大河小説 国父の剣 第10回:殿の遺言
安政5年(1858年)夏 薩摩国 鹿児島
安政5年、日本は未曾有の危機に直面していた。江戸では、大老・井伊直弼が独断で日米修好通商条約を締結し、これに反対する勢力を弾圧する「安政の大獄」が始まろうとしていた。
斉彬は、この条約締結に断固反対し、将軍継嗣問題では一橋慶喜を推すなど、精力的に幕政に介入していた。彼の理想は、幕府主導による開明と富国強兵であり、その実現のために、彼はまさに獅子奮迅の働きを見せていた。
その頃、薩摩藩は、斉彬の指示により、幕府に無断で兵を率いて上京する準備を進めていた。斉彬の目的は、幕府の横暴を正し、朝廷の権威を背景に国論を統一すること。これは、久光が抱いていた「藩の安定」を遥かに超えた、「日本の安定」を目指す壮大な計画であった。
久光は重富邸で、斉彬の急進的な動きに不安を感じながらも、兄の類稀なる才に賭けるしかないと自らを納得させていた。
しかし、その運命の歯車が、あまりにも突然に止まることになる。
安政5年7月16日、江戸へ向かう藩士たちの出陣式を終えた直後、島津斉彬は突如として病に倒れた。
「殿が、危篤に……!」
報せは、稲妻のように鹿児島城下を駆け巡った。久光は、報せを聞くや否や、城内へ駆けつけた。
斉彬の病床は、集成館の熱気と対照的に、冷たい空気に包まれていた。側近たちが涙に濡れた顔で立ち尽くす中、久光は兄の傍らに膝をついた。
斉彬の顔は、苦痛に歪みながらも、最後の気力を振り絞って意識を保っていた。
「久光……来たか」
その声は、かつての力強い響きを失い、か細くなっていた。
「兄上……ご病状はいかがでございます。どうか、ご安心を。すぐに優れた医師を……」
久光は、藩主として、兄として、斉彬には薩摩の、いや、日の本のために、まだ生きていてもらわねばならないと必死に訴えた。
斉彬は、久光の手を握り返す力もなかったが、その眼差しには、藩の将来に対する強い意志が宿っていた。
「間に合わぬ……久光よ、聞け。薩摩の未来は、軍備と開明にある。私が築いた集成館の事業を、決して止めてはならぬ」
久光は涙をこらえ、深く頷いた。
「承知いたしました。兄上の大御心、必ずこの久光が守り抜きます」
そして、斉彬は最期の力を振り絞り、最も重要な遺言を口にした。それは、久光の運命を、そして日本の歴史を決定づける一言となった。
「家督は……久光の嫡男、忠義に継がせる。そして、久光。貴殿が、忠義の後見役となり、藩政の全てを掌握せよ」
久光は、耳を疑った。
(忠義を藩主に……そして、私を後見役)
久光の長男・忠義は、まだ幼い十歳の少年である。斉彬には他にも男子がいたにもかかわらず、なぜ、久光の息子を藩主に指名し、久光自身を藩政の頂点に据えたのか。
斉彬の意図は明白であった。
自分の死後、由羅派や守旧派が藩政を混乱させることを最も恐れたのだ。
藩の安定という久光のゆるぎない誓いこそが、自分の遺志を継ぎ、集成館事業を守り抜く唯一の道だと確信したのである。
「久光よ……薩摩を……そして、この国を……」
それが、斉彬の最期の言葉であった。
安政5年7月20日、島津斉彬、急逝。享年五十歳。
藩主の急逝は、藩内に大混乱をもたらした。
久光は、悲しみに暮れる暇もなかった。彼は斉彬の死を公表する直前、藩の要人たちを集め、斉彬の遺言の重さを説いた。
「この遺言は、故斉彬様が命を賭して、薩摩の安寧を願われた証である。藩論を分裂させる者は、斉彬様への背信と見なす」
久光は、お由羅騒動で培った「非情の政治力」を最大限に発揮し、反対派を力で抑え込んだ。
そして、斉彬の死から間もなく、久光は藩主・忠義の「後見」という立場で、薩摩藩の最高権力者となった。
藩主の実父にして、藩の指導者。
久光は、長年追い求めた「藩の安定」という目標のために、図らずも藩政の頂点に立つことになった。彼は、亡き兄の理想と、自身の現実主義という二つの重い荷物を背負い、激動の幕末へと踏み出すのである。
(第11回「国父の誕生」へ続く)
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