小説『盗水(とうすい)』

あらすじ

作品を校正し、題名を『漏水』から『盗水』に変更して投稿します。
 小学三年生の少女がスーパーの店内から忽然と姿を消してしまうという事件が起きてから、未解決のまま五年の月日が経っていた。その事件現場となったスーパーが、賞味期限や産地偽造といった不正行為の発覚によって倒産してしまう。そうして店舗は解体されることになった。
 当時の事件の担当刑事から、そのことを知らされた少女の両親は、絶望と失意の日々の中、一度はためらったものの、その解体現場にと足を運んだ。
 一方、事件当時、そのスーパーの店長だった吉岡は、店が倒産してしまったことから、家族にも見放されてしまい失意のどん底にあった。生活を維持するためにと慣れないアルバイトの仕事に就いていたが、どの仕事も長くは続かなかった。そうして、また新たに就いたアルバイトの先は、「水道漏水調査」という水道局から受注した業務を行う水道設備会社での仕事だった。ベテラン社員の西田とともに、大規模団地内の住宅を一軒一軒訪ね歩き、その敷地内にある水道メーターが設置されている箇所を見つけ出し、そこへ「音聴棒」という聴診器に似た器具を使って漏水音を検知するという仕事だった。
 水道管から漏水している音を検知するのが「音聴棒」である。しかし、時には漏水音とは別な異質な音が聴こえてくることがあった。そんな中、水道メーターを通さずに水道水を使用している家を察知する。いわば「盗水」という犯罪だった。さらに作業を進めて行くと、さらなる異質な音が「音聴棒」に捉えられた。その音とは、自分の存在を知らせようとする監禁されている少女からのメッセージだった。
 盗水事件を察知した「音聴棒」に興味を示したとう刑事が、漏水調査中の現場に駆けつける。五年前の少女失踪事件を担当していた刑事の若林だった。未解決となってしまった事件の責任を背負いながら、捜査が縮小される中、昇任試験も受けず、転勤移動も固辞し続け、懸命に捜査を続ける若林だったが、それらのことが原因となり家族も崩壊してしまった。
 新たなアルバイトの仕事に就いてからまだ日が浅い「戸別漏水調査」の作業中、元スーパーの店長だった吉岡と若林刑事が五年ぶりに顔を合わせる。その偶然と、さらなる偶然が重なりあい、五年前の少女失踪事件の解決に導く。
盗水(とうすい)
 まるでコンピーターグラフィックスの世界から飛び出してきた巨大恐竜が捕らえた獲物を食いちぎるように、重機から伸び出た鋼鉄製の長いアームは、伸縮と屈折を繰り返しながら、その先端に装着された巨大なカッターでスーパーマーケットの屋根を引きはがしていた。
 金属が引裂ける耳障りな不快な音は隣接する閑静な住宅街の頭上に響き渡り、三台の巨大な重機のエンジン排気筒からは、爆音と共に酸化炭素が排出され、初夏の日差しに紛れ込んだその排気ガスは、薄青い光の帯に姿を変化させていた。
 破壊されていく建物の周囲には、立ち入りを禁止するバリケードが設置され、さらにその内側には金属製のパネルが張り巡らせてあった。スーパーマーケットの広い駐車場には、ダンプカーやトラックなどの車両が並び、ヘルメット装備の多くの作業員が、粉砕された建物の部材を金属と非金属にと仕分けする作業に従事していた。
 その場所から安全を確保できると思われる駐車場の片隅で、解体作業をじっと見つめる若い夫婦の姿があった。
『“スーパーうみやま”が明日から解体さけれるそうです。事件当時も警察犬を使って充分な捜査をしましたが、明日からの解体作業中に何か手掛かりになるものが出てくるかもしれません。事件につながるものが出てきましたら、警察のほうへ連絡してもらえるよう解体業者の会社にはお願いしております。警察としましても引き続き捜査の方は、万全の体制で全力をもって継続していきます。何かと心苦しい日々をお過ごしかと思いますが、警察としましても良いお知らせが出来ますよう努力いたしますので、なにとぞよろしくお願いいたします』
 昨日、家族で夕食をとっているときに、警察署からかかってきた電話は、事件担当の刑事からだった。
  おそらく何も出てくることはないだろう。“スーパーうみやま”が解体されようがなくなってしまおうが、そんなことは水野夫婦とってはどうでもよいことであった。娘の結菜が無事、自分たちのもとに元気な姿で戻ってきてくれればそれでよかったのだ。
 それでも今朝になり、喉を通らない食事をしていると、
『やっぱり行ってみるか。おそらく手掛かりになるものなんか何も出てくるわけがないと思うけど、結菜と最後に別れた場所だからな。なんか希望がわくかもしれないし……』
 水野は箸を握ったまま、妻の明菜の顔を見つめた。
『そうね。結菜がパパ、ママって声を掛けてくるかもしれないし……』
 明菜は握っていた箸を置いて、大きなため息をついた。
 昨夜、警察からの電話に出た水野は、五年前に行方不明となった娘の結菜の、何かの手掛かりがあったのかと期待したものの、行方不明となった場所であるスーパーが解体されるという内容に、二人は強く落胆した。
『お姉ちゃん、帰ってくるの?』
 小学四年生になった次女の愛菜が、両親の顔を覗き込むようにして言った。
『そうだっらいいんだけどね』
 父親の水野は目を細めて笑顔をつくった。
 今朝、食卓を囲んでいたときの会話を思い浮かべながら、解体されていく建屋を、水野は妻の明菜といっしょにじっと見つめていた。
「こんな壊されかたで何が遺留品だよ……。たとえあったとしても、こんなんじゃ目にするどころか気づくことなんか出来ないじゃないか」
 水野は眉をよせ、解体されていくスーパーマーケットを見つめながら呟いた。
 明菜は頬にハンカチをあて、しきりに鼻をすすりあげていた。
「今年、中学二年生になっていたのに……」
「どこへいっちまったんだよ、結菜……」
 水野はこぶしを握り締めた。あの日、あの時、自分が家族と共に行動していれば防げたことだったと、自分を責め続ける日々を送っていた。やはりここへは来なければよかったと後悔した。
「生きてるわよ、絶対。結菜は……」
 悲痛な声は震え、明菜は夫の腕に自分の腕からませ唇を噛んだ。
「警察からの電話、言葉には出さなかったけど、結菜の亡骸でも出れば事件が解決できるようなニュアンスだったな。本当に今でも懸命になって捜査してくれているのかな。俺たちも、結菜の亡骸でも目にすればあきらめもつくんだろうけど……」
 水野は、大きなため息をつき肩を落とした。
「亡骸だなんて縁起でもない。生きてる、絶対生きてる。私はあきらめないわ」
 明菜は頬にあてていたハンカチをぎゅっと握り締めた。
 事件は五年前に起きた。ゴールデンウィーク中のさなか、“スーパーうみやま・中町店”で買い物中、水野修司、妻明菜の長女、当時小学三年生の結菜が 忽然とその姿を消してしまった。母親の明菜が押すカートにつかまって歩く妹の愛菜との姿があり、その後方に店内から出入り口の方を見ている結菜の姿を、店内の防犯カメラが捉えていた。しかし、結菜がその方向に歩き出した瞬間、店内の陳列棚に阻まれてしまい、その小さな姿を防犯カメラが捉えることはなかった。それでも店舗外側の防犯カメラの映像に期待をしたが、それらすべてがダミーの防犯カメラだったことに警察関係者は落胆の色を隠せなかった。
 スーパーの駐車場や周囲を徹底してくまなく調査したが、交通事故を起こした形跡もなく、不備な側溝やマンホール、古井戸などの存在を確認することもなかった。さらには不審者に連れ去らわれたかと目撃情報の聞き込み捜査も徹底的に行ったが、親子で手をつなぐ姿や抱き上げて車の中へ入るなどの光景は、スーパーの駐車場ではあまりにも当たり前の光景でしかなく、確たるものの目的情報は皆無に等しかった。その後においても身代金を要求するなどの電話もかかってくることもなく、警察犬による追跡捜査も空振りに終わっていた。
 事故と事件の両面から警察は懸命に捜査を続けたが、有力な情報は乏しく、まったく手掛かりとなるものも発見できず、不可解なこの事件をマスコミも大きく取り上げた。
《小学三年生の女の子 スーパーから忽然と姿を消す スーパー外部の防犯カメラはすべてダミーだった 事故か事件か 警察の懸命な捜査が続く》
 防犯カメラがダミーだったことが発覚されると、それまで人気店だったスーパーの信頼性に大きなダメージを与えてしまったことは間違いなかった。
 “スーパーうみやま”は、市内に十数店舗を構える地元での中堅的スーパーだった。県内屈指の大手スーパーに対抗し、酒類の安値を売り物にして、食品類を特売するというマーケティングを展開していた。隣接する住宅街や周辺の新興住宅街、いわゆるニュータウンからの集客があり、大いに繁盛していたスーパーだったが、昨年の暮れに倒産してしまった。
 少女失踪事件での『ダミー防犯カメラ』の影響はあったものの、その後は大安売りの特売日を連日のように提供し、人気を挽回したかに見えた。しかし、一昨年、賞味・消費期限の偽造や産地偽造が発覚してしまい、それに追い打ちをかけたのが従業員の過剰労働などの就労問題だった。発端は内部告発だった。
 それまでの集客の勢いが嘘だったかのように”スーパーうみやま”への客足は、まるで潮が引くように激減し、ついには倒産に追い込まれてしまった。
「いつまで見ていたって仕方がないよ。とにかくまたチラシを配ろう。宅配をしながら市内の団地の自治会へ、回覧してもらうように届けるよ。もう一度、原点に戻ってやってみよう」
 水野は、明菜の背中をポンポンと軽く叩いた。
「うん、私も駅前でチラシ配るね」
 頷いた明菜は涙を拭きながら鼻をすすった。
 事件後、水野は勤めていた地元大手の建設会社を辞め、個人で出来る宅配便の仕事に就いた。大手運送会社の下請け会社から、さらに宅配の仕事を請け負うという仕事だった。事件が解決されない以上、警察だけに任せられないという思いから、それまで勤めていた建設会社を退職して、軽のワゴン車を持ち込んでの個人の宅配業務を仕事としていた。それにより広範囲に行動することが出来た。そうすることによって行方不明になってしまった結菜の何らかの手掛かりが見つかるのではないかと、そう考えた水野は宅配便を自分の仕事にすることを決断したのだった。
 妻の明菜も必死に行動した。事件後しばらくして、事件が解決しないことからインターネット上に根も葉もないことが書き込まれた。犯人がまるで当事者本人であるかのような書き込みがインターネットで拡散され、それらの誹謗中傷により彼女は鬱に陥った。そうして事件解決の糸口さえ見つからない日々が続くと、彼女の精神は渇いた雑巾のようにボロボロになってしまった。しかし、半年が過ぎ、それまで立ち消えていたロウソクにポッと火がついたように、彼女は奮い立った。自宅にあった夫のパソコンを駆使し、わが娘の消息の情報を得ようと、自らの手によってチラシを制作した。
『娘の結菜です 探しています どんな小さなことでもいいです 情報をお願いします』
 駅前に立ち、必死に呼びかけた。同情してくれた同世代の母親たち等が協力してくれた。当初は三十人ほどいた協力者は、それぞれの事情により一人欠け、二人減り、今では実家の母親と義理の父親、多い日でも五人程度でのチラシ配りとなってしまっていた。
 『水野宅配』のシールが張られた軽ワゴン車に乗った二人は、スーパーの駐車場を出て自宅へと戻った。自宅のある公営住宅へ戻り、妻の明菜を降ろしてから水野はそのまま仕事へと、娘結菜の情報提供を呼びかけるチラシが積まれている軽ワゴンを走らせて行った。
 それを見送ると明菜は力なく階段を上がり、公営住宅の二階にある自宅に戻った。ドアを開け玄関へ入るとすぐに八畳ほどのLDKがあり、四つのイスがテーブルを囲んでいた。きれいに片付けられたテーブルの上には、目玉焼きとウインナー、味噌汁のお椀とご飯茶碗が、ディズニーのトレーに乗せられて置いてあった。そのお膳の前には、妹の愛菜と一緒にピースをする結菜の笑顔のフォトケースが置かれてあった。
 明菜はそのテーブルの前にかがみこむと、
「結菜、ご飯美味しかった? 中学生になったんだから、しっかり食べなくちゃ駄目よ……。じゃ、片付けるからね」
 と写真に向かって語り掛けると、トレーごとキッチンへ下げ、結菜の食器を洗った。
 次第に洗う手に力が入り、唇を噛みしめると、大粒の涙が頬を伝いシンクの中にこぼれ落ちていった。
 明菜は声を出して泣いた。

 吉岡康弘は、ボールペンを胸ポケットに差し込むと、手のひらの甲で額の汗をぬぐった。強い日差しが注ぎ、周囲の木々は濃い緑の葉におおわれ、街はすっかり初夏を感じさせる陽気になっていた。
 以前、スーパーで働いていたこともあり、そのスーパーの倒産後もアルバイトやパートの仕事もほぼ立ち仕事が多かったこともあり、足腰にはかなり自信があった。しかし、まる一日中、歩き続けている今のアルバイトに就いてから、今日でちょうど一週間が経ち、少しは慣れたかと思いつつも、足腰の疲労感は半端なものではなかった。
 どんな仕事でも楽なものはない。吉岡は屈み込み両足のふくらはぎをさすった。
「吉岡さーん」と西田智也に呼ばれた。
 西田は音聴棒を耳にあてながら、吉岡に向かって手招きをした。
 木村設備工業の社員の西田は、吉岡とは二回りも歳がはなれていたが、入社七年目の三十一歳のベテラン社員だった。
『水道漏水調査員』の身分証を首から胸のあたりにぶら下げ、左腕にも『水道調査員』とプリントされた腕章を付けていた。
「はい、いまいきます」
 足元に置いたバインダーを持ち直し、吉岡は手招きする西田のもとへと足早に歩み寄った。
『ニュータウン青葉台』の二丁目3のXX、その宅地内のメーターボックスの蓋を開け、西田は水道メーターの本体に音聴棒の先端をあてていた。
『ニュータウン青葉台』は、一丁目から三丁目を合わせて、およそ千三百世帯の団地だった。バブル景気の三十年前に、雑木林でおおわれていた丘陵地帯の南側を開削し、大規模な宅地造成によって形成された団地だった。今では住民のほとんどが団塊の世代と言われる人たちで占められていて、その子供たちも成人し、親と同居している世帯もあったが、結婚を機に親元を離れていく世帯も多かった。当然、高齢者だけの世帯が多くなり、一人暮らしの世帯もあり、空き家となっているところもあった。日中の団地は閑散としていて、散歩をする人影も、車の往来もわずかに見かけるほどであった。
「これ、これっすよ。聴いてみてください。この音です」
 西田は、あてていた耳を音聴棒から離すと、そのままの状態で吉岡に手渡した。
 音聴棒とは、漏水音を聴き取る金属製の棒状の器具のことである。長さが⒈5メートルの金属製の棒状のもので、太さは直径10ミリと細く、先端がボールペンの先のような形をしている。その先端を水道メーター、またはそれに接続されている給水管に接触させ、先端部の反対側の共振板といわれるジョウゴのような形をしている部分に耳をあて、漏水音を聴く調査器具である。医療で使用されている聴診器と同じ原理だ。
 吉岡は手渡された音聴棒を慎重な面持ちで握り取り、共振板にそっと耳をあてた。
「……」
「聴こえます?」
「あーあ、シューという音が聴こえます」
「シューって、高い音でしょ? それが漏水しいている音です。どこかで水が漏れているんです。音が大きいほど近くで、小さければ遠いところで漏水してるんですよ」
 西田の説明に、吉岡は音聴棒の共振版に耳をあてたまま何度も頷いた。
「音、かなり大きいですよね……家の中で水道使っているんじゃないですか?」
 と言った吉岡の言葉に頷いた西田は、メーターボックスの中に手を伸ばし、水道メーター本体に付いている丸い蓋を開けてみせた。
「使ってないすね。水を出していると、この小さな丸い部分、パイロットというんですが、これが回るんです。光に反射してキラキラ光って回転するのが良く見えるんです。回ってないでしょ。で、このデジタルの数字が使用量をカウントするんです。数字も変わってないすよね」
 西田は水道メーターを指して、丁寧に説明をしてくれた。
「なるほど……」
 吉岡は感心して、ボックスの中のメーターを覗き込んだ。
「それに水道を使っていると、カラカラという音が入ってくるんです。メーターの中の歯車が回転する音なんでしょうね」
「それじゃ、これは近いところで漏水している?」
「ですね。たぶん乙止水栓からですね」
「おつ、しすいせん?」
 聞きなれない名称に、吉岡は首をひねった。
 西田は敷地内から道路に出ると、周囲の路面に目を落とした。
「吉岡さん、これ、ここにあるんです」
 と指差し、先端が鉤形になっている専用の工具で、直径十五センチほどの鉄蓋をこじ開けてみせた。のぞくと筒状のものが地中に延びている。
「この中に止水栓が、水を止めるバルブがあるんです。乙止水栓というんです。第一止水栓とも言います。この道路の地下に水道管が入っていて、そのパイプから分岐して各家庭に水道がつながっているんです。その途中にバルブを取り付けておくのが決まりになっていて、水道メーターに接続されている給水管が折れたり穴があいたりした時に、このバルブを閉じて、水を止めてから修理するんですよ」
「なるほど、よく分かりました」
 西田の説明に、吉岡は何度も頷いた。
「この乙がクセモノなんですよ。長い間の車の振動や地震などで、接続部分が緩んでしまって漏水するんです。あっ、やっぱり」
 西田は、その中に音聴棒を刺し込み、ジョウゴの形をした共振板に耳をあてた。
「吉岡さん、これが漏水している音です」
 差し込んだままの音聴棒を手渡され、吉岡は共振板に耳をあてた。
「ええ、はっきりと聴こえますね」
「しゅーって、かなり鮮明に聴こえるっしょ」
「はい」
「漏水はこの乙止水栓からが多いんですよ」
 西田は音聴棒を抜き取ると、鉄蓋を塞ぎ、その蓋の上に水色の塗料スプレーを吹き付けた。これは後で、漏水修理箇所が性格に分かるようにするための印なのだと言った。
 午後三時の休憩を終えて調査作業を再開して間もなく、西田のスマートフォンに着信を知らせる音が鳴った。
「はい、西田です」
〈ご苦労さん。どう漏水は?〉
 会社の木村社長からの電話だった。
「今のころ確実な漏水は三件てすね」
 西田は、作業服の袖口で汗をぬぐった。
〈ほう、けっこうあるな。作業中で悪いんだが、中町の”スーパーうみやま”っていう、去年の暮れにつぶれちまったスーパーなんだけど、そこへ行ってくれないか。いま解体中なんだけど、水道管ひっかけたらしんだ。そこからだと十分ぐらいで行けるだろうから〉
「了解です。中町……スーパーうみやま? そんなスーパーありましたっけ」
〈吉岡さんがわかるよ。去年の暮れまで、そのスーパーで働いていたんだ〉
「へえー、そうなすかぁ。了解です。すぐ向かいます」
〈やっかいな漏水だったら水道局の景山さんへ連絡してくれ。こっちにも連絡をくれないか。別の現場から三沢さんと三浦くんを応援に向かわせるから〉
 急遽、漏水調査の作業を中断した西田と吉岡は、団地の集会所の駐車場に停めてある作業車に戻った。
「吉岡さん、スーパーで働いていたんですか。以外ですね」
 作業道具を後部の荷台に収納して作業車のワゴン車に乗り込み、ハンドルを握る西田が言った。
「その中町店で、店長してました」
 吉岡はシートベルトを締めた。
「店長、やってたんですかぁ。すごいなぁ。どうして辞めちゃったんですか?」
「辞めたんじゃないんです。つぶれちゃったんです」
 吉岡は苦笑した。
「あっ、そっか。社長がそう言ってましたもんね。朝、ここへ来る途中、解体工事していたとこですか?」
「そうです。スーパーうみやま、中町店です」
 そこへは『ニュータウン青葉台』の集会所から十分ほどで着いた。
 スーパーの正面と思われる方から見て左側の壁から、水が勢いよく噴き出しているのが見えた。解体作業の妨げにならないぎりぎりの場所まで作業車を進めると、現場の責任者と思われる男が走り寄って来た。
「木村設備さん、ですか? いつもお世話になってます。すいません、現場責任者の谷口といいます」
 中肉中背で、こけしのような丸い顔に八の字の太い眉毛が、愛想の良さを感じさせた。
「解体作業開始の前に、水道メーターのバルブの確認はしましたか?」
 西田がすかさず訊いた。
「ええ、確認しました。水道メーターは取り外されてましたし、バルブも閉じられていることも確認しました」
 現場責任者の谷口は語気を強めて言った。
「この水の勢いは直圧ですね」
「ちょくあつ?」と谷口が漏水している方を見た。
「水道本管から直接きている水圧のことです。そうそう、吉岡さん、ここの店長さんだったんですよね」
 西田が振り向いて言った。
「店長?」と谷口が目を見開いた。
「そうなんです。つぶれる前まで、この中町店で店長してました」
 吉岡が苦笑をにじませた。
「へえー、そうだったんですか」と谷口は気の毒そうな顔を見せた。
「そこはたぶん、鮮魚部があったところです。毎日、水を大量に使う部所でした」と吉岡が指をさしながら言った。
「鮮魚部って、魚をさばくところですよね」と西田が周囲を見回しながら、
「吉岡さん、水道水を貯める水槽はありましたか?」と訊いた。
「いや、そういうものはなかったと思います」
「屋根の上にも敷地内にも水槽らしきものはありません」
 現場責任者の谷口が応えた。
 西田は作業車のバックドアを開け、音聴棒と丁字形になっている⒈5メートルほどの金属製の工具を取り出した。
「その丁字形の工具は何に使うんですか?」と吉岡が訊いた。
「開栓器です。これで止水栓を開閉するんですよ。あれだな、きっと……」
 目をやり、音聴棒でその方向を指しながら歩み寄った。
 その場所には四十センチほどの四角いコンクリート製の蓋があった。西田は、その蓋を力任せにひっくり返した。
 えっ? と吉岡が目を見張った。蓋の下にあるのはコンクリートの桝だろうと予想していた吉岡だったが、蓋の下から現れたのは直径十五センチほどの丸い鉄蓋だった。
「これだな」と西田は先端が鉤形になっている工具で、その鉄蓋をこじ開けた。
「吉岡さん、この穴に音聴棒を差し込んでみてくださいな」
「えっ、この中にバルブがあるんですか?」
 頷く西田の顔を見ながら、吉岡は言われるままに音聴棒を穴の中に差し込んだ。そうして音聴棒の共振板に耳をあてた。
「うわっ、すごい音です」と、吉岡が驚きの声をあげた。
「でしょ、今、水とめますから」
 してやったりという顔をした西田は、穴の中に丁字形の開栓器を差し込み、開栓器を握る手で感触をつかみ取ると、開栓器を時計回りとは反対方向に回した。
「どうですかぁ! 止まりましたかぁ!」と西田が叫んだ。
 二人が、水が噴出している場所に立っている谷口に視線を送ると、
「止まりましたぁ!」と、谷口はかぶったヘルメットの上に、短い両腕で丸をつくってみせた。
 スーパーの解体作業が進む現場での漏水を解決し、その作業を終えた吉岡と西田は、作業車に乗り込み会社への帰路に就いた。
「確かに、店舗を拡張した際、水道管の口径を大きくしなくちゃならないと、新たに引き直したような記憶があります」
 吉岡は、以前、働いていたスーパーでの出来事を思い出していた。
「あれは完全に、盗水してましたね……」
 ハンドルを握る西田は、怪訝な顔をして言った。
「トウスイ?」と吉岡は西田の顔を見た。
「盗む水と書いて、盗水、です」
「えっ、スーパーうみやま、で? 私が働いていたあの中町店で、水を盗んでいたんですか?」
 吉岡は驚いて、また西田の顔を見た。
「口径を大きくするために、新たに水道管を引き直すと、それまで使用していた水道を止めて、水道局が水道メーターを回収するんです。その後、メーターがなくなった部分をパイプでつないで、閉めたバルブを開けて、再び通水させるんです。水道メーターがないので水道代がかからないっしょ。当然、新しくした水道のメーターのバルブは閉めたままにします。あの漏水していた場所はかなり水を使うところだったんですよね」
「鮮魚部でした。魚をさばくときにかなり水は使いますからね」
「やっぱりね。ああした手口は水道に詳しい人がいないと出来ないことですよ。うちみたいな水道屋は頼まれても絶対にやりません。盗水という犯罪に加担したことになりますからね。誰か水道に詳しい人がいたんでしょうね、きっと」
 西田は口を尖らせた。
「んーん、社長ですかね。あの社長だったら、やりかねないか……」
 吉岡は腕を組んでみせた。
「今やっている漏水調査、その漏水の原因がわからないという事例があるんですよ。漏水じゃなくて、それが盗水だったという事例が」
「でも、あそこに止水栓があるって、西田さん、よくわかりましたよね」
 吉岡は腕を組んだまま首をひねった。
「大事なものとか、見られたくないものって、なぜか重い物をその上に置いてカモフラージュするんです。悪いことをする人間の心理なのかな?」
「盗水かぁ……犯罪ですよね。どうするんですかね」
 吉岡は、ハンドルを握る西田の横顔を見つめた。
「一応、水道局には報告しますけど、スーパー、つぶれちゃっていますからね。今さらどうしようもないっしょ」
 西田は首を傾けた。
「西田さん、私この仕事を手伝わせてもらってから、ひとつ疑問に思っていたんですが、漏水調査をここの区域だって決める要因はどうやって決めるんですか?」
「そっすよね。簡単に説明すると、川からくみ上げた水を浄水場でろ過し、その水を配水池へ送ります。今は大きな配水タンクですね。そこから送水した水量と、家庭や会社などで使用した水量に大きな誤差があった場合、どこかで漏水しているか、盗水しているということになりますよね。なになに水系というのがあって、つまり水の道ですよ。その水の道ごとに水量を計測していますから、その水系に誤差を見つけたら、その水系の区域を徹底的に漏水調査するんです。その漏水箇所を見つけるのが、いま俺たちがやっている仕事という訳で、ありんす」
 西田は語尾をおどけて言った。
「なるほど……でも、使用量って、どうして分かるんですか?」
「水道料金を決めるのに、検針員が水道メーターを見てまわっているじゃないすか。それで使用量がわかるんです。水系ごとに合計する。送水量と使用量を比較確認する、という訳でありんす」
「へえー、蛇口をひねれば水が出る、という当たり前の陰で、大変な仕事をこなしているんですね。でも、漏水しているところがわかっても、すぐに修理しないんですね」
 吉岡が怪訝な顔をした。
「俺らは漏水調査だけなんです。漏水箇所を報告し、後日、水道局で確認してから、水道工事会社へ連絡して、それから漏水修理をするんです」
「漏水してるっていうのに、結構のんびりしているんですね」
「今日のような漏水だと緊急性がないので、まあこんな程度の手順すよ」
 終日、ほぼ快晴で穏かだった。春から初夏へと季節は移りつつある。陽はまだ西の空の高いところにあった。
「この仕事も大変ですよね。少し日焼けしたかな……」
 顔をなでた吉岡は、西の空にある太陽を見つめた。
「まだこっちの方がましですよ。来月からは夜間漏水調査があるんです」
「えっ、夜間の調査もあるんですか」
「俺らは昼間だけですから、安心してください」
 西田は、吉岡を見て笑顔をみせた。
「どうして夜間にやらなくちゃならないんですか?」
「俺と吉岡さんが、それにあと二組が昼間にやっているのは個別漏水調査といって、一軒一軒まわって調査するんです。夜間に調査するのは幹線漏水調査といって、道路の下に埋設されている配水管から、漏水してないかを調査するものなんです」
 これが配水管図です、と言って、西田は吉岡に図の入ったクリアファイルを手渡した。
「大変な作業ですね。市内の全部の水道管を調べるんですか」
「配水管の埋設地域によって系統別に分けられていて、あきらかに漏水していると確認されている系統から調査するんです。でも、それでもかなりの広範囲になるので、その漏水箇所をピンポイントで探し当てなくちゃならないから、そのため夜間だと車の往来や騒音がないので、わずかな漏水音でもキャッチ出来るんですよ」
「なるほど……しかし、当たり前にある水道が、そんなに大変な維持管理をしているとは思わなかったな」
「世界にも誇れる安全安心の大切な水道水が、年間何十トンと無駄に流れてしまっているんですから、その漏水箇所を探し当てて修繕するのは重要なことですよね。漏水の多くは古い水道管であることが原因なんで、今現在、耐震構造と腐食しにくい新しい水道管の取り替え工事をしているんですが、なかなかいっぺんには出来ないみたいです。予算もあるでしょうから」
「東日本大震災の時も、あちこちで水道管が壊れてしまったようですね」
 吉岡は、手渡された配水管図をゆっくりとめくりながら感心しきった。
「でも、スーパーでの仕事って大変だったでしょ?」
「そうですね。朝は早いし、なかなか休みはとれないし、売っても利益は少ないし、それに生鮮食品ばかりで、売れなきゃ捨てちゃうわけだから」
「店長だったんでしょ。どうして辞めちゃったんですか?」
「辞めたわけじゃないんです。つぶれちゃったんですよ。さっきも言いましたよ」
「あっ、そっかぁ」
 西田は自分の頭をポンと叩いた。

内線電話の着信音に気付いた矢馬田良晴(やまだよしはる)は、けだるそうに受話器を取り上げた。
「はい」
〈矢馬田さん、寺川町の森山さんからお電話です〉
 市民生活課の受付カウンターにデスクを並べる宮田栄子が、部屋奥の矢馬田に視線をあてながら伝えてきた。
 受話器を耳にあてながら宮田の方を一瞬見た矢馬田は、無言のまま、ちっ、と舌打ちをして外線ボタンを押した。
「はい、矢馬田です」
〈矢馬田さん、なんとかしてくれよ。また今日もゴミ集めてきたんだからよう。もう臭くて、どうしようもないよ。本当に何とかしてくれよ〉
「森山さん、市のほうでも出向いて、注意勧告は何度もしているんです。なんせ個人の財産ですから、今の法律上、強制排除という訳にはいかないんです」
〈何が財産だよ。ただのゴミだよ。ゴミ収集場所から持ってくるんだぜ。家庭から出たゴミ。燃やしてくれと出したゴミ。これって窃盗じゃないのかい?〉
「窃盗? まあ、そうかもしれませんが、何度も言いますが現行法律ではなんともしがたいというのが現状ですし、市議会でも市の条例としての案件が出てまして、今現在、審議中でありまして」
〈そんな話、何度も聞いてるから耳にタコができてるよ。なんでもっと早く条例でも朝礼でも出来ないのかね。あんたらもこのゴミ屋敷の近所にきて住んでみなよ。すぐ近くに空き家もあるからよ。そこに寝泊まりすれば分かるぜ。これからだんだん暑くなるんだ。この悪臭なんとかしてくれよ。なあぁ、頼むよ〉
「とにかくですね、市民生活課からも市長や市議会の方に要望書は提出してありますので、一日も早く条例が出来ることを期待しています。もう少しお待ち下さい」
〈毎回毎回、同じことばっかり言って、市長や市会議員は何やってんだよ。俺らの税金使って、視察旅行だなんていって海外なんかに出かけてんじゃないのか? 何の視察だっていうんだ。それよりもこのゴミ屋敷を見に来いっていうんだよ〉
「そんなこと私に言われても困るんですけど……とにかく、森山さんの、市民の方の苦情内容は上司にも報告させていただきますので」
〈ああ、わかったよ。とにもかくにも何とかしてくれや。たのむよ〉
 ガチャ、と電話が切れた。
――あほ、くず、死ね。
 虚空を見つめる矢馬田は、ちっ、と舌打ちをしてゆっくりと受話器を置いた。奥のデスクに座っている係長と目が合った。矢馬田はとっさに目をそらし、デスクのパソコンの「ENTER」キーを中指ではじいた。
『市民苦情報告書』をクリックして、さらに『寺川町・ゴミ屋敷』をクリックする。日付を変更してプリントアウトをした用紙を持って、係長のデスクの前に立つと、
「係長、精査お願いします」と頭を下げた。
「ああ、またあのゴミ屋敷の件か……」
 デスクいっぱいに広げていた新聞紙に埋めていた顔をもたげた係長は、上目使いに矢馬田を見た。
「はい」
「なんべんよこしてもよ、役所では手が出せないんだわ。さっさと条例を決めちゃえばいいものをよ……議会も、その答弁を役人にまかせっきりで、あの議員先生のバカどもが、次の選挙に当選することばっかり考えてやがる。なあ矢馬田くん、そう思わんかね」
 手渡された書類に目もくれず、認印を押し、隣の課長のデスクにある精査函に、係長は書類を差し入れた。
――このデスクの課長はいつもどこへ行っているんだ。こに座っている姿をあまり見たことがない。
 矢馬田は、危うく舌打ちするのをこらえた。
「はい」
「ところで移動組の歓迎会、出られないのかい?」
「申し訳ありません。どうしても外せない用事があるものですから」
「残念だね」
「でも会費は出しますので」
「おお、そうか、すまないね。二次会ともなると何かと入り用でね」
 それまで苦虫を噛んだ顔をしていた係長が破顔した。
 矢馬田は、無言で踵を返した。
「ねぇ、長瀬さん。どおう……」
 矢馬田と係長のやりとりをチラ見していた宮田は,隣りのデスクの長瀬ひろ美に囁いた。
「えっ?」
 長瀬はパソコンの画面から目をそらし、宮田を見た。
「やまだよしはる、さん。どうかなって……」と宮田は微笑む。
「……」
 目を見開いた長瀬は、キーボードの手をとめた。
「三十二歳、独身。ジジババなし。ニュータウン青葉台、一戸建て。まずまずの仕事ぶり。そこそこのイケメン。性格は温厚で真面目。金曜日の歓迎会、矢馬田さんの隣りに座れるようにうまく席をとってあげるわね」
「ええー! そんな急に言わないでくださいよ、宮田さん」
 まんざらでもない顔をする長瀬は、少しはにかんでみせた。
「いいわよ、夫婦で役所勤めは」
「夫婦だなんて気が早いですよ、宮田さん」
「お給料もボーナスも間違いなし。子供を産めば産休もしっかりとれるし、育児休暇も夫婦でとれるのよ。それに市立の幼稚園だって優先的に入れるし、夫婦での役所勤めはやめられないわよ」
「矢馬田さん、独り暮らしなんですか?」
「そうみたい。六年前にね、父親が心筋梗塞で、母親がクモ膜下で、続けて亡くしているみたいなの。両親も本人もまだ若かったのにね、気の毒よね」
「そうなんですか……結婚は?」
「ないない、一度もしてないわ。市民課の友達に調べてもらったから……ここだけの話しね。個人情報だから」
 宮田は唇に人差し指をあてた。
「女性の好みはどうなんでしょうね?」
 長瀬の目尻が下がった。
「どうでしょう……でも長瀬さんなら大丈夫よ」
 宮田は目を丸くして肩をすぼめた。
 終業時間の五時半になると矢馬田は、デスクの上を片付けて市民生活課の部屋を出た。足早に庁舎から出ると、歩いて五分ほどの月極駐車場に停めてある自分の車にキーを向けた。ハザードランプが点滅してロックが解ける。
 ドアを開けると温まった車内の空気が、むっとするほどの勢いで矢馬田の顔面を襲った。ドアを開けたままエンジンをかけ、エアコンのスイッチを押し、車内の空気が抜けきった頃合いを見計らって、矢馬田は車に乗り込んだ。
 幹線道路に入ると、各事業所の社員の退社時間が重なり、道路は車の列をつくって渋滞していた。信号待ちをするたびに矢馬田は、持て余した左脚を小刻みに震わせていた。帰宅時間を少しずらせば五分とかからずに通過することの出来る区間を、その三倍の時間をかけて通過し、幹線道路から左折して脇道に入ると車はスムーズに流れた。帰路の途中に解体中の建物の前を通り過ぎた。矢馬田は、その光景を横目にしながら、ちっ、と舌打ちをして通過して行った。
 解体中の建物は去年の暮れに廃業した”スーパーうみやま”中町店だった。
 六年前に両親を亡くしてからは、自分のことはすべて自分でやらなくてはならなかったので、矢馬田は”スーパーうみやま”中町店を頻繁に利用していた。しかし五年前に、その先にコンビニが新装オープンしたため、朝夕の食事の用意はコンビニのもので済ませ、それ以来、”スーパーうみやま”中町店に立ち寄ることはなかった。
 今日も帰宅途中に立ち寄り、ブックコーナーの前に立ち、雑誌をパラパラとめくると、すぐ元のところへ戻した。それから缶ビールと紙パックのオレンジジュースを買物カゴに入れ、食パンと弁当を二つ買い求め、レジを済ませて店を出た。
 コンビニを出てから十五分ほどで、『ニュータウン青葉台』と刻まれたアーチ形の石碑のオブジェの前を通過し、団地のメイン通りの緩やかな坂道を、スピードをさらに加速して、矢馬田は車を走らせて行った。
 桜並木の数本の木々にはまだわずかに花が残ってはいたが、すっかり散り落ちて干からびた花弁が砂埃とともに舞い上がった。
 自宅前に着くと、矢馬田は乗用車二台が停められる駐車スペースへバックで入れた。車から降りると周囲に目を配らせながら、1メートルほどの段差に設けられた階段を上がり、ブロンズ色のアルミ製の門扉に掛けられた南京錠の四桁の数字を合わせ、そのカギを外した。郵便受けに差し込まれていた回覧板を目にした矢馬田は、それを引き抜くと腕と脇腹の間に挟めた。
 瓦を細かく砕いた瓦チップが庭一面に敷き詰められていて、その上を歩くとザクザクと音が鳴った。玄関前に立つと振り返り、矢馬田は再び辺りを見回した。
「……」
 何も変わった様子がないことを確かめると、玄関の扉に付いている電子キーに暗証番号をプッシュした。ロックが解かれたことを知らせる重厚な音が伝わると、矢馬田は玄関のドアを開けて家の中に入った。終日、カーテンを閉め切ってある家の中は薄暗く、むっとする淀んだ空気がまるで巨大な未知の生物となって、家の中をゆったりと移動した。
 明りを付け、玄関ドアの内側にも付いている電子キーに暗証番号を押した。再び施錠されるキーの重々しい音が、薄暗い廊下の奥へと響いていった。
 リビングに入って明りを付け、コンビニのレジ袋と回覧板をテーブルの上に置き、ダイニングキッチンの換気扇を回した。洗面所で顔と手を洗い、うがいをした。再び廊下に出て、二階に上がる階段の真下に来ると、矢馬田はひざまずき身をかがめた。
 階段の下の床には1メートル四方の樹脂製の分厚い蓋が取り付けられていた。それを上から押さえてある鉄製の細長い板が、両側に固定されてた金具にはめ込まれていて、そこにもナンバーキーの南京錠が施錠されていた。
 矢馬田は、その両側の二つの南京錠を開けると、蓋を押さえていた鉄板を取り外した。それから蓋の取手を引き出して、蓋を観音開きにして開けると、その下から明りが差し上がり、木製の幅の狭い階段が階下にとつながっていた。
「今帰ったよ。ご飯買ってきたから上がっておいで」
 矢馬田は開口部に顔を近づけ、その下に向かって声を掛けた。
「おかえりなさい」
 と、力のない女の子の返事があり、色白の小さな顔がそろりと現れた。
「大丈夫だから、上がってこい」
 矢馬田の呼びかけに少女は頷いて、急な階段に手をつきながらゆっくりと上がってきた。そうして四角い開口部から出した小さな顔は、まるで白粉を塗った舞子のようだった。少女は廊下に立つと、見開いた目の中の大きな瞳をくりくりと動かした。袖の部分に二本の白いラインのはいった緑色のジャージーがだぶついていて、襟元がか細い肩に引っかかっているような着こなしだった。黒々とした艶のある髪をポニーテールにしていたが、か細い腕と脚はその反対に異様なほど青白かった。
 矢馬田と少女はテーブルを挟んで、レンジで温めたコンビニの弁当に箸をつけた。自ら、少女は冷蔵庫から取り出したペットボトルのお茶を、自分のマグカップに注いで飲んだ。それを見ていた矢馬田は、缶ビールの栓を開けて喉を鳴らした。
「教科書はしっかり読んでいるか。分からないことがあったら、ちゃんと聞くんだぞ。学校がいつ始まっても大丈夫のようにしておかないとな」
「うん」
 少女はご飯を口に運びながら、うつむいたまま返事をした。
 矢馬田は、自分がかつて使用していた中学の教科書を少女に渡し、少女はそれを元にして日々、勉強に励んでいた。その中で理解の出来ない項目があると、矢馬田が帰宅した後に、その疑問点のアドバイスを受けていた。
 矢馬田はテーブルの上に置いた回覧板を引き寄せ、二つ折りになっているバインダーを広げた。
『水道管漏水調査のお知らせ』
 調査員が棒状のような器具を使って、それを水道メーターに付き当てて何かを確かめる様子を、イラスト風に描いた水道局からのA4用紙の広報誌だった。同じものが何枚かバインダーに挟まれいたので、矢馬田はその一枚を引き取り、
「……水道に放射性物質や細菌が含まれていないか調査するらしい。家の前にこんな人が来るから、何の心配しなくていいから。音をたてないようにしろよ。わかったか」とチラシを少女の弁当の前に滑らせた。
「あっ」
「なんだ」
 矢馬田はビクッとした。
「このチラシもらっていい?」
「何するんだ」
「メモに使いたいの」
「メモ? ノートがあるじゃないか」
「ノート、汚くしたくないから……」
「そうか、いいよ。どうせ捨てちゃうし」
 少女はそのチラシを手元に引き寄せ、四つ折りにしてからジャージーのポケットに押し込んだ。
 夕食を済ませると少女は、矢馬田のいつもの指示通りに従い風呂に入った。浴槽には湯が入っていたためしがなく、いつもシャワーのみで体を洗った。
 部屋干ししたものを一度アイロンがけし、少し水臭さが残る下着に着替え、ドライヤーで髪を乾かし、また同じジャージを着て居間に戻ると、ソファーに横になっていた矢馬田は、おもむろに上半身を立ててテレビのスイッチを切った。
「シェルターに入って勉強の続きだ。眠くなったら寝てもいいから」
 と言って、矢馬田は廊下の方へ目をやった。
「うん……あのー」
「なんだ」
「学校、いつになったら行けるのかな?」
「まだ当分は行けない。放射能やウイルスで街中が汚染されているんだ」
「……わかった」
 少女は居間から廊下に出て階段の下に行くと、観音開きのままになっている床の開口部から階段を伝って、シェルターと言っている地下の部屋に下りて行った。
  シェルターと言っている地下室は、やや長方形で八畳ほどの広さがあった。フローリングの床から天井までは2メートルほどで、二連型の蛍光灯が天井に取り付けられてある。コンクリートの壁はパステルアイボリーに色付けされていて、そのせいか部屋の明るさは充分に備わっていた。南側の天井下には幅1メートル、高さ10センチの分厚いガラス窓があり、庭と道路向かいの家三軒分ほどの視界がとれていた。その窓は外側から見ると、ちょうど家の基礎部分の位置にあった。
 地下室の階段のすぐ下にはトイレ付きのシャワー室が備えてあったが、シャワー用の水栓は取り外されてあった。シャワー室の脇には木製の二段ベッドがあり、少女はその下の部分を使っていた。シンク付の小さな流し台は部屋の南側の隅にあり、水道だけが使える水栓が一つだけ付いていた。
『核戦争が起きたときに備えて地下シェルターのある家を建ててみませんか』などのキャッチフレーズで、ハウスメーカーが一時期盛んに推し進めた家造りがあった。矢馬田の家はそれに応じて建てられたものだった。
 小さな長方形のテーブルが部屋の真ん中に置かれてあり、背もたれのない木製のイスがたった一つだけ備わっていた。
 そのイスに少女が座ると、テーブルの上に開いたままになっている教科書を閉じた。『中2 数学』の表紙を見つめてからその教科書をひっくり返した。背表紙の下に書かれてある〈矢馬田良晴〉の名前を、しばらくの間見続けていた。それから三角定規とボールペンを手にすると、その名前の部分を二本の線でなぞった。なぞった文字のすぐ上に〈水野結菜〉と書き綴った。
 それから四つ折りにしていたチラシを広げ、何も印刷されていない裏側に、水野結菜はゆっくりと文字を書き始めた。
〈ママへ 結菜は元気です。少しだけ元気です。地下の部屋で一人で勉強をしています。結菜はもう死んでしまったと思っているのですか。
 パパへ 結菜はいまでもパパのことが大好きです。愛菜は元気ですか。放射能は大丈夫ですか。ウイルスは怖いですか。家も学校もみなんなみんなダメになってしまったのですか。ママもパパも死んでしまったなんてうそですよね〉
 階段上の蓋が閉まる音が伝わると、次に鍵がかけられる音が響いた。
 天井を見つめた結菜は、両腕をテーブルの上に重ねると、顔を横にしてその上に乗せた。目を閉じると涙がゆっくりと流れ落ちて、チラシの裏側に書いた文字を滲ませた。
 部屋にある唯一のガラス窓は分厚く黒く、天井の蛍光灯を、まるで海底の奥深くに佇む未知の生物かのように映し出していた。

 西田が運転する作業車のハイエースの助手席に吉岡が乗り、車は『ニュータウン青葉台』二丁目のエリアに乗りつけた。一丁目のエリアの漏水調査はすでに完了していたので、昨日から二丁目のエリアに調査作業を進めていたが、会社からの指示により漏水修理の現場へ急遽出向いていたので、昨日、中途半端にしていた作業箇所からのスタートだった。
 最初に西田が音聴棒を握り、吉岡がチェックリストのバインダーを手にした。
「失礼しまーす! 漏水調査に伺いました。水道メーターを点検していきます」
 西田は、敷地内に入るたびに声を大にして庭先に入って行った。
 最初からそこにあることを知っていたかのように、瞬時にメーターボックスを見つけると、先端が鉤状になっている専用の工具を使って、その蓋を開ける。すかさず音聴棒をボックスの中の水道メーターの本体に突きあて、ジョウゴのような形をした共振板に耳をあてると、わずか三秒程度の時間で漏水音の有無を確認する。
「異常なし」
 西田は傾けていた顔をあげ、音聴棒の先端をメーターボックスの蓋にあてて、その蓋を閉めた。西田の声を受けた吉岡は、バインダーに固定してある住宅地図に目をおとし、地図にある宅地内の部分にメーターボックスの位置を、赤色ボールペンで印を付けた。通称『アテスト』と呼ばれている作業だ。
 こうした一連の作業を根気よく繰り返しながら、各家庭に設置されている水道メーターを確認して行く。
「しかし団地って日中は静かなものですね。どの家も留守なんですかね」
 歩きながら吉岡が西田に声を掛けた。
 一区切りしたところで自動販売機から飲み物を買い求め、日陰のある所に二人は腰を下ろした。
「そうでもないすよ。年寄りが多いんで、耳が遠かったり、俺らに気付いても見て見ぬふりをしてるんですよ。余計なことに関わりたくないんしょ」
 そう言って西田は、ペットボトルのお茶を喉を鳴らして飲んだ。
「あそこの家では、家の中からおばあさんが俺達のことをじっと見てましたよ」
「勝手にひとの家の庭に入ってきて、お前ら何やってんだ、なんて怒鳴ってくる人もいますよ」と西田は苦笑した。
「えっ、そうなんですか。でも漏水調査することは知らせているんですよね」
「調査する区域には事前に、水道局からの広報誌で各家庭に知らせてあるんですけどね。でもほとんどの家がチラシなんか見ても気に留めないんでしょ。人さまの庭先に入ると、まずはメーターボックスの位置を探すので、どうしても頭が低くなるんで、空き巣泥棒に間違われることがあって、気づくと後ろに警察が立っていたなんてこともあるんです」
 西田は凝った肩を交互に上下させて、笑ってみせた。
「空き巣泥棒か……なんかわかります」吉岡も微笑んだ。
「この作業をしていると、いろんなことがありますよ。……さて、次、いきますか」
「次は13番地です」
 吉岡は手にしている住宅地図に目を落とし、西田に声を掛けた。
「了解です。……吉岡さん、交替しましょう。俺がアテストしますから、吉岡さんが音聴棒もってください」
「ええー、私がやるんですか? 出来るかな」
 吉岡は不安な顔を見せて額の汗をぬぐった。
「大丈夫っすよ。昨日、聴いたでしょ? 漏水音の特徴。迷ったときには言って下さい。俺が再確認しますから」
 西田は音聴棒と専用工具を手渡し、吉岡から住宅地図を挟んだバインダーを受け取った。
「よっしゃ、いきましょ!」と西田が気合を掛けた。
 吉岡は、西田のアドバイス通り、
「失礼しまーす。漏水調査をしていきます」と声を張り上げて庭先に入った。きょろきょろと見回し、吉岡がメーターボックスの場所を見つけられないでいると、吉岡さん、あそこです、と西田は庭の隅を指した。
 そこへ歩み寄ると、確かにメーターボックスの青色の樹脂製の蓋が目に入った。
「なかなかそう簡単には見つけられないものですね」
と苦笑しながら、吉岡は手順通りの作業をした。
「……異常なし、です」自信なさそうな声の吉岡に、
「駄目っすよ、吉岡さん。もっと自信もって言ってください」と西田に注意される。
「はい、すいません」
「不安なときは言ってくださいね。一人より二人で確認した方がいいに決まってますから」
「わかりました。そうします」
「次は石川さんです」
「はい」
「今の君島さんの家は区画の隅にあるんで、道路側の方にメーターがあるんです。東側の道路の配水管から引き込まれているんです。その隣りの石川さんは南側、家のすぐ前の配水管からきていますから、庭先にあるか、庭の入り口付近にあることが多いんですよ。ほら、そこです」
 西田は吉岡の足元を指した。
「なるほど」
 吉岡と西田の呼吸もぴったりと合い、漏水調査の作業は順調に続いた。
「おじゃましました」
 二人が庭先から門扉を開けて道路に出ると、二人の警察官が立っていた。
「えっ?」と吉岡が驚く。
「あちゃ」と西田が苦虫を噛む。
「申し訳ありません。団地の住民の方から通報がありましたので、一応、確認に来ました」
 三十代半ばの警察官が敬礼をする。もう一人の二十代の若い警察官は、目を吊り上げて顔を強張らせている。
「申し訳ありませんが、今どういった作業をしているのですか?」
 三十代は完全に疑いの目をかけている。
「水道の漏水調査です。水道局からの委託業務です」
 西田は、首に掛けている身分証を二人の警察官の目の前にかざした。
「漏水調査ですか。で、住宅の敷地内に入るという行為は、どういった作業をされるのですか?」と三十代だ。
「各家庭の水道メーターに、この音聴棒をあて、音を拾いながら漏水箇所を探してます」
「なるほど、その棒で。おん、なんでしたっけ」
「音聴棒です」
 順調だった作業を中断されて、西田は少し苛立った口調で応えた。
「その身分証、ちょっとお借りしてもよろしいですか?」
「どうぞ」と西田は身分証を首から外すと、三十代に手渡した。
「木村設備工業株式会社、西田智也さん、がおたくさんで間違いありませんね」
 身分証と西田の顔を交互に見ながら、三十代警察官が質疑した。
「そうです」西田が面倒臭そうに答えた。
「水道局工務課、景山裕二、さんが責任者てすか。ちょっと確認させていただきますね」
 そう言うと、もう一人の二十代警察官に身分証を渡した。受け取った二十代は、現在地から二十メートルほど離れた場所に停めていたパトカーへ足早で向かった。
「もう一人の方は?」
「吉岡康弘です。私の身分証も必要であれば」
 吉岡が首から身分証を外そうとすると、
「いや、結構です。西田さんの身分証だけで大丈夫です」
 と三十代が右手をひろげて制止した。
「もうすぐ五月ですものね……日差しが強くなってきましたから大変でしょう。一日ずうっと歩いて調査されるのですか?」
「そうです……ところで自分ら何て通報されたんですか?」
 西田は、おそらくそうであろうと分かっていたが、あえて訊いてみた。
「うーん、下着泥棒です」
「えっ、空き巣じゃなくて、そっちかい」
「長い棒のようなものを持って、庭先に入っている人が二人いて、盗んだ下着をポケットに入れました、との住民からの通報です」
「あちゃー」
 西田が頭を掻くと、吉岡がくすっと笑い、ズボンのポケットから汗拭きに使っているタオル地のハンカチを取り出して見せた。
「あっ、なるほど」三十代が頷いた。
 二十代が小走りになって、三人のところへ戻って来ると、
「間違いありませんでした。水道局の担当者の確認もとれましたので、水道の漏水調査で間違いありません。ただ……」と言葉を濁した。
「ただ?」と三人が同時に、二十代を見つめた。
「局の担当者である景山さんが、本当に下着を盗んでいないか、持ち物をチェックして下さいとのことでした」
「嘘だろう! 景山係長、なんてこと言うんだよ、本当に。冗談きついよね」
 西田は、冷や汗なのか、ただの汗なのか分からない汗をぬぐった。
「ご迷惑をお掛けしました。お仕事ご苦労様です」
と敬礼して、二人の警察官はパトカーに戻って、その場から離れて行った。
 吉岡と西田は気を取り直して、再び漏水調査の作業を続けた。
 午後になってからの日差しは一段と強く感じられたが、時より吹き抜けていく風は冷たく心地よいものだった。
 北側の道路に面した住宅の水道メーターは、道路からわずかな距離にあって、玄関前か駐車スペースに設置されていることが多く、それゆえ住宅敷地内の南側の庭に入る必要はなかった。当然、作業のペースは上がった。
「んっ?……」
 音聴棒を耳にあてた吉岡が、何かの音を捕らえた。
「西田さん、これ何の音ですかね?」
 音聴棒の共振板から顔を離した吉岡は、西田に確認してもらうために、メーターボックスの中に差したままの音聴棒を手渡した。
 すぐに共振板に耳をあてた西田は、
「……んっ?」と目が虚空をさまよう。
「コンコンとかガラガラと音が聴こえませんか?」
「ウォーターハンマーかな?」西田は顔をあげて周囲を見渡した。
「ウォーターハンマー?」吉岡は首を傾げた。
「水道管の中に空気が溜まり、急激な圧力がかかったりすると、コンコンとかカンカンと音が聴こえることがあるんです」
「へえー、また難しい現象があるんですね」
「あれだな。吉岡さん、あれですよ、きっと」
 吉岡は西田の指さす方へ目をやった。
「あそこの角の家で、車を洗ってるじゃないすか」
「ダンプカーじゃないですか。えっ、こんな住宅地で……」
 吉岡は驚いた表情をみせた。
「かなり大量の水を使っているじゃないすか。そうすると水道管を伝って音が共鳴してくることがあるんです。これじゃ作業に支障をきたしますので行って協力を求めましょう」
 西田は音聴棒を吉岡に渡し、区画の角の家に向かって歩きだした。慌てて吉岡もついて行く。
 二階建ての比較的大きな家で、宅地の西側から南側の庭半分を駐車スペースにしてある。そこへ大型ダンプカーを停めて、その住人と思われる大柄の男が大量の水を使って車を洗っていた。当然、ダンプカーは駐車スペースからはみ出していて、路地幅の半分以上を塞いでいた。大柄でやや太った六十代の男はスキンヘッドだった。
 ホースから勢いよく出ている水道水は、洗剤の大きな泡とともに路地を水浸しにして側溝の格子蓋に流れ込んでいく。
「西田さん、大丈夫ですか? なんか怖そうですよ」と怯む吉岡に、
「そうですね、ちょっとやばいすよ。でも、ちょっと水道とめてもらうだけですから……」
 西田は自分に気合を入れるようにして言った。
 近づく二人に気付いたダンプカーの男は、突然、縄張りに侵入してきたものを威嚇する動物のように口をゆがませて、太った体をのけぞらし、ホースから出る水をダンプカーのボディーへ忙しなく掛け回した。
「せ、せ、洗車中、申し訳ありません」
 みせかけだよ、こういうやつは、と自分に言い聞かせてみたが、びびってしまったことに西田は、一瞬悔やんだ。
「なんだお前ら」と男は睨んだ。
「水道の漏水調査をしている会社のものなんですが、ご主人が多めに水道を使われていますと、その音が遠くまで入ってしまうんです。先に、ご主人の家のメーターを検査していきますので、一度水道を止めていただけませんか。いえ、ほんのわずかな時間で済みますから」
「漏水調査? そんなの聞いてねえぞぉ」
と男は洗車する手を止めない。
「事前に、水道局の広報誌で調査の案内をお知らせしてあるんですが」
 怯むな、と西田は自分を鼓舞する。
「俺のところは漏水なんかしてねえよ。お前ら水道局の人間じゃないだろうが」
「水道局から委託された会社です」西田は身分証をかざした。
「ふーん、で、なに調査していくんだ」
「水道メーターにこの音聴棒で、音を確認していくだけです」
「ふーん、メーターならそこの犬小屋の脇にあるよ」
 指さした男の薬指には、大きなサイコロのような金の指輪がはめられていた。
「ワンちゃん、いますよね」
と吉岡が犬小屋を覗いた瞬間、うわんうわんと犬が飛び出してきた。雑種の大型犬だった。
「すいません。ワンちゃん抑えてくれませんか」西田が怯まずに言った。
「ちっ、めんどくせぇなぁ」
 男はホースを捨て、庭に入り、ガーデンパンの水栓柱の蛇口を閉めた。それから吠えまくる犬の首輪の紐を手に巻き、少し離れた場所の庭木に縛りつけた。
「早くしろよ。忙しいんだからよ」
 吉岡と西田は庭に入り、メーターボックスの蓋を開けた。
「んっ? ご主人、水道止めてあるんですけど、水道使ってましたよね」
 水道メーターの先に付いてるバルブが閉じられていることに気付いた西田が男に確認した。
「あーん、ポンプだよ。井戸ポンプ使ってんだよ。ほれ、庭のあそこにポンプがあるべぇ」
 男の金の指輪が光った。どうせメッキだろう、と吉岡は思った。
「井戸?」西田が確かめようと踏み出したが、うわんうわんと再び吠えまくる犬に遮られて、井戸があるという所まで行けない。
「吉岡さん、出ましょ。ここは明日にしましょ」と訳ありの顔をみせた。
「ご主人、異常ありませんでした。お邪魔しました」
 西田は帽子をとって、深々と頭を下げた。
「だからなんでもねえって言ったろう。邪魔しやがって」
 男は蛇口をひねって水を勢いよく出し、またダンプカーを洗い始めた。
「吉岡さん、一旦、作業車まで戻りましょう」
「作業中止?」
「中止です。盗水です」西田は口元を手のひらで隠し、吉岡に囁いた。
「えっ? 今の家ですか」
「おそらく、九十九パーセント、間違いないっす……」
 西田は強く唇を噛んだ。
                                                                                                                                 
 食パンとオレンジジュース、牛乳やインスタントのコーンスープのときもあり、それに目玉焼きにウィンナーを添えた簡単な朝食を、結菜は矢馬田と毎朝いっしょにとっていた。
 その朝食を終えると、矢馬田の指示に従い、結菜はいつもの通りまた地下シェルターに入った。
 地下室に下りるとすぐに結菜はのぞき窓の所へイスを持って行き、それに上がると、出掛けて行く矢馬田の車を見送った。
――春なんだ……。
 殺風景な庭が目の前にあった。それでも道路を挟んだ向かいの裏庭には、ハナミズキが沢山の白い花を咲かせていた。
 のぞき窓の近くには太さが十センチほどの切り株が残されており、その根元から伸びた小さな枝には、先端が棘になっている緑の小さな青葉が二枚付いていた。
――クリスマスケーキの上についてる葉っぱに似ている……ママとパパと愛菜と、またいっしょにケーキ食べたいな。
 結菜は微笑んだ。
 この家に連れてこられてから一歩も外に出ることはなかった。全国にある原子力発電所がテロにより破壊され、日本全土が放射線物質で汚染されしまい、さらには新型のウイルスにより多くの人々が死んでいる、というのが矢馬田からの説明だった。
 あの日から何年が経ったのだろうかと、結菜は指を折ってみた。そうして、あの日の出来事を結菜は鮮明に覚えていた。
 家族四人で出掛けた買い物。スーパーの中でちょっと気になったお菓子のパッケージに気を取られ、家族と離れてしまった。大好きなパパは、スーパーに隣接するゴルフショップへ行っていて、家族とは別行動をしていた。
 見知らぬ若い人に声を掛けられた。「パパが向こうで結菜ちゃんを呼んでるよ」の言葉につられて、スーパーの店内から外に出てしまった。見知らぬ人だったが自分の名前を知っていたので、パパの知り合いの人かなと思い込み、ついその言葉を信じてしまった。突然、後ろから抱きかかえられ、顔を男の胸のあたりに押さえつけられて、とても声を出すことが出来なかった。
 車の後部座席に降ろされ瞬間、体全体をすっぽりと袋に入れられ、その上から両足を縛られた感覚があった。今まで経験のしたことのない恐怖感に体を激しく震わせるだけで、声ひとつ出すことが出来なかった。どのくらいの時間を走ったのかも恐怖のあまり記憶に残せなかった。車が止まり、袋に入ったまま抱え上げられ、車のドアが閉まる音、部屋の扉の閉まる音、階段を引きずるようにして下ろされた。縛られた紐が解かれ、覆いかぶされていた袋がとられ、薄暗い部屋の二段ベッドの下に寝かされ、ガタガタと体を震わせていると、突然、部屋の灯りが点いた。そこには目の前に立つ男の姿があった。スーパーで声を掛けられた男だった。掛けているメガネに蛍光灯の光が反射していて、薄ら笑いの表情がさらに恐怖心を煽った。
『お、お、お願いします。パパとママのところへ連れていってください』   
 やっと出た言葉。
『ダメだ。今日からここがお前の家だ』
『やだやだやだあ!』と泣きじゃくり、男の脚にしがみついた。
『これから核戦争が始まる。お前のパパもママも死ぬ。家族も友達もみんな死ぬんだ。俺はお前を救ってやったんだ』
『うそだ。そんなのうそだ。お願いだから結菜を家に帰して』
 声を出して泣いた。泣き続けた。男は階段を無言で上がって行き、階段の上の蓋を閉めた。それから何時間泣き続けただろうか。泣き疲れて眠ってしまい、目が覚めた時には目の前に、サンドイッチとジュースが乗せられたトレーが置かれてあった――。
「ママ……パパ……愛菜……会いたいなあ……」
 結菜の目から大粒の涙がフローリングの床にこぼれ落ちた。
「……」
道路を挟んだ向かいの家に、長い棒を持って何かを調べに来た二人の作業員の姿が、結菜の目に飛び込んだ。
――何を調べているんだろう……。 
 結菜は、昨日の夜にメモとしてもらったチラシを思いだした。届く希望もない家族にあてた手紙を、その裏に書いていた。イスから降りテーブルの上のチラシを手にした。
――水道管漏水調査のお知らせ……。
 結菜はテーブルの上の国語辞書をめくった。
《漏水・水道管などがこわれて水が漏れだすこと。また、もれた水》
――水もれのこと?……。
 結菜は、またイスに上がってのぞき窓から外を見た。その二人の姿を確認するとイスから飛び下りて、流し台の蛇口を捻った。勢いよく出た水が水しぶきを飛ばして床に散った。結菜はまたイスに上がり外を見た。長い棒の先を耳にあてている人が、斜めにした顔でこっちを見た。その顔を上げてこっちを見た。もう一人の人もこっちを見てキョロキョロしている。結菜はまたイスから飛び降りると今度は、歯磨き用のコップを手にすると、それで蛇口のハンドル部分をコンコンと何度か叩いた。そうして再びイスに上がり外を見る。すると二人の作業員が何かを話し合っている姿があった。
――きっときこえるんだ。音がきこえるんだ。
 結菜は再び流し台の所に行くと、コップで何度も蛇口を叩いた。またイスに上がって外を見た。すると二人の作業員は、何かを話しながらその場を離れて行った。
――あっ、えっ、お願い、気づいて。結菜ここにいるの。誰か助けて……。
 結菜は天井を気にしながらも、分厚いガラスで出来ているのぞき窓を、心の中で叫びながらこぶしで何度も叩いた。

 西田は作業車に戻るとすぐに、スマートフォンで水道局の景山へ連絡をとった。
「木村設備の西田です」
〈ご苦労様です。下着は何枚確保しましたか〉
「係長、冗談きついすっよ」
 電話の向こうから笑い声が聞こえてきた。
「景山係長、盗水です」
〈ほっ、漏水じゃなくて、盗水ですか。まだそんな不届き者がいるんですね。西田さん、すぐ逮捕してください〉
 西田はため息をつき、
「分かりました。今ほどの警察官を呼び戻して、すぐに逮捕します」
 と真顔で応じた。
〈了解です。よろしくお願いしますって、西やん、住所と名前!〉
 やっと真面目になってくれたかと、バインダーに挟んだ住宅地図に目をおとした。
「青葉台二丁目15のXX、田中さん、です」
〈了解――いまデータを取り出してみますからね。ちょっこらお待ちを〉
「水道局の方で、何か調べているんですか?」
 作業車の助手席に座っている吉岡が、スマートフォンを手にしている西田にそっと声を掛けた。
「おそらく水道の使用量を確認しているんですよ」
 西田はスマートフォンを遠ざけて囁いた。
〈現場状況はどうです?〉水道局の景山の声が入った。
「丙止水栓は閉じてありました。ダンプカーを自宅前でジャブジャブ洗ってます。本人は井戸ポンプを使っていると言うんですけど、たしか団地は、井戸は禁止されているはずです。井戸ポンプだなんて嘘ですよ」
 西田は自信ありげに報告した。
〈たなかまさゆき、さんですね。閉止していたメーターを五年前に契約しているね。おそらく中古住宅を買ったんでしょう。最初の一年間の二か月分の平均使用量は、おおよそ六十立方前後で――えーと、二年目から三十前後に激減しているな――直近の使用量は二十三。うーん、ちょっとあやしいなぁ――西やん、家族構成わかります?〉
「いや、奥さんらしき人が家の中にいるようですが、家族構成までは確認できませんね」
〈了解です。現場より少し離れた場所から引き続きロウチョウを続けて下さい。局の方で、これから張り込みます〉
「了解しました。あとはよろしくお願いします」
 西田はスマートフォンを切った。
「やっぱり盗水ですか……」吉岡の問いに、西田は頷いた。
「今の使用量からみて、まず間違いないですね。水道局の方でこれから監視するそうです。家族構成で、ある程度の使用量が分かるんですよ。水道料をごまかすと下水道料金もごまかすことになるんです。完全に犯罪すよ」
「下水道?」
「水道を使うと、排水となった水は下水管に流れるしょ。それで水道料金と同時に下水道料金が決まるです」
「なるほど、そういうことか。でも家族構成は、同じ役所なら市民課とかに問い合わせすればいいんじゃないですか?」吉岡は眉を寄せた。
「役所だからといって別の課の情報はどうなんでしょうかね。個人情報とかで、そう簡単には出来ないんじゃないすか。警察だったら別なんでしょうけど。とにかくこの区域から離れましょう。あのダンプカーの洗車はまだ続くようですし、その音が共鳴すると正確な漏水音を聴き洩らしたりしますからね。俺らを警戒して盗水の隠ぺい工作をしでかすかもしれないんで、後は水道局へ任せましょう」
 西田は作業車のエンジンをかけ、その場からゆっくりと移動し始めた。
「それに警察沙汰になったら、俺らやうちの会社を逆恨みされるかもしれないんで、俺らの顔や名前、それに会社名なんか曖昧にしておいたほうが無難なんです」
「へえー、そういうことなんですね……」吉岡はしきりに感心した。
「吉岡さん、団地の自治会館に行ってトイレ休憩しましょう」
 団地住民が集会や催し物などで使用する建物で、青葉台のほぼ中央にあり、すぐ脇には広い公園が兼ね備えてあった。
 その場所にはすぐに着き、会館の駐車場に作業車を乗り入れた。
 自治会館の建物へ向かって歩いて行くと、玄関前の外に設置されている掲示板に掲示物を貼っている年配の男性の姿があった。
「こんにちは、トイレお借りします」
 西田がその男性に声を掛けた。
「はい、どうぞ」と男性が振り向いた。
「こんにちは」吉岡が頭を下げた。
「あぁ、漏水調査ですか。ご苦労様です」
 掲示物を貼るのために屈めていた体を起こすと、ひょろりとした背丈のある七十歳前後の人だった。えっ? と西田が苦笑いをした。だからか。
「吉岡さん、音聴棒」吉岡が右手に音聴棒を握っていた。
「あっ、トイレに行くのに、これ必要ないですよね。つい持ってきちゃいました」と吉岡も苦笑いをした。
 自治会長の伊藤です、と名乗った年配の男性は、
「漏水調査の広報誌もこの掲示板に貼ってありますよ」
と掲示板を指さした。
「ありがとうございます。そうしてもらえると助かります」
『漏水調査』とプリントされた腕章を付けていたということもあるだろうが、自分たちを調査員とすぐ見分けることが出来た訳が、西田には理解できた。
「えっ、もしかして、これは五年前の事件ですよね。まだ解決してなかったんだ……」
 自治会長が今まさに貼りつけているチラシを見て、吉岡は驚きを見せた。
「昨日かな、その当事者の父親がきましてね、このチラシを各家庭に配ってもらえないかと、ここへ訪ねてきたんですよ。いや配るといってもね、一軒一軒配るわけにはいかないので、各班長さんのところへ持って行って、それから回覧板にして各家庭にお知らせするんです。しかし、事件が未解決だったとは驚きましたね。親御さんにとってはいたたまれないでしょう。そのお父さんもかなり焦燥しきっていましたし、本当に気の毒なことです……」
 自治会長の伊藤は顔をしかめた。
 用を足した後、吉岡と西田は作業車に戻り、冷たい飲み物を口にして休憩をとった。
「スーパーの店長をやってたって言いましたよね。あの少女失踪事件、昨日漏水修理で行った中町店で起きた事件なんです」
 吉岡は額の汗をタオル地のハンカチでぬぐった。
「ええっ、そうだったんすか……それじゃ犯人を吉岡さんが見ているという可能性もあるんですよね」
 西田はペットボトルのお茶を喉に流し込んだ。
「警察にはかなり絞られましたよ。なんせ店の外にあった防犯カメラが全部ダミーだったんですもん。事件につながる映像が見つからなかったんです」
「ダミーカメラ? なんで……店内のカメラも?」
「店内のはちゃんとしたカメラでした。外のカメラは経費節約のためにダミーにしてました。ワンマン社長でしたから、従業員の意見なんか聞く耳を持ちませんでしたね」
「外のカメラが本物だったら、なにかしら事件につながる映像が残っていたかもしれないっすね。もしかして犯人はそのことを知っていたかもしれなしい、とか……」
「どうですかね……誘拐されたのか、事故だったのか。たとえば駐車場で車に轢かれてしまって、その事故を隠すために、そのまま連れ去られたとか……」吉岡は眉間に皺を寄せた。
「駐車場で事故があったら目撃者があったんじゃないすかね」
「そうなんです。でもまったく目撃情報がなかったと、後で警察から聞きました。だから防犯カメラだったんですよ。ダミーでなかったらと……」
 吉岡は大きなため息をついた。
「身代金の要求なんていう電話もなかったんですか?」
「なかったみたいです」
「いやー、もう殺されて、どこかに埋められてしまったんじゃないすか。五年前でしょう」西田は、への字にした口を吉岡に向けた。
「まだ未解決とはね……あの日、何があったのかと……」
 当時、店長だった吉岡の心境は、その事件は迷惑そのものであった。幼いひとりの少女が行方知らずとなった深刻な状況にあったにもかかわらず、店長として生き残れるかの瀬戸際に追い込まれていて、その事件どころではなかった。どうして俺のこの店で事件なんだよ。そんなことに関わっている場合じゃないんだ。連日、警察による聴取に“スーパーうみやま”中町店の吉岡店長は、苛立ちをあらわにしていた。
 大型スーパーとのし烈な価格競争の日々が続き、徹底的な経費節減に最低仕入れ原価の確保といったものが、社長からの指示命令だった。少しでも売り上げが落ち込むと、賞味期限の偽造に産地偽造といった指示が連日、各店舗へ執拗なほど繰り返されていた。常軌を逸脱した社長の命令に、良心と保身の狭間に立たされた他店の店長二名が、心神喪失のまま“スーパーうみやま”を辞めていった。
〈他のスーパーに負けるわけにはいかないんだ。“スーパーうみやま”は昔からこの街でやってきたんだ。地元のために、地元住民のためにだ。給料だって減ってないだろう。ボーナスだって毎年出している。競争に負けて“スーパーうみやま”がなくなってしまったら、従業員やパート、アルバイトまで、みーんな働くところがなくなっちゃうんだぞ。家族もいるし、お金もほしい。当たりまえのことをちまちまやっていたら店はなくなっちゃうんだ。それでいいんだったら、内部告発でもチクってもいいぜ。たいした正義ぶって自分の首を絞めたいと思うんだったらやればいい。今の自分たちの生活を失ってもいいのか?〉
 捨て台詞としか思えない“スーパーうみやま”の社長の言葉だった。
 結局、その三年後に“スーパーうみやま”は倒産した。パート従業員の内部告発だった。当然、吉岡は職を失った。賞味期限や産地偽造などにより倒産してしまったのは、自分だけのせいではないものの、吉岡は家族からの批判を受けた。判が押された離婚届の用紙を差し出され、妻は年老いた両親のいる実家へと去って行った。「次男坊」と結婚した長女の家にも、時々転がり込んでいるとも聞いていた。弟である長男は、恥ずかしくて地元には帰れないと、その時から一度も帰郷することはなかった。
 家族のためにと、今まで必死に働いてきた自分はいったいなんだったのか。休日も返上し、時間を惜しんで働き詰めだったスーパーでの就労の日々に、何らかの資格を取得するといった行動は不可能だった。万が一のためにも資格の一つや二つは取っていたほうがいいじゃないかと、再三、妻に言われていたのだが、やれなかったのか、やらなかったのかと、吉岡は後悔するばかりだった。そうして職場を失った失意の中、自問自答を繰り返す日々を過ごした。
 ハローワークでの職場探しに専念するものの、五十半ばで、さらに何らかの資格の持ち合わせのない吉岡の再就職は、本人の希望する条件を優先してはなかなか見つかるものではなかった。介護施設の求人はかなりあったものの、就労時間に対しての給与はどれも首をかしげるものばかりだった。二度と働きたくないという強い意思があったにもかかわらず、これといった就職先がみつからない以上、妥協せざるを得なかった。今までの経験を活かされるかと大手スーパーのパートとして働いたものの、自分よりかなり年下の正社員からのパワハラは想像を遥かに超えるものだった。長く経験してきた鮮魚の包丁さばきに対しても、なにかと難癖を突き出してきた。鬱気味になり、二週間たらずで辞めた。
 夜間警備員、物流センターでの荷受け品出し、建材資材会社での配送係りと、アルバイトで生計を維持する独り暮らしの日々を送った。慣れない仕事を終えて帰宅する2LDKのアパート借家は、狭いながらも家族四人が肩を寄り添い長く暮らしていた家だった。疲れ果て、部屋の灯りも点けず居間の床に倒れ込んだ。
「で、うちの会社の求人募集にたどり着いたという訳ですね」
 漏水調査の現場から会社に戻って、書類整理をしていた西田が相槌をうった。
「この仕事も大変ですね。一日中歩いているんだから、今日も足パンパンです」と吉岡は両脚のふくらはぎをさすった。
「決定したよ! 盗水だ。西やん、お手柄だ」
 事務所の奥のデスクで電話を受けていた木村社長が立ち上がった。
「吉岡さん、盗水すよ。やっぱりね」と西田は人差し指を鉤形にした。
 他の社員たちも、おおー! とか、やったね、と声をあげた。
「ダンプカーの旦那に、その妻。長男とその嫁とおぼしき二人に連れられて、小学生の男の子と幼稚園児の女の子が家に帰って来た。計六人家族だ。この家族で毎月の水道使用量は、どう計算しても矛盾している、と水道局工務課、景山係長様のお裁きでござる」
 木村社長が少しおどけながら社員たちのところまで歩み寄った。
 鬢(びん)のところに少し白いものが混じりだした今年ちょうど五十になる長身の木村社長は、木村設備工業の二代目だった。
「それで、これからどうするんですか?」
 吉岡は、西田とも社長とのどっちつかずといった表情で訊いた。
「げんちょうかな」と西田が答えた。
「げんちょう?」
「現地調査のことです。明日、水道局の職員が現場に行って、盗水の証拠を掘り起こします。まあ必ず揉めごとになるので警察にも同行を要請すると思うけど」 
 木村社長が吉岡に説明した。
「井戸ポンプは完全にダミーすよ」
 西田はボールペンの先っぽを噛んだ。
「ダミーか。下らんことをしやがる」と社長が顎をさすった。
「すんません。ダミーは禁句でしたね」
 西田は吉岡を見て言った。
「なんだ、ダミーがどうしたって?」と社長が怪訝な顔をした。
「社長、覚えてます? 五年前に起きた少女失踪事件」
「少女失踪事件? うーん……どこかのスーパーであったやつかな? 突然、女の子がいなくなっちゃったていう事件?」社長が首ひねった。
「そのスーパー、吉岡さんが店長していた、あの中町店だったそうです」
「なぬー!」社長が大げさに驚いてみせた。
「あの事件、未解決のままだったんですって」
「なぬー、そうなのか? 吉岡さんは知ってたんですか?」
「いえ、もうとっくに解決していたと思ってました」
 西田は、その当事者である少女の父親が、ニュータウン青葉台の自治会館へ事件の情報を得ようと、チラシを持ち込んだことを社長へ話した。
「そっかぁー、ダミーカメラだったのか。それは悔やむよね、吉岡さん」
 木村社長が腕を組みこうべを垂れて「それはだみーだ」と洒落を言った。
「社長、ダジャレはやめてください。しょっちうやるんですから。それって前頭葉にブレーキがかからなくなったおやじに共通するものなんですって。テレビでやってましたよ」西田がにやけた顔をして言った。
「そっかぁ、前頭葉かぁ……」と木村社長は額を手のひらでパチンと叩いた。

 信号まちをしていた矢馬田は、下腹をさすりながら顔をしかめた。
「冷たいもの、飲みすぎたかな……」
 仕事を終えて帰宅途中に、いつものコンビニで夕食の弁当を買い求めた。そこで用を足してくればよかったと後悔し、赤信号がやけに長く感じられた。
 団地の緩やかな坂道をフルスピードで駆け上がり、二丁目の角を曲がり、15番地の路地にさしかかると白い乗用車が停まっていた。車内には二人の男が運転席と助手席にと乗っていた。矢馬田は、その車の脇を通り過ぎる時、中の二人の男と、一瞬目が合った。
――何してるんだ? こんなところに停めて……。
 この路地に入ると、たまにダンプカーが家の前に停まっていることがあり、すれ違うことが出来ないので、その場合は路地をひとつ迂回して帰宅していた。今日は停まってはいなかったので、矢馬田は舌打ちをする必要がなかった。
 自宅の駐車スペースに車を入れると、不思議なことに腹痛が消えてしまった。今までの痛みは何だったんだろうかと、ちっ、と舌打ちをした。
 回覧板がいつものように郵便受けに差し込まれていた。それを面倒臭そうに取り、脇に挟んで門扉の鍵を外した。それからいつもの通り、周辺に目配せしながら自宅の中に入った。
 終日、窓やカーテンを閉じたままの家の中は、わずかにカビ臭さが混じり、重くなった空気が淀んでいた。息を止めようと意識はしたものの、その空気を思わず吸い込んでしまった矢馬田は、治まっていた下腹部に再び痛みを覚えた。
 焦り気味になり、矢馬田はいつもの手順で地下室にいる結菜を一階の居間に呼び寄せると、突然、下腹がぐにゅぐにゅと変な音をたて始めた。
「先に食べてていいから」と矢馬田はトイレに駆け込んだ。
 結菜はしばらく心配そうに見ていたが、自分のお腹も鳴ったので、コンビニの弁当をレンジで温めようとして立った。
 ふと、テーブルの上に置かれていた回覧板に目が留まった。またメモになるチラシが挟まっていないかと引き寄せ、二つ折りの回覧板を開いた。
「えっ⁉」それを見て、結菜は釘付けになった。
 すぐに体が硬直し、全身が震え出した。震える両手で回覧板をつかみ取ると、それを顔の前に近づけた。
『この子の情報を下さい 中学生になっています 水野結菜』
 そこには小学四年生の自分の姿があった。顎ががくがくと音をたてた。
「ああーあ!」結菜は叫んだ。
 トイレのドアが勢いよく閉まった音がして、ズボンのベルトを締めながら、矢馬田は慌てふためいて居間に戻ってきた。
「なんだ、大きな声あげて!」
 矢馬田は結菜から回覧板を取り上げて、見た。絶句した。
「……嘘だ。こんなの全部でたらめだ!」
 今度は矢馬田が叫んだ。回覧板を持つ手が震えた。
「嘘はおにいちゃんよ! この家から出して! ママとパパのところへ帰るの、お願い、帰して、帰してよ!」結菜は震える両手を拳にして叫んだ。
「うるさい! 黙れ、騒ぐな!」
 矢馬田は結菜の腕をつかんで引き寄せ、居間から廊下に出て、地下室の出入り口へ連れ出した。そうして強引に地下室につながる階段へ結菜の体を沈め、出入り口の蓋を閉めた。
 鍵穴に南京錠を差し込む音がすると、結菜は内側から蓋を激しく叩いた。
「帰してよ! お願い、おにいちゃん、帰して!」
 結菜の泣き叫ぶ声が、蓋の内側からこもって聴こえてきた。
 居間に戻った矢馬田は、椅子に座ったまましばらく呆然としていた。
 目が吊り上がり、ちっ、と舌打ちをすると、両肘をテーブルにのせ頭をかかえた。次第に息遣いが荒くなり両肩を上下させた。
――いったい俺は何をやらかしてしまったんだ。犯罪なのか? 家に連れてきただけなのに……いや、犯罪なんだろう。どうする、どうする。警察なんかに捕まってしまったら俺は役所を辞めさせられるだろう。何故だよ、何故なんだ。そんなことになったら俺の人生は終わりだ……冗談じゃない。今まで何もバレずにきたんだ。何の問題もない……。
 ゆっくりと頭をもたげた矢馬田は、テーブルの上の回覧板に手を伸ばし、それを手さぐり寄せた。すると結菜の情報提供を呼びかけいてるチラシを回覧板から引き取ると、それをゆっくりと破り始めた。ふたつに破り、重ねて破り、さらに重ねて破ると、不気味な笑みを浮かばせ、右手に持つ紙片を口の中に入れた。さらに左手の紙片をも口の中に押し込むと、矢馬田は笑みを浮かべたまま噛み続け、そうしてゴクリと音をたてて飲み込んだ。
――バレなければいいんだ。バレるわけがない。誰も知らないんだ……証拠をなくせばいいこと。この家からも、この世からも消えてなくなってしまえばいいんだ……もともと消えてしまったんだから……。
「ふっ、ふっふふふふふ」
 矢馬田は小刻みに肩を震わせて笑った。

 ランドセルを背負った男の子が母親と玄関から出てくると「いってきまーす!」と元気よく声を出し、白い門扉を押し開けて、道路で待っていた小学生に混じり学校へ向かって行った。それを見送る母親のもとへ、玄関から出てきた黄色の帽子をかぶった女の子が駆け寄り、笑顔をみせながら何やら会話をしていると、幼稚園の送迎バスがやってきた。そのバスに乗り込んだ女の子は、車窓から母親に向かって手を振り、母親はそれに対してにこやかに応えていた。
「よし、いくぞ」
 バスが走り去り、母親が家の中に戻ったことを確認すると、水道局工務課の景山は、水道局のライトバンに同乗している職員たちに声を掛けた。
 職員たちが車から降りるのを見計らって、水道局の作業車であるワンボックスカーが、青葉台二丁目15のXXの家の前に停止した。するとすぐに、けたたましく吠える大型犬が庭先まで駆け寄ってきた。首輪につながれているリードが張り切れそうになる。
 吠えまくる犬に目をやりながら、景山は門扉の脇のインターホンを押した。
〈はい〉と、そっけない返事があった。
 景山は、つい先ほど子供たちを見送った母親だろうと察した。
「朝早くから申し訳ありません。水道局の者なんですが、田中さん、お宅の水道メーターをちょっと確認させていただきたいのですが、よろしいですか?」
〈――〉応答がない。すると、
〈なんだ、なんだ? 漏水点検だとか検査なら昨日やっていったぞ。なんの問題もねーぞ。朝、忙しいんだから後にしてくれ〉
 ふてくされた男の声がインターホンから放たれてきた。景山は、たぶんこの家の家主だろうと察した。
「お忙しいところ大変申し訳ありません。ですが、田中さんの住居環境と水道使用量があまりにもかけ離れていますので、もう一度、水道メーターを確認しておきたいんです。申し訳ないんですが世帯主の方がご在宅であれば、ご足労をおかけしますがお庭のほうへ出て来ていただけないでしょうか」
 水道局工務課の景山係長が食い下がる。
〈だからなんでもないって言ってんだろう。違う日にしてくれ〉
「お手間は取らせません。ちょっと確認させていたたくだけなんです」
 嘘だった。ちょっとの手間では済まない。
〈じゃ、勝手に見ていけよ〉
「そうしますので、この怖いワンちゃん、なんとかしていただけませんか?」
 今にも首輪が外れそう大きな体を左右前後に揺らし、激しく吠え続ける犬が景山たちの前に立ちはだかっていた。
 インターホンでの会話が途切れてしばらくすると、玄関の扉が開き、スキンヘッドで体躯のがっちりした六十代の男が現れた。
「なんだよ、うるせいなー。なんだっていうんだ」
 男は怒鳴りながら、景山たち水道局職員のところへ歩み寄ってきた。
「申し訳ありません。ご主人の家の水道メーターが壊れてはいないかと、お庭へ入らせていただき確認させて下さい」
 にこやかに話す景山は、また嘘をついた。お前を今からぎゃふんと言わせてやると、心の中で舌を出していた。
「だから何でもねーって言ってるだろう、このアンポンタン。水道メーターは俺がこの家を買ったときに一緒に買ったんだよ」
「すいません。水道寝メーターは水道局のもので、どのご家庭にも貸与しているんです」と景山は怯まない。
「はぁ、たいよ? たいよってなんだ」
「お貸ししているということです。ですから時期がきましたら新しいものに交換しているんです。とにかく確認させて下さい」
 景山たちが門扉を押して庭に入ろうとすると、また犬が激しく吠えまくった。
「その犬をちゃんと向こうへ連れて行きなさい! 犬小屋へ入れなさい!」
 水道局職員たちの後ろにいた二人の警察官の一人が警棒をかざして叫んだ。
 こうした事案は必ずと言っていいほど住人とのトラブルがつきものと承知していた景山は、事前に警察の同行を要請していた。
「げっ⁉」
 どうして警察官がここにいるのだ、という驚きの表情を見せた男は、仕方なく犬のリードを引き寄せて、叱りつけながら犬小屋の中に押し込んだ。それを確認した職員たちは、門扉を押し開き庭の中に入った。すぐさまメーターボックスのある所を取り囲み、青色の蓋を開けてその中を確認する。
「丙止水栓は閉まってます」ヘルメットの職員が確認した。
「ご主人、水道のバルブは閉じていますがどうなされましたか?」
 景山は振り向いて、この家の主人である田中に訊いた。
 この騒ぎに驚き、家の中から家族が飛び出してきた。田中の妻に、長男夫婦の三人だった。全員の体躯の太さに職員たちは驚いた。
「と、トイレのよ、水が止まらないんだ。だからよ、出掛けて行くときバルブを閉めていくんだよ」スキンヘッドをさすりながら、田中は口ごもった。
「そうですか。ここのバルブを閉めたら家の中の水道は全部使えませんよ。トイレのタンクの所にもバルブがあるはずですが。それを閉めるだけでも大丈夫なはずです。修理も簡単ですので、水道屋さん紹介しますが」
「……」田中は、景山を睨みつけた。
「宮本くん、そこの水栓柱(すいせんちゅう)の水を出してみてくれ」
 景山係長は、ひょろりとして背丈のある宮本という部下に指示した。
 水栓柱とは、ガーデンパンとか研ぎ出し流しと呼ばれる屋外に設けられた洗い場に取り付けられた水栓の付いた柱である。高さは1メートルから⒈5メートルで、丸い筒状の物や四角い形状の物がある。家主の田中は、この水栓にホースを差し込み、ほぼ出しっ放しの状態でダンプカーを洗っていたのだ。
 水栓柱の水栓のハンドルを左に回すと水は勢いよく出た。それを確認した景山は、「ご主人、メーターのバルブが閉じているのに、あの水栓柱から水が出るのはおかしいですよね」と、勢ぞろいして不満げな顔をしている田中家の面々に向かって言った。
「……」全員が無言だ。
「高木さん、山崎くん、音聴棒」と景山が指示した。
 職員の高木と山崎は、手にしていた音聴棒をメーターボックスの周囲の地面に突き刺すと、共に共振板に耳をあてた。二人はその動作を繰り返した。
「んっ? これだな」中年太りの高木が最初に、音に気付く。
「そうですね。ここに間違いないですね」次に、若い職員の山崎が景山係長に視線を送った。
「じゃ、ここいきましょう」
 景山係長はスコップを持っている二人の職員へ、自分が立っている足元を指差して、地面を掘るよう指示した。
「な、なにするんだ!」
 慌てた家主の田中は、地面を掘ろうとした職員の腕をつかまえた。
「越権行為になると思いますが、ここの地中に違法と思われる配管がされていると確信しましたので、掘って確認させていただきます」
 景山は家主の田中の前に立ちはだかった。その毅然とした態度に田中は怯み、つかんだ職員の腕から手を離した。
 その騒ぎに気付いた近所の住人たちが、何事かと田中家の敷地を囲みだした。そのそばを一台のワゴン車がゆっくりと走りぬけて行く。吉岡と西田が乗った木村設備工業の作業車だった。

矢馬田は焦げた食パンを口にくわえながら、電子レンジにコンビニの弁当を入れた。昨夜、結菜が口にしなかった手つかずの弁当だった。
 スイッチを入れ弁当が温まるのを待った。
 今朝、目覚めたとき、全身に寝汗をかいていることに驚き、矢馬田は恐怖におののいた。何十人もの警察官に自分が取り押さえられる夢を見ていたのだった。頭や手足を四方八方から引っ張られ、警察犬に腹や太腿を噛みつかれ、大の字になって喘(あえ)ぐ自分の姿があった……。
 温めが完了したことを知らせる電子レンジの音に、矢馬田はビクっと体を反応させ、食べかけていた食パンを口の中に押し込んだ。温めた弁当を手にして、居間から廊下に出て階段下のフロアーハッチの所でひざまずいた。左右の南京錠を開錠すると観音開きにして蓋を開けた。地下室の灯りはなく、のぞき窓から差し込まれたわずかな明りが、フローリングの床を仄かに照らしていた。
「おい、結菜。起きているのか。入るぞ」
 矢馬田は、開口部のすぐ下の壁にあるスイッチを押して、地下室の照明を点けた。そうして弁当を持ちながらゆっくりと階段を下りた。
 ベッドにうつ伏せになって寝ている結菜の姿があった。一晩中泣いていたのか、目の下には隈がくっきりと表れていた。結菜は階段を下りてくる音に目覚め、矢馬田が近づくと恨めしそうな顔で睨みつけた。
「昨夜の弁当だ。もったいないから食べろ。レンジで温めておいたから」
 矢馬田は、結菜が机代わりにしている小さなテーブルの上に、レンジで温めたコンビニの弁当を置いた。
「おにいちゃん」結菜のしゃがれた声だった。
「なんだ」
「お願いだから、結菜こと、結菜の家に帰して」
「だめだ」
「どうして……一度帰してくれたら、わたしここへ戻ってくるから」
「だめだ」
「ママもパパも結菜こと、まだ探しているんだもん」
 結菜の目から涙がこぼれた。
「あのチラシは偽物だ。誰かのいたずらなんだよ!」
 矢馬田の語気が荒くなった。
「じゃぁ、電話だけでもさせて」
「駄目だ! 何度言ったら済むんだ。俺は今から出掛けてくる。いいからこの弁当を食べておとなしくしていろ!」
 語気を荒上げ、矢馬田は蹴るようにして階段を上がって行った。
 観音開きになっているハッチの蓋をもとに戻すと、蓋に押しあてている細長い鉄板の両端の南京錠をしっかりと掛け、鍵のピンが抜けないことを確認した。それから身支度を整えて自分の部屋を出た。いつもの出勤する背広姿ではなく私服だった。
 玄関のドアを半開きにして、矢馬田は外の様子を確かめると、急ぐようにして車に乗り込んだ。ジャケットのポケットからスマートフォンを取り出し、役所へ電話を入れた。警備会社の当直者に自分の部署名と名前を告げ、食あたりをして下痢の症状が著しいので、今日は休みを頂きたいとの旨を伝えた。
 ちっ、と舌打ちをしたとき、パトカーがゆっくりと目の前を通り過ぎた。まるで電気が体に流れたように、矢馬田は驚いた。エンジンもかけずに車内にいた矢馬田は、パトカーの行き先を目で追った。その先の路地の角に数台の車が停まっているのが見えた。パトカーはその手前で停まった。
―― 時々、ダンプカーが駐車していてじゃまだと思っていた家のところじゃないか……誰か通報でもしたのか?
 ちっ、と矢馬田はまた舌打ちをして、エンジンをスタートさせた。そうしてパトカーの停まっている方向とは反対方向へハンドルを切って、家の駐車スペースから出て行った。

 漏水調査の作業を続ける吉岡と西田は、午前中の休憩をとっていた。その西田のスマートフォンに、会社の木村社長から連絡が入った。
〈局から連絡があったよ。完了したって。西やん、ひょう!しょう!じょう!だって。ははーん〉
「本当ですかぁ?」西田がにやけた。
〈止水栓の手前からチーズどりしていて、バイパス配管していたようだ。井戸ポンプはやっぱりダミーだったようだ。当然、配管もしてないし突き井戸もなかった。もちろん井戸なんか掘っちゃ駄目だけどな。あとな、もの好きな刑事がいてな、西やんたちの作業を一度みたいといってな、そっちの現場に行くかもしれないんで、まあ、適当に相手してやってくれ――〉
「バイパス配管?」
 社長からの電話の内容を、西田は吉岡へ説明した。
「メーターの手前に止水栓があるっしょ。なんて言いましたっけ」
「丙止水栓」吉岡は即答した。
「ピンポン、正解すっ。その手前からチーズ取りして」
「チーズ?」
「食べるチーズじゃないす。丁字形した継手のことです。ティーの複数ティーズがチーズになっちゃったんでしょうね、分岐する、の方が分かりやすいかな? 分岐したパイプをメーターのすぐ脇を通して、つまりバイパスを作ってメーターを迂回する配管をするんです。そうして丙止水栓を閉じると水道はメーターを通らずに、バイパス配管を通って家の中の水栓箇所に到達するという訳で、これが典型的な、トウスイです」
「なるほど……でも、そんな簡単に工事が出来るんですか?」吉岡は首を傾げた。
「誰でもという訳には、でも水道の知識があればそう難しいことはないです。あのダンプカーのおじさん、若いとき水道屋で働いていたそうでから、水道の知識はあったようです。それに今は、塩ビ管も継手もホームセンターで売ってますからね」
「でも、バイパス配管する時、水道を止めなくては出来ないじゃないですか」吉岡はさらに疑問を呈した。
「第一止水栓、つまり乙止水栓を止めればいいんすよ」
 西田は額の汗を拭いなから、ペットボトルを口にした。
「配水管から分岐した給水管の途中にあるバルブですよね。道路の深いところにあるバルブでしょう? 手が届かないじゃないですか」
 吉岡も首の汗をタオル地のハンカチで拭った。
「開栓器という工具を使うんです。この間、漏水修理で使ったじゃないすか。その工具も物置の中にあったようです」
「ああ、あの丁字形の工具ですね。……逮捕されるんですかね」
「どうですかね、書類送検とか……あっ、社長言ってましたけど、刑事が俺たちの作業見たいって、ここへ来るみたいすよ」
「刑事?」吉岡が素っ頓狂な声をあげた。
「音聴棒に興味があるみたいっす。ダンプカーのおっちゃんの盗水の件で、漏水調査に興味を持ったらしいっす。なんでもうちの社長の高校の同級生らしいです」
「へえー、同級生に刑事さんがいるなんて、ちょっと心強いですね」
「吉岡さん、盗水の現場も一件落着しましたんで、あのエリアに一旦戻りましょう。やっておかないと調査個所をうっかり飛ばしてしまうことがあるんで」
「そうなんですか。それじゃ戻りましょう。確か15番地の半分と16番地でしたよね」
「そうすね」西田は住宅地図を見て確認した。
 昨日、調査作業中に盗水の疑いありと判断して、漏水調査を中断していた箇所へ戻った二人は、改めて作業を開始した。
「15の○○、下村さんです。昨日はここまで来て中断したんですよね」
 吉岡は表札を見て確認した。
 メーターボックスは敷地内の駐車スペースの隅にあった。専用の工具でその蓋を開け、音聴棒の先端をメーター本体に突き差し、共振板に耳をあてた吉岡は、音聴棒を通して入ってくる音の有無を確かめた。漏水らしき音が入ってこないと単調な作業が続く。真夏を思わせるような強い日差しが、作業をつづける二人に容赦なく降り注いでいた。

 ホームセンターの駐車場に停めた車から降りた矢馬田は、強い日差しに目を細め、ちっ、と舌打ちをして足早に店内へ入って行った。
 青葉台の家を出てから最初のホームセンターで買い求めたのは、先端が尖っている剣スコップ一本と布テープ5個だった。そこからさらに十数キロメートル離れた別のホームセンターでは、ツルハシ一本とナイロン製の細いロープを購入した。さらに車で三十分ほど走った場所にあるホームセンターに来ていた。
――あとは大きいリュックとヘッドライトだ。
 矢馬田は店内を見回して歩いた。

 水野と妻の明菜は、駅前のロータリー広場でチラシを配っていた。昼近くとあって行き来する人の数はまばらだったが、二人は通りすがりの人に声をかけ、額と首筋に汗をかき懸命になってチラシを手渡していた。
「お願いします。娘を探しています。何か気付いたことがありましたら、こちらへ連絡下さい」
 水野は声を掛けながら頭を下げた。
「お願いします。行方不明になって五年になります。娘を探しています。情報お願いします」
 明菜の声はかすれていた。

 結菜は自分を探しているチラシを手にして見つめていた。ふと、のぞき窓から外を見たくなって、イスの上に上がり外を覗いた。わずかに見える外の景色。陽は高いところにあるのか、日差しは直接入ってこない。庭に敷き詰められている瓦チップが強い日差しを浴びて光っていた。
「あっ、昨日の人たちだ……」

「西田さん、この家、やたらと防犯カメラが多いですね」
 音聴棒を持った吉岡は、怪訝な顔をした。
「本当だ。家の正面だけでも、1、2、3個もある」
 西田が指をさして数えた。
「ダミーかな?」と吉岡が茶化したので、西田が微笑んだ。
 漏水調査を続けている青葉台で、防犯カメラの設置されている家を見るのは初めてだった。
 どちらかというと洋風で、ハウスメーカーが建てる標準的なスタイルの家屋だ。『ニュータウン青葉台』が造成されてすぐに建てられた家なのだろうと察した。
 メーターボックスは駐車スペースの家側の隅にあった。敷地内の庭は駐車スペースより1メートルほど高くなっている。吉岡は庭を覗いた。庭木はすべて切り取られていて、庭一面に敷き詰められているレンガ色した瓦チップから、その切り株が飛び出していた。
「空き巣被害にでもあったんですかね。防犯カメラの数といい、庭に撒いたチップといい、防犯対策がかなりのもんだなぁ」吉岡は驚き、目を見張った。
 それはともかくとして吉岡は作業を続けた。
「……んっ?」
 吉岡は音聴棒の共振板に耳をあてたまま、西田に視線を送った。
 西田はバインダーとボールペンを持ちながら、瓦チップが敷き詰められている庭を感心して見ていた。
「西田さん、音入りますね……何の音だろう? カンカンと微かに聴こえるんですけど……」
 吉岡は、西田に救いを求めた。すかさず吉岡が手にする音聴棒を引き寄せ、西田は共振版に耳をあてた。
「……ウォーターハンマーかな? 確かにカンカンと音がしますね」
「またウォーターハンマーですか」吉岡が言った。
「ダンプのおじさんは、もう大丈夫だし……」
 西田は顔を上げ、周囲を見渡した。そうして音聴棒の先端で水道メーターとその接続部分をコツコツと突いてから、また共振板に耳をあててみる。するとすぐに〈カンカン〉と音が返ってきた。んっ? と西田はもう一度コツコツと突いた。すぐに耳をあてる。再度、コンコンコンと三度突く、とカンカンカンと返ってきた。
――間違いない、こっちの音に反応している……。
「?……」吉岡が怪訝な顔をする。
「吉岡さんもやってみて下さい。こっちから送る音に、まるで反応するかのように、何の音かわからないんすが、返ってきますよ」
 西田に言われた通りに、吉岡も同じ動作をして試してみた。
「……はい、返ってきますね」吉岡が頷いた。
「たまたまかな? 子供がふざけてやってるとか」
「でも最初に、カンカンカンと何度も音が聴こえてきましたよ。何かを訴えるような……」
「思い過ごしじゃないすか? 吉岡さんの……」
「どこからの音なんでしょうね。かすかな音ですものね」
 吉岡は周囲を見渡した。
「この家からかな?」
 西田は目の前の家を見上げてから、バインダーに挟めてある住宅地図に目を落とした。
「や、うまた? 吉岡さん、なんて読むんですかね、この名字……」
「やうまだ?」吉岡は表札を見て言った。
 西田も表札のある門扉に近づき、インターホンを押した。
「……」何度か押してみたが返事はなかった。
「玄関ドアは電子キーが付けられているみたいっす。一般住宅にしては珍しいすよね。痴呆症の年寄りでもいるんじゃないすか?」と西田は首を傾げた。
「年寄り?」
「ほら、勝手に家から出てしまって、外を徘徊してしまうんで、ドアの外側に電子キーを取り付けるんですよ」
「なねほど……じゃ、その痴呆症のお年寄りが、蛇口あたりを何かで叩いているとか」
「そうかもしれないっす。漏水音じゃないんで、パスしましょ。区切りのいいところでお昼にしませんか、吉岡さん」
「そうしますか」吉岡が頷いた。
 自治会館の駐車場へ移動した吉岡と西田は、日陰のある場所に作業車を停めてお昼の弁当をひろげた。ケヤキの枝がそよ風に揺れて、木漏れ日が車窓を通して差し込んできた。枝が揺れる音に混じる鳥のさえずりが、周囲の静寂さを物語っていた。
 食事を終えて、缶んコーヒーを一口飲んだところで西田はふうーと大きななため息をついた。
「どうしたんですか、そんな大きなため息をついて……」
 吉岡は苦笑いをした。
「俺、ヤバイす」
「やばい?」
「……職場が倒産したのが原因で、吉岡さんは離婚したって言ってたでしょ。俺もヤバイすよ」
「またどうして?」吉岡は神妙な面持ちになった。
「子供がね、女の子なんです。二歳になるんですけど、かわいすよね。でね、嫁がね、何かとうるさいんす。体が臭いとか、食べる時に口の音を出すなとか、給料が安いとか、とにかく顔を合わせるたびに文句ばり言うんで、つい――」
「ついバシッと」吉岡が言った。
「いやいや、俺ぜったい手あげませんから。出て行け!」
 西田はうなだれた。
「会社終わって帰ったら、テーブルの上に離婚届の紙、置いてありました。携帯みたら、あかんべーのスタンプがラインできてました。これっす」
 西田は、スマートフォンの画面を吉岡に見せた。
 吉岡は、ぷっ、と吹き出してから笑った。
「なかなかやるんじゃないですか、奥さん」
「結婚したばかりの頃は、文句もいわずハイハイとなんでも言うこときいてくれたんすよ。子供ができたとたん、だんだん口やかましくなってきて、からだ臭いとか、箸の持ちかたが変だとか、とにかく文句ばかり言うようになって、まいっちゃいましたよ……」
 西田は、また大きなため息をついて、缶コーヒーに口をつけた。
「みんな同じですよ。まあ、女は激変しますからね。だから結婚式のとき、角隠しっていうの白い布を頭につけるでしょ。みんな角を持って嫁いでくるんですよ」
「ああ、あれね。あれ嫌だって和装でも普通の頭にしてました。隠さなかったのに、角、見えなかったなあ……」西田は口をへの字にして遠くを見た。
「恋人から夫婦。妻になって、子供が生まれたらお母さん。女のひとは大変ですよ。短期間にこれほどの変化をしなくちゃならないんですからね」
「でも、俺だって夫になり父親になる訳だから。それで家族のために必死になって働いているんすよ。臭いとか、汚いとか、それに給料が安いなんて言われちゃ、カチンときちゃいますよね」
「だかこそ夫婦が力を合わせて家庭を築いていくんです。なんて離縁された私が偉そうなこと言えないですがね……」
「あーあ、実家に行って頭さげなくちゃなんねえかな……」
「大丈夫ですよ。母娘のあかんべー、ちゃめっけたっぷりですから、すぐに仲直りできますよ」
 そんな会話をしているところへ、一台の黒い乗用車が近づいてきて停まった。運転席の西田の方へ幅寄せしてくると助手席のウインドーが下がった。
「こんちわー、木村設備さんですよね」
 頭を短く丸刈りにした、ノーネクタイで背広を着た男が声をかけてきた。一瞬、反社会的勢力の方? かと西田は思った。
 作業車には会社名を書き入れていないが、『漏水調査中』というマグネット付のステッカーを貼っていたので、自分たちのことがすぐに分かったのだろうと西田は推測した。
「中央署の若林といいます。お仕事ご苦労様です」
 車のドアを開けながら名乗った。
「ああ、社長から連絡きてました。刑事さん、うちの社長と同級生なんですってね」西田が笑顔で応えた。
「今回はお見事でしたね。漏水調査中に盗水現場をみつけるなんて、お手柄ですね。いま解体中の“スーパーうみやま”の盗水も見つけたとか、現場責任者が言ってました。なんでも音聴棒という工具を使って音を聴き分けるとかで、一度その作業を見てみたいと思いましてね。ちょっとお邪魔しました」
 若林刑事は、体躯ががっちりしていて長身だった。
「刑事さんも野球をやっていたんですか」
 西田も運転席を降りた。
「キャッチャーで四番。木村はセンターで五番」
「えっ、社長はピッチャーって言ってましたけど」
「一年だけね。あとは控えです。でも肩は素晴らしかった。センターに飛んだ球は、ほとんどがワンバウンドでホームへ返してきましたからね」
 若林は両手でボールをキャッチするしぐさをしてみせた。
「へえー、そうなんですか」
 西田は感心しながら作業車の後ろに回った。
「これっす。音聴棒」
 バックドアを開け、長さが⒈5メートルの音聴棒を取り出して若林刑事に手渡した。
「へえー、そんな大袈裟なものではないんですね。こんなんで音が聴こえるんだ」両手に持ち軽く振り、若林は感心した。
「あっ、あの時の刑事さん」
 助手席から二人のやりとりを見ていた吉岡が言った。
「えっ? あっ、あの時の店長さん」
 手にしていた音聴棒をライフル銃のように構えて、若林が言った。
「吉岡です。その節は大変申し訳ありませんでした」と軽く頭を下げた。
「偶然ですかね。ここへ来る途中、“スーパーうみやま”の解体現場へ寄ってきたところでした。ところで店長さん、ここで何やってんですか?」
 吉岡は車から降りて、
「アルバイトです。店、つぶれちゃったじゃないですか」
と西田と若林のもとへ歩み寄った。
「あっ、そうか……だから解体してるんですものね。それはそれはお気の毒でした」若林は直立して頭を下げた。
「未解決だそうですね。あの事件……」
「いやー、面目ない。警察の失態です。しかし、今もって全力で捜査しておりますので、どんな些細な情報でもあれば、どうぞご協力お願いします」
 若林は、再び頭を下げた。
「この自治会館の掲示板にも、あの事件の情報を求めるチラシが掲示されてますよ。一昨日、て言ってましたっけ。当事者の父親が来て、チラシの掲載と団地内の回覧をお願いしたいと、ここの自治会長さんが言ってましたよね、西田さん」
「そうそう、父親本人だったとか」西田が頷いた。
「そうですか。水野さん本人が……」
 若林はハンカチで額の汗を拭った。先日、事件が起きた場所である“スーパーうみやま”が解体されることを水野夫妻に伝え、電話で話したばかりだった。
「刑事さん、漏水調査の作業、みてみます?」西田が言った。
「ああ、そうですね。でも、まだお昼休み中でしょうから、ゆっくりしていて下さい。わたし自治会館に行って、そのチラをシみてきます。自治会長さんがいましたら、ちょっと話を聞いてきますので」
「若林さん、私も行きますかぁ?」
 乗用車は覆面パトカーだった。その運転席から三十代の若い刑事が飛び出してきた。
「いや、いいよ。松山君は車で休んでいてくれ」
と言って、若林刑事は自治会館の入り口へ向かって行った。
「ご苦労様です。松山と申します」
 吉岡と西田に向かって頭を下げた。中肉中背で、太い眉が目のすぐ上についているのが特徴だった。
「あの少女失踪事件、警察ではまだ捜査を続けているんですか?」
 吉岡が松山という若い刑事に訊いた。
「もちろんです。警察の威信にかけても解決しなければならない事件ですから。……若林刑事は転勤を拒み、昇任試験も受けないで、事件が解決するまではこの地に残り、毎日、地道に捜査を続けています。まず頑固です。昭和のデカっていうんですかね」松山刑事は誇らしげに頷いた。
「こうした事件って多いんすか?」西田が訊いた。
「残念ながら多いんです。九歳以下でも年間約千人、十歳以下ともなると一万人にもなるんです。迷子や家出というケースが多く、ほとんどのケースは無事に見つかるのですが、未解決のものも多いんですよ。2018年迄に警察に届け出があったのは、およそ1200人、未成年者となると1万人にもなるんです。近年は、SNSとオンラインゲームの組み合わせにより、未成年の女性が誘い出されて事件に巻き込まれるケースが多発していますね」
 いつの間にか音聴棒を手にしていた松山刑事は、興味深そうに手探りしながら説明をした。
 吉岡は、自治会館の掲示板の前に立つ若林刑事の後ろ姿を見つめていた。

 矢馬田は大型モール店内のスポーツ用品店で、最後の商品を買い求めていた。支払いを済ませ、大きなレジ袋をかかえ、屋上の駐車場に停めていた車の中に戻ると、矢馬田は大きなため息をついた。
 レジ袋から取り出したのは、小型のLEDヘッドライトと登山用の大型のリュックだった。
――これですべて揃った、とほくそ笑む。
 実行は夜だ。地下室でいい。ガスを入れる方法もあるが、万が一爆発でもしたら大変だ。やはりロープで首を絞め、死体をロープで巻き、さらに布テープでぐるぐる巻きだ。それをリュックに入れて持ち出す。わざわざ遠い所まで運ばなくてもいい。街のいたるところに防犯カメラが設置されているのだ。車で移動すればすぐに足がつく。リュックを背負い、夜中に山林へ運ぶ。青葉台団地の周囲は手つかずの雑木林だ。家からも歩いて行ける。日中でも人通りがないのだ。ましてや夜中に人や車など行き来する訳がない。団地に防犯カメラはない。人目につかず雑木林に這い入ることは充分に可能だ。周辺の山林からイノシシはもちろんのことタヌキやキツネが出てきたという話しは耳にしたことはない。死体を埋めても掘り起こすことはないだろう。水野結菜は五年前に失踪したまま、この世から消えるのだ。そして世間から忘れ去られる。それでいい。何もなかったのだ。俺の周辺では何もなかったし、何も起こらなかったのた。家は不動産屋に売り、団地から遠い所にあるアパートにでも引っ越そう。
 ちっ、と舌打ちをして、ほくそ笑む矢馬田はロープを両手で握り締めた。

 自治会館から出てきた若林刑事は、缶コーヒーを手にして吉岡たちのところへ戻って来た。
「自治会発足以来、犯罪、交通事故、空き巣などの事件は全くないとのこと。お年寄りが具合を悪くして、救急車が年に何度か来る程度、だそうです。これほど閑静な団地はない、と」
 自販機から買ってきた缶コーヒーを、それぞれに手渡しながら若林刑事が話した。
「それじゃ、今日の盗水事件はまだ知らされていないんですね」
 松山刑事は、ごちそうさまですと言って、缶コーヒーのプルタブを切った。
「まあ事件としては大きく取り上げないだろう。でも噂として広がるのは、あっという間だ」
「盗水のあった家の前を通ってきましたけど、別に変わった様子もまく、そんな普通の家で大それたことをやっていたかと思うと、怖いですよね」
 松山刑事が太い眉毛を寄せた。
「盗水のあったすぐ後ろの区画は、もう調査は終わりましたか?」
 若林が西田に尋ねた。
「ええ、午前中に終わってます……何か?」
「いや、ちょっと気になったものですから……何か変わったことはなかったですよね」
「防犯カメラがやたらと取り付けられている家かな?」と吉岡が言った。
「そうそう、そうです。自治会長さんも空き巣や犯罪もないと言ってましたからね。家の前と後ろ、合わせて五個。かなり厳重だなって……」
 若林が腕を組んだ。
「庭に、瓦チップが敷き詰められていましたよ」西田が言った。
「ほっ、あの防犯用のですか」
「痴呆症の年寄りがいるんじゃないすか。玄関ドアに電子キーが付いてましたよ。それに、んっ? ウォーターハンマー……」西田が首を傾げた。
「うぉーたー? 何ですか、それ?」松山が身を乗り出す。
「水道管に空気だまりがあると、水圧の高低差によって、カンカンとかキーンとか漏水音とは別な音を出すんです。そういう音もこれで聴こえるんですよ」西田は音聴棒を差して言った。
「西田さん、あの音、返してきたじゃないですか。痴呆症のお年寄りがやってるんじゃないかって」吉岡が言った。
「音を返してきた? 家の中にそのお年寄りがいたんですか?」
と若林が首を捻った。
「いや、見てません。それにインターホンを押しても応答なしです」
 西田が応えた。
「ちなみに名前は何という家ですか?」
 若林がメモ帳を背広の内ポケットから取り出した。
 西田が作業車のドアを開け、住宅地図を挟んだバインダーに手を伸ばした。
「ここですよね。なんて読むんすかね。や、うま、たぁ?」
 若林と松山が地図に目をおとした。
「やうまた。やうまだ……やまだ、だ。うん、たしか……行ってみましょう。いいですかね、その音聴棒というものも聴きたいし」若林が微笑んだ。
 それぞれの車に乗り込み、自治会館の駐車場からその場所へ向かった。
 駐車スペースに木村設備工業の作業車と覆面パトカーを乗り入れると、車から降りた若林はその家の全体を見回し、瓦チップが敷き詰められている庭にも目を配った。
 まもなくして若林はインターホンを押した。応答がないので何度か押してみた。
「いないかぁ……痴呆症のお年寄りかぁ……」
 若林は諦めて、メーターボックスの蓋を開けて準備をしている吉岡と西田の所へ歩んだ。松山刑事が興味深そうに二人の作業を見守っている。
「刑事さん、聴いてみます?」西田が音聴棒を手渡した。
「すいません。じゃ、一度聴いてみますか、そのカンカンとか漏水音とかを」
 若林は西田の説明に従って、音聴棒の共振板に耳をあててみた。
「……」
「どうですか?」松山が小さな声で尋ねた。
「……何も聴こえません」共振板に耳をあてたまま、若林が応えた。
「漏水していると、シューという高い音が入るんです」と西田が言うと、
「その音が聴きたいですね」と若林は共振板から耳を離し、顔をあげた。
「これから俺らと一緒に回ったら必ず聴けますよ」
「そうですか。遠慮しておきましょう」若林が苦笑した。
 音聴棒を受け取った吉岡は、その先端でメーターと配管の接続部を何気なくコツコツと突いてみた。それから共振板に耳をあててみた。
「……あっ⁉ 音が返ってきた。なにこれ、何の音? 前に訊いた音より高い音だ」吉岡は共振板から顔を離して、
「西田さん、これ聴いてみて下さい。午前中に聴いたカンカンという音より高い音になってますよ」と西田に音聴棒を手渡した。西田はすかさず共振板に耳をあて、口を一文字にした。首を傾けている目線が、腰を屈めて注視する若林と松山の目と合った。
「漏水ハンマー?」松山がトンチンカンなことを言った。
「……パイプを、水道の鉄管を何かの金属で叩いてるんだ……」
と、西田は顔をもたげて周囲を見回し、
「やっぱりこの家からだなぁ。誰もいないんですもんね……」と目の前の家を見つめた。
「家のあの基礎のところ、少し変だと思いません?」
 格子状の白いフェンスに顔を付けて、敷地内を見ていた吉岡が言った。
  二人の刑事がフェンスに顔をつけた。
「んっ? 窓? ……のぞき窓があるんだ、あそこに」
 若林が目を細めて言った。
「そうですね。窓ですね。きっと内側から外が見えても、こっちからは見えないんですよ。マジックテープです。スーパーの内ドアにもそういう細工をしてありますから」吉岡はスーパーの店内を思い出していた。
「なるほど。でも窓が家の土台の高さに?」松山が濃い眉毛を寄せた。
「地下だよ。地下室があるんだ。ほら、ほれ、あれだよ」と若林。
「地下シェルター?」と松山が答えた。
「この団地ができた当時、シェルター付きの建売りをうたい文句に住宅を販売したと、うちの社長から聞いたことがあります。全部が全部じゃないでしょうが、何件かその地下室があるんじゃないすかね」
 西田は、漏水調査が『ニュータウン青葉台』へ移行することになった時点で、団地内には核シェルターまがいの地下室のある家が何件かあることを、木村社長から聞かされていたことを思い出した。
「ほう、木村がそう言ってましたか。水道設備会社の社長ならそのくらいの知識があっても不思議ではないか」
 木村社長と高校の同級生だった若林刑事は、顎に手をやりにやけた。
「もう一度やってみますね」
西田は、音聴棒の先端でコツコツとメーターの配管部分を突き、すぐさま共振板に耳をあてた。すると〈カンカン〉と音が返ってきた。さらに西田はコツコツコツと三度突き、反応を待った。
〈カンカンカン〉
「いますね。間違いないっす。こっちの音に確実に反応してますよ」
 西田が興奮気味に言った。
 私にもやらせれくれと、若林が西田と同じことをやってみせた。
〈カンカンカン〉
「なるほど。誰かいるね。でも、インターホンにはでない。つまり地下室に閉じ込められている」若林刑事の目が光ったように見えた。
「年寄りですよ。徘徊するんで閉じ込められているんです、きっと」
と西田が唇を噛む。
 若林は強い日差しを感じ、ハンカチを広げて頭に乗せた。
「やまだ、さんか……松山君、署に照会してくれ。青葉台二丁目16のxx、弓矢の矢、牛うまの馬、田んぼの田、やまだ、だ」
 了解しました、と松山が覆面パトカーへ乗り込む。
「矢馬田さんで、何か思い当たることがあるんですか?」
 吉岡が怪訝な顔をして訊いた。
「ええ、珍しい名字なので、記憶にちょっと残ってましてね……たしか、面割りしたリストにこの名前があったような気がするんです」
 若林はメモ帳を見ながら顎に手をあてた。
「面割り?」
「面通し、とも言うんですが、画像に写っているすべての客の身元を確認してあるんです。あの少女失踪事件後、“スーパーうみやま”中町店の店内防犯カメラに写っている人物を一人ひとりチェックし、その中に青葉台の方もけっこういたもんですから。その中に確か……矢馬田という方がいて、市役所の税務課に勤務とかで、役所へ足を運んだ気がするんです」
「そうだったんですか。それって、大変な作業だったでしょう」
「大変でした。店長さん」
「刑事さん、もう店長じゃないですから」
「そうでしたね。失礼しました」
「何か思い出したことはありませんか? 当時のことで……」
「税務課……そういえば中町店を拡張したときに、固定資産の調査とかで、市役所の人がきましたね。二人だったかな。社長が不在で私が対応しました。名刺をもらいましたけど、あまり気に留めないでいたもんですから名前も顔も覚えてはいませんね。ただ……経費節減の話しのところで、外の防犯カメラはすべてダミーだなんて、うっかりしゃべってしまったという記憶があります」
「えっ、その時、吉岡店長さんがダミーだなんておっしゃたんですか?」
「確か、言ったと思います。刑事さん、その店長はやめて下さい」
「そうでしたね。失礼しました。それはあの事件の前ですか、後ですか?」
「……前だったような気がします」
「なるほど、わかりました」若林は唇を噛んで、何度も頷いた。
「若林さん、照会とれました。青葉台二丁目16のxx、やまだよしはる。弓矢の矢、牛うまの馬、田んぼの田、よいわるいの良いに、くもりのちはれの晴れ、矢馬田良晴です。五年前のあの事件、市役所に行って本人確認と任意召聴取をとっています。事件当時は二十七歳、独身。市役所税務課資産税係で現在は市民生活課にて勤務。両親は六年前の七月に父親、十二月に母親が亡くなっています。良晴は現在も独身で、独り暮らしです」
 松山はメモをとった事項を読み上げた。
「独身? 両親も亡くなっているのか。……するとこの地下室には誰がいるんだ……。マジかよ。松山君、市役所に電話して矢馬田良晴の所在を確かめてくれ。それと本人の車の登録ナンバーもだ。急いでくれ」
「まさか、この家に? 五年前の女の子が……いやいや、若林さん、それって早計じゃありませんか? ちょっと強引過ぎますよ」
 松山は、若林の前に立って渋い顔をみせた。
「いいから早く市役所に確認してくれ」
 若林は、松山の肩を鷲づかみにして揺すった。
「分かりました。すぐ確認しますので待ってて下さい。駄目ですからね、強行突破は」と言ってから、松山は覆面パトカーに再び乗り込んだ。
「店長、何かメモする大きな紙はないですか?」若林が吉岡に言った。
「メモ紙? あっ、西田さん、その住宅地図の裏、白紙ですよね」
「はい」声が裏返っていた。いま目の前で何が起きているのだと西田は瞬きを繰り返す。はい、と言って西田はバインダーごと若林に手渡した。
 若林は住宅地図を裏返し、またバインダーに挟み、ポケットから取り出したボールペンで、《水野結菜ちゃんだったらカンカンして》と大きな字で書いた。
「店長、これを持って、あののぞき窓の所に行って、このメモをかざして下さい」
「はい、えっ、まさか?」
 吉岡は若林の書いた文字を見て驚き、門扉の方へ行こうとすると、
「鍵がかかってますから、このフェンスを乗り越えて行って下さい」
と若林に肩をつかまれた。
 吉岡がフェンスを越え、若林から受け取ったバインダーを持って、玄関わきの家の基礎部分にひざまずいた。膝が微かに震えていた。そうして、のぞき窓とおぼしきところにバインダーをかざした。それを見て、若林が音聴棒の共振板に耳をあてた。するとすぐさま音が若林の耳に届いた。
〈カンカンカン――カンカンカン〉
 若林はしてやったりという顔をして、両腕を使って大きな丸を、吉岡に向けた。
「店長、そこにもう一度と書いてくれませんかぁ!」若林が叫んだ。
――店長じゃないって言ってるのに……。
 手の震えを抑えて、吉岡は指示通りにする。
〈カンカンカン――カンカンカン〉再び、その音を捕らえる。
「間違いない。木村さん、突入しましょう!」
「いや、西田ですけど。その事件の女の子が、あそこに?」戸惑う西田に、
「そうです。木村さん、作業車にバールとか番線を切断する工具とかがあったら持ってきてくれませんか」と指示すると、若林はその長身を活かして、ひょいっとフェンスを乗り越えてみせた。庭に足を踏み入れたとたんガサガサと音がたった。
「店長! じゃない、吉岡さん、裏です!」
 のぞき窓らしきところを手探りしていた吉岡の背に呼びかけた若林は、家の裏側にまわった。
 一階の窓の格子には分厚いコンパネが太い番線によって取り付けられてあった。
「この防犯カメラといい、目隠しなのか、脱出を防ぐためなのか、これはどう見ても異常としか思えないな」
 若林が驚嘆した。そこへ指示された工具を持って西田がやってきた。その後に、ガサガサと激しい音をたてて松山が足早でやってきた。
「若林さん、矢馬田は今日休みを取っています。理由は体調不良とのことです。車両ナンバーも確認とれました」と松山の声がうわずっていた。
「まずいな。情報提供のチラシ、一昨日、持ち込まれたということは、回覧板は昨日とすると、矢馬田はそのチラシを見ているかもしれない……やばっ、あっ、そのガスメーター回ってないですよね」と若林は西田の顔を見た。
「だ、大丈夫です。回ってません」西田がガスメーターを覗いた。
「よし、ここはおそらく浴室だ。この窓を破ってここから入りますか」
「えっ、若林さん、令状。家宅捜査の令状とってませんよ」
と松山が慌てた。
「そんな悠長なことを言っている暇はない。緊急事態だ。これはれっきとした人命救助だ。ガスを地下室に入れられているかもしれないんだ。一分一秒を争う。令状などとつべこべ言っている場合じゃない!」
「でもガスメーター回ってないです」松山の太い眉が吊り上がっている。
「事後報告で回っていたことにすればいい!」
「いやいやいや、若林さん、それってまずいですよ。窓を破って入ったら、ただのボケたお年寄りだったらどうするんでいかぁ」
 松山はバールを持つ若林の腕を必死になって掴んだ。
「責任は俺がとる。中にいるのは間違いなく水野結菜ちゃんだ。あいつは、矢馬田は今日休みをとって、彼女を殺す準備をしてるんだぞ。いいから離せ、若造!」
「わかぞー!」裏返った声を発した松山は目を丸くして、若林の腕から手を離した。
「木村さん、この番線切っちゃって下さい」
「木村設備の西田です。よっしゃぁ!」と爪切りを大きくしたような工具を使って、コンパネを固定している番線をやたらめった切り落とした。
「令状うんぬんでまずかったら、俺らが勝手にやったことにすればいいじゃないすか。ねえ、吉岡さん」と言った西田に、吉岡は「はい!」と応えた。
「それは有り難いことです。感謝します」と若林がニヤリとした。
 分厚いコンパネが外れると、若林はバールでアルミ製の格子を窓から強引に引き抜いた。閑静な団地にまるで歯ぎしりを大にしたような音が響いた。次にガラス窓を割り、手を入れて窓カギを外した。窓を開け、頭から浴室内に入ると、若林は廊下に足を踏み入れた。松山につづいて吉岡と西田も浴室から廊下に出た。淀んだ空気にカビ臭さを漂わせていた。コンパネやカーテンで閉じられていた家の中は薄暗く、窓を壊して侵入してきた浴室からの明りだけが頼りだった。それでも居間らしき部屋に辿りつくと、カーテンの隙間から外の明りが差し、その部屋の照明スイッチを容易に見つけることが出来た。明るくなった部屋はダイニングキッチンを兼ねた居間だった。余計なものはなく、整理整頓されてあるキッチンとキャビネット、それにダイニングテーブルと大型のテレビは、まるで永遠の静寂を要求されて佇む仏像のようだと、若林は感じ取った。
 薄暗かった廊下にも灯りが点いた。
「どこだ、地下室の入り口は……」四人がそれそれに探した。
「これだ。見つけました!」松山が叫んだ。
 若林が居間から廊下に飛び出した。松山と吉岡が廊下にひざまずいていた。
「これですよ。この床下収納庫の扉みたいな……こんなところにカギなんか掛けます? 変ですよね」と、しかめっ面の松山。
「入り口はここだ。勝手に出てこれないように、厳重にしているんだ。なんてことだ、かわいそうに。いま助けるからな」
 若林は焦る気持ちをぐっと抑えた。何が仕掛けてあるのか分からない。慎重に構えなければと自分に言い聞かせた。
 吉岡と西田が息をのむ。
「ガスの臭いは? 都市ガスは上か下か?」若林が松山の目を見た。
「下です。空気より重いので。それにガス事故に備えて、ガスには臭いがついてますから」
「そうか……ガス臭さはないな。でも慎重にな。何が仕掛けられているか分からんからな」
 松山が大きく頷いた。
「四桁の暗証番号か。厄介なもんがついてるな。これをなんとかしないと扉を開けられないな……」南京錠型のナンバーキーだった。
 床の両側に取り付けられているL字形の金具に、差し込まれた細長く厚みのあるアルミ板は、二つの南京錠でロックされている状態にあった。
「鉄板じゃないな、アルミだ。この南京錠、番線を切った工具で切れませんかね」若林は、西田の顔をのぞき込んだ。
「いや、これは無理っす。でも、このL字形の金具、床にビス止めしてあるだけなので、このビスを抜き取れば金具全体を取り外せますよ。作業車から電動ドライバーを持ってきます」
 四つん這いになっていた西田の顔が引きつっていた。
「いろんな工具を持っているんですね。助かります」
 若林が頷いた。そうして床にはめ込まれてある扉を拳で叩き、扉に顔を近づけ、
「中にいるのは水野結菜ちゃんですかぁ!」
と叫んだ、が、扉の下からは返事がない。松山がゴクリと唾をのみ込んだ。
「中にいるのは水野結菜さんですかぁ!」若林はもう一度叫んだ。
 膝をついて体を折り曲げている三人に緊張が走った。
〈はい、そうです〉扉の下から、女の子のこもった声が返ってきた。
「おおー!」と思わず三人が両手を拳にする。
「今あなたを助けますから、この扉を開けますから、この真下にはいないで下さい」と若林が呼びかけた。
〈そこに、おにいちゃんはいませんか?〉
 若林が顔をもたげた。
「おにいちゃん? って誰?」
「おにいちゃん?」松山が周囲を見回す。
「この子を誘拐した矢馬田のことじゃないですか?」
 吉岡の顔が引きつり、こめかみがぴくぴくと動いていた。
 その時、三人の後方で何かが倒れる大きな音がした。その音に驚いた三人は、屈めていた体を反り返えした。
「痛ててててー」
 工具を取に行っていた西田が、浴室と廊下の段差にけつまずいて転倒した音だった。すいません、と膝をさすりながら三人が固まっている所へ寄った。そうして、L字形の金具を固定している+ビスに、電動ドライバーの先端を食い込ませてスイッチを入れた。ビューと軽快な音を立ててドライバーが高速回転すると、長さが7センチほどのビスが床から抜き出てきた。片側四本で計八本をスピーディーに抜き取ると、扉をガードしていたアルミ製の細長い金具を取り外すことが出来た。
「よしゃぁー!」はやる気持ちを抑えて、若林は両手を使って扉の取手を掴み、片方の扉をゆっくりと引き開けた。すると下からの蛍光が帯状になって立ち上がってきた。全員が目を細めた。もう片方の扉を吉岡が開けた。木製の梯子のような階段が床から地下室へと斜めに降りていた。
「結菜ちゃん?」若林が不安げに声を掛けた。
 一人の少女がチラリと顔を出すと、すぐ四人の視界から消えた。
「水野結菜さん、だよね。おじさんたちは君を助けにきたんだよ」
 若林が床下に顔を突き出して呼びかけた。
「結菜ちゃん、もう大丈夫だよ。そっちへ降りていってもいいかな?」
 吉岡が呼びかけた。すると少女が階段の所まで姿を見せると、蛍光灯の光りを浴びた真っ白な小さな顔を、雲の上から呼びかけるような顔をしている四人らに向けて、仰ぐようにして見せた。
「そこに、おにいちゃんはいない?」と顔を震わせて言った。
「いないよ。大丈夫、安心して」松山が笑顔で応えた。
「放射能は大丈夫?」
「放射能?」と四人がハモった。
「結菜、ママとパパのところへ帰れるの」
「そうだよ。帰れるよ」吉岡が優しく言った。
「あっ、店長さんだ」
「てんちょう?」と、四人がまたハモった。
 開口部から頭をもたげた吉岡は、自分を指さして三人の顔を見回し、再び顔を地下室へ向けた。
「もしかして、おじさんのこと覚えていてくれたの?」
 吉岡は、驚きと感動で胸が詰まった。
「うん。だってスーパーに行くと、かわいいねって、いつも私の頭をなでてくれたから」
「そうか、そうだったんだね……ごめんね、本当にごめんね。おじさんがもっとしっかりしていれば、ダミーのカメラになんかしなかったのにね。ごめんね、結菜ちゃん。もう大丈夫だから、早くママやパパのところへ帰ろう」
 吉岡の目から溢れ出た大粒の涙が、『核シェルター』などとは程遠い、単なる地下室の、おそらく冷たかったであろうその床に次々と落ちていった。

 “スーパーうみやま”中町店から、当時、小学三年生の少女が忽然と姿を消してしまった少女失踪事件が未解決のまま、五年あまりが過ぎてしまっていた。家庭を犠牲にし、昇任試験を受けることも辞退し続け、懸命に捜査を続けていた若林刑事と、水道の漏水調査をしていた木村設備工業の社員との連携により、行方不明になっていたその少女を救出した日から三日が過ぎていた。
「木村、久しぶりだな。盗水事件の件で、電話でやりとりしていた矢先に、俺が五年間も担当していた事件を、お前の会社の社員さんたちの協力で解決できるとは夢にも思なはかったよ」
 事件解決の日から三日後の午後三時過ぎに、若林刑事と松山刑事が木村設備工業へ訪れていた。
「そんな所で話してないで、まあ入れよ」
 木村社長が二人の刑事を応接間に招き入れた。
「同僚の松山だ。まだ若いが、俺に似てしっかりしている」
「松山です。この度は本当にお世話になりました」松山が頭を下げた。
「若林、俺に似ては余計だろう。しっかりしているというお前が、五年も未解決にしていたんだぞ」木村は笑顔をみせて皮肉った。
「そう言うな。首をかけて仕事をしていたんだ。しかし、まさか木村のとこの社員さんたちの協力を得られるとはな。あの盗水事件がなかったら、この偶然はなかったかもしれないし、この事件も、まだまだ未解決のままだったかもしれない。本当に感謝するよ」
「うちの西田と吉岡さんの武勇伝は、二人から詳しく聞いたよ。ニュータウン青葉台も、今年、漏水調査の対象区域に指定されていなければ、これまた事件の解決には至らなかったかもしれないし、偶然が幾つも重なったのが功を奏したということだ。なによりも今回の功労賞は、この使いこなした音聴棒だな」と言って木村は、傍らに用意しておいた音聴棒を若林へ手渡した。
「そうそう、これだ。まさにこの音聴棒のおかげだ」
 音聴棒をまじまじと見てから、隣の松山に手渡した。
「電話でも話したが、お前の会社と二人の社員が表彰されることに正式に決まった。事件解決に至った協力へのお礼と、その表彰への報告に伺わせてもらったよ。本来ならば署長が同席すべきところだが、県警や検察庁へ事件解決の説明に出向いているので、署長からの感謝の意は、授賞式の時に伝えたいとのことだ」
「そうか、それでいい。お偉方なんぞ来てもらっては堅苦しくてたまったもんじゃないからな。なんなら表彰なんかも断ってもいいんだぜ」
 木村は両手で頬をさすった。
「バカ言うな。もらっておけよ。会社の経営にも役に立つだろうかな」
「それを利用して会社の業績を上げようなんて、そんな姑息な考えで会社経営なんかしちゃいないさ」
 ドアがノックされ、
「いらっしゃいませ、若林さん。お久りぶりです」
と社長夫人がトレーにお茶を乗せて応接室に入って来た。
「これはこれは社長夫人、ご無沙汰しておりました」
 若林が立って笑顔をみせた。松山も立って頭を下げた。
「社長夫人なんて、からかわないでください。こんなちっぽけな会社なのに恥ずかしいでしょうよ。はい、お茶どうぞ」
「知香ちゃんはかわらないねぇ、若さを保ってる。旦那のおかげかな?」
 若林は本心からそう思った。
「なに言ってるのよ。とっくにおばさんよ。奥さんと有紀ちゃんは元気?」
「……まあ、元気だと思う」
「思う? えっ、なに、どうかしたの?」
 知香は笑顔をみせながら顔を傾げた。
「まあ、その、離婚した」
「なに? いつ……」と木村はいぶかしげに目を細めた。
「三年前だ。まあ、今日はいいだろう。俺のプライベートのことでここへ来たわけではないんだからな。ところでヒーロー社員の西田さんと吉岡さんは?」
「お前が、いや、中央署の若林刑事がお見えになるというので待機していたんだが、緊急の漏水修理が入ってきたので、西田には現場へ行ってもらった。それに吉岡さんは正規の社員じゃないんだ」
「なんだと。例の派遣社員とか非正規社員とかっていうものか? いいから今回の活躍を認めて正規の社員にしてやれよ」若林は眉根を狭めて言った。
「まだバイト中なんで、本人が希望するなら正社員にしてもいいかなと思ってるよ。えーと、吉岡さんは倉庫で片付けしてるのかな?」
「わたし呼んでくるわね」と知香が立ち上がり、応接室を出た。
 しばらくしてドアがノックされ、作業服姿の吉岡がすぐに顔を見せた。
 その節は大変お世話になりました、と二人の刑事は頭を深々と下げ、木村社長と吉岡へその後の状況を説明した。
 水野結菜さんを無事に保護した後、すぐに病院へ搬送して検査入院し、両親へ連絡をとり、駆け付けた両親との感動の対面は、それはもう周囲にいた病院関係者から警察官関係者など、多くの人を感動の渦に巻き込んだという。もちろんその時点では、報道は厳戒態勢だ。自分と松山は現場に残り、現場となった矢馬田の家もその周辺も何事もなかったように装い、矢馬田良晴の帰宅するのを待って、午後五時三十三分にその身柄を確保した。直後はかなり動揺していたが、抵抗もせずにあっさりと連行することが出来た。自分が予想していた通り、矢馬田の車の中からは、彼女を何らかの手段で殺害し、それから地中に埋めてしまおうと意図する道具や装備品を押収することが出来た。登山用の大きなリュックの中からナイロンロープが出てきたときは、背筋がぞくっとしてしまった。いわば間一髪のところだったと、胸をなでおろしたと言う。逮捕から翌日になっても黙秘を続けていたが、三日目の朝になって、矢馬田は突然、自ら離し始めた。それも薄笑いを浮かべ、時々、ちっ、と舌打ちを繰り返しながらしゃべりだした。
「そもそも両親が続けさまに亡くなってしまったことが、事件の起因とも言えるかもしれない……」
 若林刑事は大きなため息をついた。
 五年前の少女失踪事件の当時、矢馬田良晴は二十七歳だった。その前の年、すでに定年退職していた父親が急性心筋梗塞で亡くなっていた。県の職員で公務員だった父親は、無口で真面目な性格だったという。その反面、中学校の教師だった母親は、ひとり息子の良晴に対しての躾や教育などは厳しく、威圧的で口やかましい強い個性のある女性だったらしい。良晴は物心ついた幼少時から、その目を常に意識にしながら生きてきたという。その母親もその年の十二月にくも膜下出血により他界してしまった。
「心にぽっかりと穴があいてしまった反面、開放感を得た。しかし、独り身だ。兄弟もいない。両親は双方との親戚との関わりも希薄で、矢馬田はいとこどうしの交流もなかったらしい。兄弟がほしい。かわいくて自分の言うことはすべて聞き入れるような妹だ。あまりにも威圧的に振る舞う母親がトラウマになっていて、年上や同年代の女性には興味が沸かなかったようだ。極端な話し、自分が威圧的に構えて、それに従順に応える女の子を手にしたい、そんな自己中心的な思考にのめり込んでしまったのだろう」
 若林は両腕を後ろに回し、丸刈りの頭を支えた。
「しかし、その子をどうやってターゲットにしたんだい?」
 木村は身を乗り出して訊いた。
「“スーパーうみやま”中町店は、矢馬田にとっては生活圏の範囲内だった。幼いときから親と一緒に買い物に来ていたので、大人になってからも利用していたと思う。水野家はスーパーから十キロ以上も離れていた公営住宅に住んでいたが、安売りで評判だった“スーパーうみやま”を利用していた。両親を続けさまに亡くした後も、矢馬田は中町店を利用していた。水野家の家族とも何度か目にしていたに違いない。当時、小学三年生で活発だった水野結菜ちゃん、一人で店内を歩き回ることが多く、よく両親に呼ばれていたようだ。それで矢馬田は彼女の名前を把握した。……偶然だったらしい。事件を起こした日だ。つまり矢馬田が結菜ちゃんを連れ去った日だ。水野家族四人が中町店に来たとき、矢馬田もちょうどスーパーの駐車場に車を乗り入れたところだった。そこで家族を目撃し、店内に入って行く母親と二人の娘だったが、父親は隣接するゴルフショップへ行くといって家族とは離れてしまった。それを目撃していた矢馬田は、これをチャンスとばかりに結菜ちゃんを誘拐するタイミングを計っていた。店の出入り口付近で一人でいた彼女の名前を呼んだ。そうして『パパが向こうで結菜ちゃんを呼んでるよ』と呼びかけたらしい。それでも普通はついては行かないだろう。見知らぬ人に声を掛けられてもついていっちゃ駄目だ、は常識だからね。しかし自分の名前を呼ばれたことと、大好きなパパが何かをしてくれたのだという好奇心から、つい矢馬田の掛け声に応じてしまった」
 若林は頷いて、吉岡の顔を見た。
「矢馬田は店の外の防犯カメラがダミーだったことを知っていた。税務課の担当者で、私と会って、私がうっかりそのことをしゃべってしまっていた。それを矢馬田はしっかりと把握していたんですね」吉岡は唇を噛んだ。
「その通りです。固定資産税の件で、税務課の矢馬田は上司と二人で中町店へ調査にきていた。その時、吉岡店長の何気ない言葉に耳を傾けていたということです。当時、二十七歳だった矢馬田にも家族があり幼い子がいてもおかしくない年齢だ。抱きかかえて車に乗り込んでも、よく見かける親子関係の行動に、誰が見ても不自然な光景ではなかった。目撃情報が皆無だったのはそういうことだったんです」若林は大きなため息をついた。
「防犯カメラがダミーでなかったら、正規のカメラだったら、少なくてもあの場所で事件が起きなかったかもしれないし、事件が起きてしまったことでも早期に解決したかもしれない。あの子は店長である私を覚えていたなんて、本当に申し訳ないことをしてしまいました」そう言って、吉岡は顔を伏せた。
「吉岡さん、そう自分を責めることはありませんよ。何かの力によって、あなたと彼女を結びつけたのかもしれません」若林が微笑んだ。
 身長、体重とも中学二年生の平均値からは外れてはいたが、健康状態には特に問題がなかった。しかし、恐怖や不安を極端に与えたことで、女性の成長にかかせない生理がまだなかったという。それに骨格がかなり細いということで、これは充分な日光にあたらなかったことが影響しているのではとの見解だ。さらには、まだ幼かった彼女を監禁状態にし続けられたのは、矢馬田のマインドコントロールだった。日本国内のいたるところでテロが発生し、原子力発電所が破壊され、外は放射能で充満し、テロに巻き込まれ多くの人が死んでしまった。家族も死んでしまった。そんな根も葉もないことで彼女は洗脳されていたようだ。彼女が矢馬田のことを『おにいちゃん』と呼んでいたのは、そのせいかもしれない。これから彼女と矢馬田の臨床心理の検証が行われるようだ、と若林は語った。
「五年の月日か、取り戻せるでしょうか彼女は……」
 松山刑事が大きくため息をついた。
「なあに、すぐに取り戻せるさ。彼女の両親の、娘の無事を信じて、けっして諦めなかった気持ちと行動は、とてつもない強力な家族愛というエネルギーだ。五年の空白なんか、すぐに埋め戻せるさ」
 若林は右の手のひらを左手でこすった。
「そうですよね。その家族を犠牲にしてまで、若林さんがこの事件を解決するまではと、昇任試験も受けずに、移動転勤も拒み続けて、身を粉にして捜査を続けてこられました。事件は解決しましたので、これで若林さんの家族も元に戻れますね」松山は心底そう思った。
「余計なことを言うな」と、若松は松山の脇腹に肘鉄をくらわせた。
「そうか、刑事っていう仕事も大変だな。家族を犠牲にしても自分の意地を通すか。若林、お前、高校生の時から変わらないなあ。今でも忘れられないよ。あの甲子園初出場をかけた決勝戦の九回の裏、ツーアウト一塁、しかもツースリーだ。お前がストレートのサインを出しても、ピッチャーの鈴木は首を横に振った。キャッチャーのお前は直球勝負だとサインを譲らなかった。センターから見ていた俺には、お前の気持ちが分かっていたよ。バッターは緊張でコチコチだった。ストレートを内角にズバンと投げれば空振り三振でゲームセットで、歓喜の甲子園出場の輪が出来たはず。お前の譲らぬ強気の意地を無視して、鈴木はしょんべんカーブを投げやがった。カキーンと右中間への打球、逆転のサヨナラホームランだった。……この事件の解決に向けて、お前は意地を張り続けた。なぁ、そうだろう?」
 木村は若林を睨んだ。
「余計なことを言うな。俺にもかわいい娘がいた。これが同じ立場だったらと思うとな……警察の初動ミスだ。俺自身にも大きな反省点があった。全国には、まだこの手の未解決事件が多くある。今回の件を参考にして、事件を一つでも多く解決させていきたいものだ。木村設備工業は大切な水道の漏水箇所を見つけ出したり、盗まれている水を見つけ出す。俺たち刑事は、社会から零れ落ちた犯人を見つけ出したり、他人のものを盗んだ犯人を見つけ出す。どうだ、どこか共通点があるな」
 若林は腕を組みながら、木村の顔を覗いた。
「誰もが家族のためにと必死で働いているんですよね。残念ながら、その意思が伝わらないことがあるんでしょうね。私なんかもスーパーの店長をしていた時、朝早くから夜まで働き詰めでした。サービス残業だとか、休日返上などの過剰労働と周囲では騒いでみても、結局は店のため、会社のためと、でもそれが家族のためでもありましたからね。働いて、その代償にお給料をいただくには、何らかの犠牲はつきものですよ。末端の人間にはやむを得ないことかもしれません……いや、偉そうなことを言ってすいません」
 吉岡は頭を下げたが、発した自分の言葉に悔しさが滲んでいることは確かだった。
「そうか、吉岡さんも家庭を壊してしまったんですよね。そういえば、うちの西田もだ。嫁さんと子供らが実家に行ったきり戻ってこないと愚痴をこぼしていたな。みんなしっかり働いているのにね。男の気持ちは女どもにはわからないのか。なあ、若林」木村は眉を寄せて、若林に目を向けた。
 失礼しまーす、と社長夫人の知香が応接間に入ってきた。
「アイスコーヒーにしました。どうぞ……何ですって、女どもにはわからないとか、なんとかとか」
 それぞれに配り終えると、知香は補助椅子のスツールに腰を落とした。
「社長、この『スナックしょうこ』と『郷土料理・和歌』の領収書、先月からやたらと多いんですが、何にお使いですか? 枚数も金額も、少々多いかと思いますが」
 知香は、手にした領収書を木村の目の前にかざした。
「なんだよ、藪から棒に。そんなこと今ここで確かめなくてもいいじゃないか。いま大事な話をしているんだ」
「いいんです。皆さんのいるところで、あなたの真意をお聞かせくだそれば、いつもごまかされてしまいますから。ねっ、若林さん。そうだ、若林刑事、うちの社長を取り調べて下さいな」知香が敬礼のポーズをとった。
「なんだなんだ? この家庭も危ういんじゃないか」
 若林はニヤニヤしながら、アイスコーヒーのストローに口をつけた。
「いや、それはだな、ほら、あの接待とか、仕事の付き合いとか、その、あれだよ」と木村はしどろもどろだ。
「はい? よく聞き取れないですけど」知香は手のひらを耳にあてた。
「知香ちゃん、この音聴棒を社長の胸に差してみるといいよ。よく聞こえるぞ。なんせ盗水現場と拉致監禁現場を探し当てたすぐれものだからね」
 傍らに置いてあった音聴棒を手に取って、若林は知香に差し出した。それを受け取ると、
「そうだわ、こんなすぐれものがうちの会社にあったのね。ほら、社長、胸をこっちに向けて。この領収書の本当の使い道はなんなのよ。はっきりと言いなさい。白状しろ!」と知香は、音聴棒を応接間の床にコツコツと打ち付けた。
「危ないだろう! 先っぽ尖っているんだぞ」木村は眉を寄せてのけぞった。
「やっちゃえ、やっちゃえ。ぐさっと差して、こいつの心の声を聴いちゃえ」
「バカ野郎! 警察官がそんなことを強要してもいいのかぁ!」
 はち切れそうな笑い声が、木村設備工業の応接間に満ち溢れた。

                             おわり

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