大河小説 国父の剣第4回:重富(しげとみ)への道


天保年間(1830年代) 薩摩国 鹿児島城下 重富邸

統之助の人生における最初の大きな転換点は、彼が島津一門・重富家へ養子に出されたことである。それは、藩主・斉興の五男という、藩政の中心に近すぎるがゆえに危険な立場から、一門の家という、政治的に安全な、しかし決して軽んじられない距離へと移されることを意味した。

この養子縁組の裏には、生母・お由羅の方の深謀遠慮があった。

「あの御所様(斉彬)の動きは、日増しに激しゅうなっています。いつ、どのような形で統之助様に災いが及ぶか、わかりませぬ」

由羅は、藩内の権力闘争の激化を肌で感じ取っていた。斉彬が世子としての立場を固める中、由羅派は次期藩主候補を擁立し、斉彬の失脚を画策せねばならない。その際、統之助を本家から離れた一門の家に入れておくことは、仮に争いが激化しても、彼の命と血筋を守るための保険となった。

斉興もまた、長男と寵愛する側室の子との対立に心を痛め、統之助を重富家に預けることで、この聡明な五男を藩の直接的な火種から遠ざけようとした。

統之助は、重富家の当主、忠教の養子となり、名を久光(ひさみつ)と改めた。新たな名を授けられた久光の心境は、複雑であった。

「私は、母上の野心から逃れたのか、それとも、いずれ戻る日のために備えよと命じられたのか」

重富邸は、本家の鹿児島城下にありながら、城の喧騒とは一線を画した静けさに包まれていた。藩政に直接関わる義務から解放された久光は、この環境を最大限に利用した。

藩政の表舞台から離れた久光が、深く傾倒したのは、二つの探求の道であった。一つは国学、そしてもう一つは武士道である。

国学の探求は、兄・斉彬が進める西洋の学問への、久光なりの対抗であった。

『古事記』や『日本書紀』、そして『万葉集』などの古典を読み耽るうち、久光は、この日本の国が、いかにして外国の力に頼らず、独自の精神と歴史の上に築かれてきたのかを探った。彼は、西洋の知識も必要だと認めながらも、国体の基盤は、神代以来の日本の「固有の美風」にあると確信するようになる。

「兄上は、未来を西洋の蒸気機関の中に見られた。しかし、私は、未来の安定を、この国の過去と、人々の心の中に見つけねばならぬ」

久光の書斎の床には、彼の読み込んだ国学の書物が山と積まれた。彼の筆跡は、次第に力強くなり、その考察は、後の「公武合体」論の思想的な礎となっていく。朝廷を尊び、武家政権と連携することで、西洋列強の圧力に耐えうる、強固な国体を作り上げるという久光の信念は、この重富邸での孤独な読書によって育まれたものだ。

また、彼は薩摩藩独特の教育制度である郷中(ごうちゅう)教育にも積極的に関わった。藩政の中枢から離れた彼は、若い藩士たちと共に剣術の稽古に励み、質実剛健を旨とする薩摩武士の気風を体現した。

武士道とは、単なる剣の技術ではない。それは、君臣の義、親子の情、そして何よりも己を律する精神性である。久光は、重富邸で静かに武士道を学び直すことで、感情的になりがちな母の野心と、理想に走りすぎる兄の急進性を、客観的に見つめ直すことができるようになった。

ある時、重富家の家臣の一人が、城下の噂話を持ってきた。

「奥御殿では、由羅様方が、斉彬様を失脚させるための、いよいよ具体的な謀議を始めているとか……」

久光は、表情一つ変えずに、ただ庭石を見つめていた。

「由羅様は、殿様(斉興)の寵愛を傘に、やりすぎでございます。我ら一門の者から見ても、藩の統制が乱れつつある」

家臣の言葉は、藩の安定を願う久光の心を深く突き刺した。

(母上……あなたの情炎は、もはや私一人のためではない。薩摩藩という巨大な家を、内側から燃やし尽くそうとしている)

重富邸での数年間は、久光にとって、己を鍛え、冷静な現実感覚を養うための、貴重な猶予期間となった。藩政の権力から離れることで、彼はむしろ、権力の本質と、それがもたらす混乱の恐ろしさを、遠くから深く理解することができた。

久光は、国学の書物を閉じ、重厚な鎧櫃に手を触れた。

「やがて、この薩摩を揺るがす山鳴りが起こるだろう。その時、私は、外の脅威だけでなく、内なる血の争いも鎮めるために、剣を執らねばならぬ」

重富への道は、藩主の座を求める道ではなかった。それは、薩摩藩という国家を、崩壊の淵から救い出す使命を自覚し、そのための知恵と力を蓄える、孤高の学びの道であった。彼は、来るべき「予兆」の日々に向けて、準備を整えていたのである。

(第5回「予兆(よちょう)」へ続く)

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