「読むだけじゃ駄目なのか」――野崎まど『小説』
小説を読むことは、一般的には娯楽に分類される。実用書や哲学書よりも格下に置かれる。
ただし、文学は違う。文学は歴史であり、宇宙であり、哲学であり、人間の営みそのものである。
野崎まど『小説』は、そんな文学に魅了された男の話だ。「文学とは何だ」という素朴な問いを、マジックリアリズムの手法で見事に言語化した一冊だった。
武器が、偶然揃っていた
この本を読む前日、芥川龍之介の『素戔嗚』を半分ほど聴いていた。今まで芥川は気難しい人が書いた難解な読み物だと思い込んでいたが、実際は違った。人物を描写するとき、彼は繰り返しの記述によって、読者の頭の中でキャラクターが生き生きと動くように書いている。読者の目線に合わせた、優しい文章だった。
並行して読んでいる『百年の孤独』は、現代マジックリアリズムの手法で書かれている。村上春樹の小説もこの系譜にある。そして『小説』もまた、マジックリアリズムの手法で書かれていた。
作中で大きなウェイトを占めるイェイツは、私自身は読んだことがない。だが大江健三郎の作品によく出てくる名前として、馴染みがあった。
芥川、ガルシア=マルケス、イェイツ(大江経由)――この三点が、たまたま同じ時期に自分の中に揃っていたことが、『小説』を読み解く上で非常に大きな武器になった。
浦島太郎と精霊
物語後半、髭先生の正体が「未来から戻ってきた外崎真本人」だったと明かされる。これは構造としてはSF的なタイムトラベルのどんでん返しに見えるかもしれないが、実際の書き方はそうではない。タイムトラベルという機械的な説明装置ではなく、浦島太郎的な異界訪問譚として、精霊の世界と精霊の仕業としてファンタジックに描かれている。
ここがこの作品の要だと思う。論理で説明されるSF的な伏線ではなく、もっと古い、神話・説話の型を借りているからこそ、後半の宇宙的・哲学的な飛躍が「説明」ではなく「当然そうなるもの」として読者の中に降りてくる。
芥川、イェイツが登場し、精霊の祝福がこの作品に降りてくる。一見、読者はキツネにつままれたような、迷子になったような不安を覚えるだろう。だがこれは、外崎の書く小説を絶対的な位置に据えるために必要な舞台装置として読むことができる。読者を一度幻惑し、検証ではなく信じることへと導く――そう捉えたとき、作者・野崎まどによるこの精密で美しい構図が紐解けてくる。
内海という人間の人生は、ただただ文学を愛でることだった。それは外崎・髭先生から与えられた、一種の贖罪である。一方、外崎の人生は「小説を書く」というただその行為だけを貫くことで、内海の人生を救済した。読む者と書く者、その二人の生のかたちが互いを赦し合うという構造は、神話や昔話の文法に則ることで、はじめてこれほど美しく成立した。
「内側を増やす」という答え
外崎・髭先生は、聖霊にも愛される真の文学を生み出す天才として描かれる。私はこれまで、内海側――「読むだけ」の人間側――の人間だった。
ただ、読んだものの集積として、自分の内側に、自分の想像する「嘘」がむくむくと立ち上がってきている。それが「文学」に至れるかどうかはまだわからない。ただ、人間だけができる特別な営みとしての「嘘」をつくこと――つまり小説を書くこと――が自分にもできるという力を、この本から受け取ったような気がする。
劉慈欣『三体』の三体人は、思考が透明で、嘘をつけない種族として描かれる。あれは単なるコミュニケーション上の弱点として読まれがちだが、『小説』の論理を通すと、もっと根源的な不幸として見えてくる。嘘とは「外に出した内側」であり、それによって人は「内側を増やす」ことができる。三体人にはその回路そのものが存在しなかった。技術的にどれほど進んでいても、彼らが文学を持てなかったのは、文化的な欠落ではなく、種としての構造的な限界だったのだ。
衒いはいらない
外崎は、文学史に残るような博識の人物としては描かれていない。現実世界でのポンコツ性こそが強調されている。「嘘を紡ぐ力」と「教養の量」は、別の回路にある。
膨大な「内側」がなければ「嘘」を結晶化できないわけではない――それが外崎の現実世界における不器用さによって示されていた。これは、書く姿勢そのものを示された感覚だった。衒いや背伸びは必要ない。
私は高卒だ。文学史を語れるほどの教養もない。
高卒は高卒として、自分に書ける文章を書けばいい。
私の紡ぐ「嘘」が、文学に昇華できるかどうかはまだわからない。ただし、人間がこれまで営み続けてきた「嘘」を紡ぐという行為そのものには、地続きでいる。そのことに、今は勇気づけられている。

