見出し画像

【短編】アルファベータ

 ペンギンは、空を飛べない。
 
 一羽のヒナペンギンが、どこまでも続くような青い空を空虚な瞳で見つめている。
 彼の名前は_仮にベータと呼ぶことにすると、ベータは、南極の氷の端から足を投げ出して座っていた。
 足元には冷たい海が広がっていて、まだヒナのベータがここに落ちると、恐らく死んでしまう。
 ベータのまだ幼い体は水の冷たさに耐えられないだろうし、それに溺れてしまうからだ。
 そんなわけだと言うのに、ベータは平気な顔をして足をぷらぷらと動かしている。落ちても大丈夫、というようにだ。
 澄んだ空に、海に、南極の氷。
 青まみれの世界の中で、ベータだけがただ、その景色から浮くようにしてたたずんでいる。

 ベータは、生まれたときから飛ぶことができた。
 仲間のペンギン達の中には、飛べるペンギンなんてもちろんいない。いるわけがない。
 自分よりも早く生まれた兄も、いつのまにかいなくなっていた親たちも。もちろん、同じ年頃のペンギンたちだって。
 自分だけがその者たちのなかで異色で、明らかに変わっていた。良く言うと個性。
 そんな自身の個性が、ベータは大嫌いだった。
 飛べるようにするためか、ベータの羽は他のものよりも長い。歩くとき、いつも少しだけ引きずるくらい。
 そういう、「まわりと違う」ことというのは、長所にもなり、生きづらさにもなるのだ。
 辛くなったとき、ベータはいつも思う。
 空なんて嫌い。
 氷になりたい。透き通り、どんな熱にも力にも負けないような、氷になれたらいいのに。
 そうしたらきっと、どんな視線も言葉も苦しみも、受け流すことができる。傷つかないでいられる。

 よいしょ、と、ベータは少しして立ち上がる。
 戻らなくちゃとつぶやいて、その長い羽を少し引きずりながら、歩き出していく。

 
 コロニーに戻ったベータは、他のペンギンや巣をうまく避けながら、家とは全く別の方向を進んでいた。とんだ回り道だ。
 無駄骨にしか思えないものであるが、この行動がベータの習慣。出かけたら、必ずこのルートを通って家に帰る。そう決めていた。
 _他のペンギンの親子たちの様子を、ベータは横目に見ながら通り過ぎていく。
 そのぶ格好な長い羽を不思議そうに、それでいて好奇心を包み隠さずに凝視してくるちっちゃなペンギン。少し白々しい親ペンギン。
 こうしてぼんやりする時間が、ベータは好きだ。
 途中感じる誰かからの視線も言葉も、何とも思わない。自分が無敵になったように感じる。
 と、ふいに、仲間たちの姿に_ほんの少しだけ、違和感を覚えた。それは気のせいの紙一重で、ベータがもう三歩ほど進んだころには忘れていたものであるが。

「ただいま」
「おかえり」 
 家に着いて「ただいま」と言うと、間髪入れず、そういう返事が返ってくる。少し嬉しくなるベータである。
 しばらく、他愛もない会話_最近なんだかあたたかくなったねとか、魚の数が減ったとか、そういったちいさな日常の事件を話していたふたり。
 と、ふいにベータが、もういっぽうのペンギンに問いかけた。
「そういえば、今日は何してたの、兄さん」
 ベータに兄さんと呼ばれたペンギン_弟がベータだから、こちらはアルファと呼ぶことにする_は、おろしていた腰をよっこいしょと上げた。
「特になにも。いつも通り、寝てぼうっとして過ごしてた」
「あ、そう」とベータ。
「そっちこそ、今日は何していたの?」
 再び腰を下ろしたアルファにそう尋ねられると、ベータは少し考えてから言った。
「特に何も。いつも通り、散歩だよ」
「あ、そう」ベータが言うと、アルファもベータも、ちょっとだけ笑いあった。
「散歩するのは構わないけど、気をつけろよ。
 とくに、シロクマとアザラシには」
「わかってるよ、そんなの」
 それきりで、ふたりの会話は途切れてしまう。
 お互い気まずくないのかと思うが、全然そんなことはない。
 兄のほうは氷をくちばしで削って絵(らしきもの)を黙々と描いているし、弟のほうも、空想や妄想をふくらませるのに忙しかったのである。
 近すぎず、遠すぎず。
 この微妙な距離感を、兄弟は互いに愛している。
 けれどそんなわけなので、他のペンギンたちにはあまり仲の良い兄弟ではないと思われている。全然そんなことはないのだけれど。
 こうした、曖昧でいてゆったりとした時間は、兄弟たちの間で氷のように溶けていく。
 
 何かに夢中になれる時間って不思議だ。
 本当に、「あ」っというまに過ぎてしまう。
 それは人間にもペンギンにも変わりなく_

 空が澄んでいるためか、見事な赤色に染まった空。
 雲に少し隠れているけれど、氷山をおだやかに照らし出す金色の夕陽。
 片っぽは絵、もう片方は空想にふけっている間に、いつのまにか日が暮れてしまっていたのである。
 暗くなってきたので、アルファは顔を少ししかめながらも氷を彫るくちばしを止めた。
「もう日が暮れた。こんなんじゃあ、絵だって描けやしないじゃないか」
 不服そうな兄の姿に、弟のベータはふふっと笑う。
「兄さん、いっつもそれ描いているけど、飽きないの?」
 ベータが兄の方を見ながら不思議そうに尋ねる。
 聞かれたほうのアルファも拍子抜けだ。空気が抜けた風船みたいな顔をして、目をぱちぱちとしばたたかせている。
「それじゃあ言うけど、ベータだって空想に飽きることはないじゃない」
「それもそうか」
 ふたりはようやく氷の床から立ち上がって、背のびをする。何時間も座っていたから、骨がぱきぱきと音をたてる。
「ねぇ、いつも何の絵を描いてるの?」
 ふいに思い立ったようにベータは尋ねたが、アルファは「まだぜんぜん」とはぐらかすばかりで、答えてはくれなかった。

 南極の夜は寒い。
 澄んだ藍色の空にまぶした星たちはかなりの見ものであるが、その代償、とでも言うのだろうか。夜はものすごく冷えこむ。
 仲間たちの寝息がすうすうと辺りに響くなか、ベータだけが、ふいにぱっちりと目を開いた。
 仲間たちは皆、巣穴にもぐったり、互いに体をくっつけたりして暖をとっている。
 むくり、とベータが起き上がってのびをする。
 本当はずっと起きていたのだが、仲間たちが一匹残らず眠るのを待っていたのである。
 世界の中で自分だけが動いているように感じられる夜。この時間がまた、ベータの大好物だ。
 今夜だけは、星空も夜の静寂も、全部一羽のために貸し切られる。
 せっかくの夜だ。どこかへ行ってみようと、ベータはぶらぶらと歩き出した。
 暗いので月明かりを頼りに進むのだが、それでもベータには迷わない自信がある。
 日々探検に励んでいるため、この辺の地形は、ほとんど全部頭の中に入っているのだ。コロニーのペンギンの中でも、多分、ベータが一番この辺に詳しいのではないだろうか。
 さて、どこに行こうかな、とベータは考える。
 もちろん、もう既に行ったことのある場所に行ってもいい。一人でいるのにちょうどいい場所なんて、ベータはいくらでも知っている。
 だけど今夜は、『まだ行ったことのない場所』に行きたかった。
 どこでもいい。行けるのなら、地球の裏側にだって。
 _そうだ、北の方に行こう。
 ベータはひらめく。次の瞬間には、もうその方角へ歩き出していた。

 歩くたび、そのちいさな一歩を踏み出すたび、見慣れない景色がベータの視界に浮かび上がる。
 ベータの横をついてくる、少し欠けた月に照らされて、あたりは白とも銀とも言えるような色に染まり上がっていた。
 と、ベータはふと足をとめた。
 そしてそのまま、何気なく、ベータは目がとらえたものの方へと歩き出していく。
 つるつる滑る氷の坂だって気にならない。
 ベータの心臓が、ドキドキと脈うつ。
 藍色の空。真っ黒の海。
 それらをバックに、白くて、自分よりずっと大きいものがたたずんでいる。

 _北側。ペンギンは誰も、そこに行こうとはしない。
 理由は単純明白だ。
 ペンギンにとっての『天敵』たちがうろつく場所だから、である。
 もちろん、無謀にも、冒険家気取りで探検に行って_まだ帰ってこない、というか、もう帰ってこなくなったペンギンたちだって一定数いる。アルファとベータの両親のように。
 そんなわけだから、『北』という言葉ですら、仲間の間ではタブーとされているのであった。

「となり、いい?」
 気づいた時には、ベータは暗がりに向かってそう声をかけていた。
 
 くるり、と、白いものがこちらを振り返る。
 鋭い牙。自分よりもずっと険しい顔。
 ベータの目に最初に飛び込んできたのは、それらのものだった。
 心臓の音がさっきよりもずっと早くなる。
 逃げろ、と本能が警告しているのがわかる。
「となり、いい?」
 自分を安心させるように、もう一度、ベータはそう言った。 
「ああ_」
 シロクマが少し横にずれる。ベータはそのことに半ば驚き、半ば嬉しく思いながら、シロクマの隣にこしかけた。

 満点の星空。月明かりに光る海の水面。
 いつまでも見ていられそうなその景色から、ベータはふいに視線をはがした。
 空をきれいだと思ってしまえた自分が憎かった。
 翼を持って生まれた自分が憎かった。
 横をちらりと見ると、鋭くとがった爪が目に入る。
「あの」
 ひゅう、と息を吸い込む音が、自分でも聴こえる。
「もしぼくが空を飛べるペンギン、って言ったら信じますか」
 シロクマが首をまわしてベータの方を見る。その黒い瞳が、ベータの姿をとらえた。
「それから、それを嫌だって思ってることも…」
 消え入りそうなベータの声が闇に溶ける。
 シロクマにじっと見つめられて、恐怖で逃げ出したい気持ちを抑えこむ。
「半ば信じがたいけど_」
 シロクマが、言った。
「きみがそうって言うのなら、そうなんでしょう」
 ベータは驚く。あのシロクマが今まさに自分と話していることと、それ以外への驚きだった。
「信じるんです?」
「それじゃあ、わたしはシロクマだからって他の動物に怖がられるのを嫌に思っているってこと、信じるかい?」
 ベータの問いかけにシロクマは答えない。
 今度はシロクマの問いかけに、ベータが答える番だった。
「…信じます」
「それじゃあ、わたしに疑いの余地はないね」
 シロクマがはじめて、ふっと笑う。
 シロクマでも笑うんだ。
 なんて、当たり前かもしれないけれど、ベータは思った。
 それからベータとシロクマは、たくさん話をした。
 他愛もない話題から、少し難しい議論まで。
 シロクマは言った。
「個性なんてどうあがいても個性なんだから、全部受け入れてしまえばいい」
 口で言うほど簡単なことじゃない。ベータが反論すると、シロクマはまた笑った。
「それはみんなそうだよ。わたしだって」
 それきりで、シロクマとの会話は途切れてしまった。
 波の音に耳をかたむけながら、ベータはもんもんと考えこむ。
 いいのだろうか。受け入れてもいいのだろうか。
 だって、あのひとは_

 いったい何時間そうしていただろう。
 夜は明けてこそいないが、もうかすかにしらみはじめている。ベータも半ば日常に引き戻されつつある。
「そろそろ帰らなくちゃ」と考えて腰を上げたのは、ふたり同時だった。
 そのとき、ベータとシロクマは顔を見合わせて_それから、おかしそうに大笑いをした。
「ぼく、もう帰るよ。みんなが起きてこないうちに戻らなくちゃ」
 シロクマがうなずく。
「わたしもそろそろ、おいとまするよ」
 自身よりもずっとちいさなベータに見送られる中、シロクマはゆっくり、ずっしり、日常へ踏み出していった。
 その背中が見えなくなるまでに、そう時間はかからなかった。

「さて」
 ベータが虚空に向かってつぶやいた。
 そしてそのまま、緊張した面持ちで、ぎこちなく、羽を_翼を広げる。
 一振り。二振り。
 ベータは数歩、後ろに下がる。
 それから、大きく息を吸い込んで_

 空を羽ばたいた。

 _空なんて大嫌い。
 今でも心のどこかで、そう思う自分がいる。
 
 だけど、自分の嫌っていた空は、本当に綺麗だった。

 〝氷〟なんかじゃない。
 夜が明けたこの瞬間から、はじめてベータは、自分になれた気がした。

 
 

 空を羽ばたく奇妙なペンギンのすぐそばで、青い世界が、ゆっくりと溶け出していく。ひび割れていく。
 南極の氷から始まったちいさな違和感は、やがて広がり、そして_
 
 空飛ぶペンギンは、自分を知った。
 だけどまだ、この変化を知らない。

#創作大賞2025 #オールカテゴリ部門


いいなと思ったら応援しよう!

ワタリドリ 好きな食べ物は鶏肉、好きな動物は鳥のワタリドリです。もしよろしければ、応援をお願いいたします。 チップは、創作活動に全力で活用すると誓わせて頂きます!