「日本初の女性首相」論(6)-2025年10月自民党総裁になった高市早苗,そして安倍晋三などは靖国神社問題にどうかかわってきたか?
1 まず2026年4月上旬時点になり,「高市早苗首相・任期」がほぼ半年が経過したいま,彼女の国家指導者としての采配ぶりは支離滅裂・四分五裂でしかなかった実際:実績は,2月28日にトランプが始めたイラン戦争への対応ぶりを介して,いよいよバレバレになってしまった。
『日本経済新聞』2026年4月7日の記事は,「首相,自衛隊派遣の意向の報道『事実でない』 今井参与の反対も否定」https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUA07ASI0X00C26A4000000/ という見出しの記事を掲載し,こう報道した。
高市早苗首相は7日の参院予算委員会で,トランプ米大統領の要請を受けてホルムズ海峡に自衛隊を派遣する意向だったと報じた月刊誌「選択」の報道を否定した。「事実ではない」と述べた。
今井尚哉内閣官房参与が派遣に反対したと伝えた同誌の内容にも「今井さんの名誉のためにいうが,そのような話を私のところにしに来られたことはない。完全な誤報だ」と話した。立憲民主党の杉尾秀哉氏への答弁。
高市首相が否定するとおりに「事実でない」と断定するのであれば,問題が問題だけに,それなりの対抗措置を講じておく必要があるのではないか。『選択』のこの記事の中身が事実でないならば,黙って見過ごすにはいかないはずだが,単に否定しておくだけでよいのか?
以上のごとき疑問を提示しておき,以下の記述は昨年秋,高市早苗が首相になった10月ごろにまで戻り,ここを起点に議論を始めることにする。
2 まず「公,連立合意持ち越し 『政治とカネ』隔たり-国会召集ずれ込みか」『時事通信』2025年10月7日19時46分,https://www.jiji.com/jc/article?k=2025100700631&g=po という時事問題から引き出せる議論
a) この『時事通信』の報道は,昨年の2025年10月8日における話題になっていたが,ひとまずここでは,当時なりにおける「直近(最新)の記事」の話題として取りあげてみたい。
同年10月4日の自民党内における総裁選で選ばれた高市早苗に対して,いわゆる「雪の下駄」〔ならぬ「ワラジの▼ソ」〕みたいにいつもへばりつき,「自民党との政権野合に参加しつづけたい立場」を捨てることなど,絶対に「夢にも思っていなかった」創価学会:公明党が,
いってみればとうとうそこまで来てしまった,自民党のこの体たらく的「実質,第2次麻生〔太郎?〕支配体制自民党の登場」,いいかえれば,この「太郎による高市早苗の操り人形化現象」が準備された結果を,ひどく憂慮するという立場を示さねばならなくなった。
公明党は,その総裁選(ゴミ箱のなかに捨てられていた割れ茶碗のなかでの総裁選ゴッコ)の結果を受けて,ともかく,この『時事通信』が報道するごとき「自党の意思」を,総裁になったばかりの高市早苗に対して突きつけた。
しかしその後,2026年のこの4月の段階になった日本の政治情勢は,高市早苗という首相が「誰のおかげで自分が日本国の最高責任者の地位に就くことができのか」を,すっかり失念したかのような言動の位相に転じていた。
総じて,この高市早苗は,自身が日本初の女性首相として登壇したものの,政治屋としての資質の難点・短所・欠落を,すでに覆いがたいほどたっぷりに随所に染みこませており,もういい加減,国民・庶民・市民たちも「タコイチ政権」流の「アホエノミクス的な弊害」に気づかざるをえなくなった。
2026年2月28日,イラン戦争を始めたトランプのせいで,日本は,ホルムズ海峡が紛争地(海域)化したる状況に対峙させられた。ところが,トランプのお尻にしがみついて支援したいかのように,その海峡付近に「自衛隊を派遣する」とアメリカ側に約束したのではないかという話題が,前段で紹介してみた月刊誌『選択』2026年4月号が報道した記事の核心であった。

ところがいまのところそうした動きはない
以下に,この2の見出しにかかげた時事から引用する。〔 〕内補足は引用者である。論点をより明確化する工夫をしてみた。また〈♭ ♭〉内の文言は,記事の本文中のものではなく,関連してここの本文の途中に挿入し利用されていた〈ほかの事項〉を指示する部分である。
自民党の高市早苗総裁は〔2025年10月〕7日,新執行部を発足させ,公明党の斉藤鉄夫代表と国会内で会談した。連立政権の継続について話しあったが,「政治とカネ」の問題に対する姿勢で隔たりがあり,合意はもちこした。両党は協議を続ける。これに伴い臨時国会召集と首相指名選挙が,想定されていた15日からずれこむ可能性が高まった。
♭ 高市氏に広がる警戒 パイプなし,異なる政治スタンス-公明 ♭
公明は保守色の強い高市氏を警戒。4日の総裁選直後の党首会談で,〔1〕自民議員の政治資金収支報告書不記載問題にけじめをつけるよう要求した。〔2〕靖国神社に参拝してきた高市氏に懸念を伝え,〔3〕外国人政策に関する擦り合わせも求めた。
7日の会談は約1時間半に及んだ。斉藤氏は記者団に,三つの懸案のうち「靖国」「外国人」を挙げて「2点は認識を共有できたところもあった」と説明。一方で旧安倍派の裏金事件について,「衆参両院選でみそぎを済ませたという話もあるが,その後に(刑事裁判で)証言が出ている」として全容解明を求めたことを明らかにした。
補記)本日のこのブログの記述では,「靖国(神社参拝)」の問題が焦点となるが,高市早苗が公明党との話合いでどのような態度を採るのかについては,現時点〔当時の段階:2025年10月〕ではまだ不詳であったので,具体的に批評できていなかった。なんらかの妥協があったものと推察されてもよかったのだが,結果として両党は袂を分かつ顛末になった。
〔記事に戻る→〕 高市氏も記者団に「2点は共有できたが,1点は少し時間がかかる」と語った。次回の協議期日は未定という。連立継続を確認するための自公党首会談が複数回にまたがるのは異例。同席した公明の西田実仁幹事長は決着の見通しについて「引きつづき協議するということに尽きる」と述べるにとどめた。
連立協議がこじれ,政府・自民が描いてきた召集日程は不透明になった。〔2025年10月〕17日に先送りする案が浮上。野党側は早期召集を求めており,立憲民主党の安住淳幹事長は7日,日本維新の会に首相指名選挙での連携を呼びかけ,揺さぶりをかけた。
「中道改革連合」を組織した
この記事のなかで「連立協議がこじれ」ているのは,多分,「自民議員の政治資金収支報告書不記載問題」と思われる。マスコミ・メディア側がわざわざ政権側を忖度して,この「政治資金にまつわる裏金問題」をそのようにいいかえている点は,言論機関側がわざわざ問題の本性を隠蔽する立場を披露しており,恥ずかしいかぎりである。
b) 高市早苗がもしも靖国神社関係の問題に関連し,公明党側になんらかの譲歩をした(する気持ちを伝えていた)とすれば,それは「8月15日」に靖国に参拝するという行為だけはしないよ,という程度のものだと推察するに留めておくほかなかった。高市が首相になってから初めてその「敗戦の日」を迎えるのは,2026年の夏になる。
しかし,靖国神社への参拝行為と「同じ宗教的な意味を有する」場を現わす政治家の動き,つまり「年に2回ある春と秋の例大祭」のときに「真榊を奉納する」という点まで,高市自民党総裁と公明党代表斉藤鉄夫とのあいだで話題になったかどうかまでは分からない。
これまで歴代の首相になった自民党総裁たちは靖国参拝ができなくとも,真榊奉納の行為は忘れずに実行していた。
本ブログ内では既述の論点であった。靖国神社側の国家神道的なイデオロギー(無理やりいいえば神社神道風の信仰心)に即して表現すると,その真榊奉納という宗教的な行為は「本殿への参拝と実質同義である事実」は,
斎藤鉄矢にしても高市早苗にしても,まだまともに理解していないというか,そもそも彼らにあってはもともと「理解する・しないという以前の問題」であったというほかない。これはきわめて初歩的な疑念として指摘しておきたい。
ひとまず,そのような疑念など問題になる以前(以外?)のところで,この2においてまず紹介するのが,前段『時事通信』の記事の「問題性」であった。
日本・日本人・日本民族の各宗教(さらにいろいろな宗派)にかかわる態度は,きわめて緩慢というか弛緩しており,この問題(靖国神社にA級戦犯が合祀されている現実)をはじめ,つまり「政教分離の原則」にかかわる問題に関しては,極端なまで「絞まりのない対応」に終始するのが常道であった。
【参考記事】「高市早苗,秋の靖国参拝見送りで調整・・・公明党の連立離脱を振りかざすディールに配慮したってことか!!」『くろねこの短語』2025年10月8日。
c) そもそも「靖国神社」という「官軍神社」(しかしこれは国内版としての含意しかありえない)に,第2次大戦で「賊軍になった旧大日本帝国陸海軍」関係などの人物たちを,「昭和殉難者」だといつわって無理やり合祀した靖国側の,それこそ,この神社のかつての総覧者が実は「天皇裕仁」であった「伝統:由来」を,よく承知していながらでも踏みじり実行したその「基本姿勢」は,
本来,旧「大日本帝国陸海軍の国営神社であった靖国神社」の関係者としては最高位に立っていたはずの,つまり,その陸海軍の大元帥(総括統帥者)であった「彼の立場:面子を丸つぶれ」にさせる結果になる「A級戦犯の合祀」を敢行した。その事実をしったときの天皇裕仁の気持ちといったら「まさに憤懣やるかたない」ものであった。
2006年7月20日,『日本経済新聞』が朝刊でつぎの特ダネ記事を報道した。この記事の画像として添えられていたのが,靖国神社側の采配によってA級戦犯が合祀された事実をしったとき「天皇裕仁が吐いた嘆き」が,当時の宮内庁長官富田朝彦に向かい語られ,これを富田がメモに残していたのである。

天皇裕仁が,敗戦後になってからは自分の差配などまったく効かなくなっていた靖国神社が,なんと自分の「敗戦後史的な事情」を裏舞台で支持してくれていたはずの,いうなれば「彼の身代わりになってくれた」,またいうなれば,旧忠臣たちがそれも東京裁判で絞首刑に処された「A級戦犯」たちのその「御霊」を,わざわざ「英霊あつかいし」靖国に「合祀」していた。
だから,以上のような靖国神社側の対応は彼にとってみれば,その「靖国側の措置」が「トンデモなかった」どころか,それこそ「天地がひっくり返る」ような事態の発生となった。そこで彼が当時の宮内庁長官に対してこぼした正直なセリフが,前段の画像資料に紹介した「残されたメモ」に表現されていた。

d) ところで,「A級戦犯が合祀されている」靖国神社に参拝するという神道式の一般的な行為は,実際にはそれらA級戦犯を英霊として参拝する宗教的行為そのものを意味する。ところが,この行為の真義にまったく気づくことなどないまま,靖国神社に参拝する「おそらくその99.99%の人びと」は,悪い意味での「大東亜戦争」「史観」にしらずうちにとりこまれ,自国の敗戦体験すらも真っ向から否定する靖国側の「隠された思惑」に取りこまれていることになる。
しかし,その靖国神社側が「A級戦犯合祀」によって企んだ真意は,昭和天皇の立場にとってみれば,自身とこの元国営神社(官軍神社・戦争神社・勝利神社)の『敗戦後事情』の総体を,つまるところ,『彼自身の立場を全面否定する国家思想』として,国家神道的な次元において正々堂々と披露した。
だがどうか? 戦後における靖国神社は,当初におけるこの神社創建時の本意であった「賊軍排除の姿勢」に照らしてみるまでもなく,国際政治のなかでこの神社じたいが「賊軍神社・敗戦神社」になりはてていたのだから,いまさらA級戦犯の者たちを「昭和殉難者」とみなし合祀したところで,この靖国が創建された当初(明治維新前後)に国家神道的にこめられていた「宗教的な主旨」は,まったく生かされるわけなどありえなかった。
以上のような靖国批判を国際政治的な視野から絶対にみたくはない靖国神社側の,その政治意識の粗雑さ・未熟さ・狭隘さ,単純にいえばその視野狭窄も完璧だった「A級戦犯合祀」の問題は,そもそも中国との戦争から米英の戦争へと段階が深まっていった(「大東亜戦争」と「太平洋戦争」のいわば同時進行),その結末に出来した事実であった。
それを,いまさら負け惜しみではないが,A級戦犯合祀にこめられた意味は,その戦争に旧大日本帝国はけっして負けてはいなかったのだとでもいいたげな,きわめて顚倒し,空洞化した形式論理をもちだしては,靖国神社に合祀していた。靖国神社側の賊軍・敗戦神社化(もちろん国際政治の枠組のなかでの話だが)を余儀なくされた「自社の立場」にこもるウップン返しを試みたことになる。
3 靖国神社境内に存在する「鎮霊社」という小さな祠は,A級戦犯問題との絡みで存在していた事実をめぐる討議
つぎにここでもちだす話題は10年以上以前になる。題名としては「2013年夏,靖国参拝問題に関して『鎮霊社』の存在を強調した朝日新聞社記者」がいた,という事実をめぐる議論となる。最初は a) のような見出しの文句をかかげての記述から始める。
a) 安倍晋三を靖国神社の鎮霊社にいかせるために「要らぬヒントを与えようとした役目をはたした「朝日新聞の記者」駒野 剛の「言説」,その「意味」を10年あとの現在において再考するとしたら,」靖国神社側はA級戦犯をこの鎮霊社のなかに納めたつもりか?」と問いかけておく余地があったのである。
靖国神社境内に存在する祠だが,実にみすぼらしい様子にしかみえない「鎮霊社」という小さな建築物がある。この鎮霊社の例祭日は,靖国神社が毎年7月13日から16日まで開催される「みたままつり」の初日にもたれているというが,一般にはまったくといっていいほどしられていない。

この鎮霊社は,みてのとおり屋根の部分はだいぶサビが吹いており,お世辞にも大事に保守・管理(日常的な手入れ)がなされているようには映らない。拝殿・本殿など主要施設のみならば,ほかの境内にある各施設に比較するまでもなく,実にみすぼらしい姿である。靖国神社内でこの鎮霊社は,つぎの場所に設置されている。


ところで,2013年夏における出来事であった。この鎮霊社の存在そのものに関してだけでなく,その「ある利用方法を世間に教えた」朝日新聞社の記者がいた。しかし,その示唆したかったらしい方途は,外交政治にまで悪影響をもたらしかねず,その迷惑さ加減は正直いって「愚かな発言」であった結果になっていたと論断するほかなかった。
ここではさきに,つぎの引用をしておきたい。
以前,本ブログが書いた以前の「関連のブログ」の記述を読んだある人が,靖国神社境内に別置されている鎮霊社のことを,つぎのように言及していた。
さきほどの写真をみても分かるとおり,非常に質素な社である。非常に失礼ないい方で恐縮だが,靖国神社の本殿の建立の費用は多分,数十億単位であろうが,鎮霊社は多分,数百万円でお釣りが来そうな質素さである。しかも,参拝を希望すれば参拝できるそうだが,現時点ではここには鍵がかけられていて中に立ち入ることはできない。
……先程の青山繁晴さんは「警備員がいるから,お願いすれば入れる」と紹介していたが,本殿側の入り口には確か「参拝不可」と書かれていて,仕方がないので大回りして横側の方からアプローチすると,そこには「参拝希望者は社務所(?)にお回りください」と書かれていたように記憶している。
お手を煩わせないと参拝できそうもないので,結局は20mほど離れた柵の外側からお参りを済ませた。なんとも不思議な場所である。
注記)「靖国問題を解く鍵となるか? 『鎮霊社』」『けろっぴぃの日記』2014-05-08 23:58:00,https://blog.goo.ne.jp/keroppy_2011/e/dbd1b7428c46ec695060cf2c7f16eabb
b) 安倍晋三首相の靖国神社参拝,そして鎮霊社
2013年12月26日,安倍晋三が第2次政権を成立・発足させから1年が経ったその日,彼は靖国神社に参拝にいった。そして,本殿の脇(南側)にめだたないように置かれている祠,「鎮霊社」にも参拝したと自慢げに語り,だから,靖国神社の本殿に祀られない霊に対しても,私は尊崇の念を表わしてきたのだ,と胸を張って強調した。
しかし,この安倍晋三のいいぶんは,だいぶ見当違いがあった。しかも,肝心の問題点が,実際には自分の視野に入っていないのに,そうした意見を開陳し,こういっていた。
本日,靖国神社に参拝し,国のために戦い,尊い命を犠牲にされた御英霊に対して,哀悼の誠を捧げるとともに,尊崇の念を表し,御霊安らかなれとご冥福をお祈りしました。また,戦争で亡くなられ,靖国神社に合祀されない国内,および諸外国の人びとを慰霊する鎮霊社にも,参拝いたしました。
御英霊に対して手を合わせながら,現在,日本が平和であることのありがたさを噛みしめました。
いまの日本の平和と繁栄は,今を生きる人だけでなりたっているわけではありません。愛する妻や子どもたちの幸せを祈り,育ててくれた父や母を思いながら,戦場に倒れたたくさんの方々。その尊い犠牲の上に,私たちの平和と繁栄があります。
今日は,そのことにあらためて思いを致し,心からの敬意と感謝の念を持って,参拝いたしました。
日本は,二度と戦争を起こしてはならない。私は,過去への痛切な反省の上に立って,そう考えています。戦争犠牲者の方々の御霊を前に,今後とも不戦の誓いを堅持していく決意を,新たにしてまいりました。
同時に,二度と戦争の惨禍に苦しむことがない時代をつくらなければならない。アジアの友人,世界の友人とともに,世界全体の平和の実現を考える国でありたいと,誓ってまいりました。
注記)「安倍内閣総理大臣の談話~恒久平和への誓い~」『外務省』平成25〔2013〕年12月26日,https://www.mofa.go.jp/mofaj/a_o/rp/page24_000177.html から。
この,外務省ホームページに掲載されたこの安倍晋三の発言は,『朝日新聞』の報道ではつぎのように掲載されるかたちを採って,報道されていた。外務省の記録は事後において,安倍晋三の口から出ていた表現に対して,いちいち「文意をくずさないようにする配慮をしたうえで,それなりに推敲がくわえられていた点」が伝わってくる。
本日,靖国神社に参拝した。日本のために尊い命を犠牲にされたご英霊に対し,尊崇の念を表し,そして御霊安かれ,なれと手を合わせて参りました。そして,同時に,靖国神社の境内にあります,鎮霊社にもお参りして参りました。
鎮霊社は,靖国神社に祀られていないすべての戦場に倒れた人びと,日本人だけではなくて,諸外国の人びとも含めて,すべての戦場で倒れた人びとの慰霊のためのお社であります。その鎮霊社にお参りをしました。
すべての戦争において命を落とされた人々のために手を合わせ,ご冥福をお祈りし,そして,二度と再び戦争の惨禍によって人々の苦しむことのない時代を作る決意を込めて,不戦の誓いをいたしました。
註記)『朝日新聞』2013年12月26日18時18分,http://digital.asahi.com/articles/ASF0TKY201312260370.html 現在はこのリンク先住所で検索しても削除。
『朝日新聞』が伝えた安倍晋三の「靖国神社参拝・報告」の場合になると,とくに「すべて」という表現が「戦場・戦争」ということばとの対で3度も強調して使われている。そして安倍晋三は,「鎮霊社」についても同じく3回挙げていた。それほど長くはない発言(文字数)であったが,そのなかで3度登場させていた。
要は,安倍晋三のそうした発言からは,あまりにも都合よく「鎮霊社」を利用しようとしている気持(魂胆)が,にじみ出ていた。
c) 国家〔とはいっても旧大日本帝国「勝利」のためにこの国家〕に生命を捧げたとされる兵士たちなどの〈怨霊〉を,〈英霊〉といいかえて祀っているつもりの靖国神社は,日本に古くからある固有の諸神社とは,ごくわずかの連続性を保ちながら,実はきわめて異質な要素を抱えていた。
それはとりわけ,「国家のそのため」に役立ったと認めた者以外の〈御霊〉は,徹底的に排除しておき,絶対に合祀させないという,相当に異様な「国営の戦争督励神社」であった点にみいだせる。
敗戦後になって,靖国神社そのものが社会的に騒がれる神社となるほかない政治状況が生まれていた。そのなかでこの鎮霊社(1965年造営)には,この靖国神社の宗教的な本旨・目的に合致しない戦争犠牲者を,十把ひとからげにして放りこんでおきながら,本「神社」はけっして英霊の資格非保有者も排除しておりません,といいわけするための物的施設として利用されていた。それゆえ,宮司が変わるとその門を閉ざす状態にしていた時期も長くあった。
最近(その後,本ブログ筆者が訪ねたときの状態),この鎮霊社の正面には立ち入り禁止になっている。本ブログ筆者は以前,靖国神社に立ち寄ったさいは,鎮霊社の前まで立ち入ることはできたときもあった。その後,特定の事情でも生まれたのか,参拝者の目線から遠ざける縄張りを敷くことになったと,説明しておけばいい。
4 安倍晋三に,鎮霊社の存在を,あらためて教えた「朝日新聞記者」:駒野 剛-間違えたヒントを安倍晋三に与えた記者-
本ブログ筆者は,まず2013年8月10日時点にさかのぼると,「靖国神社境内の『鎮霊社』を,戦争犠牲者慰霊のために使えという『迷説』」だという項目を立てて,論じたことがある。その後,半年以上が経った2014年3月5日午後3時に,朝日新聞のウェブ版で「鎮霊社」と「安倍晋三」の組みあわせで検索してみたところ,その結果として以下の5記事が出てきた。
イ)「(世界が見た安倍首相)靖国参拝,米の識者が分析」
2014年2月27日
ロ)「参拝3日前,側近を私邸に呼んだ 安倍首相の靖国参拝」
2014年1月28日
ハ)「首相『不戦の誓いをした』参拝後,記者団への発言詳細
2013年12月26日
ニ)「『不戦の誓い』『中韓傷つけるつもりない』首相談話全文」
2013年12月26日
ホ)「(記者有論)A級戦犯合祀 安倍首相なら元に戻せる」
オピニオン編集部 駒野 剛,2013/年8月10日
以上のうち最後に出ていた2013年8月10日の記述について筆者は,「靖国神社の本質を弁えない『靖国』論」「靖国神社の歴史をしらないから,いえる,おかしな靖国に関する議論」「東條英機が昭和天皇の身代わりになったことは,裕仁自身も諒解済みの『戦争責任逃れ」の構図であった」といったふうに,「説明用の見出しその語句」をかかげて論じることになった。
いきなりさきに断わっておくが,この駒野 剛記者,いわなくともいいことを「意見」として述べていた。これが,2013年12月26日の安倍晋三の靖国神社参拝の行動に決定的な影響(=示唆)を与えたのではないか,という因果を推定する根拠であった。
以下の記述では,その2013年12月26日に安倍晋三首相が靖国参拝をしたさい,「ついでに鎮霊社にも立ち寄ったらいい」と思わせ,実際にそう行動させるよう「一定の知恵」を与えたと思われる記述を紹介する。なお,論旨を理解しやすくするうえで補筆した段落もある。
以下の記述に進む前にここで,関連する年表として,ごく概略の「靖国神社の年表」を掲示しておきたい。

1)「鎮霊社にお参りしたらいいじゃないか」と勧めたが,靖国の本殿参拝にも匹敵させ,同等視しうるものとして,その 「靖国参拝をめぐる〈すべての方法〉」を教えたつもりか
2013年8月10日『朝日新聞』朝刊のオピニオン欄「〈記者有論〉A級戦犯合祀 安倍首相なら元に戻せる」で,駒野 剛(こまの・つよし;オピニオン編集部,写真)が開陳した以下の意見を読んでみて,いくつもの疑念を抱かざるをえなかった。本ブログ筆者の寸評(補記)を入れながら読んでいくことにしたい。

--8月15日がやってくる。靖国神社が喧噪に包まれるようになって何年たったろうか。
1985年の中曽根康弘首相(当時)の公式参拝以降,首相がこの日に参拝すれば中韓両国などから非難の声が上がり,見送りには,国内で「戦没者慰霊をおろそかにする」と不満が渦巻く。靖国は「明治天皇の宣(のたま)らせ給うた『安国』の聖旨に基き,国事に殉ぜられた人々を奉斎し」(神社規則),明治維新以降の戦没者ら246万余柱を祀っている。
補記)246万人以上もの戦没者を祀らねばならない靖国神社であるといっても,それは,靖国側が選んだ者たちしか合祀していない。日本帝国主義の戦争史において,あくまで勝者・勝利のために必要とされた神社である靖国は,戦勝という方針・目的のために英霊を創り,受けいれ,祀っているのである。それも勝手に選んで,である。
だから,1945〔昭和20〕年8月の敗戦を迎えて以来,実質的にはその「英霊の数」を増やさないで済んでいる。これはある意味,日本国憲法のおかげ,あるいは在日米軍がその「代替をしてくれているせい」だという観方もできる。もっとも,米軍基地は日本国をアメリカが支配するための,それこそ「基地(ベース)」であることも,否定できない日米関係の歴史的事実である。
つまり,靖国神社は,日本帝国の侵略路線にかなう国家神道式の「戦争神社:戦勝神社」であって,ここにこそ,その唯一・最大の存在意義があった。なお,この靖国神社が明治以来もたらしてきた〈宗教的な意義〉は,その本義に即してまともに認識するのであれば,いまとなっては実は,もうなにも残ってはいないのである。このことは,あらためて銘記しておく必要がある。
靖国は墓地ではなく,慰霊のための国家神道式施設であった。敗戦後の『神道指令』(←1945〔昭和20〕年12月15日,連合国軍最高司令官総司令部:GHQが日本政府に対して発した覚書であり,「国家神道,神社神道ニ対スル政府ノ保証,支援,保全,監督並ニ弘布ノ廃止ニ関スル件」(SCAPIN-448)の通称である。
この覚書は「信教の自由」の確立と軍国主義の排除,国家神道を廃止し,政教分離を果たすために出された。とくに「大東亜戦争」や「八紘一宇」などの使用を禁止し,国家神道・軍国主義・過激なる国家主義を連想するとされる用語の使用もこれによって禁止した)以後,旧陸海軍の管轄にあった靖国神社は,運よくおとり潰しにはならず,民間経営の一宗教法人に変身させられた。
靖国神社はそれ以後も,大東亜(太平洋)戦争中に死んで〈英霊〉になりうるとみなされたその〈死者の霊〉を探し出しては,とりこみつづけ,246万以上もの死霊を,その〈英霊〉として褒めあげるためであれば,敗戦した日本帝国の行跡については,あたかもいまだに「正しくも,りっぱに戦って〔勝って?〕きた記録」であるかのように,いうなれば,弁解=負け惜しみするための「神道の神社」として存続してきた。靖国神社はなんといっても,戦争に勝たねば意味のない神社であった。
だが,その理念:目的に完全に真っ向から対立する「そのもっとも典型的な英霊」が,A級戦犯の存在であった。東京裁判で,昭和天皇以下,うまく戦争責任を逃れた連中〔たとえば海軍の高位の軍人たちは比較的軽い刑罰に処されるだけで済んでいた。
また,日本国内で仕事をしていた国家高級官僚はほとんど問題にすらならなかった〕にしてみれば,東條英機以下のA級戦犯が身代わりに死刑などになってくれたからこそ,この連中に戦争の責任(罪)をなすりつけて,敗戦後をうまく生き延びることができてきた。
昭和天皇は「生存組」の正真正銘の代表格である。けっして裕仁氏に戦争責任がなかったとはいえない。にもかかわらず,アメリカが日本を占領・支配・統治する都合で「天皇を利用したほうが得策」と判断した国際政治的な利害関係でもって,彼を使いまわすことになっていた。だから,次段の話題になると,昭和天皇は,自身の履歴にとってもっとも痛いところを突かれたかのごとき,過剰にも映る反応を示すことになっていた。
〔記事に戻る→〕 政治・外交上の問題となった火種は,極東国際軍事裁判,いわゆる東京裁判でA級戦犯として死刑判決(7名)などを受けた戦時中の指導者14名を,1978年〔10月17日〕,当時の宮司松平永芳氏がひそかに合祀したことだ。それまでは,靖国に参拝していた昭和天皇もいけなくなる。1988年に当時の富田朝彦宮内庁長官に「あるときにA級が合祀され,(中略)だから私はあれ以来参拝していない。それが私の心だ」と天皇が語ったメモがみつかっている。
補記)昭和天皇が「私の心だ」と語ったことの核心は,東京裁判でこの自分(裕仁)の代わりに死刑を宣告された東條英機以下7名が,まさしく天皇のために死ぬという裁判の結果を,充分承知のうえで絞首刑台に登っていた事実と関連するのである。靖国神社に参拝して親祭する天皇は,「臣民(国民)」の,それも死んでしまった者たちの〈英霊〉に対してのみ《唯一》,こうべを垂れるしぐさをみせていた。
ところが,東京裁判の審理過程で,東條英機が「自分は陛下の意志に逆らうような采配は採っていなかった」と証言したため,これにあわてた判事(裁く側:連合国)は,日本側の弁護士などと相談し,東條英機にいいふくめて,天皇ではなく「自分のほうに戦争指導の全責任がある」という具合に,証言しなおすように法廷を指揮していき,天皇にまで戦争責任が及ばないようにその裁判を演出しなおした。
GHQ当局は始めから昭和天皇は免罪しておき,アメリカの国益のために利用することに決めてから,東京裁判を開廷していたのである。この裁判の起訴は,1946〔昭和21〕年4月29日の「昭和天皇の誕生日」になされ,27億円の裁判費用は当時連合国軍の占領下にあった日本政府が支出した。
〔記事に戻る→〕 ところで,本殿左側に高さ3メートル,幅 1.5メートルほどのお社がある。「鎮霊社」という。
靖国神社編の「やすくにの祈り」によると,ペリーの黒船来航があった1853(嘉永6)年以降「戦争・事変に関係して戦没し,本殿に祀られざる日本人の御霊(みたま)と,世界各国の戦争・事変に関係した戦没者の御霊を祀る鎮霊社を建立した」という。
官軍と戦った会津の白虎隊や西南の役で政府に反旗を翻した西郷隆盛も含まれる。1975年〔7月〕,松平永芳氏の前任者,筑波藤麿宮司の時に建立された。私〔駒野〕は機会があるごとに靖国にいき,戦塵に散った人々に頭を垂れている。しかし,彼らを戦地に送り,未曽有の国難を招いた指導者たちを同列に置くことは,どうしてもできない。
中韓にいわれてでなく,日本人みずからの歴史のけじめとして,指導者の失敗を厳しく糾弾しつづけるべきだ。指導者の慰霊は,他の戦没者と分けられなくてはならない。その知恵の一つが「鎮霊社」ではないだろうか。
補記)ところで駒野は,この鎮霊社の由来や歴史を本当にしったうえでの,この発言であったのか? A級戦犯を合祀した当時の宮司松平永芳(靖国神社側)は,一時期,この鎮霊社には鎖をかけて人びとが参拝できないようにしていた。よほど気に入らない要素が,この鎮霊社という祠にはある,とみなされていたわけである。
すなわち,靖国神社の境内にこの鎮霊社が設けられていることじたいについて,松平永芳は排斥的な態度を示していた。前述に触れたように,靖国神社は明治以来の日本帝国が推進してきた侵略路線のためを目的・方針とした,まさしく明治の時代に創建されていた「国家神道式の国営神社」であった。
このもともと国立の神社は「死者の霊」を祀り,利用する方向をもって,旧帝国日本による「侵略戦争の再生産」が円滑にいくように,つまり,いつでも勝利に導かれるように,《英霊》だと祭りあげた死者の霊を逆用・悪用した関係をもって,いわば,一般的な教義でいえば「宗教本来のありかたに謀叛を起こしたにひとしい考え:反宗教の立場・思想」にもとづいて,創設されていたのである。
そこで,なにかと批判の多いこの靖国神社は,日本にあるほかの神社一般の有する「宗教の本義」からは大きく外れているのであるけれども,これとは異質の「鎮霊社」を別途,あえて境内に建造しておき,こちらのほうに本殿には合祀できない「もろもろ・雑多な戦没者」を,それも雑多に一括して放りこんでおく体裁をとったのである。
靖国はけっして英霊だけを祀る神社ではないと,そのように世間に示そうとしてきたのである。
とはいっても,そもそも靖国神社じたいが,1945年8月に実質「戦争に負けた国家の神社」となっていたのだから,もう国家のための神社としての存在理由はなくなっていたのである。「戦勝神社」であるその本性(歴史的な本質)は,国家の敗北によって完全にその存在意義を喪失させられていたにもかかわらず,いままでずっと依怙地になって「廃社の処分」をできないままに来た。
その様子は,靖国神社の境内に付設されている遊就館の展示物を観れば,即時に理解できる。旧日本帝国は大東亜(太平洋)戦争において負けた。しかし,この事実を相当にごまかしておきたいとする気持が,その似非の歴史博物館からは強く伝わってくる。
なかんずく,戦争に敗北した昭和20年8月の史実は,この靖国神社にとっては「三猿の精神」で無視しておかねばならないもの,でありつづけている。それでも8月15日は毎年,終戦記念日としてこの境内には軍用コスプレしたオジサン,おじいちゃんたちが大勢,練り歩く。
すなわち,この社はもはや,お化け屋敷も同然のあつかいをされざるをえなくなったその「敗戦の日」を演じるための舞台となっている。
「賊軍たち(敗けた彼奴等)は徹底して排除する神社」が,実に奇怪なことに,この国営神社だった,この勝利神社だったはずの靖国を,みずから貶めるごときなのであるが,「敗戦の8月15日」には必らず登場するコスプレ・オッサンたちの演技によって,完全に敗戦神社になっていた史実を誇示としているのだから,この光景を観て吹き出さないほうがおかしい。
〔記事に戻る→〕 これまで政府内では分祀論が検討されたことがあったが,靖国神社や遺族の反対などで日の目をみなかった。本来の鎮魂の場にするため,合祀以前に戻す--政治的な大技だ。現在の政治家でできるのは1人。「国のために尊い命を落とした英霊に尊崇の念を表するのは当たりまえ」との思いを語る安倍晋三首相のほかにはいない。(駒野・引用終わり)
『朝日新聞』の駒野 剛記者は,はたして,靖国神社の本殿と鎮霊社の歴史的起源,この歴史的な因縁のある展開・経過などを十全にしったうえで,以上のような提案をしていたのか? 千鳥ケ淵戦没者墓苑もあるが,こちらは霊魂ではなく,遺骨を実際に埋葬する「慰霊」施設である。ただし,その遺骨はその後に納まる行き先がみつからなかった場合に限られている。
靖国神社は,死者の霊のいいとこどりをした。その御霊を《英霊》に祭りあげ,合祀させておき,戦前・戦中であれば,戦争事態:有事体制に役立たせるために「再利用する」ことが,一番の目的になっていた。
この靖国神社の目的がいまもかわらずに,維持・継続されているということになれば,21世紀のいま,戦没者(戦闘行為による戦死者・戦争犠牲者)の存在を予定する神道の神社で,ありつづけていることになる。
しかし,1945年8月の「日本帝国の敗北体験」は,勝利神社であるべき靖国神社をなきものにしたも同然であった。ところが,にもかかわらず,いまだにその事実を認めたくないかのようにして,早80年もの歳月が経過してきた。
各国にはむろん,戦没者を慰霊する施設が各種各様の形式と意味づけをもって置かれていている。だが,靖国神社は,いまだに〔第2次大戦に大負けしてしまった国家を応援してきたこの神社の顛末を考えればという意味でいえば〕,九段下の地に,それも「恥ずかしながら」(横井庄一のことば)という気分すらまったくもたずに,まるで戦勝国の国営神社も同然に,21世紀にいまおなお,大きな顔をして平然と存在できている。
まともな神経をもっている人の感性にしたら呆れはてるような,その種の『あられもない歴史の負性の因果』は,靖国神社じたいにとって不可避である根本からの疑問を,あらためて突きつけている。この神社は自社の存在理由を,敗戦史のなかで持続的に反省・再考を迫られていたはずである。この点は,アメリカのアーリントン国立墓地や沖縄県の「平和祈念公園」に設置されている「平和の礎」に比較すれば,ただち納得がいく道理である。
ところがそれなのに,靖国の境内の裏手に当たる場所で,隅っこにも感じられるそこに,あたかも嫌々ながらに置いてあるような「鎮霊社」を,靖国神社の本殿祭壇に合祀できない〈霊〉を収容するための,その代用にして使え,まとめて面倒みておけといった了見は,これまでの靖国問題の核心をはぐらかし,忘却させようとするだけでなく,靖国神社側の基本姿勢も含めて戦没者慰霊をめぐる諸問題を,よりいっそうあいまい化,混迷化させるほかない。
2) 以上,2013年8月10日の時点であったが,本ブログ筆者はとりあえず,駒野 剛記者の,靖国理解の浅薄さを批判してみた。駒野記者は,鎮霊社といった「靖国本殿そのものの代替には絶対になりえない」この小さな祠の存在を,靖国的に有用・有益なりと強調したことにより,安倍晋三に要らぬ浅知恵をつけることになったのではないか。
駒野記者の「〈記者有論〉A級戦犯合祀 安倍首相なら元に戻せる」は,鎮霊社に目をつけて「これならいい!」「使える!!」などと,きっと「ひざをポンと叩いて」書かれていたようにも感じられる。それにしても余計な,おまけに不正確な悪知恵を,当時の首相に提供してしまったようである。
2013年12月26日に安倍晋三が靖国神社を参拝し,この神社の境内には鎮霊社もあることによって,すべての「戦争犠牲者」が慰霊され,尊崇されうるのだといった。だが,この発想は勘違いも甚だしい。世界中の「大部分の戦争犠牲者の霊」の立場からみても,はた迷惑にしかならない脱線行為の靖国誤用であった。
4「鎮霊社と靖国神社」,その歴史的本質からみた議論
1) どこにあるかしらないねぇ
いまから20年前も近くであったが,『東京新聞』が「鎮霊社と靖国神社」の本当の関係を探った議論を記事にしていた。ただし,この記事を初めに書いていたときの,東京新聞のウェッブ版〔 http://www.tokyo-np.co.jp/00/tokuho/20060812/mng_tokuho_000.shtml 〕は削除されており,もう出ていない。
そこで,この記事を転載していた http://www.asyura2.com/0601/senkyo25/msg/292.html の「『鎮霊社』からみた靖国神社 ひっそり鉄柵の中(東京新聞特報)」2006年8月12日 13:08:08 から,引用・紹介しつつ記述する。前項3で記述した中身に関連する議論がなされていた。
この夏〔ここでは2006年8月のこと〕,靖国神社をめぐる論議は新たな段階に入っている。麻生太郎外相(当時)は今月,靖国の非宗教法人化と国家管理を柱にした私案を発表。首相らの参拝の是非のみならず「靖国とはなにか」という本質論が浮上している。
その靖国神社の一角に「鎮霊社」というなじみの薄い社(やしろ)がある。本殿と鎮霊社の違いはなにか。なぜ,41年前〔これは,当時の2006年から計算した1965年までを数えた年数のこと〕に設けられたのか。目立たぬ社から,靖国全体を逆照射してみよう。
「チンレイシャ? どこにあるかもしらないねぇ。社務所で聞いてみてよ」(前掲してあった靖国境内の地図に鎮霊社の位置が示してあった)。靖国神社の参道脇でみやげ物屋を営む初老の夫婦は,鎮霊社についての記者の問いにびっくりしたような表情で目を見合わせた。
参道を真っすぐに進み,本殿前の拝殿の手前で左に曲がると,こんもりとした木々のなかに入る。この一角に鎮霊社はあった。参道からは外れているため訪れる人もいない。10平方メートル程度のごく小さな祠(ほこら)だ。屋根は本殿と同じ薄緑色だが,赤さびがかなりついている。
鎮霊社の前に立て札があり,こんな由来が書かれていた。「明治維新以来の戦争・事変に起因して死没し,靖国神社に合祀されぬ人々の霊を慰めるため,昭和40年7月に建立し,万邦諸国の戦没者も共に鎮斎する。例祭日7月13日」(冒頭にかかげた写真も参照)。
拝殿と本殿のほぼ南側に位置している。
靖国神社は「本来,国のために一命を捧げた人たちの霊を慰めようと」(同神社作成のパンフレットから),1869〔明治2〕年に「東京招魂社」の名前で建てられた。靖国神社は必ずしも軍人・軍属だけを祀っているのではなく,沖縄戦で死亡した「ひめゆり部隊」の女学生や学徒動員中に軍需工場で爆死した学徒たちも祭神として合祀されている。
その一方で,戊辰戦争時に官軍に敗れ,自決した会津藩白虎隊の少年兵や,維新の元勲でありながら,西南戦争で明治政府に反旗を翻した西郷隆盛は除外されている。また東京大空襲や原爆に遭った戦災者も同じだ。「将来,国を守る基礎をつくるため,国に殉じた人を祀るのが靖国の基本。遺族のために存在しているのでもない」と同神社に近い関係者は指摘する。
補記)ここで,本ブログ筆者の意見をあらためていおう。
要するに,敗者や,逆にいえば戦争のために役立たない者たちは,本来靖国の祭壇には祀られないといっている。それでは,戦争に敗北していた日本帝国のためのこの国営神社=靖国神社は,その後において,いったいなんのために存在しえたのか? その使命は80年前にすでに終焉させられていたのではなかったか(!?),という疑念がもたれて当然である。
戦争に勝つために生ける人間たちを「戦場などで殺しておいて」「いまさら英霊も御霊(みたま)もあったものか」。そういうふうに,口には直接だしていわないまでも,腹のなかでは本気で叫んでいた遺族は,いくらでもいた。
ともかく,戦争に負けたとなれば,いまさら《英霊》をこの神社に祀って,どうしようというのか? 勝ってナンボの神社が靖国ではなかったか?
安倍政権〔とくに第2次政権:2012年12月16日から2020年9月16日〕が調子に乗って憲法を実質的に改定させ,ふつうに戦争のできる国,集団的自衛権(戦争参加法)を,新しい「美しい国」という名目のもとに導入しようとしてもいるからといって,いまさら有事の事態にともなって発生に備えて,靖国神社による「亡霊のリサイクル的な活用」を意図している,というわけでもあるまい。
いままで,敗戦後80年もの長い期間,「負け惜しみに呻吟してきながら,これを隠してきた戦争神社」が靖国神社であった。そういったほうが的確な形容になりうる。靖国神社が,敗戦後の昭和22年から7月13~17日を定例の期日とし,挙行している〈みたままつり〉は,鎧の上に浴衣を着た武将の幽霊を想起させる。
〔記事に戻る→〕 その靖国神社ができてから,約百年後に本殿とは別に鎮霊社は建てられた。ここには白虎隊や西郷だけでなく,イラク戦争の死者など「万邦諸国の戦没者」も祀られているとされる。しかし,それらの人々の名簿はない。建立の経緯などについて靖国神社広報課に取材を申しこんだが,「業務繁多で〔2006年8月〕18日以降でないと回答できない」といわれた。
代わりに前出の関係者は「賊軍も外国人も同様に祀るのは,人は死ねばみな仏になるという仏教にも影響を受けている」と話す。ただ,これは多分に建前のそしりを免れない。出雲大社や太宰府天満宮は怨霊(おんりょう)を鎮めるために建立されたとされる。この関係者は「鎮霊社もこれと同じ。怨霊を恐れ,抑えようとするのは神道の考えの根本だ」と説く。
補記)ただし,靖国神社じたいは「怨霊」を恐れる神道的な概念とは無縁の立場にある。だから,ここに指示されているように,同じ境内にある鎮霊社について,怨霊をもちだす議論はお門違いもいいところである。《英霊》は,怨霊とははっきり一線を引かれて存在している。
このことは,靖国神社にとっては「概念上の必要不可欠な操作:仕組」であって,怨霊に相当する〈霊〉は靖国神社本殿から遠ざけておく,鎮霊社に怨霊を押しこめているみたいな理屈は,靖国神社全体の存立基盤に照らして矛盾以外のなにものでもない。
つまり,鎮霊社はもともと靖国神社のなかには存在しえない,日本固有の神社精神にもとづいた社(祠)であった。苦しまぎれに,このような社(祠)を造営しておいた手順からして,靖国にとっては,ずいぶん身勝手な,苦しまぎれにすえに来たしていた自家撞着であった。
そのための工夫として,それこそ厄介払いをするかのように,この鎮霊社を造っておき,ここに英霊にはなりえない諸霊を,頼みもしていないのにもかかわらず,「万邦諸国の戦没者」までも一括収容するという,単に「余計な理屈」を口にしていた。これは実に珍妙な論理である。
しかし,靖国神社の本義から外れる「この祠 鎮霊社」は,どうみても,靖国神社の境内においては異様な存在:異物である。既述したように,境内内に置かれた鎮霊社の場所は,あえて一般には分かりにくい位置にある。
2) 本殿の祭神と扱いは歴然・雲泥の差
鎮霊社に「祀っているはずの祭神」(?)は,本殿に「祀られている祭神」とは歴然とした差がつけられている。現在は高さ3メートル弱の鉄の柵で囲われており,近くまでいけない。国籍や人種を超えた戦禍犠牲者の霊を祀るはずの鎮霊社は,なぜか一般公開すらされていなかった。既述した事実だが,公開されていてすぐそばまで近づけた時期もあった。
2001年に月刊誌で鎮霊社を論じた日大講師(当時)で現代史家の秦 郁彦氏は,鎮霊社が建立された背景に1946年から1978年にかけ宮司を務め,A級戦犯の合祀には否定的だった故筑波藤麿氏の存在を指摘する。
「靖国神社の(最高意思決定機関である)総代会がA級戦犯の合祀を決める1970年以前に,総代たちと厚生省引揚援護局とのあいだで合祀の根回しがあり,それに気づいた筑波さんがA級戦犯の『収まりどころ』として先手を打つかたちで建立したのではないか」と検討していた。
さらに,秦氏は「筑波さんは宮司の任免権をもつ総代会から合祀を求められ,拒めなかったが,同時に合祀する気もなかった。昭和天皇の意を体していたと考えられる」と解説する。ところが,筑波氏の死後,後任の故松平永芳宮司の時代(1978年10月17日),A級戦犯は本殿に合祀された。

秦氏は「筑波さんを補佐していた祢宜(ねぎ)に話を聞き,A級戦犯は一時,鎮霊社にいたことを確認した」と話す。つまり,鎮霊社が建立された1965年から1978年まで,A級戦犯は鎮霊社に祀られていたらしい。
秦氏は「鎮霊社は靖国神社が独自の判断でつくったもので,部外者がとやかくいうべきでない。世界中の戦没者を追悼するというのは正論で批判できない」と話しつつ,同神社が鎮霊社への参拝を受けつけていない理由を,つぎの 3) のように推測する。
補記)戦没者追悼に関する議論を最初から無条件に「正論」だととらえて,ほかの議論を制約しようとする秦 郁彦の価値判断は解せない。「部外者とやかくいうべきでない」といういいぶんも,靖国神社問題の性格を考慮すれば,きわめて乱暴な,相手の議論を問答無用に排斥のためにする口調であった。
3)『分祀のリンクを,靖国神社側が嫌がっている』
「(月刊誌で考察を発表した)2001年当時,自民党内から『A級戦犯は鎮霊社にお帰りいただいたらどうか』という声が出たと聞いている。靖国神社はA級戦犯分祀論との絡みで,鎮霊社が話題になることを嫌がっているのではないか」(秦氏)。
一方,筑波大学の千本秀樹教授(現代日本史)は「霊を鎮めるという名前には,天皇に敵対して死んだ人たちがたたって出てこないようにする意味が含まれる。鎮霊社の本来の目的は天皇制,国家に逆らって死んだ人をたたりのないように鎮めることだ」と,前出の関係者と同じ見方をとる。
鎮霊社が国内にとどまらず世界中の戦没者を祀っている点については,「対象を広げているところにごまかしがある。本来は天皇のために死んだ人だけを祀る神社なのに,世界平和を祈っているというポーズをつくっている」と語る。
補記)ここでは,「鎮霊社の本来の目的は天皇制,国家に逆らって死んだ人をたたりのないように鎮めることだ」といった主張には,正直いってズッコけるほど驚く。そもそも「天皇に敵対して死んだ人たちがたたって出てこないようにする意味が含まれる」のが鎮霊社の本旨であるといったところで,最初から靖国の境内から追放していた「怨霊」に対してそう待遇しておきならが,別途にわざわざそこに招き入れておこうとする根性は,いいぶんとしては完全に腸捻転を起こしており,言語も意味もともに不明瞭。
だから,その「本来の目的は天皇制,国家に逆らって死んだ人をたたりのないように鎮めることだ」という理屈は,靖国神社のもともとの「本来の目的」に即していえば,「相手にする必要すら感じない敵:賊軍」のあつかいを,ここでの議論にように取りあげ論じたことじたいからして,つまり最初から論理が逆立ちしている。あそこでは,もとよりもちだすべき理屈ではなかったのだから,論理がまともに通用などしうる余地などありえなかった。
ましてや「鎮霊社が国内にとどまらず世界中の戦没者を祀っている」とまでいわれたら,はた迷惑もいいところであった。そもそも,国際政治の世界では「敗戦国になってしまった日本の靖国神社」であるから,戦争犠牲者用の霊園の資格など敗戦を機に粉砕されていたこの神社が,なにをいまさら島国根性丸だしで偉そうに,本殿への合祀ではなく鎮霊社のほうにごった混ぜの要領で「祀ってあげるよ」といったところで,先方にしてはなんの御利益も感じない。
とくに戦勝国側の「御霊たち」に発言させたら,のっけから「靖国や冗談いうなよ!」という反応しか返ってこないはずである。まあせいぜい冗談もほどほどにという話であった。
〔記事に戻る→〕 さらには,次項 4) のように,靖国が市民の戦争被災者と戦死者を分ける姿勢にも疑問を呈する。
4)『一視同仁の思想に,そもそも矛盾がある』
「靖国神社は鎮霊社に参拝しなくていいという姿勢だ。なぜ,原爆や空襲の犠牲者が,賊軍と同じ場所に祀られているのかの説明もない。鎮霊社の存在は,天皇はすべての人を平等に愛するという『一視同仁』の思想にすら矛盾する」。
補記)天皇の一視同仁「性」は,眉唾ものでありつづけてきた。それゆえ,このように「天皇はすべての人を平等に愛する」という文句をもちだして論論することからして,噴飯モノと批判されるべきである。
たとえば,その典型が松本健一の議論にも露骨に出ていた。A級戦犯は賊軍と同じであるかのように処遇されてきた。昭和天皇はA級戦犯も「平等に愛したか」? 否である。そのなかには裕仁が大嫌いな人物も何人か含まれていた。この点は,靖国の祭壇に最初は合祀されていなかった理由に関係する事情でもある。
だが,靖国神社の総代会の人びと--賀屋興宣のように,元A級戦犯になっていた者も含まれていた(終身刑)--は,そのA級戦犯に対する賊軍扱いのような処遇が気にいらなかった。
実は,天皇と,この身代わりになって絞首刑にされた人びととの関係の奥底でできあがっていた『相互間にしくまれた〈からくり〉』そのものに関しては,彼ら〔賀屋など〕の考えがおよぶ範囲内では,まったく理解できないなにものかがあった。
結局,昭和天皇の身代わりになって,「賊軍(=負けた日本の軍隊)のように排斥され,ゴミ箱に投げすてるかように絞首刑にされ始末された東條英機などA級戦犯」が,靖国神社に合祀させられることになっていたゆえ,こんどは昭和天皇が,靖国神社において占めるべき場所,換言するとこの神社との紐帯を切られてしまった。
なにやかやいっても,A級戦犯は英霊になってはいけなかった。しかし,そうはいっても,賀屋興宣自身がA級戦犯に指定された体験を有した手前,依怙地になってその「A級戦犯 ≠ 英霊」という関係づけを拒否するほかなかった。
靖国神社の内部事情は,それなりに入り組んだ〈英霊観〉にまつわる過去:歴史をかかえていた。こうした靖国的な関係事情を,理解しようにもできなかった「当時の総代会の人びと」は,それでもとにかくA級戦犯は合祀させろと要求し,のちに実現させていた。
けれども,敗北者つまり賊軍的存在者--連合軍に敗北した日本帝国の総責任問題が東條英機らのA級戦犯に押しつけられていた--が,靖国神社に合祀するにはふさわしくない一群であるとみなされた経緯を,いいかえれば『靖国神社的な国家神道の価値観』の発生を,前段の「彼ら」は皆目理解できていなかった。
いいかえれば,靖国神社は『勝利する戦争国家の価値観』にしか対応できない国営の神社であった。
ところが,大東亜(太平洋)戦争に大敗北した日本帝国であったことから,この戦争に負けてしまった《賊軍的な要素〉は,これ・すべて「A級戦犯の戦争責任である」という具合になすりつけておく,といったきわめて調子のよい,ご都合主義一辺倒の便法が採られた。
戦後においては,昭和天皇もA級戦犯が合祀されるまでは,自国を敗北させた責任には頬被りする格好で,つまり1978年10月以前までは,靖国神社に出向き参拝することができていた。裕仁が最後に九段下に出かけたのは,1975年11月21日,秋季例大祭のときであった
また東京裁判における審理は,ずいぶん身勝手であったこの天皇側の理屈にはなるべく触れずじまいにしておいただけでなく,むしろ,GHQに占領政策の枠組のなかでなるべく彼を保護していく方針で指揮されてきた。
だが,A級戦犯が靖国に合祀された。それまでは,以上のように説明した「靖国神社=戦争神社=戦勝神社」という戦前的な基本路線は,意図的に問題にされることもない状態にあった。
けれども,敗戦という事実,その戦後政治史的な経緯は,この問題が本来有していたはずの意味を,事実そのものとしてとうとう鼻先に突きつけられた。あらためて問われるほかなかった。
敗戦後も「靖国神社=戦争神社」であった事実は残ったが,「靖国神社=敗戦神社」であった大日本帝国の歴史的な決算は,つかなかったというよりは大赤字に終わっていた。
考えてみよ。「靖国神社=戦争神社」が「靖国神社=敗戦神社」という等式にもとより置けない理由は,きわめて単純であり,「戦争神社=勝利神社」でなければならなかった。そこに大日本帝国の侵略戦争・督戦用神社として創建されていた靖国神社は,敗戦したこの帝国となった以降は,完全に「無用の代物」になっていたはずである。
ところがそれでも,勝利神社でありつづけねばならない戦争神社が敗戦神社になってしまったならば,いまさらその種のケチが着いた靖国神社を使いつづけるといった「国家神道:皇室神道式の発想」は,「明治謹製」だった神道として「宗教的な原理性を破綻させて」いながら,それでいてその事実に目をつむっていたことになる。
どだい,もともと神道本来の伝統的な宗教観念とは無縁であり,そもそもが異端でしかありえなかった,いいかえれば,看板に偽りありの国営神社「靖国」であったからこそ,勝利を唱えるための督戦神社でありつづけねばならなかったところが,敗戦によってその存在理由を消滅させられていた。
結局,靖国神社に敗戦後は1975年11月21日の最後の機会までは参拝できていた昭和天皇は,もはや(A級戦犯が合祀された1978年11月21日以降は)靖国に出むけなくなった。裕仁は当然,この状況の急変をひどく慨嘆したのは,最初の段落のほうで説明したとおりである。
5) 過去の参拝として,首相訪問はなし(ここで引用中の記事に戻る)
小泉純一郎が首相であった時期,鎮霊社の戦没者も追悼の対象にしていたのか。小泉首相は2001~2004年は靖国神社の本殿に昇殿し,昨〔2005〕年は拝殿前での参拝にとどめた。過去5回の参拝で鎮霊社を訪れたことはない。
小泉純一郎首相は2002年の参拝所感では,追悼対象を「明治維新以来のわが国の歴史において,心ならずも家族を残し,国のために命を捧げられた方々全体」「国のために尊い犠牲となった方々」と説明した。だから,少なくとも,鎮霊社に祀られたとされる「世界各国すべての戦死者や戦争で亡くなられた方々」(靖国神社のホームページ)は追悼対象ではないようだ。
補記)鎮霊社の存在は,靖国神社に関するもろもろの議論において,ほとんどといっていいほど無視されてきた。このようにもちだして言及することからして,いささかならず唐突の感を受けるざるをえないくらい,鎮霊社などという祠は度外視されてきたというか,もともとその存在すらよくしられておらず,したがって注目されるわけもなかった。
〔記事に戻る→〕 ただ,神社本殿に鎮座する「御霊(みたま)」全体がそのまま,小泉純一郎首相の場合,追悼対象になっていたとはいいきれない。首相は昨〔2005〕年6月の衆院予算委で「A級戦犯のために参拝しているのではない。多くの戦没者に敬意と感謝の意を表したい気持ちからだ」と述べ,追悼対象を微妙に修正している。首相官邸報道室は,首相の追悼対象に鎮霊社が含まれるか否かについて「分かりかねる」と答えている。
補註)したがって,安倍晋三は,2013年12月26日の靖国参拝では,いままでの首相のやり方とは一味違わせて,鎮霊社にもお参りしたといったわけである。この安倍の参拝行動の変化に体質案内をしたのが,朝日新聞社の駒野 剛記者ではなかったかと,本ブログ筆者は判断した。
6) なにが問題なのか
「中韓から文句をつけられた」ので「A級戦犯合祀が問題」という議論に首をかしげてきた。やはり,問われるべきは靖国神社とはなにか,という本質論だ。それがようやく国民議論の的になってきた。ただ,戦後61年〔2006年〕からで,関係者の多くが亡くなっている。事実関係の追跡が困難になっている現実が悩ましい。
補記)靖国神社の問題は,アジアの近隣諸国からとやかくいわれる以前に,自国の問題として議論されねばならない。中韓などからの靖国批判に反発する日本側の特定集団は,以前〔1970年代後半より以前という意味だが〕は,靖国問題に対して関心をもたなかった国々が,いまごろ〔=その後〕になってなにやかや文句を付けてくるのはけしからんと,非難した。
しかし,日本国内じたいで靖国の問題を議論しだした〔国営化法案で〕のは,1950年代半ばからであり,しかもその国営化への動きが活発化し,国会でも騒がれ出したのは,1969〔昭和44〕年以後であった。当時まで,中韓などアジア諸国は発展途上の諸国家であって,日本国内の問題としての靖国神社問題まで気づき,批判できる余裕などなかった。
それはともかく,2013年12月26日の安倍晋三による靖国参拝は,当人が思っていたのとはまったく違う反応が,世界中から反動的に現われていた。
最後にくわえておく。『朝日新聞』2007年3月30日朝刊2面「〈時々刻々〉国会と将官の新資料 靖国合祀 国の主導鮮明 A級視野の積極関与 首相説明 実態と相違」は,記事のなかに「慰安所経営者も合祀か」という項目を立てて報道していた。
かといって,従軍慰安婦が靖国神社に正式に合祀されたという話しは聞いたことがない。慰安婦の存在を踏んだり蹴ったりし,障害者にしたりや殺したりしていた大元の人間が合祀されていても,慰安婦自身が合祀されていない。
まさか従軍慰安婦は賊軍というわけではあるまいに……。ここまで議論が進むともはやフンパンものどころか,体のい単なる残酷物語にただ,靖国は手を貸していたことにもなる。
【参考文献】
