥の差があった。
たとえば,1945年(昭和20年)3月10日の米軍による東京下町大空襲では,約10万人の犠牲者を出したが,そのほかの各都道府県が被った戦争被害:人口統計も含めて比較しても,沖縄県が格別にひどい損害を被った事実は,そのありように関して「骨身に染みた断絶的な状況」を強いられていた「自県の戦争体験史」として,21世紀の現在になっても県民たちは忘れない。
つまり,沖縄県だけはあの「本土決戦」を実際に強要され,それ相応にして県全体が戦場と化してしまい,メチャクチャに破壊され焦土となったのである。
第2次大戦時の末期,「沖縄県を捨石にした裕仁の戦争指導」によってもたらされたその戦争犠牲者「統計」に関して,沖縄県のホームページは,「沖縄戦」『沖縄県』2024年1月11日,https://www.pref.okinawa.jp/kyoiku/kodomo/1002705/1002709.html を充てて,つぎのように解説している。
1941(昭和16)年に始まった太平洋戦争が終わる1945(昭和20)年,日本軍とアメリカ軍だけでなく,住民すべてを捲きこんだ戦いが,沖縄では3カ月以上続きました。この「沖縄戦」によって亡くなった人は,沖縄の住民9万4000人,沖縄出身者も含む日本軍約9万4136人,アメリカ軍1万2520人といわれます。
沖縄は,日本軍とアメリカ軍の直接の戦いが地上でおこなわれた場所であり,この「沖縄戦」によって,子どもやお年よりを含めた大勢の人たちが,犠牲となった島なのです。
沖縄戦は,アメリカ軍が 1945(昭和20)年3月26日,那覇市の西にある慶良間諸島(けらましょとう)に上陸して始まりました。アメリカ軍は,4月1日に沖縄本島中部,読谷村(よみたんそん)に上陸し,北と南に分かれて進みました。南に向かったアメリカ軍は,日本軍の本部があった首里城(しゅりじょう)をめざし,軍を進めました。
中部および首里でおこなわれた日本軍とアメリカ軍との戦いは,40日以上続く激しいものでした。5月下旬,日本軍は南部へ撤退しました。沖縄は住民を捲きこんだはげしい戦場となり,多くの人々が犠牲となりました。
沖縄戦が終わったのは,日本軍の司令官が自分で命を絶った6月23日といわれていますが,その後も,いろいろな場所で日本兵の抵抗は続きました。そのため,日本軍が降伏文書にサインしたのは9月7日のことでした。
明仁ははたして,裕仁の代役を十分に遂行できていたのか? この点を考えるための材料を次項において考えてみたい。沖縄県の地方紙がきびしく問いつめるところに対して,はたして,昭和天皇とその息子たちは,よく応えることができていたか?
7 沖縄地方紙の昭和天皇批判「社説」
1)「〈社説〉昭和天皇実録 二つの責任を明記すべきだ」『琉球新報』2014年9月10日 06:02,https://ryukyushimpo.jp/editorial/prentry-231371.html
沖縄の運命を変えた史実は,十分解明されなかった。
宮内庁は昭和天皇の生涯を記録した「昭和天皇実録」の内容を公表した。米軍による沖縄の軍事占領を望んだ「天皇メッセージ」を日本の公式記録として記述した。
しかし,沖縄の問題で重要とみられる連合国軍総司令部(GHQ)のマッカーサーとの会見記録や,戦争に至る経緯などを側近に述懐した「拝聴録」は「みつからなかった」との理由で,盛りこまれなかった。編さん〔編纂〕に24年かけたにしては物足りず,昭和史の空白は埋められなかった。
昭和天皇との関連で沖縄は少なくとも3回,切り捨てられている。
最初は沖縄戦だ。近衛文麿元首相が「国体護持」の立場から1945年2月,早期和平を天皇に進言した。天皇は「いま一度戦果を挙げなければ実現は困難」との見方を示した。その結果,沖縄戦は避けられなくなり,日本防衛の「捨て石」にされた。だが,実録から沖縄を見捨てたという認識があったのかどうか分からない。
二つ目は1945年7月,天皇の特使として近衛をソ連に送ろうとした和平工作だ。作成された「和平交渉の要綱」は,日本の領土について「沖縄,小笠原島,樺太を捨て,千島は南半分を保有する程度とする」として,沖縄放棄の方針が示された。なぜ沖縄を日本から「捨てる」選択をしたのか。この点も実録は明確にしていない。
三つ目が沖縄の軍事占領を希望した「天皇メッセージ」だ。天皇は1947年9月,米側にメッセージを送り「25年から50年,あるいはそれ以上」沖縄を米国に貸し出す方針を示した。
実録は米側報告書を引用するが,天皇が実際に話したのかどうか明確ではない。「天皇メッセージ」から67年。天皇の意向どおり沖縄に在日米軍専用施設の74%が集中して「軍事植民地」状態が続く。「象徴天皇」でありながら,なぜ沖縄の命運を左右する外交に深く関与したのか。実録にその経緯が明らかにされていない。
私たちがしりたいのは少なくとも3つの局面で発せられた昭和天皇の肉声だ。天皇の発言をぼかし,沖縄訪問を希望していたことを繰り返し記述して「贖罪(しょくざい)意識」を印象付けようとしているように映る。沖縄に関するかぎり,昭和天皇には「戦争責任」と「戦後責任」がある。この点をあいまいにすれば,歴史の検証に耐えられない。
2)「〈社説〉昭和天皇『拝謁記』 戦後責任も検証が必要だ」『琉球新報』2019年8月21日 06:01,https://ryukyushimpo.jp/editorial/entry-975015.html
初代宮内庁長官の故田島道治氏が昭和天皇とのやりとりを詳細に記録した「拝謁(はいえつ)記」の一部が公開された。それによると,本土で米軍基地反対闘争が起きていた1953年,昭和天皇は
「全体の為(ため)に之がいいと分れば一部の犠牲は已(や)むを得ぬと考へる…」
「誰かがどこかで不利を忍び犠牲を払ハねばならぬ」(引用部は一部原文のまま)などと述べていた。
昭和天皇が〔19〕47年,米軍による沖縄の長期占領を望むと米国側に伝えた「天皇メッセージ」の根本にある考え方といっていいだろう。
沖縄をめぐり,昭和天皇には「戦争責任」と「戦後責任」がある。歴史を正しく継承していくうえで,これらの検証は欠かせない。
〔19〕45年2月,近衛文麿元首相が国体護持の観点から「敗戦は必至」として早期和平を進言した。昭和天皇は,もう一度戦果を挙げなければむずかしい,との見方を示す。米軍に多大な損害を与えることで講和にさいし,少しでも立場を有利にする意向だった。
さらに,〔19〕45年7月に和平工作のため天皇の特使として近衛元首相をソ連に送ろうとしたさいには沖縄放棄の方針が作成された。ソ連が特使の派遣を拒み,実現をみなかった。
そして〔19〕47年9月の「天皇メッセージ」である。琉球諸島の軍事占領の継続を米国に希望し,占領は日本に主権を残したまま「25年から50年,あるいはそれ以上」貸与するという擬制(フィクション)に基づくべきだ―としている。宮内府御用掛だった故寺崎英成氏を通じてシーボルトGHQ外交局長に伝えられた。
すでに新憲法が施行され「象徴」になっていたが,戦前の意識が残っていたのだろう。
これまでみてきたように,昭和天皇との関連で沖縄は少なくとも3度切り捨てられている。根底にあるのは全体のためには一部の犠牲はやむをえないという思考法だ。
こうした考え方は現在の沖縄の基地問題にも通じる。
日本の独立回復を祝う〔19〕52年の式典で昭和天皇が戦争への後悔と反省を表明しようとしたところ,当時の吉田 茂首相が反対し「お言葉」から削除されたという。だからといって昭和天皇の責任が薄れるものではない。
戦争の責任は軍部だけに押し付けていい話ではない。天皇がもっと早く終戦を決意し,行動を起こしていれば,沖縄戦の多大な犠牲も,広島,長崎の原爆投下も,あるいは避けられたかもしれない。
「拝謁記」で,昭和天皇が戦前の軍隊を否定しつつも,改憲による再軍備を口にしていたことは驚きだ。憲法99条は天皇や国務大臣など公務員に「憲法尊重擁護の義務」を課している。象徴である天皇自身が憲法改正を主張することは許されないはずだ。
「拝謁記」で明らかになった昭和天皇の発言が,現政権による改憲の動きに利用されることはあってはならない。
以上『琉球新報』社説を2件,紹介した。本ブログ筆者が奥崎謙三を記述の対象にとりあげ検討してきたつもりである「天皇・天皇制」問題の,それも,とくに敗戦後史における天皇裕仁の我利私欲・自己保身になる処世術,これは天皇だとかいった問題としてとらえて議論する以前に,彼の「1人の人間としての〈哀れさ〉」を感じさせるに十分な材料を提供した。
こうした敗戦後史的な足跡を残した昭和天皇の生きざまは,相互がまさしく共鳴しうる周波数は探り出しにくかったとはいえ,つまり対律的にしか観察しようがなかった関係性にあったとはいえ,自分の敗戦後を生き抜いてきた奥崎謙三の生きざまとは,まさしくまた,相即的かつ即時的に濃厚に連関していた事実は否定しえない。
しかも,両名のそうした鎖錠性の実在が顕現化させられたのは,1969〔昭和44〕年1月の皇居一般参賀で奥崎が放ったパチンコ4個(発)であった。ある意味でというまでもなくあらゆる意味でもって,両名のあいだにはきわめて近しく,かつ深く共有しえた歴史的背景が控えていた。
当然である。一方は旧大日本帝国の大元帥,他方はその帝国陸軍のただの一兵卒であった奥崎,この2人は,帝国日本ピラミッドの頂点と底辺にそれぞれいた同士関係なりの「存在形態」を採りながら,当時の歴史(戦史)をまた彼らなりに同時に,相互に深い関係性を保持・存在しあいながら生き抜いてきた。
しかしながら,奥崎のように敗戦後まで自分の生命を維持できた兵卒たちほうは,いうまでもなく当然,幸運に恵まれていた。とはいえ,天皇裕仁に向かい「帝国臣民の1人であった自身の立場」を比較したうえで,とりわけきびしい批判精神を打ち立てて議論し批判する方途は,通常,そう簡単に打ち出せるはずもなかった。
それゆえ,この奥崎の過去歴をどのように評定するにしても,その方途そのものがどのように取りあげられうるかついて,より慎重な詮議が必要である点に異議を申したてる者はいない。その異議を口に出して唱え,問題のありかを遮断したがるような者は多分,奥崎謙三的な「天皇・天皇制」に関した問題提起を直視したくない立場にある。
◆ 関連の記述 ◆
2022-01-07 05:42:36 「奥崎謙三 裕仁パチンコ玉狙撃事件五十四年五日」『俺の命はウルトラ・アイ』,https://ameblo.jp/ameblojp-blog777/entry-12719883913.html
【参考文献】
