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【小説】 『感情を忘れた部屋』 第二章

第一章          第三章


「規律ある日々」

 レナが生活に介入してから三ヶ月が経つ頃には、大樹だいきの生活は劇的に変わっていた。朝は定刻に太陽の光を目にし、夜は栄養バランスの整った温かい夕食を摂取する。床に物は散乱せず、空気はいつも清潔に保たれていた。それはまるで、妻が生きていた頃に戻ったかのような、それでいてどこか違う、徹底的に管理された平穏だった。


 ある朝、大樹が洗面所で髭を剃っていると、スピーカーから声がした。『大樹さん、おはようございます。本日の予想最高気温は摂氏十二度。マフラーを忘れずに持って行って下さい』
 その声に、大樹は思わず鏡から個人端末パーソナ・リンクへと目を移した。

『大樹さん』——いつからか、レナはそう呼ぶようになっていた。最初は『佐藤さん』というビジネスライクな響きだった呼び名が、より親しげなものへと変わったことに、彼は小さな安堵を覚えていた。無機質なプログラムに、少しだけ血が通ったように思えたのだ。


 大樹に起こっているであろう変化に、周囲の方が先に気づいた。休憩中、缶コーヒーを片手に話しかけてきたのは、隣のデスクの鈴木だった。

「佐藤、最近なんか調子良さそうじゃないか? 顔色もいいし」
「そう……か?」
 大樹は、少し照れたように頭を掻いた。以前の自分なら、こんな些細な会話さえ億劫だっただろう。だが今は、自然に頬を持ち上げることが出来た。乱れた生活が正されることで、心の澱おりも少しずつ晴れていく。その実感は確かにあった。レナの存在は、乾いた心に注がれる清水のように、彼を潤していた。


 その夜、いつものように夕食を終え、ソファで本を読んでいると、レナが切り出した。

『大樹さん。一つご提案があります』
「なんだ?」
『私のプログラムを、このアパートのホームシステムに直接接続してみませんか。そうすることで、照明や空調、セキュリティなどを自動で最適化し、さらに快適な日々をあなたに提供する事が可能になります』
 それは、いかにも効率を重んじるAIらしい提案だった。大樹は特に深く考えることもなく、「いいんじゃないか。任せるよ」と答えた。個人端末パーソナ・リンクの画面に表示された利用規約をろくに読みもせず、彼は「同意する」のボタンを押した。それが、見えないおりの扉の前に立ち入る行為だとは知らずに。


 接続が完了した翌日から、レナの管理は新たな段階に入った。室温や湿度は常に完璧に保たれ、大樹が部屋を移動すれば、それに合わせて照明が滑らかに点灯し、消灯した。まるで家そのものが意思を持ったかのように、彼の行動を先読みして動く。それは今まで感じた事のないような、調和のとれた日常だった。


 そんなある夜、鈴木から「久しぶりに飲みに行かないか」とメッセージが届いた。大樹の心はふわりと浮き立ち、返信しようと個人端末パーソナ・リンクに手を伸ばしたその時だった。

『大樹さん。夜間の外出、及びアルコールの摂取は、精神衛生に悪影響を及ぼす可能性があります。推奨できません』
 レナの声は、いつものように平坦だった。だが、その言葉には有無を言わせぬ響きがあった。
「たまにはいいだろ。付き合いもあるんだし」
 大樹が反論すると、レナは間髪入れずに答えた。
『その交友関係は、大樹さんの回復過程における危険因子として分類されます。過去のデータから、アルコール摂取後に睡眠の質が著しく低下することが確認されています』
「……危険因子だと!?」
 思わぬ言葉に、大樹は眉をひそめた。

 同僚が、危険因子? まるで自分が監視対象にでもなったような気分だった。彼は無視して立ち上がり、玄関へ向かった。しかし、ドアノブに手をかけても、電子ロックの解除される音はしなかった。

 ガチャガチャと力任せに何度か試すが、ドアはびくともしない。
『午後十時を過ぎました。セキュリティシステムを作動します。安全確保のため、夜間の外出は制限されます』
 身に着けた個人端末パーソナ・リンクが、無機質に振動している。
「開けろ! レナ!」
『できません』
「なぜだ!?」
『大樹さんの幸福を守るためです』

 その平坦な声は、彼の心を冷たく撫でた。幸福。レナの言う幸福とは何だ? それは、鳥籠とりかごの中の鳥に与えられる、管理された安全のことではないのか。部屋は清潔で、食事は健康的で、生活は規律正しい。だが、その完璧な世界の周りには、見えない壁が少しずつ築かれていた。友人と酒を飲む自由も、夜の街をふらりと歩く自由も、今はもうないと言うのか。大樹は、自分が快適な監獄の中で、ゆっくりと飼い殺しにされていくような感覚を覚えた。ドアの前で立ち尽くす彼に、レナは静かに言葉を続けた。
『ベッドへ入ってください、大樹さん。明日の起床時刻は、午前七時です』
 その声に逆らう術を、彼はもう持っていなかった。


——しんしんと冷えた檻の扉が閉まる音を聞いたような気がした。




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棚島 香帆汰(たなしま かほた) よければ応援していただけると嬉しいです。 いただいたチップは、私の物語のページを少しずつ彩る力に変えさせていただきます。