【note創作大賞2024応募作品】Monument(第18話)
幕間(1/2)
香澄
ベッドの端に腰かけて、腕の絆創膏を取る。
赤紫にべったりと、また針の痕が残っていた。
やれやれ、だ。
首尾よく退院が叶っても、当分、半袖は着られまい。
もっとも、ここを出る頃にはもう、季節外れかもしれないが。
朝っぱらから、だらだらと続いた検査も、すべて完了。
なすべきことは何もなく、わたしはベッドに身を投げ出した。
陽射しは早、西に傾き、さらさらと群れ鳴く虫の音が、珍しく静まりかえった病棟の隅々にまで滲み渡る。
いまさらながら、そんなものに気付くわたしも滑稽だったが、あいつらなら、きっと、その名も知っているに違いない。
退院したら――いや、見舞いにでも来てくれたなら、ひとつ尋ねてみるとしよう。
あいつらは、明後日から林間学校、か。
一緒に行きたかった。などとは、口にするまい。
ここへは、自分で決めて、来たのだから。
小児科特別床。
廊下の突き当たりにあるこの部屋は、二方向に窓があって風通しと眺めがいい。
思い立って、窓を開け放つ。
窓辺から見下ろす街は、トパーズの色。
日中、陽に炙られた草の香が、ここ三階にまで立ち昇ってくる。
正面玄関の賑わいに、ふと見れば、車回しから退院していこうとする赤ん坊と目が合った。
母親の胸元から、届きようもないわたしに向かって両の手を伸ばしてみせるその子に、わたしは小さく手を振り返す。
うんうん。大丈夫だよ、大丈夫。
この広い世界のどこかに、君は必ず、ぴったりと納まる。
ずっと、ここにいるしかなかった、このわたしの見立ては確かだ。
◇
生まれてこの方、今日までの十二年とひと月足らず。
そのほとんどを、病院という小さな世界で過ごしてきた。
そこが、
「どんなところか?」
と、問われれば、わたしはこう、答えよう。
「痛いことや、苦しいことをするところだ」
と。
医師にしろ、看護師にしろ、検査技師にしろ、やると決めたことは、必ずやる。
泣こうが、喚こうが、暴れようが。
なだめられ、おだてられ、しまいには押さえつけられて。
無駄な抵抗、という言葉に今一つ実感が伴わないのは、物心つく前にわたしがそれを悟っていた証左である。
とはいえ、人の身とは不自由なもので、痛みを覚えれば顔をしかめて呻きを漏らし、苦しめば自然、五体はのたうち、まなじりは涙を搾りとる。
いやいや。そんなことができるうちなら、まだマシだ。
ほんとうにヤバいとなった、その時にはもう、なすがままに身を任せ、息をするのも億劫になる。
夢と現世の端境で睡魔が手招く、そんなとき。
いつからかわたしは、こう考えるようになった。
もう、このまま、目なんか醒めなければいいのに、と。
両親の愛情に、疑いを持ったことはない。
いつだって二人は、気の毒なくらい満面に笑みを湛えてわたしの病室を訪れ、お金で買えるものなら、なんだって買って与えてくれた。
ただ、それを両親に強いているものの正体が、ほかならぬ、わたし自身であることを看取できたその日から、わたしの世界は歪みはじめた。
父を、母を、困らせてはいけない。
そのくらいの良心は、このわたしにだって備わっている。
でも、だ。
その呵責に、耐えたところでなんになる?
わたしが完治するでもなければ、わたしという、くびきから両親が解き放たれるわけでもない。
だとすれば、だ。
みんなのほんとうの幸いに至るため、わたしにできること、とはなんだろう。
懊悩の泥濘にまみれるべきは、誰なのか。
言を、待つまい。
「ペットを飼いたい」
この非常識な難題を思いつき、ようやく口にできた、その日の夜。
己が罪深さにおののいて、わたしは一睡もすることができなかった。
なのに、たったひと月の後、病室には、つがいのグッピーがやってきた。
それは、優雅で美しい厄介者だった。
水は毎週、換えてやらねばならないし、彼らは恐るべき勢いで繁殖した。
半年と待たず、水槽は二つになり、オスとメスとを分けた、そのまた半年後。
魚たちは、みな天寿を全うし、水槽はお払い箱になった。
こんなやつに遣わされた運命を、彼らはさぞ恨みながら逝ったことだろう。
熟慮を重ね、次は、「ピアノを弾きたい」と、言ってみた。
病室に楽器、である。間違っても叶うことはあるまい。
数日後、わたしはわたしの不明に恥じ入った。
大きな音が出てさえくれれば、ヴァイオリンでもトランペットでも、なんでも、よかったではないか。
いったい、どこのどいつだ? 電子ピアノ、なんてこしらえたやつは。
ねだってしまった以上、弾いてみせないわけにもいかない。
わたしの誤算の見返りは、気疲れのする母とのレッスンだけだった。
三つ目の、「庭付きの家で、散歩をしたい」は、久しぶりに両親と夕食を共にした気詰まりから、うっかり口をすべらせた。
わかっている。無神経で、幼稚な駄々だ。
その頃、両親は川向うの、せせこましいマンションに住んでいた。わたしが、そこに滞在できるのは年に数日、あるか、ないか。
なのに、一年あまりで両親は、それを実現してみせた。
一時退院で泊まりに出かけたその家は、広く、大きく、一目ですべてがわたしのためだけに造られたものだと知れた。
芝生の敷かれた広い庭には、ご丁寧にクチナシの鉢まで並んでいる。
なんという、残酷なことを。
この家で両親と歳月を重ね、クチナシを愛でながら成長する、わたしの姿なぞ、あり得はしない。
まやかしに注ぎこむとすれば、なんと高価な買い物だったことだろう。
数日を過ごして、ようやく病室に戻れたその日の午後。馴染んだベッドに横たわって、わたしは心底後悔し、そして思い知らされた。
結局は、ここ。
この広い世界の中で、ただひとつ。
この狭っ苦しい病室の中だけが、我が安住の地であることを。
「学校に通いたい」
この四つ目の無分別が、あっさり叶うと知った晩。
わたしはわたしのポケットの奥に、鼠いろの切符を見出した。
是も非も無い。
旅ならせいぜい、楽しませてもらうとしよう。
水筒なんかはいらないけれど、スケッチ帳は忘れずに。
終着駅はどこだろう?
硝子の呼子は、いつ鳴らされる?
わたしの手元に、黒曜石の地図はなかった。
◇
「よお、戻ってきたな、性悪娘。元気にしてたか?」
その夜の担当は、妙子さんだった。
のっけから「性悪娘」とはご挨拶だが、こんな姉でも居てくれたなら、どれほど心安まることだろう。
「はい。お陰様で」
「なんだよ、張り合いねえなあ。熱でも――ない、か」
額にあてられた左手から、ほんのりとタバコが香った。
「どうした? なんか雰囲気、変わったな。おまえ」
どこか不満げな思案顔のまま、腕帯を巻き終えると、妙子さんは不意に顔を寄せ、わたしの首筋で鼻を鳴らした。
「男――だろ?」
迂闊にも、顔に火がついた。ヘアクリップで留められた、丸出しのこめかみにまで、汗が浮く。
「なんだあ。図星かあ? あーあ、計り直しだな、血圧。ほらほら、深呼吸しろ。深呼吸」
再び、ゴム球が圧される。
数値を記した妙子さんは、三色ボールペンをくるりと回し、わざとらしく舌なめずりをしてみせた。
「さあてっ、と。ここは経験豊富なお姉さんが、一丁、相談にのってやるとしようじゃないか」
ずうずうしく、わたしのベッドに降ろしかけた妙子さんの腰で、けたたましくポケベルが鳴った。
「ちっ。いいとこだったのに。後で事情聴取するからな。首を洗って待ってろよ」
◇
わたしの学校生活は、投げやりに始まった。
学習進度だけでいえば、中一の三学期は、もうそろそろ終えようか、というところ。
だのに、編入されたのは、一学年下の五年生。
仮病を使って延び延びにした初登校、わたしは涼しい顔をして、むくれかえっていた。
天鵞絨を張った腰掛けなんて、もとより望むべくもない。
でもこれは、わたしの旅だ。
誰にも邪魔はされたくないし、誰にも関わってほしくない。
静かな道行。
そんな、ささやかな望みの一片は、図らずも母が叶えてくれた。
誰よりも早いお送りと、夕刻というには遅すぎるお迎えの車。
始業前の静謐と、静寂の放課後にしばし浸って、分刻みのせわしない日常を忘れる。
そう。そこへ邪魔者たちが、ずかずかと踏み入ってくるまでは。
こいつらの顔には、見覚えがあった。
入学手続きの校門前で、初心者マークの母が轢き損ねた、ダチョウ頭とその一味。
小生意気な世話焼き女と、唐変木の巻き毛男だ。
惻隠の情とやらを履き違えたか、やつらはわたしに纏わりついて離れない。
侵食されていく、残り少ないであろう、わたしの時間。
それでも「かわいそうな優等生」を演じるわたしは、にっこり笑顔の仮面を被って、その蚕食を受け入れざるを得ない。
日課にしていた、早朝の校庭散策。
体育館脇に設けられた、ウサギたちを囲うみすぼらしい小屋の前で、その衝動は、だしぬけにわたしを突き動かした。
この愛らしい生き物たちが、自由に校庭を跳ね回る姿は、ひととき、わたしの心を慰めてくれるに違いない。
それに、なれなれしく、このわたしを「香澄ちゃん」などと呼んで憚らないダチョウ頭は、確か飼育委員会とやらだった。
一泡、吹かせてやろう。
わたしを押し留めんとする良心に反して、小刻みに震える両手が、金網に掛かった。
だいぶ傷んでも、いたのであろう。
予期したほどの抵抗もなく、画用紙一枚ほどの隙間が空いた。
さあ、出ておいで。
お前たちは、自由だ。
――なのに、どれほど待っても、彼らは外へ出てこない。
片隅で一塊になったまま、わたしの奇行を静かに見据える。
そのきれいに澄んだつぶらな瞳に、わたしは算を乱して、すごすごと退散した。
これが、最初の綻びだった。
二度目の「発作」には、原因があった。
放課後の図書室。
わたしは天の川に沿って、星空の写真を繰っていた。
来るべき旅路を、夢想しながら。
わたしの手は、流星のページで止まった。
両親の、のろけ話の一節によれば、高原で見た流れ星の雨が、二人のなれそめだったとか。
母が見せてくれた写真には、ワンピースの裾を押さえて微笑む若き日の母と、麦わら帽子――それは今、体育の時間の見学で、わたしが無理やり被らされている――を頭に載せて、タオルを担いだ作業着の父とが、なんとも微妙な距離感で並んでいた。
ピアノ科の合宿で来ていた深窓の母と、古民家研究のフィールドワークで汗にまみれていたであろう父とが、どんな運命のいたずらで心を通わせあったのか。
そんな考えに耽っていたから、世話焼き女の質問に、わたしは素のまま、答えてしまった。
体よく母をダシにつかって、煙に巻いたまではよかったが、帰り道、往く手を阻んだ「通行止め」の札には、心ならずも、こめかみを押さえた。
プラネタリウムへの、強引な誘い。
予想外の出来事に、すっかり舞い上がってしまった母。
その余計な一言が、それをピクニックにまで発展させる。
「学校はどう? お友達はできた?」
はぐらかし続けていた質問のツケを、よもや、こんなところで払うはめになろうとは。
上機嫌でハンドルを握る母の隣で、苦り切ったわたしは、外を眺めながら、イライラと爪を噛み続けた。
人目なしにはもう、本来のわたしも、塗り固めた体裁も、保つことができない。
わたしは追い詰められていた。
その翌朝。
宿題を忘れたふりで、化粧に手間取る母をせっつき、いつもより早めに家を出る。
教室に到着するや、憐れなグッピーたちとの思い出に黙祷を捧げ、苦闘の末に、メダカたちをバケツに集めた。
ひとつ、言い訳を許してもらえるとするなら、巻き毛男の物言いにある。
こんなちっぽけな水槽に押し込めておいて、四六時中、人目にさらしておきながら、「快適だ」なんてことだけは、金輪際あるまい。
重たいバケツを、休み休み校庭の池まで運び、メダカたちを放してやる。
当たり前だが、一言の礼もなく、彼らは瞬く間に水底へと、その姿をくらませた。
ただ一匹、背の折れ曲がったメダカを、置き去りにして。
眩暈を覚えるほどの動悸と悪心をこらえて痕跡を隠し、なんとか保健室までたどり着けたのは、まさに奇跡といえよう。
三度目のは、完全な「八つ当たり」だった。
無理やり連れて来られたはずのプラネタリウムで、わたしは、空席だったはずの星空の旅を、いつの間にか三人とともにしていた。
旅路の最後は、切符の色で決められる。
彼らとは石炭袋で袂を分かち、わたしはひとり、旅を続けねばならない。
星空への、無窮の旅を。
行き先も知らず、待つ人もいない、どこかへ。
迂闊にも、涙がこぼれた。
取り繕って、無邪気にはしゃいでみせたつもりのわたしは、その実、ふわふわと浮き立つ心を、どうしても元通り、わたしの真ん中に鎮めることができないままに、その日を過ごした。
自分の部屋へ戻るなり、わたしは身に着けていたものを脱ぎ散らかすと、ベッドに飛び込み、大暴れをした。
怒りが、羞恥が、困惑が、枕を鷲づかみにして叩きつけたかと思えば、クッションを両手に持って振り回し、ベッドマットを打ち据える。
何度も、何度も、何度も。
物音を聞きつけて階段を駆け上ってきた母が、ご丁寧にも三度のノックの末にドアを開いたときにはもう、わたしはベッドの上で身動きひとつままならず、ぜいぜいと肩で息をして、すっかりのびてしまっていた。
母は珍しく何も問わずに、蒸しタオルでわたしの身体を拭ってくれると、ぐしゃぐしゃになったベッドを整え、静かにわたしを寝かしつけた。
それでも眠れずにいたわたしに、持ってきてくれたホットミルクには、いつもより少しだけ多く蜂蜜が入っていたような気がする。
そんなことがあった、次の日の朝。
わたしは、いつも通り校庭を回りなら、わたし自身に、自制と自重を呼びかけていた。
なのに、大きなヒマワリが、わたしの心を焚きつける。
それは図書室の北側で、対照実験の「日陰」に植えられているくせに、「日向」の二倍以上に丈を伸ばして、早くもつぼみを頂いていた。
土の質がどうとか、建物からの熱がこうとか。知った風な巻き毛男のたわ言は、この際、聞かなかったことにしておこう。
「迷惑なんだよ、お前らは。日陰者のくせに、無駄にでっかくなりやがって」
通りがかりの悪態に、ヒマワリは、その大きな身を、おどけたようにくねらせた。
「そういうおチビさんだって、ご同類じゃあないのかい?」
それが、わたしには、そう聴こえた。
ご親切に「ひかげ」と記された杭を、ひとつ蹴っ飛ばして引っこ抜き、わたしはそいつに狙いを定めた。
力一杯、横薙ぎにしたはずが、目測を誤ったのか空振りし、二度目でそいつはお隣さんにしなだれかかった。
ふふん。いいざまだ。
空振りのお返しに、もう一本。
今度は一振りで「く」の字に折れた。
気をよくして、三本目へと振りかぶる。
「もうそのへんで、勘弁してあげてよ」
予期せぬ声に、背筋が凍った。
振り返るまでもない。ダチョウの声だ。
「どうして、こんな時間に?」
と、口にしてしまえば、それこそ愚問だったろう。
尾けられていたのだ。わたしは。
この、うすら笑いを顔に貼りつけた、ダチョウ頭に。
やつは、わたしから取り上げた杭を元通り土に戻すと、ヒマワリの傷をしげしげと眺め、
「ここで待ってて」
と、一言残して立ち去った。
世話焼き女と巻き毛男にでも、言いつけるつもりか。
それとも、教師でも呼んでくる気だろうか。
いずれにせよ、ことが知れれば、なんらかの叱責や処罰は免れまい。
いい口実になるかもな。
と、そう開き直りかけた頃、ダチョウは一人で戻ってくるなり、
「あれれ。ほんとに待っててくれたんだ?」
と、さも意外だといわんばかりに言い放ち、ヒマワリの茎に割り箸を添えて、太い糸で巻き始めた。
「わけくらい、訊いてくれてもいいんじゃない?」
「あとでね。それよか、そんなとこで突っ立ってんなら、手、貸してくれると助かるんだけど」
剣を呑んだ口調にも、ダチョウ頭はびくともせず、わたしは言われるままにヒマワリを支えた。
「メダカも香澄ちゃん、だよね?」
「ウサギ小屋も、ね」
ダチョウ頭は、芝居がかったしぐさで、ため息をついた。
「おれはともかく、毬ちゃんと眞琴っちゃんは純情なんだからさ。も少し、手加減してやってくんないかな」
「先生には言わないけど、二人には言いつける、ってこと?」
「まさか。しないよ、そんなこと。二人が悲しむもん」
気の利いた返答がみつからず、わたしは沈黙を守ることにした。
「これでよし、っと」
見かけによらぬ手際の良さで、ダチョウ頭が両手を叩く。
「貸しを作った、なんて思わないでね」
「やだなあ、そんなこと考えてないって。でも、そっか。せっかくだから、罰ゲームね」
「罰ゲーム?」
「うん。今日からおれのこと、名前で呼んでよ。啓太郎、ってさ」
(つづく)
