水戸の血と浪士組への参加

1話完結ですが前話⬇

天保二年(1831年)、常陸国(現在の茨城県)の豪農の家に生まれた芹沢鴨(本名・芹沢次郎)は、幼い頃から水戸学の強い影響を受け、尊王攘夷の思想を深く胸に刻んでいた。

水戸学は、天皇を尊び外国を打ち払うという過激な思想を育み、芹沢の後の人生を決定づける精神的基盤となった。

彼は、神道無念流の道場で修行に励み、免許皆伝を得るほどの並外れた剣の腕を持っていたが、同時にその剣技を支えるのは、激情的な粗暴な性格だった。

彼は、故郷での喧嘩や騒動により、藩を追われる形で浪人となり、江戸へと流れた。そして文久二年(1862年)、尊王攘夷を掲げる清河八郎が幕府の要請に応じて浪士組を結成する計画を知ると、その武力集団に参加することを決意する。

芹沢にとって、これは自らの信念である尊王攘夷を実力で実行するための絶好の機会だった。

浪士組に参加した芹沢は、その卓越した剣技と、一歩も引かない強烈な威圧感で、すぐに頭角を現した。

彼は、近藤勇や土方歳三ら試衛館の面々とは、思想的背景や性格が大きく異なっていたが、同じく「京の治安を守る」という目的のために、この異質な集団に加わった。

彼の水戸の血と、武力こそが全てという野獣のような本能は、やがて新選組という組織の創生期に、血の嵐を呼び込むことになる。


京での独立と新選組の誕生


清河八郎が浪士組を率いて京に到着した後、すぐに幕府への裏切りを宣言し、江戸への帰還を強行した。

これに対し、芹沢鴨は、京に残留することを断固として主張した。

彼は、尊王攘夷を志す者にとって、天皇のお膝元である京を離れることは本意ではないと考えていた。

芹沢は、近藤勇や土方歳三ら試衛館一派、そして殿内義雄らと共に京に残り、新たに「壬生浪士組(みぶろうしぐみ)」を結成する。

これが、後の新選組の前身である。この新組織において、芹沢はその武力と経験、そして水戸学という思想的背景から、初代筆頭局長の座に就いた。

組織のトップに立った芹沢は、その武威をもって新組織の威厳を確立しようとした。

芹沢は、近藤や土方とは異なり、武士道よりも実利と威嚇を重視するタイプだった。彼の指導の下、壬生浪士組は京の治安維持という名目で、尊王攘夷派の志士たちを取り締まり、その存在感を増していった。

芹沢の存在は、新選組の初期における最強の看板となったが、同時に、その制御不能な暴力性は、組織内部に大きな火種を抱え込ませることになった。


恐怖による支配と乱暴狼藉


筆頭局長となった芹沢鴨は、その権威を笠に着て、京の街で数々の乱暴狼藉を働き始めた。

彼は、京の祇園で毎夜のように豪遊し、その費用を捻出するため、商家に対して強引な資金調達(事実上のゆすり)を行った。

酒が入ると手がつけられなくなり、気に入らない店や人物に対しては、容赦なく暴力を振るった。

特に有名なのは、大和屋という呉服店への放火未遂事件や、力士との乱闘事件など、その常軌を逸した行動は枚挙にいとまがない。


芹沢の目的は、単なる私腹を肥やすことだけではなく、「新選組」という新しい組織を京の都に恐怖の存在として根付かせることにあった。

彼の乱暴な行動は、京の人々にとって新選組を「壬生狼(みぶろ)」と呼ばれる恐ろしい集団として認識させることになった。

しかし、これらの行動は、規律を重んじる近藤勇や、組織の運営と政治的立場を重視する土方歳三ら試衛館派との間に、決定的な亀裂を生じさせた。

彼らは、芹沢の個人的な暴力性が、組織全体の政治的な信用を失墜させることを恐れた。芹沢の恐怖による支配は、組織のリーダーシップと路線をめぐる、激しい権力闘争へと発展していった。


壬生村での血の粛清


芹沢鴨の乱暴狼藉は、ついに幕府からの信用問題に発展し、近藤・土方派にとって、芹沢の存在はもはや排除すべき障害となっていた。

土方歳三は、新選組の組織的統一未来のため、芹沢鴨とその一派を粛清する非情な計画を立案する。

文久三年(1863年)9月、芹沢鴨は、遊郭での豪遊の後、壬生村の屯所近くにあった八木邸に戻り、泥酔して床に就いた。

夜陰に紛れ、土方歳三、山南敬助、沖田総司、原田左之助ら試衛館派の精鋭たちが、芹沢の寝室を襲撃した。

不意を突かれた芹沢であったが、その剣豪としての本能は衰えていなかった。

彼は、壮絶な斬り合いを展開するが、多勢に無勢、そして酒の酔いもあって、次第に追い詰められていった。

芹沢は、新選組の初代筆頭局長として、自らが立ち上げた組織の同志たちの手によって、非業の死を遂げることになった。


新選組の「誠」と鴨の影


芹沢鴨の死は、新選組の歴史における最初の、そして最も重要な血の粛清だった。

近藤・土方派は、芹沢の死を「何者かによる暗殺」として処理し、自らの関与を隠蔽した。この粛清によって、新選組は、芹沢の粗暴な支配から解放され、近藤勇を中心とした単独のリーダーシップが確立された。

芹沢の死は、新選組の組織運営に決定的な方向性を与えた。

それは、規律と統制を重んじ、政治的な目的のために行動するという、土方歳三の冷徹な現実主義に基づいた路線である。

新選組が後に掲げる「誠」という旗印は、芹沢鴨が残した暴力と乱脈の影を払拭し、組織の大義を確立するために不可欠なものだった。

芹沢鴨は、新選組の創生期を血と暴力で彩ったがゆえに、その後の新選組史ではタブーとされた存在だった。

しかし、彼の水戸の血激情的な行動力こそが、壬生浪士組を京に残し、後の新選組誕生のきっかけを作ったことは紛れもない事実である。

彼の生涯は、理想を貫く武力が、やがて組織の論理によって淘汰されるという、幕末の裏舞台における権力闘争の悲劇を象徴している。

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