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小説/「銀色の鏡」

「ねえ、キスして」

 閑寂とした透明な暗闇に、青白い月影が差し込んでいる。
 病人の吐息のように冷たく湿った風が、しどけなく窓際にかけられた薄く白い二枚のカーテンをもち上げると、殺風景な室内に大きな鏡が見えた。
 アカンサス文様が彫刻された、くすんだ銀縁の鏡の前に、男がひとり、片膝を立てて凭れかかっている。 

「はやく」

 男はその声には応えない。ただ、顎を斜にして視線を下げ、窓から差し込む光の影を薄布が揺らすのを眺めている。水面のようなそれを見て、湿った空気を吸い込んでいると、ぼんやりしてくる。
 するり、と男のシャツからネクタイが抜き取られて、その首に回る。女がその両端をくいと引くと、身体は鏡の中に沈み込んだ。ネクタイが喉仏をなぞって、顔が自然と上を向く。重くて苦しくて、溺れているみたいだ。 
 その中で、女は男に深く口づけた。重ねられた唇は温かく、注がれる吐息は蜂蜜のように甘い。 

「あまい」

 長い長い口づけの後に、男はそう言い身を起こす。一瞬ネクタイが首に食い込んで息が詰まったけれど、それはすぐに彼の肌から離れた。
 数分前と同じに鏡に凭れかかった男の背に、四つん這いになった女がそっと口づける。そして女は足を崩して、鏡に縋るように両手をつき、男の背に右の耳を当てた。
 そうして鏡越しに男の首の裏を指先でなぞると、同じように鏡に凭れかかり、肩越しに囁いた。

「ころして」 

 それはキスをねだるときのような甘えた声。男は指先だけを鏡の中に入れて、女のそれに重ねた。女の手は温かくしっとりとしていて、いつまでも触れていたくなる。けれど、鏡の中では水中のように浮力がはたらいて男の手を剥がそうとする。
 男はぎり、と奥歯の奥を噛んだ。

「ね、いつまで、そこにいるつもり」 

 女がつまらなそうに尋ねる。鏡の向こうから白いレースの袖が、黒いサテンのシャツにするりと伸びて、ぷつりとボタンを一つ外した。  

「君が、こっちにくれば」
「いやよ。そんな冷たいところ」 

 女が男の頬に触れようとすると、その手は肌をすり抜けた。

「君のいる場所は、息苦しい」
「あんたのいる所は、お墓みたい」 

 女は溜息をついてまた鏡越しに男の背に凭れかかった。白いワンピースの裾は足元でぐしゃぐしゃになっていて、女の右足首と左ふくらはぎを顕わにしていた。女は気だるげに胸元のリボンを解く。

「どうせ、ただの飾りだ」
「わかっているなら、どうして? まだそこにいる」
「もとめられたい」 

 男の呟きは薄氷に投げられた石のように、夜の静寂に響いた。女は鼻で嗤う。

「いわない。私はぜったいに」
「なぜ」

 男はただ窓の向こうの月影だけをじっと見ていた。ウォルナットで十文字に枠取られた窓が、風に吹かれて度たび揺れる。

「いいから。四の五の言わないで」

 女が男のぶかぶかのシャツの襟を掴んで、無理やり振り向かせる。男の頭はまた鏡の向こうに引き込まれる。水を飲んだような息苦しさが鼻から流れ込む。 

「キスしてころして」

 舌足らずにそう言って、また柔らかな唇が重ねられる。噎せ返るような薔薇の匂いがする。でも逃げられない。
 男が思わず振り向くと、つき損ねた手が鏡の向こうに落ちて沈みそうになった。女はその身体を支えると、突き返すように男を部屋の中に押し戻した。

「不甲斐ない男」 

 鏡の中から濡れた唇が男をなじる。開いた膝の片方に肘をついて、頭を預けながら女を見上げる。瞳は冷たいのに、眼差しは蠱惑的だ。双眸がガラス玉のように輝いていて、いつまでも眺めていたくなる。

「君となら、一晩中、背を向け合って生きていたいのに」
「いらない、そんなの」
「うそつき」 

 男が小さく笑うと、女はまた四つん這いになって鏡に近づいた。そして鏡面に、触れるだけのキスをした。それから座り込んで、鏡に片手をつく。

「はやく。キス、して」

 男はその手に、自分の手を重ねるように鏡面に触れた。無機質なそれは、冴え冴えとした室内とはまた違った冷たさで男を蝕んだ。 

「ころして」

 女が言う。至近距離で、気怠げに。結局いつも男は彼女に勝てない。

「最後に、抱きしめてよ」
「できないの。知ってるでしょ」
「そっちでいいから」
「いやよ」

 女が手を伸ばして男の片耳から、小さなゴールドリングのイヤーカフを外した。男も同じように、女の耳で揺れる、プラチナで花を象ったイヤリングを外した。お互いに鏡の中でそのまま手を離すと、それはぽちゃんと音を立てて落ちていった。
 男は左足を半歩踏み出すと、ゆっくりと鏡越しに口づけた。女が目を閉じると睫毛がふるりと震えて、水を叩いた水面の揺れが伝わってくるように伝わった。
 あまい。
 長い口づけが鼻腔を支配しておかしくする。自重で落下した熟れた果実が無闇にまきちらす芳香のようでいて、綻んだ梔子が堪え切れずに溢した香気のようでもあった。
 けれど、それはどこまでも冷たく、固く、無機質だ。何も奪われていかない。ただの口付けでしかない。男にとっては。
 男が唇を離すと、女の身体は力を失ってずるずると下がっていった。そうして、ぷつんと糸が切れたように倒れ込んだ。真白のレースの柔らかい布の中に身体が沈み込んで、濡羽色の髪は波打って広がり、浮かぶように揺れている。
 男は鏡に片手をつき、その様子を惜しむように見ていた。また彼女は今日も、死んだように眠るのだ。

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