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自分の原点を探る旅<ROOTS>を受けて「私は私をあきらめない」【2】

このnoteは私が2024年6月~9月の4か月間、グループコーチングの要素をふんだんにちりばめた自己変容プログラム<ROOTS>を受講した際に起こった自分の変化をまとめたものです。下記のnoteの続きになりますので、興味がある方は【1】からお読みいただけると分かりやすいかと思います。


<第4章>第2の変化:親の呪縛に向き合う

幻影からの叱責

ROOTSでは自分の【あきらめ】にフォーカスして講座が進んでいく。自発的に諦めたもの、外的要因で諦めざるをえなかったもの、これから諦めたいことなど内容は人それぞれだ。また、自分が諦めたものが何なのか分からない場合はそれを明らかにしていくのがROOTSの醍醐味だ。

一見するとかなり分かりにくいテーマのようだが、人はみな何か諦めを抱えて生きているらしい。現に私もあることを諦めたいと思っていた。これを乗り越えないとこれからの人生はずっと苦しいに違いないと感じるほど、とてつもなく重大なもの。それは私の親に向ける気持ちだった。


ーーー


もう10年くらい前のことだ。書店で生きづらい人に向けて書かれたという心理学の本を見つけた。

いつもはそんな本なんて気にもかけないのに、その頃の私は毎日息苦しくて辛くて何かに縋りたくて(これを書きながら、悲しくなるくらい私のこれまでの人生は悩みが多すぎたなと思う)、この見えない迷路を抜け出すためのヒントになればと思ってその本を手に取ってみた。

タイトルも著者の名前も忘れてしまったが心理学の大家らしい。私はどうしてこんなに生きづらいんだろう、その答えはなんだろう、と思って手元の本をパラパラめくっていく。すると、あるページが目に入った。



”あなたの生きづらさの原因は親にある”



いやいやいや、んなわけあるか。



当時の私はすでに20代半ば。親から独立してもう何年も経っている。自立して一人で生活して、その上で職場関係とか自分の性格とかで色々悩んでいた。

今わたしは自分と社会との関係に悩んでいるのであって、なぜそこに親が出てくる?これは私自身の問題であって親は関係ないはずだ。そもそも大衆が手に取る本なのに、すべての人の生きづらさの原因は親にあるとか、そんなわけないだろ。あまりに大雑把すぎやしないか?

せっかく期待して手に取った本だったのになんだかガッカリして、すぐ棚に戻した。そしてそのまま忘れた。


ーーー


でもつい最近になって急にそのときのことを思い出した。私が生きることに疲れていたとき(1章のとき)のことだ。

そのときはちょうど子どものイヤイヤ期と重なっていた。あまり強く言いすぎても繊細な我が子には逆効果なので、なるべく辛抱強く、怒らないように子どもと接していた。


ふと『私が子どもの頃、両親は私にどう接していたっけ』と思い至った。何か子育ての手がかりになるかもしれない。だから親がどのように私と関係性を築いてきたのかを自分の記憶を頼りに思い出していく。そして気が付いた。



わたし、親から怒られたことしか思い出せないや。



その頃から日常の何気ない瞬間に、その場にいないはずの親からの叱責が聞こえてくるようになった。

私が手を滑らせて食器を割ってしまったとき、誤って大きな音を立ててしまったとき、そういうちょっとした失敗をした瞬間にすかさず親からの小言や怒りの声が聞こえてくる。


わざとじゃないのに。たまたま起こったことなのに。まるで私が物を乱暴に扱ったかのように言ってくる。私にしか聞こえない声で責め立ててくる。その場にいないのに私が悪いと主張してくる。実態を伴わない声が頭の中で響く。勘弁してくれ。

ただでさえこんなに苦しいのに、余計私を苦しめて何が楽しいんだ。辛くてしょうがないのに、聞こえてくる幻聴がさらに追い打ちをかけてくる。

うるさい。うるさくてたまらない。幻のくせに自己主張してくんなよ。だまって実家に戻って茶でも飲んでいろ。


そうして一人イライラする日々が続く中、あの本のことを思い出した。



『もしかしたらあの本に書かれていたことは本当だったのかもしれない』



私は疲れてぼんやりした頭で、そう考えるようになっていった。


私の家族

私は4人家族の次女として生まれた。父は自営業をしていた。母は私が子どもの頃は専業主婦だったが、いつからか父の事業を手伝うようになっていた。

私が大人になる頃には父は小さいながらも会社を経営し、数人の従業員を抱えていた。大人になった姉も母と同じく家業を手伝っていた。

ただ家族の中で唯一私だけが家業に関わらなかった。家族の上下関係を仕事にまで持ち込みたくないという気持ちも強くあったし、それ以上に自分の生活すべてを彼らと一緒に過ごしたくないというのが本音だった。


ーーー


父は昔から怒ると手が付けられない人だった。ほんの小さなきっかけで烈火のごとく怒り狂い、その矛先をしょっちゅう家族に向けていた。とくに立ち回りの下手な母や私は怒りの対象になりやすかったように思う。

一度怒り出すとその感情は長く続き、何時間でも父の気が済むまで私たちは怒られ続けた。父は声が大きく、身体はスポーツで鍛えられていたので、怒る様は余計威圧的に感じられた。

女なので手まで出されることはなかったが、おそらく私が男だったら何回か殴られていたはずだ。

父は団塊の世代生まれで、私もギリギリ昭和生まれ。私が子どもの頃は昭和の雷おやじを体現しているような人だった。その怒り方は尋常じゃなく、それは家の中でも外でも変わらず発揮された。

しかも厄介なことに怒りの原因はこちらの非によるものでなく、父の機嫌次第という身勝手極まりない理由がほとんどだった。


とくに不器用な私は父の虫の居所が悪いときにさらに機嫌を損なう行動をしてしまうことが多かったようで、いつも怒りの導線に火つけていた。


こちらがどこで何をしていようが、父には関係なかった。自分の気持ちさえ解消できればよかったのだろう。

私が小学校低学年のとき、帰ってきてすぐに音読の宿題をしなかった私を父は家から出し、当時住んでいた団地の入り口で説教し続けた。そして私はそのまま3時間くらい外でひたすら泣きながら音読をさせられた。

集合住宅の入り口で説教するものだから、団地内には父の大声と私のすすり泣きが響いていた。子ども心にご近所さんに丸聞こえだろうな、恥ずかしいなと思った。


父は仕事が忙しいわりには、怒る時間はしっかり取っていた。大人になった私からしたら、あの頃の父は暇だったのか?と思わずにはいられない。

たとえ発端が私たちの非にあったとしても、あれだけ長時間怒り続けるのだから父のストレス発散みたいなものだったんだと思う。

その証拠に怒りが収束すると急に優しくなって「お父さんも怒りすぎて悪かったね」と声をかけてきた。DV男の典型みたいなやつだ。気持ち悪い。



たとえ「ごめんね愛してる」と言われても、その1回の愛の告白だけでそれまでのすべては帳消しにならない。こちらをニワトリだとでも思っているのか。冗談じゃない。馬鹿にすんなよ。私は人間だ。



私が怒られている様を思い出した母は後々「今の時代だったら児童相談所に通報されていたかもね」と半分冗談で言った。

いっそのこと本当に通報されればよかったのに。


ーーー


そんな父だが友人は多く、交友関係も広かった。傍から見ると社交的で世話好きで調子が良い父は人気者だった。

外に出れば父を慕って声をかけてくる人はたくさんいたし、父も好んであちこちに顔を出していた。そしてそんな自分に本人も満足しているようだった。

私は父とは正反対の性格をしていたが、父曰く「自分の子どもの頃によく似ている」と言われた。父は途中で自分の性格を180度変えたそうで、それのおかげで人生が楽しくなったとよく言っていた。

自ら性格を変え、うまくいっている自分が誇らしかったのだろう。でも根っこの鬱屈した性格はどこかに存在していて、それが家の中で爆発していたようだった。家族としては良い迷惑でしかない。



ここまで書いていてふと気が付いたのだが、父は子どもの頃の自分によく似た私を見てイライラしていたのかもしれない。


どうしてうまくできないんだ、なんでそんなにウジウジしているんだと。私を怒っているように見せかけて、幼少時代の自分を重ねて苛立たしく思っていただけかもしれない。また父によく似た顔立ちがそれを助長させた可能性はある。



勝手にこの世に誕生させたくせに、私にすべてを押し付けるなよ。
ふざけんな。



そんなだからか父は私が大人になってからも、けっこう酷い言葉を平気で投げかけてきた。今でも覚えているのは「異常者」とか「野垂れ死んじまえ」とか、およそ親から子にかける言葉じゃないなという言葉を選んで言ってきた。

おそらくそうした言葉の選定がこちらを深く傷つけると無自覚にわかっているからこそ、普通の人は思っても飲み込む言葉を平気で口にした。しかもこちらがどれだけ傷ついても、向こうの気が済めばケロッと忘れている。これらの言葉ももうすでに覚えていないと思う。



こんなに『父』を連発したことは人生で一度もない。これを書いている今も色々と思い出して泣きそうになる。

でもここを乗り越えないと私はいつまでも重く暗い気持ちを抱え続けると思うので、このまま続けさせてほしい。


ーーー


そういえば大学生のとき、父から手紙をもらったことがあった。そのとき私は家を出ていたが、例のごとくその直前に父からまたこっぴどく電話で怒鳴られていたので(そのときは100%私に非があった)突然の手紙に戸惑った。

茶封筒に入ったそれはしっかり封がしてあって、宛先には父独特の癖のある字で私の名前が書かれていた。

一見すると手続きの書類でも入っているんじゃないかと思わせたが、わざわざこんな形式で伝えてくるくらいだ、これが父の何らかの気持ちが書いてある手紙なのだとそのときの私はなんとなく察した。


だからこそ読めなかった。

父の真意を知りたくなかった。この手紙が私の心情になんらかの変化をもたらす可能性があるからこそ、怖くて読めなかった。そんな変化はいらなかった。私は父とそれ以上の関係発展を望んでいなかった。

なのに放っておいてくれない。ただの手紙ですら存在感と威圧感を放ってくる。嫌で嫌でしょうがなかった。



手紙のくせに、うるさい。



だから封も空けずに捨てた。

いまだにあの手紙に何が書いてあったのかは知らないし、これからも知る気はない。


ーーー


次に母のことだが、父のことを結構ボロカスに言ったのでこの調子で初めから飛ばしていくと、母は了見の狭い人だったと思う。

大局的にとか、俯瞰的にものごとを見ることが苦手だった。加えて父同様カッとなりやすい性格で、我が家は父と母どちらかが常に怒っている、もしくは2人で喧嘩していることが多かった。

父はよく口が回る人で母はいつも言葉では勝てなかった。が、かなりの負けず嫌いでもあったので、自分の気持ちを言葉にできないもどかしさを抱えているときは、よく態度で気持ちを表現していた。

ストレスを周りにぶつけて発散することでスッキリする父とは対照的に、母は内に秘めた不機嫌を抑えきれなくてまき散らすタイプの人だった。どちらにしろ迷惑でしかない。


子ども頃の私はこの二人の闘争に巻き込まれないように逃げ回るのだけは上手くなった。しかし、よくこの二人で夫婦をやってこれたなと子どもの私ですら思う。なんでこの人たち結婚したんだろう。


そんな母は自分の考えをアップデートすることや、主観と客観を切り離すことも不得手だった(本人がそれを望んでいなかった可能性もあるが)

一緒に話していても話題の核心に到達しないとか、その場にそぐわない立ち居振る舞いをするとか、こちらが気をつかうシーンがしょっちゅうあった。そういう面では、仕事で多くのお客さんと接している父の方がまだマシだった気はする。


ーーー


ふと私が高校生の頃のことを思い出した。ある日戦争に関する授業があった。戦争経験者と戦後生まれを比べて、戦争に対する気持ちの違いをテーマにした内容だ。

戦争を経験した人たちが写真も交えて戦争の悲惨さを訴える場面があった。もう二度と同じことを繰り返してほしくないと若い世代に丁寧に説明するご老人たち。

だが一方で、戦後生まれの子どもたちは「辛すぎてもう聞きたくない」と感じたという。授業では、なぜ彼らの気持ちに違いが生じたのか?をテーマに話し合った。

私は高校生視点でしか意見が聞けなかったその日の授業内容を、自分とは違う世代の人が聞いたらどう感じてどんな話をするんだろう、と興味が湧いた。だから家に帰って母の意見を聞いてみることにした。


だが、母の回答は残念なものだった。気持ちのすれ違いというテーマなんておかまいなしに、戦争の悲惨さをただただ語るだけだった。

母は戦後生まれだが大家族の末子で、祖父や兄弟たちは戦争に駆り出されていた。間近に戦争に行ってきた人がいた環境で育った母は、子どもの頃から戦時中の話をよく聞かされていたのだろう。ひたすら戦争中の辛かった生活の話などを実体験のように語った。


そうじゃない。私が聞きたかったのは戦争の辛さ・苦しさではなく、なぜ世代間で気持ちの差が生まれたのか、その違いはどうして起きるのかということだった。

けれど母は私の言葉を聞き入れず、いつものように不機嫌な顔をした。夢中になって話しているのに邪魔をするなと言いたげだった。それからまた戦時中の話を続けた。



『話が通じない』



そう思ってしまった。相手や話の真意を汲み取れない、自分の知識や意見に固執する母を見て、この人と議論や意見を交わし合うことは無理なんだな、と子ども心に感じた。


ーーー


ちょうどその頃は姉が東京の大学に進学していた時期だった。なので必然的に家には私と両親しかいなくて、互いの距離はそれまでよりも近いものになっていた。

それと同時に大人の階段を上りかけていた私は、それまで父と母のことを『親とはこういう存在なのだ』と親フィルターをかけて見ていたところから、姉という一つの壁を取っ払って間近で父母を見るようになったおかげで『父と母は親である前に、それぞれが自我を持った一人の人間なのだ』という見方に移り変わっている最中だった。

だからそのときの母の了見の狭さが余計に『人として我が強く扱いづらい人だ』という風に映った。

おそらくそのせいで父との衝突も絶えなかったのだろう。ときには父に同情することもあった。

どちらかが引けばいいのに、どちらも引かない。毎回真正面からぶつかっていって2人で痛み分けみたいなことをしている。

なんでこの人達は学習しないのか、と思っていた。


ーーー


でもそういえば、母は私が怒られているときはいつも口を出さなかった。

父の怒りが母自身に対して向けられるときは勇ましく応戦するのに、子どもが怒られているときは黙って見ていた。

せめて怒られた後のフォローをすればいいのにと今では思うが、父が「怒って悪かったね」と偽りのフォローまでしてしまうから、大丈夫だと思っていたのだろうか。


いや。いつだったか母が叔母に「あんなに怒って子どもに何か影響が出るかも」と話していたのを聞いたことがあった。母なりに思うところはあったのだと思う。実際大人になった私にだいぶ影響を与えていたし。


じゃあなぜ母はただ見ているだけだったのかと考えたが、もしかしたら母は支配的な男性優位社会に染まっていたのかもしれないと思った。



私が育った地方はかなり男尊女卑の傾向が強い土地だ。私も30過ぎまで住んでいたが、仕事やプライベート関係なく女性が頭一つ飛び出ると「女のくせに」という目で見てくる男性は一定数いたし、冠婚葬祭で働くのはほとんど女で、男は飲み食いして談話だけするような環境だった。


私は子どもながらに『そこでふんぞり返って下品に笑うおじさんよりも私のほうがよっぽど優秀だぞ』とこっそり思ったものだった(私は自分に自信がないくせに、母から受け継いだ負けず嫌いをそういうときに発揮した)


もちろん女性たちだって自分たちの置かれた立場に満足はしていない。だが私から見ればその環境を是としているのも彼女たち自身のように見えた。

女性が男性よりも下の立場に置かれている構造に気づいていたのかいないのか分からないが、みんな無意識のうちに男女の役割については慣習に従っているようだった。

きっと私のようにそれに耐えられない女性の多くは地元を出ていく選択をしたのだろう。だからより従順な女性か、もしくはその構造に抗う気力が削がれた女性ばかりが残っていたように思う。



母はおそらく後者のような気がした。母は祖母が40を過ぎてから出来た子どもだった。祖父は明治生まれで、長兄は15歳以上離れていた。母や親戚から聞くに、母の家庭は男権主義で祖母の境遇はあまり良いものではなかったと察する。

気の強い母が父との衝突は気にしないのに、父が子へ父親という特権を振りかざすのを黙って見ていたのは、おそらくそれが当たり前の環境だったからかもしれない。

逆に父方の祖母は男家族の紅一点だったにも関わらず一定の地位を築き、家庭内で確固たるポジションを築いていた。父は男3人兄弟だが、3人ともが何よりも真っ先に祖母の心配をするので、いわゆるマザコンの教育に成功したのだと思われる。祖母本人もかなりプライドの高い人だったようだ。

もちろん当人の資質の違いもあるはずだが、家庭環境によってこれほど差が出るものなのだなと感じた。


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と、ここまで書いていて思ったのだが、自分の子どもが夫に毎回何時間も怒鳴られ続けていたとしたら、じゃあ私ならどうするだろうかと考えた。スルーするか?いやきっと何かしら提言はすると思う。


どうしてそこまで怒るのか。何に対して怒っているのか。そもそもそれは本当に子どもに向けた怒りなのか。叱ると怒るを混同してやいないか、と。


きっと私の夫はそれを受け入れてくれるはずだ(そもそも怒りにまかせて子どもを怒鳴りつけるような人ではないのだが)

そう考えると父はきっと母の言うことなんか聞く耳をもたなかっただろうし、母も父親とは男性とはこういうものだと諦めていたのかもしれない。おそらく環境が母にそうさせたのだ。




いや、でもさ。

母がどういう環境にいたのかなんて、正直子どもの頃の私には関係ない。そんなの1ミリも私が怒られ続けていい理由になんてならない。


親戚や父がどんな人間であれ、私は母に守ってもらいたかった。でも母はそれをしてくれなかった。あなたの子どもは理不尽な怒りにさらされ続けていたんだよ。

親なら何が何でも我が子を守れとかそこまでは言わない。けれど、私自身が親になった今だからこそ言う。



人間を育てている自覚を持てよ。



今では父も母ももうだいぶ年を取った。

今さら過去のことをとやかく言っても、何も変わらないだろう。私の子どもの頃から溜まったヘドロのような感情をぶつけたところで現実は何も変わりゃしない。

それに老体(に関わらず他人)に鞭打つような行為をするのは、これまでずっと両親を見てきた私からしたら絶対に避けたいことだった。


ーーー


さて父母の話ばかりしてきたが、私には姉が一人いる。

姉は私とは正反対の性格で何事も器用にそつなくこなす人だ。コミュニケーション能力も高く、友人も多かった。どこに行っても必ず輪の中心にいた。

父は私や父(私と似た父本来の性質)とは違うものを持った姉には寛容だった気がする。だからときどき姉が怒られているのを見かけたら『珍しいな』とさえ思った。

姉は周りにいるほとんどの人と上手く付き合っていたように思う。父母以外はみんな私よりも姉と話すほうが楽しそうだった。私はおまけのようなものだ。

でも私は姉と自分の差が大きかろうと特に気にしなかった。なぜなら私は幼いころから姉の傲慢さを知っていたからだ。


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あるとき姉から「あんたって本当に不器用よね」と言われたことがある。

器用に立ち回る姉にとって、わざわざ親の地雷を踏みに行く私は理解できなかったのだと思う。少し蔑みを含んだ言い方だった。

姉は子どもの頃から姉妹間で主導権を握りたがった。私もとくに抗うことなく従った。それに満足していたのだろう。姉は親戚に「お姉ちゃんの言うことは絶対聞くもんね」と誇らしげに語っていた。

私の態度が姉の自尊心を支えていたようだ。周りは子どもながらに気の利く判断ができる、しっかりしたお姉ちゃんと受け取っていた。


だが私が姉に従っていたのは姉を尊敬していたからとか、姉に敵わないと思っていたからではない。従うことの内容が私にとってどうでもいいことばかりだったからだ。

誰が主導権を握ってどういう選択をしてどういう結果になるのか、まったく興味がなかった。だから主導権も選択権も姉に丸投げした。その結果が姉を含む周りから見たら、私が姉に従うという構図に見えているようだった。



そんな風によく褒められ認められていた姉だが、私から見た姉の評価はまったく違っていた。


妹という立場の私から見たら、姉は狭い世界の中だけで生きているような人だった。自分が絶対安全な世界の中だけで優等生であり続ける。それ以外の世界のことには理解を示さない。

さほど努力しなくても大抵のことは要領よくできるので、必要以上の努力はしたくない。またほとんどのことを上手くこなすからこそ、できないときや怒られるときのストレス耐性は低い。


強いとか人間性が優れているというよりも、弱みを隠して良いところを見せるのが上手い。そんな人に見えた。


だからか、さも当然のように「わたし、努力って嫌いなんだよね」とか「同性愛とか意味が分からない」と平気で言った。

私自身は努力をし続けてやっと人並になれる人間だったし、学生の頃からLGBTの知り合いが何人かいて、彼らは性的指向がマイナーというだけで至って普通の人たちだということを知っていた。

きっと姉は妹の私にだから、そういうことを言ったのだろう。外では絶対に言わない発言だと思う。

だから私はそういった姉の独りよがりの発言を聞いては軽蔑した。


反対に姉は姉で、私のことを見下していたと思う。姉という立場から私のことを心配してくれることもあったが、そこには自分のほうが優れているという自負が見え隠れしていた。だがそんなこと私には心底どうでもよかった。


せまい空き地の中だけで威張っているジャイアンになんか興味はなかった。それよりも私はもっと広い世界を見たい、行きたいという気持ちの方が強かった。


そうした正反対の性質の私たち姉妹だが、意外にも仲は良好だった。実を言えば姉は我が家の中では一番常識的で、見ている世界は狭くても持ち前の理解力の高さから一定の話が通じる人だった。

それに私たちは二人ともファッションやコスメの話が好きだったし、姉がキラキラした目で「コレすっごくおすすめ!」と自分の好きなものを夢中になって勧めてくる姿は、姉のミーハーさを体現していたけれど嫌いではなかった。むしろ少しだけ羨ましかった。


ついでに言うと、両親への不満や愚痴を言って共感しあえるのもお互いだけだった。だから私と姉は互いの人間的性質を深く掘り下げ合いさえしなければ、仲の良い姉妹でいられた。


ーーー


さて、これが私の家族だ。私を含めて誰一人として一筋縄ではいかない人たちだ。紹介するのも恥ずかしいくらいだが、ここまで書かないと次には進めないと思ったので書いた。それだけ家族が私に与えた影響は絶大だった。


ひとつだけ注意事項を加えるとしたら、この私の家族への見解は、すべて事実と推測が入り混じっているということだ。

すべて真実かもしれないし、私の妄想だらけかもしれない。
けれどこれら全部が私が今まで感じてきたことならば、私にとっては真実なのだろう。


どの家庭にも怒りや悲しみ、苦しみ、秘密があると思う。そういう意味では私たち家族はごくありふれた、どこにでもいる普通の家族だった。


愛と憎しみ

「おじさんとおばさん、あなたたちのことすごい可愛がっていたよね」

大人になってから、そんなことを親戚に言われた。当時の私にはまるでよその家庭の話のように聞こえた。

そんなこと、あっただろうか。考えても思い出せない。全然思い当たる節がない。けれど親戚からそう見えたのなら、それも一つの事実なのかもしれない。

私を可愛がってくれていた両親など、幻としか思えない。それとも私にだけ見えていなかったのか。親戚から言われた言葉は、それ以降私が親に対して苦しい気持ちを抱いたときに何度もよみがえってきた。


私は愛されていたのか?


わからない。わからないからこそ、触れるのが怖かった。

ただ、怖いと思うのにそこに何があるのか見たくなるのが人の性で、少し覗こうと好奇心を発揮しても、結局入口にある辛い記憶を見つけては痛い目にあうだけだった。だからそれ以上進むことができなかった。


どうして私に辛い思い出ばかり残して、幸せな記憶は残してくれなかったのか。


少しずつ私の中で見えない怒りが溜まっていった。いや、昔から積み重ねてきたものを自覚するようになっただけなのかもしれない。その怒りは静かに積り続けた。


ーーー


親とは関係ないところで追い詰められているはずなのに、なぜか心は『私が辛いのはすべて親のせいだ。仕返ししてやりたい』とまで思うようになった。

父母は気が強い反面、結構打たれ弱い人たちでもあった。心根が弱かったからこそ反動で強気な態度を取っていたように思う。こちらが強く出れば向こうは傷つくだろうということは容易に想像できた。

だから私が傷ついた分だけ、いやそれ以上に、際限なく傷つけてやりたかった。


あんたたちのそれは自分を守るための正当防衛じゃなくて、弱さゆえに駄々っ子のように周りにあたり散らしているだけだ。散弾銃を自分より弱いやつにぶっ放しているようなものだ。弱虫どもめ。

お前らなんてそこらへんのミジンコよりも価値がない。泣いてすがるな、老害が。ゴメンで済むならケーサツはいらないんだよ。常に銃口を向けられていたこちらの身にもなってみろ。こっちは傷ついたんだよ。


舌鋒鋭く断罪し、罵詈雑言を吐き、心に消えない傷をつけたくて、ひどい言葉を何度も吐いた。いくらでも殴って蹴ってめった刺しにしてやりたかったし、実際心の中でその様子を妄想した。

声も出せないくらいにぶん殴ってやった。それでも怒りは引かない。やがてあまりに殴りすぎて原型がなくなってしまったので、自分が何を殴っていたのかだんだん分からなくなった。



親の「痛い」と言う声よりも、自分の中の「痛い」と言う声のほうが大きく響く。殴っている私の拳のほうが痛かった。そのうち親の声なんか一切聞こえなくなった。


私が殴り続けて原型のわからなくなったそれは、いつのまにか親ではなく私自身に入れ替わっていたようだ。


わけが分からない。私は途方に暮れた。


こんなしょぼくれた老人なのか私自身なのかわからないものを殴ったところで、私の気持ちは1ミリも晴れない。現実が変わらないことくらい知っている。



でも、どうして、

愛してくれた記憶だけを残しておいてくれなかったのか。



どうして私に苦しい記憶ばかり植え付けるのか。私の大切な成長期の気持ちを黒く上塗りしやがって。

オセロのように両脇を黒で挟まれたら、白かったものもすべて黒に塗りつぶされてしまったような気がしてならない。


いや、本当は白黒なんてはっきりつかない。愛したいのか憎みたいのか、自分でもよく分からない。私の気持ちはすべてが混ざり合ってぐちゃぐちゃだった。

この名前のつけようのない得体の知れない感情は、私の中をさらに支配していく。


何とか言葉に表そうとしても、もう愛とか憎しみとか、そんな簡単に名前で区別できるようなものではなくなっていた。


ーーー


私は愛されたい優しくされたいと強く思っていた。
けれど、本当はちゃんと両親から愛されていたのだと思う。


だって東京の大学に行くことが決まったときには二人とも心配してくれたし、就職が上手くいかなくてフリーターになったときも私を受け入れてくれた。さらに私が地元から東京の会社に転職すると言ったときは応援してくれたし、結婚するときは大いに喜んでくれた。

子どもが生まれるとわかったときもとても嬉しそうにしていて、今では孫のことをよく可愛がってくれる。どこにでもいる、普通のおじいちゃんとおばあちゃんだ。


彼らは悪い人間ではない。

だれかを貶めるとか意図的に人に害をなそうという気持ちは一切持っていない。普通の生活を送っている善良な一般市民だ。傍から見れば幸せな家族だ。今さら再確認するまでもなく知っている。


それでも、

私は辛かった。苦しかった。でも言えなかった。


私は両親に自分の気持ちを言えなかった。

それは「こんなことを言ったらお父さんお母さんが悲しむかもしれない。愛してもらっているのに苦しい憎らしいという気持ちを持ち合わせるのはおかしい」という気持ちが奥底にあったからだ。


でも今なら分かる。

本当はいくらでも言ってよかったのだ。感情をぶつけて怒って殴って自分をさらけ出せばよかったのに、それができなかった。


自分の気持ちよりも相手の気持ちを優先していた。

自分さえ我慢すればいいという考えはいつしか、言ったところでどうにもならないという考えにすり替わった。健全な精神状態ではなかったのだと思う。

自分以外の人間がサンドバックになることが考えられなくなっていた。


今の私は満たされているはずなのに、過去の自分が苦しみ続けている。みんな幸せそうに見えるのに、私だけが明るい道へ行くのをためらっている。




どうしてみんな何事もなかったかのように笑うのか。




頭の中で架空の会話を繰り広げては、一人怒りが募っていく。

私の腹の底が静かにぐつぐつと煮えたぎる。けれどこのやり場のない怒りはどこにも行けない。私だけが時代に取り残された亡霊のようだった。


私はこの止まらない怒りを一生自分の中だけで抱えて生きていくのか。どこにも出さず、どこにもぶつけることができずに。


そんなの絶望だ。そう、思っていた。





だが、この感情の矛先は突如方向を変えた。

その先にいたのは、私の娘だった。


子どもをうまく愛せない

両親の幻聴が聞こえてくるようになった頃、ちょうど娘はイヤイヤ期だった。

生まれてから何もできない赤ちゃんだった娘に、だんだんと自我が芽生え始めていた。人間になるための過渡期だった。


それまで私が娘に対して心配していたのは、主に体の発達のことだった。

首が座るのは早かったのに、歩き始めたのは平均よりもだいぶ遅かった。保育園に通い始めの頃は体温が安定せず、娘だけ登園直後に体温計で図る日々が半年くらい続いた。せっかく登園したのにその場で帰されることもしょっちゅうあった。

それ以外にも風邪や流行り病をたくさんもらってきて、その度に家の中で誰かが発熱していた。だがそれらも娘が3歳になる頃にはすっかりなくなった。


やっと一つの峠を越えた。そう思っていたところへ、今度は心の発達が気になるようになった。赤ちゃんの頃からなんとなく気づいてはいたが、娘は引っ込み事案で内気な子供だった。

新しいことをやってみたいと思うのに、一歩踏み出すのに他の子の倍近い時間がかかる。歩くのが遅かったのも、身体的問題というより心理的側面の影響が大きかったように思う。

母親である私としては『まあそれもこの子の個性だし』と割り切って見守っていた。だが娘の自我が発達していくのを目の前で見ているうちに、そんな簡単には割り切れなくなってきた。


なぜなら娘は私にそっくりだったからだ。


ーーー


娘はとてもマイペースで急かされることが嫌いだ。他人にペースを乱されたくないようだ。かといってそれを周りに主張はしない。自分の主張を大きな声で言うのが苦手だ。比例してキツイ口調・大声で話してくる相手には引いてしまう。気弱に見せておいて、だが、こだわりは強い。

生まれつき不安感も強い。歩き始めが遅かったのも、歩くことは未知なことという想いがあったのだろうか。保育園に通い始めたときもストレスから蕁麻疹が出たし、慣らし保育は4か月近く続いた。何かを始めるのにとても時間がかかる子だった。

ここまで言うと周りとの線引きが強い子のように見えるが、人が笑っているのを見るのは好きなようだった。娘もつられて笑っていることが多い。それが公園で遠目から見た知らない親子だったとしても、娘はニコニコとしている。

自分の感情と他人の感情には線引きをしないタイプらしい。逆を言うと、他人の感情に引きずられやすいし、状況に応じた自分の気持ちの切り替えも苦手だ。

そして何よりも、人をよく観察している。人の行動や会話をじっくり見聞きしていて、すぐ真似をする。また相手がどういう人間なのかもよく見ているようで、初めて行く遊び場でも自分と性格的に合う子を瞬時に見定めて一緒に遊んでいる。遊べるなら誰でもいいというわけでなく、娘なりの基準があるようだった。

またよく観察しているからこそ、人の視線にもすぐ気が付く。自分に注目が集まっていることが分かると緊張して固まる、口をつむぐ。そうかと思えば一度集中すると周りの状況は娘の耳目に一切入ってこなくなる。マイワールドまっしぐらだ。



娘のこれらの特徴は、子どもの頃の私にそっくりだった。

また娘の嗜好も私とよく似ていた。好きなものも嫌いなものも、どれも似通っていた。だから娘が何を考え、何を不安に思い、何をしたいのか、どれも私にはなんとなく分かった。

加えて娘は顔立ちも私によく似ていた。会う人みんなが「お母さんにそっくりね」と言った。夫も「母系の血が強いよね」と認めていた。


半分は夫の血が流れているはずなのに、それはどこへいったんだろうか。

私は夫との子どもを産んだというよりも、単為生殖で自分のクローンを産んでしまったような気がしてならなかった。


ーーー


だからなのか、親からの叱責が聞こえるようになった頃、人間として成長を続ける娘に過去の自分が重なった。赤ちゃんの頃よりも自我が芽生えたおかげで、より顕著に娘の人間性が垣間見えるようになった。

それはイヤイヤ期も相まって、嫌でも直面せざるを得ない状況だった。昔の私のように振る舞い、泣き、叫ぶ。だからそれを見ると余計にイライラが募った。

私の内側では両親の声が、外側では子どもの声が響く。とにかくうるさかった。私は疲れて静かに休みたいのに、どちらもそれを許してくれなかった。

ただ内側の声に対しては現実的対処が何一つできなかったので、その鬱憤はすべて外側の子どもの方へ向かっていった。



それまでは娘のすることに根気強く付き合えていたのに、そこに親への怒りが加わったことで、我慢がきかなくなった。怒りを爆発させないよう気を付けながらも、娘へ向ける言動はいっそう厳しいものになっていった。

また娘が自分に似ているからこそ、娘の行動の解決策がすぐわかるのに、それを理解できない娘に苛立った。


どうしてできない。なぜウジウジしている。そんなことでは何も解決しない、変わらない。失敗してもいいから一歩行動を起こせ。ぐずぐずするな。どんくさい。マイペースが過ぎる。もっとうまく立ち回れ。泣くな。歯を食いしばって耐えろ。恐怖を乗り越えてこそ人間は成長するんだ。


イヤイヤと泣き叫ぶ娘を見る度に、そんなことを思うようになった。


私が何十年もかけて習得してきたものを、0のスタート地点にいる娘に求めた。フルマラソンを完走した私から、まだ一歩も踏み出していない娘にもっと早く走れと檄を飛ばすようなものだ。


愛しいとだけ思っていた娘が、急に憎らしい存在になってしまった。


それでも私は怒鳴ったり、大きな声で当たり散らすことだけはしなかった。それが娘を威圧させてしまうことは分かり切っていたし、何よりも私が父から受けたことを思い出すのでそれだけは避けたかった。

だが代わりに私は自分の中だけに押し込めきれなかった不満や不機嫌さを家中にまき散らした。


その頃の我が家は子どもはイヤイヤ期、夫は多忙で体調不良、私は常にイライラしていて最悪の雰囲気だった。娘はその状況をなんとなく悟っていて、さらにイライラや不安を増大させた。また私もつられて余計に怒りが溜まっていった。

幸せに感じていた家庭は、いつしかとても嫌なサイクルに陥っていた。

それに比例するかのように、内側から聞こえてくる両親の叱責の声が大きくなった気がした。



うるさい。何もかもがうるさい。



イライラした私は死にたくなるくらい両親にそっくりだった。

父のように過去の自分を子供に投影し怒り狂い、母のように不機嫌をまき散らす。私はたしかにあの二人の子どもだった。


私はこれまであの人達のようにはなるまいと思って行動してきたし、当時の彼らよりも今の自分のほうがよっぽど精神的に大人だと思って生きてきた。

けれど根本的な性質は彼らと何一つ変わらなかった。私がどう成長しようが、私に流れる血が私を未来ではなく過去に引きずり込む。



負の連鎖だ、と思った。



虐待を受けて育った親は、自分の子どもにも虐待する確率が高いと言う。私は虐待まではいかないと思うが、子ども時代に負った傷を自分が親になってから再発させてしまった気がした。

私が完治したと思っていた傷はただ絆創膏を貼って見えなくしていただけで、奥底にずっと残っていたようだった。


ーーー


その頃の私は自分が引き起こす最悪の雰囲気に引きずられ、笑うことができなくなっていた。

心が重い。過去という重しのせいで私の気持ちがどんどん沈んでいくのに連動して、表情筋も下へ下へと引っ張られていく。笑いたくても笑えなくなった。口角が上がらない。ただただ泣きたかった。

それを娘は分かっていたのだろう。その頃の娘は私のようにイライラしながら「ママ、どうして笑わないの?笑ってよ!」とよく言ってきたが、私はそれを適当に受け流した。

自分が笑えない事実とその原因に向き合うのが怖くて避けた。


そういえば私は子どもの頃両親になぜ笑わないのか、なぜ怒っているのか、その理由を一度も聞いたことがなかった。

私にとって父母とは地震や火山のように理由もなく突然爆発するものだった。それが当たり前すぎて、娘のようにそこに疑問をもつことすらしていなかったんだなと今更ながら思った。



あるとき、夫が出張でいない夜だった。

寝かしつけのときに、また娘が「ママはどうして笑わないの?」と聞いてきた。夫がいなかったので私は気が緩んで「ママは笑いたくても笑えないんだよ」と応えた。

「どうして?」と娘は聞いてくる。けれど私はそれ以上会話を続けられず、ただ「笑えないんだよ」としか言えなかった。


ついに私は娘の前で泣いた。

抑え込むのに失敗してまき散らしていた不機嫌は、実は泣きたいという気持ちの表れだったのかもしれない。


それでも私は子どもの前では大きな声を出して泣くまいと思って、なんとか声を押し殺しながら泣いた。娘の目に私という母親はどう映っただろうか。俯いて泣いたので娘の表情は分からなかった。


ふいに、娘の手がそっと私の頭に触れた。娘は「よしよし」と優しい声で私の頭をなで始めた。それは娘が泣いているときに私がよくすることだった。

娘の手は小さくてあたたかかった。久しぶりにほんの少しだけ心地よさを感じる。私はその手に身をまかせて目を閉じた。


娘が小さな母親のように見えた。


執着を手放す

これまでの家族の話から少し変わるが、ROOTSの2回目が終わる際に【自分のあきらめパターンをあきらかにする】という宿題が出た。

私はセッション中に自分の人生があるパターンを繰り返していることに気づいた。それは私の人生が絶望と奮起を繰り返す、山と谷だらけの人生ということだった。

そもそもどうしてこんな極端なパターンに陥るのか。なぜ私はいつも同じことを繰り返し、絶望し、頑張り続けるのか。自分でも呆れるくらい苦しみが多い人生だなと頭の片隅で思った。

が、これをあきらかにすることが私のでこぼこ人生を解明する手がかりになるのではないかとも考えた。


正直そのときはこのパターンが自分の中にある何らかのあきらめと直結しているとは思ってもいなかった。私が辿ってきた人生曲線は何かをあきらめた結果なのか?それすらもよくわからなかった。

けれどもこの生きづらさの原因をもっと追究すれば、根本的に理解すれば、なにかが見つかる可能性はある。なので、このパターンを繰り返してしまうのはなぜか?を自分なりに問うことにした。


やり方は簡単で、ひたすら自分の考えに「なぜ?」と問い続ける。一つ答えを出して、また「なぜ?」と考える。なぜを繰り返すことで、根本的な原因を探るというものだ。以前知人から教えてもらったやり方だ。

まずは自分の人生パターンですでに分かっている「絶望すると奮起する傾向にある、それはなぜか?」というところから始めた。

自分の問いに対し、自分で「○○だから」と答えを出す。そこからただただ自問自答を続ける。そうすると自分でも認識していなかった気持ちや考えがクリアになってきた。

自分の気持ちや考えが明確になったら、その原因は自分の過去にありそうだということも徐々に分かってきたので、そこから過去に遡ってまた「なぜ?」と問う。

するとどんどん子どもの頃の気持ちが蘇ってきて、それは最終的に親との関係にまで及んだ。

そして最後は「親は○○だったのかもしれない」「彼らは○○と考えていたのかもしれない」という事実ではなく、自分以外のだれかへの推測ばかりが出てくるようになった。

だからそこで自分に問うのをやめた。



結局、私の人生が山と谷を繰り返す原因は分からなかった。ただこれに対する解答は、後に3回目のROOTSであきらかになる。これはまた次回書く予定だ。



さて、一見無駄に終わったように思えた「なぜ?」戦法だが、私は思わぬところで親への気持ちを解決する糸口を見つけた。

それは、私の生きづらさの原因はやはり私自身の問題だけでなく親にもあり、これ以上探ってもどうにもならない、ということだった。

これだけ言うと結局解決してないじゃんと思われるかもしれないが「自分が考えて悩んだところで何も分からないし変わらない」そう理解できたことが私に大きなヒントを与えた。

そんなこと自分でも当たり前だと思っていたが、知っていることと理解していることとでは全然違った。


ーーー


私の苦しみは親の苦しみだった。

彼らは彼らなりの苦しみを抱えていた。私は親の苦しみさえも馬鹿正直に継承していたのだ。私が娘に対して負の連鎖を発揮したように、父と母もまた断ち切れない連鎖の被害者だったのだと感じた(ただこの二人が掛け合わさったことで私の苦しみは倍増した気がしてならないが…)

そう分かると親に対する哀れみの気持ちも湧いてきたが、彼らが連綿と受け継がれてきた苦しみに自覚を持たず、自ら負の連鎖を拡大させてきたことに対しては、それを引き継いだ立場としては同情できなかった。


さらに私は自分や親だけでなく、膨大な過去にまで立ち向かおうとしていたことにも気が付いた。

私一人が抱えるこのちっぽけな執着心は、途方もないほど長い時間と多くの人々に繋がっている。

本当に、終わりの見えない連鎖だった。



私たちを苦しめた原因を探ろうとしても、それはきっと一生分からない。すべての連鎖を解明したいのなら、両親をはじめ亡くなった祖父母やさらにその先祖たちにもインタビューでもするしかない。でもそんなのはありえない話だ。

たとえそれができたとして、それらすべてを自分の推測に照らし合わせ、すべての「なぜ」を出し切るには、私の残りの人生をかけても無理だろう。結局すべての真実はあきらかにならない。


それは私の役目じゃないし、私がなすべきことはそこじゃない。
なんとなくそう思った。





ここまでだな、ここがあきらめどきだ。





それまでは少しでも私に何か原因があるんじゃないかとか、私がもっと分かりやすい性格だったら親は怒らずにもっと可愛がってくれたのかとか、考えていた。架空の自分を作り上げて過去に当てはめればすべて上手くいくと思っていた。

けれど、私一人を挿げ替えたところで過去は変わらない。一人で悩み苦しんでも何一つ変わりはしない。


私がどう悩もうが原因は私以外にもあり、その答えは一生知り得ないのだと分かったら、これ以上考え悩み続けるのは得策ではなかった。


ーーー


それと同時に私の中でもう一つ、答えが生まれようとしていた。


「親自体は悪人ではない」
「ひどいことも言うけれど私を愛してくれる」
「お金をかけて大学まで行かせてくれた」
「今では適度に距離もあって良い関係を築いている」


今までそんな事実ばかりを天秤にかけてきた。だから自分の感情は無視した。けれど事実だけを見て割り切れるほどドライな性格でもなかった。苦しさが募った。

でも今、私自身が親になってはじめて、自分の子どもと向き合うためには己の感情を無視してはいけないのだとやっと気づけた。



無理して親を好きでい続ける必要はない。嫌いでも好きでもない、もうなんとも思わない。幼少期の関係をやり直したいとも思わない。私たちは近くに居すぎない方がいい。

私は生まれたときからこういう人間だ。両親に好かれるためだけに生まれてきたわけではない。誰かに肯定されるために人格を変える必要はない。私は私以外の誰にもなれない。



そう、私たちはたまたま同じ家族の一員になっただけだ。単に両親と私は人間的に合わなかっただけなのだ。まさに親ガチャだった。




『彼らとは来世は他人になりたい』




ふいにそう思った。そして口にしてみた。

すると急に気持ちが楽になった。答えの出ない苦しみに一つの答えが出た。終わりはあっさりとしたものだった。

私はやっと親への気持ちに区切りをつけることができた。

そしてあんなに私を苦しめた幻聴も、いつの間にか聞こえなくなっていた。


ーーー


もしこのことを親が知ったら彼らは悲しむだろう。私も娘から「あなたとは来世は他人になりたい」と言われたら泣くと思う。親の悲しむ顔が浮かぶ。

愛してもらったのに、育ててもらったのに「ありがとう」の一言も言えない。私は薄情かもしれない。


それでも私はもう親のことに縛られないで、一人の人間として自立して生きていきたい。彼らに執着して自分を犠牲にする理由はなくなった。



私は私を産み育ててくれた家族から卒業する。
そして自分で作った新しい家族とともに新たな道を歩む。

これが私の本当の自立だ。




親は変わらないけれど、私は変われる。自分のルーツを乗り越える。



だからこのnoteにすべてを置いていくことに決めた。


良き親とは

そういえば、こんなに親のことで苦しんだのに、私はずっと前から子どもが欲しいと思っていた。


『無条件で自分の愛情を注げる存在が欲しい』


20代後半くらいだったか。ある日唐突にそう思った。

理由は覚えていない。その考えが思い浮かんだとき、無条件に愛情を注げる存在がなんなのか全く分からなかった。だから考えた。考えて考えて、やがてそれは自分の子どものことかもしれないと思うようになった。

当時は相手もいなければ結婚の予定もなかった。ただ子どもがほしいという想いだけが心のずっと奥底に残った。



そしてそれから何年も経ってやっと重い腰を上げて行動し始めたとき、まず初めに自分の結婚に対する想いを整理してみた。


私は子どもが欲しい。だから結婚がしたい。できれば高齢出産になる前に産みたい(当時33歳)。高齢になるほど子どもへのリスクは高まるという。将来子どもに何等かのハンデを負わせてしまう確率を少しでも減らしたい。だから結婚したらすぐにでも子どもがほしい。

私にとって結婚はゴールではない。真のゴールは私の子どもが心身ともに健康で成人を迎えてくれることだ。そのために、私と協力して子どもを育ててくれるパートナーを見つけたい。


かなり明確な意図をもって婚活をした。結婚できない可能性や、結婚しても子どもはできない可能性など、そんなことは一切考えなかった。

私は生まれてもいない我が子を幸せにするんだ、ということだけを考えて行動した。



するとすぐに夫に出会った。私は直感的に「この人がいい」と思った。

『この人なら私の子どもを愛し、よき父親になってくれるだろう』

そう感じさせる人だった。だから迷わず彼との結婚を決めた(もちろん夫への愛情もあった)



私が思い描いたとおり、夫は理想の父親になった。

おだやかで落ち着いていて感情の起伏はあまりみられない。他人へ八つ当たりすることもない。言葉遣いも丁寧だ。良い意味で自分と他人の境界線を引いている。

誰にでも同じ態度で接し、裏表がない。家の外でも内でも一緒だ。結婚してからも子どもが生まれてからも、ずっと面倒見よく優しいままでいてくれる。常に私と子どものことを気にかけてくれる。


こんなに誰かに優しくされたのは初めてだった。自分の幸せは二の次でした結婚だったが、おだやかで幸せな家庭とはこういうものなのかと身に沁みた。


ーーー


とここまで考えて、私はあることに気が付いた。
私が良き父親になるだろうと思って選んだ夫は、私の両親とは正反対の人間だった。


決して意図してそうなったわけではない。私が子どもの最善を考えてふさわしい人を選んだのだ。子どもが幸せになる環境を整えようとしただけだ。だが皮肉なことに、私が選んだ相手は両親と真逆の性質の人だった。

無意識にそういった選択をしてしまうほどに、家族というものは私に根深く突き刺さっていたらしい。そして、それに気が付いたとき私は驚くと同時に安堵した。



よかった、娘はきっと私のようにはならない。


優しい理想の父親がいるのだから大丈夫だ。それだけで彼女の未来は明るい。夫と娘が笑っている光景が目の前にある。娘を愛し慈しみ、尊重してくれる人がいる。なんて素晴らしい世界なんだろう。



それと同時に娘が羨ましいと思った。だって本当は、







本当は私が夫の子どもになりたかった。







私が子どもにとって理想の父親になれると思った人は、私にとっての理想の父親だった。私は気づかぬうちに彼にパートナー以上の父性を求めていて、今ではそれが満たされつつあることを感じた。


それが分かったとき、涙が出た。


やっと私は安心できるんだ、と思った。私が子どもの幸せを願って行動してきたことが、私自身を明るい方向へ導いてくれたのだ。

無条件に愛情を注ぎたかったのは子どもに対してだけではなかった。私は自分のことも愛したかったのだ。


長い長い暗がりを抜けてようやく気付くことができた大事な真実に、私は涙が止まらなくなった。


ーーー


実はROOTS2回目の宿題を考えているときに、私はもう一つ別の課題をあきらかにしようとしていた。

それは「あんなに酷い態度で接してきた父親よりも母親の方を気にするのはなぜか?」という問いだった。


セッションの最中、私は父よりも母のほうに静かな怒りを向けていることに気がついた。

実のところ、父には一度だけ自分の怒りをぶつけたことがあって、それで自分の気持ちを少しだけ晴らした過去があった。けれど母とぶつかったことはなかった。


だから母への気持ちが宙ぶらりんになっていたのだと思う。

そこまでひどいことはされていない気がするけど、でも何故だか許せない。父のようにあきらめがつかない。

良くも悪くもどちらにも振り切れない、中途半端な存在だった。



だからモヤモヤとしたその気持ちも宿題で分解してみた。そして分かったことは、私は母に良き母親像を求めていたということだった。



私はお母さんに全部を受け入れてほしかった。もっと笑ってもらいたかった。



私のすべてを無条件で受け入れてほしい。理解や共感はされなくても肯定的に私を見て、あたたかな言葉をかけてほしい。いつも笑っていてほしい。いつでも見守っていてほしい。怖いものから守ってほしい。


子どもの頃の私はそんな安心感のある存在としての母を求めていた。


けれど、いまだにこんな悩んでいるのだからそれは満たされていなかったのだと思う。それに同じ母親になった今だからこそ、私の母に対する気持ちはより複雑になったのかもしれない。

ただ母のおかげで、自分の理想の母親像や逆に何をされたら悲しいのかを自覚することができたという点では感謝したい。きっと自分の子育てに活かせるはずだ。だって娘は私にそっくりな性格をしているのだから。


私の理想と娘が求めるものは似ているかもしれない。ならば、私自身が理想だと思う母親になればいい。娘のために理想を目指せばいい。

もちろん私と娘は別の人間で、私が望むものを娘が望むとも限らない。それならそれで彼女に希望を聞いて、合わせてあげればいい。私が叶わなかった気持ちは娘が叶えてくれれば十分だ。


母は私にそれをわからせてくれる存在だったのだと、自分に折り合いをつけることにした。


ーーー


夫は私にとって理想の父親だ。夫が理想の父で、私が理想の母を実現できたなら、私たち夫婦は娘にとって良き親になれる。私たちは全員が幸せな家族になれる。そう思った。


ただし、私=親という環境要因をクリアしたとしても、娘がこれからどんどん社会に出ていくようになれば、突然理不尽な悪意に晒されることもあるだろう。そんなとき娘には悪意に従順になるのではなく、自分を守るための行動をとってほしい。

私が私を大切に出来なかった分、娘には自分を大切にしてほしい。そして私はそのために彼女の絶対的安全地帯でありたい。彼女の求めるものを察して、それを与えてあげたい。



この想いはまだ始まったばかりだ。その道のりは果てしない。

そもそも私自身は親として、とても未熟な人間だ。急な方向転換をしたからといって、すぐにすべてが好転するわけでもない。長い長い時間がかかると思う。


それに私の子育てに回答するのは私ではなく、娘だ。私と違う環境で育つ彼女が私のことをどう見定めるのか、皆目見当がつかない。だが娘の意思は娘のものだ。どう思うかは彼女自身にゆだねたい。


もしかしたら感謝や愛情の念を持ってくれるかもしれないし、逆に私のように愛憎入り混じった気持ちを抱くかもしれない。

私が自分の親にこれまでの想いを話すつもりがないのと同じように、私自身が最終的にどんな親だったのか、彼女の口から回答を得ることすら一生ないかもしれない。


私が答えだと思って与えた愛情も、娘にとっては違う何かになる可能性だってある。そう考えると愛情に正解など存在しない。







それでも私は<良き親とは何か>を死ぬまで自分に問い続けるだろう。






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この続きは現在執筆中です。
第3部公開までもうしばらくお待ちください。
ここまでお読みいただきありがとうございました!


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