【note創作大賞2024応募作品】Monument(第23話)
第七章(2/3)
眞琴
眼下には、地平の果てまで一面の闇。
光も、ない。
音も、ない。
風も、ない。
匂いも――走りに走り続けたせいで、焼き付いた肺が吐き出す微かすかな血の香り以外、なにもない。
汗を吸った衣類は肌に纏わり、手の甲で拭った唇には、薄っすらと塩の味がした。
町は、闇という名の水底に深く沈んで果てしなく広がり、そのまま空へ――吸い込まれてしまいそうなほど、澄み渡った星空へと連なっている。
天空は、くっきりと銀河に両断されていた。
首筋に冷たく、汗が流れた。
それが、悪寒となって背骨を伝い、全身を震わす。
それをもう、自分の意志では抑えることができない。
崩れそうになるひざに両手をあてがい、中腰になって身体を支えた。
「大規模な停電。か、なにかだろう」
掠れた声で、そう呟いた毬野が、一転、声を励ました。
「好都合じゃないか。これなら警備はてんてこ舞いだ。僕らにかまってる暇なんかない。行こう!」
「う、うんっ」
大階段の左端。
壁際に片手を着きながら、右手を伸ばして毬野の背中、バックパックのハーネスを掴んだ。
「ごめん、毬野。もう少し、ゆっくり」
闇の底へと降りていく。
その恐怖にひざも足首もすっかり萎えて、ちっとも力が入らない。
最初の踊り場を、ようやく越えた。
花時計を過ぎて、大階段の中ほど。
広く取られた踊り場へと、たどり着くまで、あと数段。
と、いうところで足がもつれた。
倒れる。
覚悟を決めて固めた身体は、毬野が振り向きざまに、受け止めてくれた。
そのまま、踊り場の床に降ろされる。
毬野の、腕の中。
心ならずも、その懐に崩折れる。
「眞琴。ケガは?」
「平気。大丈夫」
気遣う毬野の手の内から、無理やり身体を引きはがす。
着いた左足に、鋭い痛みが走った。
途端、バランスを失い、そのまま左――プールへと続く通路の壁に、しこたま背中を打ち付けた。
ズルズルと、その場へ、へたり込む。
ざらざらの壁面が背中を擦った。
「麦っ!」
「任せて――眞琴っちゃん、立てそう?」
「うん……痛っ」
啓太郎に両手を取られて、立ち上がろうと、力を込めた左足首から、再びビリっと痛みが走り、尻餅をつく。
「眞琴っちゃん! ――ここならしばらく身を隠せそうだ。毬ちゃん。ちょこっと休んで、様子を見よう」
「ダメだよ啓太郎。先を急がなきゃ!」
「なら、なおのこと足の状態を確かめないと。でしょ?」
痛みをこらえて長靴を脱ぎ、ズキズキと脈打つ足に手を当てる。足首の外側、くるぶしの少し上が、腫れて熱を持っていた。
こんなことになるなんて……。
わたしたちの持ち物の中に、医薬品の類は何もない。
啓太郎が、わたしの前に跪き、バックパックから取り出したタオルを、口に咥えて二つに裂いた。
「ごめん。俺に出来るのはここまで。眞琴っちゃんなら結べるんでしょう?」
「ありがと。啓太郎」
差し出されたタオルの切れ端。その中ほどを土踏まずにあて、足首の後と前で交差する。
応急処置には、事足りそうだ。
「眞琴、大丈夫か?」
「うん。ほら」
足首を固定し終えて、立ち上がる。
「歩けそう? 眞琴っちゃん」
「もちろん」
そう言い返して、歩いてみせる。
ぎこちなく、左足をかばい、痛みを堪えて。
「眞琴、落ち着くまで足を休めてろ――麦、ここにいてくれ。僕は、この先の様子を見てくる」
そう言い置いて背を向けた毬野が、ほんの数歩と進まぬうちに立ち止まった。
「ウソ……だろ?!」
この先、通路は真っ直ぐ、プール跡地に繋がっている。
それは一昨日、確かめた。
――なのに。
毬野が持ち上げたランタンの灯りが照らしたのは、鈍く輝く南京錠。
それは両開きの鉄柵をしっかりと結んで、その真ん真ん中に鎮座していた。
馨
待て――待て、待て。
一昨日、眞琴と来た時に、こんなものあったか?
いや、ない。柵なんか、断じて無かった。
試しに、柵を掴んで押してみる。
ガシャり、と音を立てて柵は動かず、弾みでぶつかった南京錠が、キンッと鋭く音を立てた。
どういうことだ?
柵に塗られたペンキは、モザイク状にひび割れていた。
その感触は、軍手越しでも、僕の手のひらに伝わってくる。
昨日今日、作られたものでないことだけは、確かだ。
だとしたら、見落としていた、ということか。
一昨日は開いていた鉄柵が、何らかの事情で、今日までの間に閉じられた、と?
柵の高さは、およそ2メートル。
眞琴のケガは心配だが、麦と力を合わせれば、乗り越えられないことはない。
ランタンを向けて、行く手を――柵の向こうを確かめる。
「そんな……バカな……」
柵から、およそ十メートルほど奥。
そこには建物が――売店やら更衣室やらが入っていた建物が、道を塞いで建っていた。
そんなもの、絶対に無かった。あったはずがない。一昨日までは。
「毬ちゃん! こっち」
切迫した麦の声に、二人のもとへ馳せ戻る。
壁に背中を預けたまま、気遣わしげに麦を見る眞琴。
隣で、麦は花時計のある踊り場へと折れる壁の角にピタリと身を寄せ、片手で僕を制した。
姿勢を低く、麦の足元まで、にじり寄る。
「っ?!」
大階段の天辺に、無数の光が瞬いていた。
それは、階段を滴るように降りて来る。
大階段の向かい側、斜面に広がる雑木林の中にも。
光の粒は、今しも溢れかえろうと迫っていた。
いったい何が起こっている?
僕たちは、どう、すればいい?
この先もう、逃れる道は、どこにもない。
大階段を下りたところで、正門は厳重に封じられている。
たとえプールへの柵を乗り越えられたとしても、その先にあるのは建物だ。
その背後に、ほんとうに残土置き場は、あるのだろうか。
前髪に絡めた指が震えて、額に浮かんだ脂汗に濡れた。
「ねえ、なにこれ。 なんの音?」
眞琴の声に、耳を澄ませた。
ヴゥーンと低く、機械の唸る低い音。
啓太郎は通路の反対側の壁に移って大階段の下を、僕は立ち上がって、さっきまで麦のいた通路の角から両耳に手をあてがって、音の来る方向を探った。
が、どこから発しているものか、音の源はわからない。
そうしている間にも、光の粒はひたひたと、僕らに向かって押し寄せてくる。
それは、とうとう花時計の上部にまで達した。
花壇の中に瞬く光。
その上を、細長い影が一本、ゆっくりと横切っていく。
見間違い、ではない。
瞳を凝らす。
時計が――花時計の秒針が、花壇の上を滑っていた。
と、すると、この音は花時計の……。
いや。でも、どうして。今、なぜ時計が動き出す?
もう、ずっと止まっていた、はずなのに。
「毬ちゃん、眞琴っちゃん。なんだろう、あれ?」
大階段の下を見張っていた麦が、通路の端から身を乗り出すと、真っ直ぐに腕を伸ばして指さした。
真っ暗闇に、沈んだ地平。
その彼方に輝く、小さな光を。
星、ではない。
僕らに迫る、あの淡い光ともまた違う。
それは、闇をかき分けて、緩やかにうねりながら、やってくる。
次第に、その輝きを増しながら。
僕らの居る、この大階段の麓へと向かって。
眞琴
凪いだ湖水を想わせる、漆黒の闇。
その水面を、謎の光は進み続ける。
光の点は、瞬きつつ円形から楕円に、そしてまた丸い形へと脈動し、次第に大きくなっていく。
やがてそれは、はっきりとした楕円形を示すと、さらに細長く横に伸びた。
モノレール?!
そう。闇夜を走るモノレール。きっとこんな風に見えたことだろう。
でも、まさか。そんなはずはない。
車両はもう――遊園地の閉園に先立って――壊れてしまい、とっくに撤去されていたはずだ。
だったが、眼下に迫る光の列は、明らかにモノレールのそれだった。
ヘッドライトに、薄っすらと線路が浮かぶ。
車窓から煌々と、眩しい光を湛えながらモノレールは速度を落とし、大きく右へ、遊園地の正門へ、カーブする。
朽ち果てて、かろうじて残された駅舎へと向かって。
ヘッドライトが丘に茂った木々を舐め、くっきりと駅舎を照らした。
その光景に、釘付けにされていた、わたしたちの後ろで、カチリッ、と。
小気味のいい、音が鳴る。
一斉に振り向いたわたしたちの目の前で、永遠に一時五十九分を指していたはずの長針が真上を向いた。
仕掛人形がせり上がって、踊り出す。
手に手に、ハンドベルを携えて。
遊園地の丘に、楽の音が響き渡った。
呼応して、わたしたちを取り囲んだホタルたちが、一斉に明滅を繰り返す。
強く。また、強く。
モノレールが、プラットホームに滑り込む。
丘は光に満ち溢れ、眩んだ視界が一瞬、真っ白になった。
光が退いた。
わたしたちは、変わることなく遊園地にいる。
が、駅舎に、正門に、わたしたちの頭上には、灯りが点り、花咲き乱れる大時計はライトアップされ、その隣で空中を三色のリフトが滑っていく。
吊られた提灯が、色とりどりに、夜風に吹かれて揺れていた。
入口広場から、だろうか。
ストリート・オルガンが、陽気な音楽を奏でている。
丘の端には、ネオンに輝く大観覧車の姿があった。
「なに。これ?」
「どうなってんの?」
啓太郎と、声が重なった。
大階段に、人が行き交う。
わたしの前には、左右の手を両親と結んだ、赤いスカートの女の子。
その隣で、腕を組み、ぴったりと身を寄せ合ったカップルが大階段を登っていく。
踊り場のベンチでは老夫婦が、ひととき脚を休めていた。
夜間開園――夏休みの間と、紅葉の季節に催された――その真っただ中に、わたしたちはいた。
泥だらけのジャージに、長靴のまま。
人々は、わたしたちに目をくれることもなく、遊園地での一夜を楽しんでいるように見える。
人波に紛れて、ぽつんと一人、佇む女性を除いて。
涼し気な、やわらかい白のワンピース。
花時計の麓で、静かに微笑む優しい瞳。
長く伸ばした黒髪が、夜風をはらんで膨らんだ。
切れ長に整った両の眼と、その左の下の泣き黒子。
どこからか遠く、クチナシが薫った。
彼女が今、わたしたちの前に立っている。
夢に見る姿、そのままに。
馨
風に吹かれた提灯が、足元で影を揺らめかす。
彼女の背後で、花時計の秒針が流れた。
呆然と立ち尽くす僕らほうへ、彼女はゆっくり、歩を進める。
真っ直ぐに。
確かな足取りで。
誰一人、言葉を発しない。
彼女の歩みが、僕らの前で、ひたりっ、と停まった。
つかの間、僕らと相対した彼女の右手が、すっと僕の胸元に伸ばされる。
その意を察するまでもなく、僕はずっとポケットの中で握り締めていたものを差し出した。
カプセルを捻り、その中身を、左手に受ける。
僕は、指輪を摘まむと、彼女の手のひらに委ねた。
桜色をした手のひらの上で、おもちゃの指輪は、きらきらと輝く。
彼女は、それを胸に抱くと、しばしの間、瞳を閉じた。
やわらかな笑みを浮かべた頬の下、いたずらっぽく口角が上がる。
広げられた、左の手指。
右手に摘まれた指輪は、彼女の左手の指を順繰りに巡り、薬指の上で止まった。
ゆっくりと指輪が、降りていく。
それが彼女の薬指におさまると、森ノ宮が、いた。
ぼくらの目の前に。
ぼくらと過ごした十二歳の。
五年四組の、森ノ宮が。
いつの間にかぼくらも、小ざっぱりとした夏服に身を包んでいた。
十一歳の姿になって。
大階段を駆けあがる彼女と眞琴が手を繋いだ。
もう片方の手を取ろうと、麦が走る。
遅れて、ぼくも三人の背中を追いかけた。
メリーゴーランドの回る、入口広場の脇を抜け、ネオンの輝く大観覧車の下へと向かって。
四人揃って乗り込むと、ゴンドラは天高く、星空の中へ舞い上がった。
「馨さん」
ぼくの隣で、彼女は、ぼくをそう呼んだ。
そんな、気がした。
眞琴
遊び疲れたあたしたちは、バラ園へ向かった。
盛りの過ぎた、バラのアーチ。
その傍らには、植えられたばかりのクチナシが、白い花をいくつもつけて、やさしい香りを贈ってくれる。
あたしたちは、芝生に寝そべると、頭を寄せ合って、満天の星を見上げた。
真夏の、星空を。
流星は、長い尾を曳いて次々に飛び、星々は、あたしたちの頭上で巡った。
馨
プラットホームで指輪を外すと、森ノ宮は、ぼくに差し出した。
「持って行けよ」
森ノ宮は小さく、頭を振った。
「来ないの? 一緒に」
眞琴の言葉にうなずくと、彼女は白線の後ろへと一歩下がった。
発車のベルが、鳴り響く。
ドアが、森ノ宮とぼくらを隔てた。
モノレールが、走り出す。
ぼくらは三人、車内を駆けた。
プラットホームの、森ノ宮を追って。
最後尾の窓ガラスに顔をくっつけ、遠ざかっていく森ノ宮を見守る。
彼女の姿が、次第に小さく、やがて光の粒になり、山襞の陰に隠れてしまうまで。
(つづく)
