大河小説 国父の剣 第8回:兄、立つ


嘉永4年(1851年)2月 薩摩国 鹿児島

お由羅騒動による血の裁きから二年。薩摩藩の空気は、表面上は落ち着きを取り戻していたが、藩内の亀裂は深く、斉彬を支持した藩士たちの多くは依然として謹慎や遠島に処され、藩政は停滞していた。

久光は重富邸で静かに時を過ごしていたが、その眼差しは常に城下に向けられていた。彼は、母・お由羅の方への配慮から沈黙を守りつつも、藩の将来を担うべき人材が政権から排除されている現状に、深い焦燥感を抱いていた。

その状況が一変したのは、嘉永四年二月。

長きにわたり薩摩藩主の座にあった父、島津斉興が、ついに隠居を発表したのである。

この報せは、沈滞していた鹿児島城下に、一瞬にして電撃的な活気をもたらした。由羅派は斉興の意向を汲み、由羅の血を引く久光の息子・忠義を藩主とすることを最後まで画策したが、斉彬の正統性と、彼を支持する公家や幕閣の一部からの外圧を前に、斉興も最終的に逆らうことはできなかった。

島津斉彬、遂に藩主就任。

「斉彬様が……」

重富邸の一室。久光は、家臣からの報せを聞き、静かに目を閉じた。彼の胸には、安堵と、ある種の予感にも似た高揚感が渦巻いていた。

久光にとって斉彬は、政治的な対立軸である前に、敬愛すべき開明的な兄であった。久光は斉彬の理想主義や急進的な面を警戒していたが、その能力と、国難を乗り越えるための「開明の意志」は、誰よりも深く理解していた。

翌日、藩主の襲封(しゅうほう)式が厳かに執り行われた。

久光は、一門の重鎮として、城内の定位置から兄の姿を見つめた。狩衣姿の斉彬は、三十代後半の血気盛んな若き藩主として、堂々たる威厳を放っていた。

斉彬が藩主としての第一声を上げる。それは、伝統的な儀礼の言葉ではなく、薩摩の未来への、力強い宣言であった。

「我が薩摩は、今、未曾有の国難に直面している。異国の脅威は、日増しに増大し、この国の存亡に関わる重大事に至っている。故に、我々は守旧の殻を打ち破り、国難を打開せねばならない!」

その言葉は、由羅派によって抑圧され、謹慎を強いられていた藩士たちの心に、久方ぶりに熱い血潮を呼び起こした。

久光もまた、斉彬の言葉に、藩主としての「覚悟」を見た。斉彬の時代が、ついに始まったのだ。

久光は、襲封式を終えた斉彬に、一門の代表として挨拶を申し述べた。

「兄上、この度の襲封、心よりお慶び申し上げます。藩の安寧のため、この久光、一門の務めを果たす所存にございます」

斉彬は、久光の冷静沈着な態度を認め、静かに頷いた。斉彬は、お由羅騒動の最中、久光が母の野心から距離を置き、血の報復を防ごうと尽力した事実を知っていた。

「久光よ。重富の地で学んだ学識と、藩の現状を見つめる冷静な眼差しは、父上(斉興)の治世では十分に活かされなかった。だが、これからは違う」

斉彬の視線は鋭く、久光の魂を見透かすかのようであった。

「余は、藩政の刷新を急ぐ。貴殿には、まず藩内の学問所の統括を命じたい。藩士の教育こそが、富国強兵の根幹だ」

久光は、政治の中枢ではない、教育という領域から藩政に参画するよう命じられた。これは、久光が藩政の急進的な改革に直接関わることを避け、同時に彼の学識を活かすという、斉彬の計算された配置であった。久光は、藩の安定を願う自らの立場を理解し、その命令を快く受け入れた。

久光が重富家を出て、藩政に関わるようになったことで、彼の人生は大きく変わる。

彼がまず取り組んだのは、兄・斉彬の事業を推進するために、藩士たちの間で失われた「団結の精神」を取り戻すことであった。久光は、謹慎中の大久保一蔵を密かに呼び寄せ、彼の才能を評価し、学問所の末端で働く機会を与えた。遠島中の西郷隆盛の赦免については、時期尚早として見送られたが、久光は斉彬にその才能を訴え続けていた。

斉彬の藩主就任は、薩摩藩全体に、長く待ち望まれた「開明の風」をもたらした。集成館事業は再び予算を得て、洋式軍備の導入、造船、さらには蒸気機関の研究が急ピッチで進められた。

久光は、教育の現場から斉彬の熱狂的な改革を目の当たりにする。兄は、まさに時代を先取りする天才であった。しかし、久光は常に冷静であった。

(兄上の歩みは、速すぎる。この速さは、藩士たちに「無理」を強いる。この熱狂の後に、必ず反動が来る)

久光の心の中で、兄への敬愛と、藩の安定という大義が、常にせめぎ合っていた。斉彬の目指す理想郷はあまりに高すぎ、久光の目指す現実的な安定とは、常に数歩の距離があった。

この兄弟の距離こそが、やがて斉彬の死後、久光が「国父」として藩政を掌握する際に、斉彬の遺志を継ぎつつも、独自の現実路線を歩む、決定的な要因となるのである。久光の人生が大きく変わった、まさにその瞬間であった。

(第9回「開明の風」へ続く)

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