大河小説 国父の剣 第7回:血の裁き


嘉永2年(1849年)夏 薩摩国 鹿児島城下

お由羅騒動の火蓋が切られてから数週間。薩摩の国全体が、重い湿気と、それに勝るほどの暗い空気の下に沈んでいた。鹿児島城下では、藩主・斉興の威光を示すかのように、由羅派の兵たちが警戒にあたっていたが、その厳戒態勢こそが、藩の内部に深い亀裂が生じた証であった。

斉彬は世子の座は守ったものの謹慎を命じられ、彼を藩主へと押し上げようとした数百の藩士たちが捕縛されたまま、裁きの時を待っていた。

久光は、重富邸の静寂の中で、一睡もできずに夜を明かしていた。彼が以前下した決断、すなわち「母の野心を抑え、藩主の威光をもって騒動の武力鎮圧を防ぐ」という選択は、結果的に斉彬の命を守り、藩の即時分裂を避けた。しかし、その代償は、あまりにも大きかった。

彼は、多くの若き才能を処罰の列に送ることを、事実上容認せざるを得なかったのだ。

そして、藩の裁きが下される日。城下の藩士たちの間で、緊張と絶望の囁きが飛び交った。

藩主・斉興の名の下に発せられた裁きの内容は、想像を絶するほど苛烈なものであった。

斉彬派の中心人物であった重鎮たちの多くは、切腹を命じられた。中堅の俊英たちもまた、遠島(島流し)や、禄を召し上げられての謹慎処分、あるいは家名断絶という重い罰を受けた。

「非情……あまりにも非情な裁きだ」

久光の側近の一人が、報告書を握りしめて呻いた。

その報告書の中に、久光の視線が釘付けになった名前があった。

西郷吉之助(後の隆盛)。

そして、もう一人。

大久保一蔵(後の利通)。

彼らはまだ二十代半ばの、藩政の末端にいた若者たちであったが、久光は兄・斉彬の事業を支える彼らの聡明さを知っていた。特に西郷は、斉彬の信頼厚く、藩の未来を担うべき稀有な才能を持つと久光は感じていた。

にもかかわらず、西郷吉之助には奄美大島への遠島が命じられ、大久保一蔵も謹慎処分が下された。

(斉彬の片腕となるべき者たちが、一挙に藩政から排除された……。母上も由羅派も、徹底的に斉彬様の力を削ぎ落とそうとしたのだ)

久光は、処罰された藩士たちのリストを前に、自らの無力さを痛感した。彼が藩主・斉興に進言できたのは、「斉彬の命を救う」という一点のみであった。それ以外の、血を流す裁きを止める力は、当時の久光にはなかった。


騒動が終結した後、久光は城下で最も静寂を保った人物であった。彼は、母・お由羅の方の責任を追及することは、決してなかった。

もし、久光が由羅の非を公然と批判すれば、由羅派は必ず反発し、藩は斉興の血縁者同士による内戦状態に陥る。それは、久光が最も恐れた事態であった。彼は、憎しみと怨恨を飲み込み、母を守るため、表向きの沈黙を選んだ。

この沈黙は、藩政から距離を置く久光にとって、藩内の怨恨を一身に引き受けないための、巧妙な政治的防御でもあった。同時にそれは、多くの若き志士たちにとって、久光が由羅派に与した「裏切り者」と映る原因ともなった。

重富邸の庭で、久光はかつての斉彬派の側近から贈られた武具を磨いていた。

「私は、彼らの血の上に、この薩摩の仮の平和を築いた。その平和が、どれほど脆いものか、理解している」

久光の心の中には、処罰された者たちへの痛恨の念と、そして何よりも、この血の代償を、決して無駄にしてはならないという強い誓いが刻み込まれた。

彼が望んだのは、斉彬の理想主義でも、由羅の野心でもなかった。久光の目標は、西洋の脅威が迫るこの国難において、薩摩という藩を、内乱ではなく、統一された力として存続させること、ただそれ一つであった。

(私の使命は、藩主となることではない。藩主を正しく導き、藩を一つにまとめること。そのためには、冷徹さが必要だ)

久光は、この血の裁きを機に、私的な感情を完全に封印した。母への情愛、兄への敬愛、そして失われた若者たちへの同情。すべてを「藩の安定」という大義の下に押し込めた。

この瞬間、久光は、重富家の養子という藩政の外縁にいた人物から、やがて藩の命運を担う非情な政治家へと変貌したのである。

この騒動で失われた西郷や大久保らの才能を、久光は心の中で惜しむ。彼らの復帰を画策することこそが、久光にとって、この血の裁きで失われたものを将来取り戻すための、誓いとなった。

(第8回「兄、立つ」へ続く)

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