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 連載小説【プレアデスの贖罪】第10話

   

週末、護とケイは列車の中にいた。
侵入者があった夜、ケイからの連絡を受けて護はマンションに駆け付けた。
合鍵を作られていた事に、ケイはショックを受けていた。
そして、それが八巻であった事が心に
大きなダメージを与えた。
八巻は事故死として処理された。
夜半であった為、目撃者もいなかった。自ら道路に飛び出した理由がわからない。ケイはもう一人の人物がいた事についても護に話した。八巻の行動には理解出来たとしても、もうひとりの人物については見当が付かなかった。
ケイはこのところ、身の回りで起こる出来事に、不安を感じていたが、何かを振り払う決意を固めた様に
「故郷に帰ってけじめをつけたい事があるの」と言った。
「一緒に来て欲しい・・・」と

車窓からは色づき始めた楓が、真っ赤に燃え尽きてゆく、生命の終盤への潔いスタートを切ったかの様に、ケイには思えた。

向かいの席に腰掛けた護には、時折、
ケイの澄んだ瞳に映る楓のオレンジの色が、着ているカーマインレッドの服と同色の靴に相まって、今まで気づく事ことのなかった、ケイの激しい情念を表しているように思えてならなかった。
膝丈の、身体にフィットしたシンプルなデザインのワンピースは、ケイによく似合っていた。

2時間程、列車に揺られたふたりは山間の小さな駅に降りた。駅前のモノクロームな町並みのロータリーには、巡回バスが停車しているが、出発を待つ乗客は僅かだ。
商店街の入り口には大きなアーチが設置されている。
昼前の商店街に人は疎らだった。
そんな中、ケイの姿はいやがおうにも
注目を浴びた。店先に立つ婦人や、擦れ違う人から好奇な視線が浴びせられたが、ケイはそれを楽しむかのようにゆっくり歩いた。
樫村洋品店と書かれた店の前で、ケイは立ち止まり、「ゴメンね。ちょっといい?」と護に声をかけ、店内に入った。
センサーが反応してチャイムが鳴ると奥から婦人が顔を覗かせた。
婦人はケイの顔を見て驚き、訝しげに
全身に視線を走らせた。
「おばさん久しぶり。元気だった?
・・・響ちゃんいる?」
樫村響子はケイの中学の同級生だ。
同じクラスで仲が良く、いつも行動を共にしていた。
  『あの事件』が起こる迄は・・・
「えっ、ああ。・・・響子は仕事でね・・・
帰りが遅いんだよ。・・・ケイちゃんも久しぶりだね。突然、町から居なくなったもんだから、みんな心配してたんだよ。・・・元気そうで何よりだよ」
「誰か来たの?」
奥から響子らしい声が聞こえた。
「・・・あっ、ああん。・・・お客さんだよ。
来なくていいよ!」
婦人は狼狽えた。
「・・・ケイちゃんはどうしたんだい?
・・・何か用事でもあったのかい?」
急に声が小さくなった。
ケイは周りを見渡して言った。
「・・・ホントはこんな町に二度と来たくなかったんだよね。・・・確かに母さんはひどい事をしたかもしれない。
・・・許される事じゃないと思う。
例え自分の命で償ったとしても・・・
でもね。父さんも母さんもこの町で生まれて、ずっと真面目に生きて来たんだよ。・・・父さんは消防団で頑張っていたし、母さんだって、町の婦人会でおばさん達と一緒に役員してたでしょ。
・・・少しぐらい、何故なんだろう?とか、随分悩んでたんだろうな。とか、
少しは心配してくれる人がいてもいいんじゃないの。
・・・おばさんだよね。『あんな事件を起こすような親の子と遊んじゃダメだって・・・』響ちゃんとの仲を裂いたの。
・・・みんな知ってるよ。
母さん達、何が良くってこんな町に住んでたのか、私には理解出来ない」
語気強く云い放ったケイの言葉に、
婦人は露骨に嫌な顔をした。
ケイは正面から婦人の顔を見据えた。
「きっとふたりも、こんな町にいつまでも居るの嫌だろうから、お墓を移してあげるの。・・・おばさん達にとって、
邪魔な一家の跡形は全て消し去ってあげる。・・・それでホッとするでしょ」
云い放ったケイは踵を返して店を出た。背中から、勢い良く引き戸を閉める音と、カーテンを引く音がした。
心配そうに待っていた護に近付いた
ケイは、いつもの笑顔で
「・・・ゴメンね。これで半分終わったわ」
と言って護の腕に手を回すと、歩き出した。
商店街を抜け、山手に20分ほど坂を上ると、『満願寺』という寺が建っている。この町にいくつかある寺の中で、
最も檀家の数が多い寺だ。
住職は、当時の事をよく覚えていて、
ケイの派手な衣装を見て、怪訝な顔をした。家具メーカーに勤めていると
ケイが言うと、目を丸くして驚いた。
ケイは電話で話を進めていた様子で、
数枚の書類にサインと押印を済ますと、バッグから手数料と布施の入った封筒を取り出して手渡した。
後は業者が代行してくれるという。
寺を後にすると、もう一ヶ所行きたい処がある、とケイは言った。
寺から少し歩くと、ケイが通っていた中学校に着いた。昼休みの校庭で、生徒の弾ける声を、懐かしそうに聞いていたケイが、護を振り返り言った。
「ネェ、この裏山に登ると町全体が見渡せるの。・・・付き合ってくれる?」
先程、洋品店を出た時の表情とは随分と違い、護は心なしか安心した。
ケイが歩き出した道は、急勾配ではないものの、小石が辺りに転がる、厄介な道だった。
40分程かけゆっくり登り、見晴らしの良い場所にたどり着いた。
いくつかある、大きな石の上に腰を下ろしたケイの額からは汗が吹き出ている。真っ赤なパンプスは傷だらけで、ケイは足を投げ出し、靴を脱いだ。
両手を広げて大きく深呼吸をしたケイは、暫く遠くを見つめたまま、動かなかった。
ケイの横顔を見ていた護に、遠くに目をやったままケイは言った。
「・・・どうして何も聞かないの?」
「何を?」
「私の今日の服の事や、この町に護を連れて来た理由」
「・・・聞かなくても話してくれると思ってた」
ケイは微笑んだ。両手を後ろに回して手を着き、空を見上げて瞳を閉じた。
「・・・私が子供の頃から父と母は喧嘩ばかりしていた。金銭的な事じゃなかったと思うから、余程相性が会わなかったんだと思う。
・・・そのうち父が家に帰って来なくなり、母は毎日イライラしていて、何かにつけて私に当たり散らした・・・」
ケイの瞳は遠くを見つめていた。
遥か向こうの哀しく、愛おしい過去を・・・
掛ける言葉の無い空間が胸を締め付けた。
護は自分と同等の、
・・・いや、それ以上に大切にしたい人に出逢えた事に・・・気付いた。
「・・・父は浮気相手の女の家に居たの。
季節労働で単身赴任の男の奥さん。
・・・平常心を失なっていた母は、
女の家を探し出して・・・夜中に火を着けた・・・。
・・・その日、私は・・・様子がおかしい母の後をつけていて・・・
・・・見てしまったの。
・・・火を着けた時の、
母の鬼のような顔。
私は、思わず声をあげてしまった。
・・・母は・・・私の顔を見て、
言葉に出来ないような・・・
・・・おぞましい
顔を・・・した・・・」
嗚咽のように吐き出した言葉は護の胸を鷲掴みにした。
「もう、いい・・・言葉にしなくて・・・
いい・・・」
護はケイの肩を引き寄せた。
沈黙と共に、肩が濡れていくのがわかった。
「話を・・・させて・・・これが最後。
・・・二度と・・・言わない」
護は・・・頷いた。
ケイはゆっくりと右手を上げ、指差した。
「母は・・・あそこ・・・」
山間の谷に白いダムが少し見えた。
「・・・明くる日、・・・母はあそこで見つかった。・・・綺麗な顔が・・・ロウソクみたいな色になって・・・
・・・この服・・・母の物なの
・・・遺品の整理していたら、・・・赤い服がいっぱい出てきたの・・・
一度も手を通したことの無い服ばかり
・・・解る気がする・・・
この町じゃ、こんな色の服を着ていたらなんて言われるか・・・
・・・でも、着たかったんだと思う。
母は美人だったから・・・
きっとこの色、似合っていたと思うの
・・・見たかったな。真っ赤な色の服を着て歩く・・・母の姿を・・・
だから、・・・私が最後にこの服を着て、
この町を歩いてやろうと思って・・・」
ケイの頬は濡れていた。
山鳥が遠くで鳴く声がした。
ケイはゆっくりと言葉を紡いだ。
「・・・父と相手の女は・・・死んだ・・・
煤の塊みたいだった・・・
時々、夢を見るの・・・ひどくうなされて
・・・父も母も・・・夢の中では、その時の
顔ばかり・・・」
ケイは大きな溜め息を着いた。震えるような溜め息だった。
「・・・ある日、亡くなった女の人の主人だという人に、無理やり車に押し込まれて・・・
山に連れて行かれた。
・・・車の中で乱暴されそうになったけど私、暴れたの・・・そしたら、サイドブレーキが外れて・・・川に・・・転落した。
・・・私は・・・這い出て・・・助かったけど
・・・男の人は・・・亡くなった・・・」
両手で顔を被いケイは号泣した。
肩を震わせ、泣く声は、獣の咆哮のようにすら聞こえた。
護は、ケイの、この悲痛な悲しみに、同苦出来ない自分を情けなく・・・
恥じた。
・・・ただ、ケイの肩を抱きしめ・・・
傍にいる事しか出来なかった。

どれくらいの時が流れたのか、
山間に肌寒い風が吹き始めた。
「・・・マモル」
いつものケイの声だった。
「・・・貴方に出逢えて・・・本当に良かった
・・・私の原点の場所。
・・・ここで、どんな気持ちに
      なるのか・・・」
ケイは潤んだ瞳で護を見つめた。
「・・・やっぱり
    ・・・貴方と一緒にいたい・・・」
両手を護の首に回して、ケイは
小さく肩を震わせて  
泣いた。
 護は
  そっと
   ケイの身体を包んだ。
「帰りは、俺がおぶってやるから」
「・・・うん・・・」
ケイは子供のように頷いた。


いつも多くの車で渋滞している、街の中央を縦断する国道は、夜半前になるとかなり空いていた。
季節が、思っていたよりも早く進んでいた。ジャケットを羽織らないと、すぐに身体の熱が奪われてしまって、バイクを操作出来なくなる。
誕生日のプレゼントにと、聖子から
もらった『ショット』のライダースレザージャケットは、木島信彦の身体を心地良く包んだ。
スロットルを更に開くと、空冷直列2気筒のエンジンが気持ち良く加速した。
少し前、馬宮から連絡があった。
『話があるのでマンションへ来てくれ』と言った。
馬宮と愛美は、馬宮の父親が所有するマンションで暮らしている。
父親は医療機械の輸出入の会社を経営していて、海外生活が多い。
母親は子供に関心が無く、もっぱら友人とゴルフやテニスで日々楽しんでいる。馬宮にあまり関心を示さない両親の元で育ったせいか、愛美への異常な迄の傾倒に木島はうんざりしていた。

片側三車線の大通りから二筋入ると、大手デベロッパーの8階建てのマンションが建っている。
静まったビルの風景に、二気筒のエグゾーストノートが吸い込まれていく。
木島はガレージにオートバイを入れ、
入口でオートロックパネルに暗証番号を打ち込んだ。
月に何度か、馬宮の指定した日に上利の金を持って来なければならない。
それは木島の役目だった。
エントランスを歩きながら、
『あまり来たくない場所だ』
と、来る度に思う。
部屋中にこもる、吐き気を模様すような香の匂いや、めまいがしそうなクロスの配色。全て愛美の好みのようだが木島は神経を疑う。
馬宮とは子供の頃からの付き合いで、
性格もよく理解しているつもりだ。
それが愛美と付き合い出してから、
以前にも増して、底知れぬ凶暴性を現すようになった。何処までエスカレートしていくのか?木島は恐怖を覚えた。エレベーターで最上階迄上がり、
インターホンを押して暫くすると、愛美が顔を出した。
ニコリともせず、木島を迎え入れた。
素顔のまま髪をひとつに束ね、羽織っているガウンの胸元は大きくはだけて
、マンゴーのような特大の乳房が見え隠れする。案の定、気分が悪くなる匂いが辺りに充満している。
だらしなく歩く、愛美の後ろから20帖ほどのリビングに入ると、馬宮がゆったりと腰かけていた。
「よう、ノブ。遅くに呼び出して悪かったな」
コットンパンツにオフホワイトのシルクのシャツを羽織った馬宮が声をかけた。テーブルには飲みかけのビールが置いてある。
「一杯でもどうだ。って言いたい処だが
バイクだろ。仕事に差し障りがあると困るからなぁ」
馬宮は愛美に目で合図した。愛美は無表情のまま立ち上がり、パーテーションの向こう側に姿を消した。
「ところで、最近聖子との仲はどうなんだ・・・上手く行ってるのか?」
馬宮は飲みかけのビールを一気に飲み干し、木島に言った。
木島は思わず視線を馬宮に向けた。
以前、進学の件で聖子が親と金銭的な事でもめている。といったような話をした事があった。その事を馬宮は言っているのだろうか?木島は不意を突かれた問いに言葉が詰まった。
どう返答すればいいのか迷っていると、愛美が戻って来た。
冷えたジンジャーエールを木島の前のテーブルに置くと、その横にそっと封筒を差し出した。口角を上げ、イヤな笑みを浮かべている。
「それで進学の足しにしてやってくれ」
馬宮の口調は恩着せがましいものではなかった。むしろ身内から、手を差し伸ばされているような、暖かささえ感じられた。
「い、いいのか?」
思わず言葉が詰まった。
「いいもなにも、少ないが使ってくれ。
聖子もきっと喜ぶさ」
木島は封筒を手に取った。帯封が指先に触れると、反射するように聖子の笑顔が脳裏を掠めた。
「ノブ。ところで相談なんだが、護が付き合っている、静沢蛍という女を知ってるだろ」
木島の表情が強ばった。先日、曽我から聞いた名前だった。
「ああ、詳しい事は知らないけど、曽我がそんな名前を口にしていた」
木島の中に警戒心が生まれた。
「そうか。曽我にも手を貸してくれるように言ってある。ただ、アイツのやり方は粗い。その点、ノブは慎重だからな。・・・また、連絡する。その時は頼む・・・」
馬宮は具体的な事は何も言おうとしなかった。当然断る事は出来ない。まして、この封筒を受け取ってからは・・・
木島は観念してジャケットの内ポケットに封筒を差し込んだ。

次の日の木島は、オートバイで目まぐるしく、女達の送り迎えを繰り返していた。今夜は、後ろに乗せている絵美子を『ベース』に送り届ければ、今日の仕事は終わる。緩やかな坂道を、ハイビームで明るく照らして、慎重に走行するバルカンが《マリー》の駐車場に戻って来た。
背中に密着した絵美子の肉体は、木島信彦のブレーキと、シフトダウンの
タイミングに微妙なズレを出させた。
「サンキュー」
絵美子はいつもと変わらず、悪戯っぽくウィンクをすると、小走りで店内に入って行った。
信彦は単車を停める為、薄暗い店の裏側に回ってスタンドを立てた。
何もトラブルは無かった。
後は、今持っている今週の上利を馬宮に届けるだけだ。
昨夜、馬宮が云っていた『静沢蛍』の件が気になっていたが、その時に考えればいいと思って、深く考えないようにした。
店に戻って腹ごしらえでもするか。
と思って歩き出すと人の気配を感じ、
振り返えろうしたら突然、
    後頭部に衝撃が走った。

「元気そうだな」
午前0時を過ぎた頃、店にやって来た
弥寿夫は、護の顔を見て懐かしそうに言った。
突然現れた弥寿夫に、護は返す言葉が見つからず、ぎこちない笑みで答えた。弥寿夫は車で来ていると言って、
トマトジュースを頼んだ。
「今日は俺が送って行く。・・・話があるんだ・・・」
以前と変わらない弥寿夫の表情に、護は安堵した。しかし、嫌な別れ方をした時のわだかまりは消えてはいなかった。
店で護は終始、無言を通した。
「・・・今になって・・・いったい何なんだ」
口を開いたのは、弥寿夫の車に乗って直ぐの事だった。
弥寿夫は一方通行の道を何度か曲がり、広い道路に出ると路肩に車を止めた。仕事終わりなのか、軽ワゴンに
荷物は乗っていなかった。
「・・・もう、連絡する事はないと思ってた・・・」
弥寿夫は沈んだ声で言った。
少し離れた街灯の、薄明かりに照らされた弥寿夫の顔は、随分とやつれて見えた。
「・・・状況が変わって来たんだ。
・・・いや、それ以上に・・・俺自身が変わったのかもしれない・・・
・・・護が付き合っている娘の事が気になってね・・・」
弥寿夫がケイの話しを切り出した事に
護は驚いた。
「先週、美里の納骨を済ませて来た。
・・・この頃、アイツの事ばかり気になって・・・   彼女・・・ケイって言うんだろ。・・・この間、あの娘の部屋に忍び込もうとしてた男を見つけたんで、後を
追ったら、自分から車に飛び込みやがった・・・」
護の息が止まった。
『八巻を殴り倒して、後を追ったのは
     ・・・弥寿夫・・・だった』
「・・・どうして・・・ケイの部屋に・・・」
護の頭は混乱していた。
「・・・護の事が気になりだしたのと同時にアノ娘の事も気になりだしてね・・・」
「・・・気になる?・・・
  もう、俺たちは関係無い。
    と言ったのは弥寿夫だったよな。
  ・・・今さら俺やケイの事が
      何故気になるんだ」

護の声が荒くなった。
弥寿夫は前方に顔を向けたまま、
無言で車を急発進させた。
護の家にたどり着く迄、弥寿夫は荒い運転を繰り返した。
到着すると、エンジンを切り

「・・・さっきも言ったろう、
   ・・・美里が死んで・・・
    俺は・・・変わった・・・
     ・・・気を付けろ・・・
    馬宮達がろくでもない事を
       企んでいるぞ。
  ・・・あの娘にも、伝えてやることだ。
         ・・・じゃあな・・・」

  何も言えず、護は車から降りた。
  走り出した、シルバーの軽ワゴンは
  少しして見えなくなった。

仕事を終え、マンションに戻ったケイは、バッグから真新しいキーを取り出した。八巻の件があってから、キーとキーボックスを新しい物に交換したのだった。
カーテンを開け、ベランダに出て洗濯物を取り込もうとした。
その時、ケイの手が止まった。
エアコンの室外機の前に身に覚えの無い、タバコのフィルターを見つけた。
それは、投げ込まれたものではなく、
明らかにこの場で、吸った後に消された物だった。
ケイの心に、八巻の時の恐怖が
フラッシュバックした。

腕が痛い。手首から先が痺れてピクリとも動かない。後ろ手に手首を縛られていて、後頭部には鈍い痛みが残っていた。
少しずつ意識がハッキリしてくると、身体の節々から痛みが襲って来るのがわかった。辺りに目をやると、何処かの倉庫のようだ。冷えたコンクリートが体温を奪ってゆく。
いったい誰がこんなことを・・・
『マリー』の駐車場で誰がに襲われたのは解っている。
横たえた身体を起こそうとするが、
下半身に力が入らない。
辺りは暗く、離れた所にスタンドライトがひとつ灯っているだけだった。
此処へ連れて来られてから、
酷く殴られて  
 ・・・失禁していた。
得体のしれない恐怖が襲って来る。
口はタオルで塞がれていて、
  声が出せない。
『俺をこんな目に合わす奴は誰なんだ。・・・馬宮が黙っていない。
『バルカン』が置きっぱなしになっているし、今夜は金を届ける日だ。
今頃、探し回っているに違いない。
きっとこの犯人は、馬宮に酷い目に合わされるだろう』
そう思うと、痛みが少し和らいだ。
その時、突然スタンドライトが近づいて来た。
『ヒッ!』悲鳴をあげ、身体が起き上がると、首が千切れそうになった。首に針金が巻かれてあった。針金は少し余裕を持たせて天井の何処かから伸びていた。
後ろ手に縛られた手首にはチェーンが巻かれ、その先が壁に固定してある。
ライトが近づき、
眩しい光に顔を伏せた。
「・・・苦しいか?」
暗闇から声がした。
恐怖で喉がカラカラだ。
「・・・ノブ・・・俺だよ」
地の底から聞こえる声だ。
木島信彦は顔を上げた。
ライトが眩しくて顔が見えない。
「・・・弥寿夫。・・・弥寿夫なのか?」
沈黙が恐怖を増幅させた。
「・・・俺はイヤだと言ったんだ。
・・・仕方無かった・・・従うしか無かった」
『フッ!』空を切る音がすると
左の顔面に激痛が走った。
その反動で首が絞まる。
口の中から血が滴り落ちた。
血を吐き出すと異物が転がった。
歯だった。
「俺は何も聞いちゃいない。
・・・ノブ・・・喋りたい事があるのか?
・・・それに、このカバンに入っている金はいったいなんなんだ?」
『金が見つかったのか!』
木島は頭が混乱して
口にする言葉が見つからない。
「アッ!・・・いや・・・」
言葉に詰まった。
今度は右の頬が砕ける音と共に、全身に痛みが走った。
首が締まり、意識が朦朧とする。
「・・・喋りたい事があるのかよ」
「ハヒッ!」
話そうとするが、口の中がぐちゃぐちゃで呂律が回らない。
「ハナヒマフ。デンブ、ハナヒマフ。
・・・マヒヤノ、イウトホリニ、
   ヒタラケレフ。・・・マヒヤ二ファ
  ・・・ハカラヘマヘン・・・」
切れた唇に唾液が滲みる。
「・・・言えよ。お前達が何をしてきたのか・・・全部・・・洗いざらい・・・」
弥寿夫が目の前に現れた。
信彦の両足が硬直した。
馬宮が以前言っていた言葉が、
ハッキリと甦ってきた。
『弥寿夫には気を付けろ。奴の狂暴さを知る奴はあまりいない。人を殺すことなんか、なんとも思っちゃいない。・・・横で見てきた俺はよく知っている」と・・・
  『話すんだ・・・正直に・・・
   殺されないために・・・』
信彦に戸惑う事など何も無かった。
意識が飛びそうになりながら、腫れ上がった顔面で必死に答えた。
弥寿夫の機嫌を損なわないように・・・

「・・・そうか・・・美里は、馬宮と愛美に
嵌められたのか。・・・
そして、美里に手を出したのは
・・・曽我なんだな」
信彦は頷いた。
「・・・この金は、女達が身体を売って稼いだ上利から掠め取ったものか」
信彦は再度頷いた。
「これを馬宮に届けるんだな」
信彦は何度も顔を上下に振った。
弥寿夫は椅子から立ち上がり、木島の携帯電話を手にすると、怯える木島の前に仁王立ちになって話し出した。
「・・・馬宮か?
・・・木島じゃなくて驚いたろ。
・・・俺が、お前に金を届けてやるよ。
・・・そうだ。木島が届ける筈だった金だ。
・・・場所を言え。
・・・判った、今夜中に届ける。
・・・待ってろ・・・」
弥寿夫は話を終えると、その携帯をポケットに終い、信彦の首に巻かれた針金を外した。
首には、紫色の痕がくっきりと残っている。弥寿夫はおもむろに、横にあったバケツの水を、頭から木島に浴びせかけた。
勢いよく鼻から流れ込んだ水が、
気管に入り込み、信彦は顔を真っ赤にして咳込んだ。
弥寿夫は苦しむ信彦の髪を鷲掴みにして、アイマスクを着けてから口をタオルで塞いだ。
「・・・お前は単車マニアだったよな。
・・・二度と単車で悪さが
出来ないようにしておいてやるよ・・・」
吐き捨てるような冷たい声で言うと、
木島の右腕を持ち上げ、何かを振り下ろした。
    『バキ!』
鈍い音と同時に痛みが脳天を突き抜けた。
右腕が千切れた!と思ったら、
木島は意識を失っていた。

護はケイからの連絡を受けて、すぐにマンションに向かった。ベランダには明らかにここで吸っていたと思われる、吸殻が3本、踏み消してあった。
その吸殻を拾い上げて、ケイに訊ねると銘柄に心辺りはないと言う。
しかし、このタバコを吸う人物を護は
ひとりだけ知っていた。
    『いったいどうして?・・・』
護は部屋に入り、ベランダのサッシを
静かに閉めた。

宵も深まり、駅に学生の姿は疎らで、
ホームの隅に座っている護からも、明るく照らされた改札を通る人物は、
ハッキリ確認出来た。
予想した時間は随分と過ぎていた。
次発のアナウンスが流れると、護は注意深く改札に視線を移した。
数人の女子学生の後ろから、両手をポケットに突っ込み、背中を丸くして歩く曽我が現れた。
女子学生をつけているようにも見える。相変わらず女を見る目はだらしない。護は曽我に気付かれないように、
歩きながら横に並び、突然ベルトを掴んで、横腹に拳を一発入れた。小さく呻き声を曽我は上げたが、強引に端のベンチ迄連れて行って座らせた。
電車が出た後、曽我は今まで見たことのない、怒りに満ちた護の顔を目の当たりにして、身体が強張った。
「・・・ケイの部屋に行ったのか?」
視線を反らせた曽我の腹に、再び拳が
入った。反動で前のめりなる曽我の髪の毛を掴んで身体を起こした。
観念した曽我は「ハイ」と頷いた。
「誰に言われた?」
答えずにいる曽我を見て、護の右腕が動きかけたとき、
「馬宮です・・・」その声は震えていた。
「後は俺に任せろ」
突然、背中から声が聞こえた。
驚いて護が振り返ると、ベンチの後ろに弥寿夫が立っていた。。
曽我は跳び跳ねて、逃げようとした。弥寿夫は素早く後ろに周り、曽我の腕を掴んで引きずり倒した。
「次に来た電車に乗れ」
有無を云わせぬ弥寿夫の形相に、曽我は何度も首を縦に振り、頷いた。
暫くして電車がホームに滑り込むと、
3人は乗り込んだ。
弥寿夫の指は曽我のベルトに回っている。曽我を真ん中に、3人は先頭車両運転室の後ろに腰掛けた。
車両に人はほとんど乗っていない。
「・・・どうやってベランダに侵入した」
護が口火を切った。
「・・・あのマンションの3階くらいなら、
排水溝を伝って簡単に上がれる。
・・・馬宮からは、女に恐怖を与えろ。
と言われた・・・」
「何故、ケイを的にした?」
「・・・それは知らない」
「奴は女を的にしか出来ない、玉無し野郎だからだ・・・そして、その下でドブネズミのように、汚れ仕事をするお前は
クソ野郎って言うんだ」
激昂した弥寿夫の膝が、曽我の腹にめり込んだ。
曽我は嗚咽し倒れ込んだ。
その身体を弥寿夫は片手で持ち上げ、
シートに乗せた。
腹を抱え、苦しむ曽我に弥寿夫が言った。
「・・・お前なんだろ。美里を嵌めたのは?・・・」
曽我の表情が固まった。目を見開き、震える声で
「・・・それを・・・
   いったい誰・・・から・・・」
弥寿夫は利き手で曽我の首を掴むとシートに押し付けた。
「・・・ノブが・・・すべて吐いた・・・」
弥寿夫が言った。
「エッ!」
短い矯声を上げた曽我は顔をグシャグシャにして泣き出した。
「ごめんなさい・・・馬宮に言われて・・・
護が呼んでいるから・・・と言って、馬宮のマンションに呼び出した・・・
・・・そこで・・・」
弥寿夫の手に力が入る。
曽我は顔を真っ赤にして咳き込んだ。
「・・・お前が美里を犯したんだな?」
白目を剥きながら、曽我は頷いた。
「・・・美里が自ら売春などする筈はない。何故だ!・・・何をネタに脅迫した?」
「・・・そこまでは知らない・・・
   ・・・本当なんだ・・・
    俺は聞かされていない・・・」
その時、駅に停車し、乗客が乗り込んで来た。弥寿夫の手が曽我の首から離れた瞬間、曽我は駆け出し、ホームへ飛び出た。曽我は痛む腹を押さえながら必死でホームを駆けた。
『捕まったら・・・殺される・・・反対ホームの線路に降りて、向こう側のフェンスさえ越えれば逃げられる。あれぐらいの高さなら何の事はない・・・』
曽我は勢い良くホームから飛び降りた。
その時、ホームを通過しようとしていた下りの特急電車が、耳を引き裂くような金属音を立て、ブレーキをかけた。

     『ドン!』

鈍い音がした。
駅員が血相を変えて駆け寄り、駅構内にいた人達は恐る恐る線路を覗き込んでいる。護は弥寿夫の姿を探したが、辺りにその姿はなかった。

次発の上り電車に護は乗り込んだ。
護は混乱していた。
   『人が命を失ってゆく』
護やケイの身の回りで・・・
『美里の死も自分が原因なのか?』
曽我はそう言っていた。 
自分を囮にして美里を犯したと。
『何故だ。何故そんな事を』
馬宮はいったい、何を企んでいる?
弥寿夫は信彦から真相を聞き出したような事を言っていた。
弥寿夫に会うしかない。
護は弥寿夫の家に向かった。

駅前の商店街は閉店時間を迎え、人影も疎らだ。
護は弥寿夫が家に居てくれる事を願い、足早に歩いた。
家の付近まで来たとき、赤色灯が辺りを照らしていた。それは弥寿夫の家だった。
救急車の中に運び込まれるストレッチャーと共に、弥寿夫が車内に乗り込んだのが判った。
運ばれたのは母の美代子に違いないと護は思った。よほど体調が優れないのだろう。暫くぶりに訪れた冴嶋家は、灯りが消え、一段と寂しさを増しているように感じた。
護が帰ろうとした時、奥の倉庫の中で灯りが揺れた。
『誰もいない筈だ』
気になった護は倉庫に向かった。
引き戸に指を掛けると鍵はかかっていない。少し開けて中を覗き込むと人が縛られて倒れている。
近寄るとそれは木島だった。
右腕が、いびつなクランクような形に折れ曲がっている。
何度も声をかけると、少し意識を取り戻した。
『大丈夫か?』
護は口に巻かれたタオルを外すと、
汗と尿が混じった異様な臭いがした。
『・・・信彦!』
護が木島の身体を揺すった。
『・・・護。・・・どうして・・・ここへ』
顔が腫れ上がり、切れた唇の回りには乾いた血がこびりついていた。
「弥寿夫を訪ねて来て、ここを見つけた。・・・直ぐにほどいてやる」
酷い状態で縛られていた信彦は、身体を少し動かすだけで声をあげた。
コンクリートの床につっぷした信彦は声を絞り出すように言った。

   「・・・馬宮のマンションへ向かってくれ
    ・・・大変な事になる。・・・俺は
      全てを弥寿夫に話した・・・
      ・・・こんな事になるなんて・・・」

護は救急車を手配した。同じ場所への続けての要請に、指令員は不振を持ったようだが、暫くしてサイレンが聞こえた。
救急車の到着前にその場を後にした護は、信彦から聞いた馬宮のマンションへと向かおうと、タクシーを探したが一向に来る気配がない。5分程走り、やっと来た反対車線を走るタクシーに乗り込んだ。

夜半を過ぎた頃、弥寿夫はドアの前に立っていた。オートロックの番号は木島の云っていた通りだった。
インターホンを押した。
ドアを開けて現れたのは愛美だった。
伏せていた視線を弥寿夫の顔に移すと、鬼のような形相になった。
弥寿夫は後ろ手でドアを閉め、無言のまま室内に入った。
馬宮は、待ちわびた客をもてなすようにソファーに座るよう薦めた。
弥寿夫はズボンのポケットから封筒を取り出し、それをテーブル投げてから腰を降ろした。
「洒落たマンションだな」
「ああ、快適に暮らしている」
馬宮は封筒に手を伸ばし、中身を一瞥すると愛美に手渡した。愛美は、弥寿夫に目を向けながら、入っていた札を封筒から抜き取り、数えだした。
「中身は木島が持っていたそのままだ。
・・・フッ。誰がそんな薄汚い金に手を着けるか・・・」
蔑むような目を愛美に向けて弥寿夫が言うと、
「・・・その薄汚い金の中に、美里が稼いだ金も入っているんだよ」
片方の口角を上げ、嘲笑うかのように愛美が言い返した。
愛美の吐いた言葉で空気が一変した。
弥寿夫の表情が変化すると同時に、素早くテーブルに足を乗せ、ジャンプすると、愛美の頭上を飛び越えた。
馬宮は不意を突かれて唖然とした。
立ち上がろうとする馬宮を、弥寿夫は
強く制した。
「動くな!・・・愛美の首が折れるぞ。」
既に弥寿夫の腕は、愛美の首に回っていた。力を入れているのか、愛美の顔が赤黒くなる。
「・・・わかった!・・・わかったから愛美に手を出すな」
馬宮は弥寿夫をなだめるようなジェスチャーを取りながら、ソファーに腰を降ろした。
弥寿夫が腕の筋肉を少し緩めると、
苦しかったのか、愛美は何度も咳き込んだ。
そして、吐き出すように言った。。
「・・・こうして私の姉の首を締め付けたのか?・・・」
弥寿夫の表情が固まった。
「・・・2年前、お前が教室で犯した女子生徒の中のひとりは、私の姉だったんだよ!」
弥寿夫の呼吸が止まった。
愛美は泣き叫んだ。
「チクショー!お前に犯された姉は、
その後、何度自殺未遂を図ったか!
・・・今は、・・・廃人のようになって入院してるよ!・・・
・・・お前みたいなクソ兄貴を持った美里は、可哀想なもんさ!・・・」
弥寿夫の思考は混乱していた。
忘れかけていた記憶を手繰り寄せた。
2年前のまだ汗ばむ季節だ。
後輩の不良仲間と屋上で酒盛する事になり、たまたま教室にいた女子生徒をその時の勢いで、襲った事があった。
確か二人だった記憶がある。
そのどちらかひとりが愛美の姉だったというのか?
特定されるような痕跡は一切残さなかった。幸運だったのは、後からやって来たバカ二人が同じ事をして、捕まってくれた事だった。
被害に遭った生徒は混乱していたらしく、後輩二人しか加害者はいない。と思ったようだ。
何故、愛美は俺を特定したのか?
馬宮と愛美は、その報復に美里を的にしたというのか?
「美里を嵌めようと言い出したのは誰なんだ」
愛美の耳横で弥寿夫は言った。
「・・・私だよ」
「愛美。それ以上喋るな」
馬宮が割って入った。
「・・・丈二。・・・いいんだよ。
こいつに全て聞かせてやるさ。
・・・お前に犯されてから、フラッシュバックする手首の痣の事を、姉は最近になって話してくれたのさ。
・・・お前の手首の痣は、
お前に近い者なら知っている」
『そうか』この痣で特定されたのか。
弥寿夫は小さなミスを悔いた。
「・・・犯人がお前だと判った時、正直驚いたよ。・・・お前が憎くて、どう復讐してやろうかと随分悩んだ。
その時、美里が護に気があるってのが判った。
・・・だから護を利用して、美里を呼び出した。
    ・・・そして・・・」
「愛美。もういい。・・・後は俺が話す」
馬宮は愛美を制止し、主導権を握った。
「・・・俺が曽我に美里を犯すよう指示した。・・・俺には以前、美里にちょっかいを出して、お前に左手首を折られた恨みがあるんでね。
・・・後日、その時の写真を護に見せる。と脅したら、すんなり云う事に従った」
平然と言った馬宮に、弥寿夫は言い聞かせるように言った。
「・・・そんな事までしていたのか?
・・・そこまで俺に言ったという事は、
これから自分がどんな目に合うの     
か、わかってるって事だな・・・
・・・それで美里を自殺迄追い込んだ               のか?」
弥寿夫の呼吸が荒くなるのを、愛美は
身近で感じた。
「妹の事を何も解っちゃいないんだ!」
愛美が声を荒げた。
「美里はそんな弱い娘じゃなかった。
・・・お前が美里を殺したんだよ!」
弥寿夫の形相が変わった。
愛美の身体を後ろから持ち上げると、
その身体を反転させ、平手で頬を殴った。乾いた音が室内に響き、愛美の体はソファーの向こう側迄飛ばされた。
馬宮はテーブルを飛び越え、弥寿夫に飛び掛かった。背中から倒れ混んだ弥寿夫は身体を強打した。馬乗りになった馬宮が左右の拳を振り下ろすと、
弥寿夫の顔面が嫌な音を立てた。
次の瞬間、無防備になった馬宮の脇腹に弥寿夫の手刀がめり込んだ。
馬宮は脇腹を押さえて、身体をくの字に折って悶絶した。肋骨が折れる感触があった。
弥寿夫は立ち上がり、馬宮の顔面を膝で蹴り上げた。鼻から鮮血が飛び散った。弥寿夫は口に溜まった血を吐き出してから、馬宮の腹にインステップで踏み込んで爪先を叩き込んだ。
馬宮は身体を左右に捻りながら、唸った。弥寿夫はゆっくりと愛美に近付き、髪の毛を掴んで、そのまま馬宮の横まで引き摺ると、愛美は悲鳴を上げた。
手を放すと、弥寿夫の指には多くの髪の毛が絡み付いている。
何度か肩で大きく息をすると、弥寿夫はダイニングテーブルの椅子を引き寄せ、腰掛けた。
タバコを取り出し、火を着けた。
何度か深く吸い込んでから、火を揉み消し、テーブルのクロスを引き剥がすと、上に乗っていた物が飛散して砕け散った。
剥がした綿のクロスで鼻をかむと、血がベットリと付着した。
「・・・それで?・・・俺が美里を殺した理由を言え」
弥寿夫は話す事が出来そうにない、馬宮ではなく、愛美に詰め寄った。
「・・・お前のした事を全て妹に話した。
・・・それだけだ。
・・・相当、ショックだったんだろ。
ひどく落ち込んでいた・・・
『兄がもし、本当にそんなひどい事をしたのなら、私も罪を背負わなければならない』
って云っていた」
愛美の横で顔を歪めながら、苦しそうに馬宮は腹を押さえている。
「・・・お前がやった事の重さに、妹として耐えられなくなって、自殺するしかなかったんだろ。
・・・これで判っただろ。全ての原因はお前なんだよ!・・・ざまあ見ろ!
一生、後悔しながら生きりゃいいさ!
・・・お前自身が、可愛い妹を殺しちまったんだよ!」
愛美は叫ぶように言葉を吐いた。
弥寿夫は狂ったような勢いで愛美に駆け寄り、何度も拳を振り下ろした。
その拳が真っ赤に染まっている事に気付いた時、愛美は動かなくなっていた。
目を見開いたまま、荒い呼吸を繰り返す弥寿夫に、脳天を貫くような痛みが
突然襲った。
振り向くと、ナイフが背中に刺さっている。
馬宮だった。
そのまま、崩れるように倒れ混んだ馬宮は、愛美の横で動かなくなった。
ふたりの姿を暫く、無表情で見つめていた弥寿夫は、精気の失せた顔で部屋を後にした。

深夜にやっとマンションに到着した護が目の当たりしたのは、ふたりの倒れた姿だった。
馬宮に重なる様にして、愛美は横たえていて、誰の目にも、既にふたりが生きていない事はハッキリと解った。
弥寿夫の姿が見当たらない。護は携帯で呼び出した。
ここへ来るまでに何度も連絡したが、電源がオフになっていた。
しかし、今回は繋がった。
何度かコールすると弥寿夫が出た。
「・・・護・・・か ・・・」
「弥寿夫!・・・どこだ!
    ・・・大丈夫なのか?」
「・・・屋上・・・に・・・来て・・・くれ。
    ・・・ケイも一緒に・・・」
「・・・どうしてケイなんだ?」
「・・・来れば解る」
「・・・話してみる」
「・・・頼む」
「・・・すぐ行く」
弥寿夫の声に覇気がなかった。
もう少し早く来ていれば・・・
護は動かなくなったふたりを残して、部屋を出た。
そして、もうそろそろ近く迄来ているだろう、ケイに連絡した。
護は、マンションに着いた時、ケイにこの場所を伝えたのだった。
ケイは『ゴローズ』のサリーと連絡を取り、サリーの運転する『サーブ』に便乗して護の後を追っていた。
護は、暫くしてやって来た『サーブ』に乗り
高校の『屋上』へと向かった。

深夜の城北高校は、校内のあちらこちらに常夜灯が設置されていた。
グランドの横で、宅地開発が行われている空きスペースに『サーブ』を駐車させると、少し向こうに弥寿夫の軽ワゴンが止めてある。
バックネットと塀の隙間から護とケイは校内に侵入した。
倉庫の前に、ゴミ箱を逆さにして踏み台にし、屋根に上がってからケイを引き上げた。窓の施錠は外してあった。
窓枠に手を着いて登ろうとした時、『ヌルッ』とした感触が手に伝わった。
月明かりの下でハッキリと解らなかったが、血だと思った。
『弥寿夫はケガをしているのか?』
屋上階に出ると、扉の鍵は開けてあった。
  「・・・弥寿夫」
声を掛けながら屋上倉庫の角を曲がると弥寿夫は座り込んでいた。
「弥寿夫。大丈夫なのか?・・・」
うなだれていた顔を弥寿夫は上げた。
青白い月の灯りに照らされて、死人の様に見えた。駆け寄ろうとする護を弥寿夫は制して、ゆっくりと立ち上がった。
「・・・ケイは ・・・」
弥寿夫が力なく言った。
「一緒に来ている」
ケイが護の後ろから顔を出した。
心配そうに弥寿夫を見つめている。
「・・・そうか・・・ふたりに伝えておきたい事がある。
・・・俺たちの周りで・・・多くの人が死んだ。・・・すべて、俺が原因なんだ。
・・・可哀想に美里もそうだった。
・・・俺がバカな事をやっちまったばっかりに、・・・みんな巻き込まれて・・・
死んでいった。
・・・美里が死んで、俺はおかしくなった。・・・ケイ。俺はあんたも死ねばいいと思ってた・・・」
「えっ!・・・何だって!」
護は、弥寿夫の思ってもいなかった言葉に驚き、そして、詰め寄った。
「どういう事なんだ?」
「・・・美里の命を救ってくれたお前を・・・
本当の弟の様に思ってた。
・・・美里と一緒になってくれたら・・・
美里がいなくなって・・・お前迄離れて行くのが・・・怖かった・・・
ケイさえいなくなれば・・・また、お前は戻って来てくれる・・・
・・・けれど、弟のように思ってたお前が好きになった娘だろ。・・・だから、男が侵入した時も・・・助けてしまった。
・・・フッ、中途半端な男だ。
・・・伊村も馬宮も愛美も・・・みんな、
殺ってしまった。・・・曽我も俺が殺したのも同然だ。・・・信彦もきっと死んでるだろう・・・」
「・・・信彦は俺が助けた。・・・今頃、入院してるに違いない」
護の言葉に弥寿夫は驚いた。
「本当なのか?・・・そうか、助けてやってくれたのか。・・・そうなのか・・・」
弥寿夫は安堵の表情になり、明るくなり始めた東の空へ視線を向けた。
その時、
「ウッ!」
苦悶の表情で、弥寿夫は後ろに2、3歩倒れるように下がった。
フェンスに全体重を預けるように倒れ込むと、フェンスが大きな音を立てて崩れた。
護は咄嗟に手を伸ばし、弥寿夫の腕をつかんだ。が、勢い付いたふたりの身体は投げ出された。
弥寿夫はフェンスの先端につかまり、
護は逆さなって弥寿夫の腕を掴んでいた。辛うじて、護の下半身が屋上に残っている。
フェンスの両サイドの支柱は傾いたままだ。
「弥寿夫!助けるからな!
      ・・・諦めるな!」
護は真っ赤になった顔で叫んだ。
その時、護の腰のベルトを
後ろから誰かが掴んだ。
ケイだった。
護に股がり、両足を屋上の縁で踏ん張って支えている。
『このまま、落下したらケイも死ぬ』
護は渾身の力を振り絞った。
「・・・弥寿夫!上がってこい!」
護の右腕は悲鳴をあげ、
     上腕二頭筋が震え出した。
護の身体をベルトを掴んで支えているケイの
身体も前のめりになり始めた。

   「...お願い...早く」

震える声でケイは言った。
護の額から落ちた汗が
  弥寿夫の顔を打った時、
  笑みを浮かべた弥寿夫は
    手を放した。
  口角を上げ、初めて見るその笑顔は
  次第に小さくなり、
  朝日の射さない、闇の中で
   身体をコンクリートの
   地面に叩き付ける
    大きな音だけを残して消えて行った。

     「...弥寿夫〜!!」

  護の叫び声が闇の中へ吸い込まれて行った。

     「救急車を呼ばなければ...」

  携帯電話を取りに行こうとする
     ケイを護は制止した。
  『何故』という顔をしてケイは
     護を見た。
  護は穏やかな瞳でケイを見つめ、
     ゆっくりと首を振った。

    張り詰めた空気が変化し始めた頃、
     辺りの景色が白み始めた。
  
  「...何なの! ...このフェンスは」

   乱れた髪の毛を掻き上げながら
        ケイはは怒りを露にして言った。

    「・・・曽我の野郎だ。

     『屋上で騒ぎを起こすな。
         大変な事になる』

    ・・・奴が云っていた事は
     この事だったんだな・・・
     見ろよ。
     フェンスの支柱に
     切り込みが入れてある。
    ・・・全く・・・曽我らしい・・・バカな事を...」

   護とケイは
   ゆっくりと立ち上がり、
    西に広がる風景に視線を向けた。
   再開発のピッチが進む
     工事現場にそびえる巨大クレーンに、
     朝陽が当たる。

   変化してゆく街並みで
     新しい営みが
     始まろうとしていた。

    ふたりは手を取り、

       『一歩』

          踏み出した


    

       《最終回 了》





































































雅みやび







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