霧の向こうへ
最後の乗艇
「キャッチ、ロー」
洋平と海斗の掛け声で、二人乗りボートのダブルスカルが江戸川の水面を滑るように進んでいく。「キャッチ」にあわせて二人の両手が握る四本のオールが水をつかみ「ロー」で水を押し出す。
江戸川にかかる橋の上にいる母子が滑らかに進むボートが近づいてくるのを見つけて手を振ったが、オールを握る手に集中している洋平と海斗は気がつかなかった。三月の冷たい風が川面に吹いているが、二人の額には汗がにじんでいる。頬を伝った汗が、洋平の太ももに落ちた。
「ラスト五本!」
洋平は自身の限界を感じたところで、さらなる鞭を自身と海斗に振るう。今日が高校生活で、最後の乗艇だ。競技用のボートに乗る機会は、もうないだろう。その思いを海斗にも共有してほしかった。
「イージーオール」
水中からオールを出すと、ダブルスカルは水面を滑る樟脳船のように音もなく川の上を進んでいく。風の強さや水の量が影響しているのか、今日は波がほとんど立っていない。
江戸川には季節を問わず、川の流れが止まって見える時がある。橋の上にいた母子からは、ボートの軌跡がシワのない布地にハサミを入れているように見えたかもしれない。
「イージー」
水面にオールを下ろすと、四つの波紋が江戸川に広がった。橋の上にいた母子からは、ボートがアメンボのように見えたかもしれない。一見、優雅に見えるボート競技だが、漕手はオールを握る指先から、足を固定するストレッチャーを蹴り押すつま先まで、全身の筋肉を酷使する。
レース用の距離である千メートルを漕ぎ終えた二人は、肩を上下に揺らしながら、喉からぜいぜいという音を出しながら息を整えた。二人の高校でのボート生活が終わろうとしている。
洋平と海斗は県大会の決勝戦には何度も出場したが、優勝は一度もできなかった。そのためインターハイへの出場経験はない。二人が入部するまでは、ライバル校に勝ったり負けたりを繰り返していたと先輩たちから聞かされていた。
そのため洋平は自身の力不足を責めると同時に、ボート部の部長である責任から海斗に対して負い目に似た気持ちを抱いていた。ダブルスカルに乗艇する二人には高いシンクロ率が求められる。
体重差が大きいとボートの前後が水平を保てなくなり、オール捌きに差があると、進行方向や速度にも乱れが生じてしまう。洋平の腕力と脚力は、海斗には及ばない。自分のせいで海斗は力量を落としてボートを漕いでいると、洋平は思っている。
最後の試合はインターハイへの常連チームと接戦の末、ビデオカメラによる判定負けが確定していた。洋平は最後の試合を思い出すと、いまでも体を搔きむしりたい気持ちに駆られる。
スタート直後、レース初出場の他校のボートが洋平と海斗のダブルスカルに接近してきた。二人はオールの接触を避けるために、そのボートから離れるようにオールを漕いだ。
そのため二人のダブルスカルは曲線の軌跡を川面に描いた。一直線にゴールへ向かっていれば、勝てていたはずだ。そうすれば、ボートによる推薦で洋平は希望の大学に行けたかもしれない。
洋平はボート部のない大学へ進学することになったが、心の奥では自分には別の道があるのではないかと感じていた。ボートを続けたい——その想いは、身体に鞭を打っても消すことはできなかった。
振り下ろせなかった拳
ボートが止まると、洋平と海斗はいつもより長い時間を掛けて握手を交わした。互いの手のひらにできたマメが、ゴツゴツとぶつかり合う。三年間の練習を頑張った証だ。
ボートを始めた頃は傷ひとつない柔らかだった手のひらが、皮の厚いボコボコとした男の手になっていた。指の付け根に並んだ四つのタコは、漕手の証でもある。洋平は自分の手のひらを誇らしげに見つめて笑みを浮かべた。
「キャッチ、ロー」
一艇のシングルスカルが近づいてきた。同級生の空也だ。橋に差し掛かる手前で、空也は「イージーオール」と言って、オールを水平にした。ゆっくりと空也の艇がダブルスカルに近づいてくる。
今月で高校を卒業するボート部員は洋平と海斗、空也の三人だ。入部当時は十人以上の一年生がいたのだが、最終的には三人になってしまった。ボート競技には他のスポーツで見られるような、ファインプレーやスタンドプレーなどの見せ場がない。
漕手はボートをより速く進めるためのエンジンに徹する必要があり、自身を戒めるストイックな精神が必要だ。誰にでもできる楽しいスポーツではない。
その点、人から注目を浴びるのが苦手な洋平には、ボートというスポーツは向いていた。日ごろから口数が少ない、海斗も同様だと思う。だが空也は自己中心的でルールを嫌う目立ちたがり屋だ。
体育祭などでは応援団でもないのに応援合戦で旗を振ったり、足が速いわけでもないのにリレーの選手に立候補をしたりする。それでいて周りの男連中からは、嫌われてはいない。反面、女子受けが悪いのは、洋平にとって救いだった。
なぜ空也のような人間が、地味なボート部で三年間続けられたのかわからなかった。先輩が作成するトレーニング内容に不平を漏らし、時には手を抜いていたが逃げだしはしない。
真面目にトレーニングをこなす自分より、先輩たちから可愛がられたいた。洋平は空也のことが嫌いだ。だから、洋平と海斗の名前が海に関係するという理由だけで、ダブルスカルのペアに選んでくれた顧問の教師に洋平は感謝している。
ペアへのリスペクトが大切なダブルスカルで空也が相手だったら、洋平はボート部を辞めていたかもしれない。
秋に最後の大会を終えた三人はすでに引退した身だが、ボート部では毎年三月に最後の乗艇を行っている。レースへ挑むように全力で漕いでもいいし、のんびりと漕いでも良い。
洋平と海斗はレースさながらに一本目の千メートルを漕ぎきったが、空也はゴールの手前でオールを上げて手を抜いた。シングルスカルの準備をしている時、空也は「最後の乗艇だ。全力をつくすぜ」と言っていたのに。空也のこういうところも洋平は嫌いなのだ。
「海斗、もう一本いけそうか?」
「大丈夫だ」
海斗の肩はまだ上下に動いている。現役の時なら千メートルを一本漕いだ程度で体力を使い切ることはなかった。数ヶ月、練習をしないだけで体力がかなり落ちている。洋平自身も呼吸の乱れを整えられずにいた。
「少し辛そうだぞ」
洋平は左手のオールを川の中に沈め、右手のオールを腕だけで漕いでボートを180度回転させた。あと何本漕げるだろうか。体力が続く限りやりたいが海斗は辛そうだ。練習ではないのだから無理に漕ぐ必要はないが、最後の乗艇なので気力と体力がなくなるまでやってみたい。
「イージーオール」
オールに力をこめようとした時、空也が掛け声を発した。冷やかすような目つきで、空也が洋平と海斗を見ている。もうやめようと言っているのだ。洋平は空也を睨んだが効果はない。
「もう上がろうぜ」
洋平は空也の言葉を無視してオールを捌こうとしたが、空也のオールがダブルスカルの進行を妨げる。こういう時でも海斗はなにも言わない。洋平は吊り上がる眉を隠さず、空也へ向けた。
それでも洋平がボートの向きを変えようと漕ぎはじめると、今度はオールのブレードを操って川の水をダブルスカルに掛けはじめた。
「もういいじゃん、やめようぜぇ」
コツを掴んだのか、水の飛ぶ距離が伸びてきている。水の軌跡がオールや船体に掛かりはじめた。江戸川の青臭い水の匂いが不快感を増す。体に水を掛けたらキレてやる。洋平がそう決めた時、一匹の鯉が大きく跳ねた。
江戸川には鯉がいる。ボートの練習をしているとオールを水に潜らせる音に驚くのか、大きく飛び跳ねる時がある。たいていは体をくねらせたまま空中に舞い上がり川へと落ちていくのだが、運が悪いと鯉はボートに直撃したり、ひどい時はボートの中に落下したりする。
ボートの中に落ちた鯉は鱗を散乱させながら大いに暴れた後、漕手により川へと戻されるが、ひと騒動終えたあとのボートの中は生臭くて練習にならないため、清掃をするために引き上げなくてはならない。
大きく跳ねた一匹の鯉は、ダブルスカルのすぐそばで着水し、洋平の体に大量の水飛沫を浴びせた。茫然とする洋平を見て、空也は腹を抱えながらボートの上でもがき苦しんだ。
「ほら、鯉も上がろうって……」
空也の笑いがとまらない。洋平の腸は煮えくり返っていたが、怒りの矛先を空也と鯉のどちらに向ければいいのか分からなかった。空也の笑いの熱が引くと、三人はなにも言わずにボートを川岸に向けて漕ぎだした。
洋平は一度だけ空也に自分の怒りの感情をぶつけたことがある。部長である自分に指図をするな、後輩たちの前で示しがつかないと。しかし、それは建前であり、空也が気に食わないという気持ちに理由をつけたに過ぎない。だが空也は洋平の気持ちを汲むことなく、笑みを浮かべながら答えた。
「洋平は物事を真面目に捉えすぎ。もっと俯瞰して見ないと、後輩に好かれないぞ」
「後輩に好かれるために言ってるんじゃない」という言葉は、言えなかった。「お前が気に食わないんだ」という言葉も。洋平は拳を握り締めていたが、空也に叩きつけることはできなかった。
洋平は怒りで震える拳を見られないように、その場を離れた。空也と後輩たちの笑い声が後ろの方で聞こえる。自分のことを笑っているのかもしれない。誰もいない場所まで来ると震えは止まったが、涙が零れた。
それ以来、洋平は空也にかかわるのをやめた。次に同じことがあったら、みんなの前で泣いてしまうかもしれない。洋平の心のうちを知らない空也の態度は変わらなかった。
空也はシングルスカルを、洋平と海斗はダブルスカルを川から引き揚げた。ボートを保管する艇庫は、川から少し離れた土手の近くに建っている。距離は二百メートルほどで、足場の悪いあぜ道を歩いていく。
ボートとオールを一緒には運べないので、最初にボートだけを担いで艇庫の前に移動し、再び川までもどってオールを持ってくる。三人はボートとオールを水拭きしてからタオルで乾拭きし、艇庫にしまった。
この作業も今日で最後だ。洋平は艇庫の入り口のシャッターを下ろして鍵を掛けると、体育教官室にいる部活の顧問に鍵を返した。
部室に行くと空也と海斗が自分の荷物を入れたカバンを枕にして、床に寝転がってマンガを読んでいた。誰が買ったかわからない、何年も置きっぱなしになっている青年誌だ。表紙には水着姿の昔のアイドルが写っている。
洋平の怒りはまだ収まっていない。本当なら今日で最後の色々な事柄に思いを馳せたかったが、私物の整理を済ませて、少しでも早く空也がいる場所から離れたかった。しかしそういう時に限って、空也が絡んできたりする。
「洋平はこの後どうするの?」
視線をマンガに向けたままの空也が、洋平に声をかけた。二人の視線は交わらない。互いに別の場所を見ている。
「荷物の後片付け終わったら、先生が挨拶に来いってさ」
「そうじゃなくって、今日の夜だよ」
「別に何もないよ。家にいる」
「ふーん」
洋平は空也の次の言葉を待っていたが、空也の目はマンガに向けられたままだった。これ以上関わりたくない洋平が膝を立てて立ち上がろうとすると、空也が言葉を続けた。
「昔のボート部ってさ、最後の乗艇日に部室でタバコ吸いながら朝まで酒飲んでたらしいぜ」
「昔っていつだよ」
「二十年くらい前かな、石渡先輩が言ってた」
三歳年上の先輩の名前が出てきて、洋平の体はすくんだ。三人がボート部に入った時には卒業していた人だが、洋平は一度だけ姿を見たことがある。石渡先輩は江戸川にいた。
改造したバイクに跨って土手近くの艇庫の前に現れ、当時の三年生を怒鳴りつけていた。一年生だった洋平にとって、三年生は絶対服従すべき対象だ。三年生の漕艇力には勝てないし、怒られたときはもちろん、談笑する姿すら近寄りがたかった。
その三年生が石渡先輩の前では直立不動で微動だにしなかった。
「ボートなんて力のあり余ったバカがやるもんなんだよ!」
何に対しての怒りかはわからなかったが、石渡がそう言ったのを洋平は覚えている。石渡がアクセルを絞ると改造バイクの後輪が空転し、艇庫前のコンクリートに黒い傷跡を刻んだ。
アクセルを吹かすと、後輪の空転を超える爆音が響き渡った。その音は艇庫の中で共鳴し、ダブルスカルのカーボンファイバーをも振るわせた。石渡以外の全員が、反射的に体を震わせた。一年生たちはその光景を見て震え上がり、何人かは部室で退部届けの書き方を教えあった。
洋平が石渡を見たのは、その時だけだったが、いまでも名前を聞くだけで体が硬くなる。空也はどうやって石渡から情報を得ていたのかは気になったが、聞かない方が良い気がした。
「二十年って俺らが生まれる前じゃないか。それでも、部室でタバコと酒は無理だろう。先生が来たら一発でアウトじゃん。この時期の停学なんて進路に影響するから、さすがに冗談だろ」
空也が手招きをする。洋平は後片付けの手を止めて、空也の近くに寄った。海斗も近くに来る。
「ここ見てみろよ」
空也は部屋の隅に置かれたゴミ箱を持ち上げた。ゴミ箱が置かれていたところの畳を見ると、正方形に切込みが入っておりタコ糸が一本出ている。空也がタコ糸を引き上げると畳が持ち上がり、下から灰皿が出てきた。
「いまの体育教官室って、昔は体育用具入れに使ってたらしいんだよ。だから顧問が部室にくることなんて滅多になかったんだけど、どこの部室でもタバコとか置いてある状態だったから先生にばれちゃって、監視の意味もあって体育教官室をいまの場所に引越したんだってさ」
空也は灰皿を取り出すと畳に置いた。陶器製の白い灰皿には英語が書かれているが、タバコの灰なのか泥のようなものがこびりついており読むことができない。空也が爪で汚れを引っかくと、NO SMOKINGの文字があらわれた。
「俺たちもやってみるか?」
空也がタバコを吸うようなしぐさを見せながら言った。
「やめろよ!もし見つかったらどうするんだよ。ばれたら停学になるし、下手したら大学に行けなくなるじゃないか」
「大学は合格したんだから、関係ないだろう」
「停学になって、卒業できなくなったら大学に行けないだろうが」
「大丈夫だって、停学になったって卒業はできるよ」
「だめだ。絶対だめ。やるならお前一人でやれ、それに部室は使うな。家に帰って勝手にやれ」
「海斗はやりたくないか?」
「海斗もやらない! 俺たちを巻き込むな。いままで言わなかったけど、お前、むかつくんだよ。今日だって、俺はもっとボートに乗りたかったんだ。ボートに乗ることなんてこの先ないんだぞ。それをお前が言うから!」
洋平の突然の爆発に、無口な海斗の口が開いていた。だが胡坐をかいた空也は、立ち上がった洋平を見上げながら平然と言う。
「俺は帰ろうと言ったかもしれないけど、それを決めたのはお前だろう。乗りたければ、乗ってれば良かったじゃないか。いまからでもシングルスカルに一人で乗ればいいだろう」
言いたいことはある。怒りの感情を拳に載せて、殴りつけてやりたかった。喧嘩になって騒ぎになり、体育教官室にいる顧問に気が付かれたら、停学になるだろうか。そんな思いが頭の中によぎり、洋平は拳を下した。
空也には何を言っても、殴りつけても伝わらない。我慢するしかないんだと自分に言い聞かせた。部室の畳に涙が一粒零れた。洋平は隠すように涙の後を踏みつけ、後片付け途中の荷物を持って部室を後にした。
体育教官室には一人で行き、急用ができたからと顧問への挨拶を早々に済ませて家に帰った。
霧の中
洋平は家に帰り自分の部屋に入ると、荷物を置いてベッドに寝転がった。机の上には最後の試合が終わった時に撮影した洋平と海斗、空也の三人が笑みを浮かべながらピースをしている写真が飾られている。
洋平はベッドから起き上がると、ドスドスと床を踏鳴らしながら机の上の写真を伏せた。まだ収まらぬ怒りの炎が大きくなりそうだ。気が済むまでボートに乗れなかったことや、空也の言葉に反論できなかったこと、何のフォローもしない海斗にまで洋平は腹がたった。
本気でボートに乗りたかったら、空也が言うように今からでも学校に戻ってシングルスカルに乗ればいいのだが、顧問に最後の挨拶をしたからとか空也に会ったら喧嘩になってしまうとか、色々と理由をつけて行動しない自分にまた腹が立った。
大学には行かないといけないのだろうか。スポーツ推薦の枠から外れた時に、自暴自棄になってボート部がない適当な大学を選んだことを、洋平は後悔している。
別の大学の試験に合格した時も、喜びより消沈する気持ちの方が大きかった。浪人という言葉が頭の中に浮かびはするが、大学合格を伝えた時の両親の笑顔がそれを打ち消す。
大学に入学するには、安くないお金を用意しないといけないことは洋平もわかっている。しかしボートに乗りたいという気持ちは捨てられそうにない。だからこそ、今日は気が済むまでボートに打ち込みたかった。
階下からテレビの音が聞こえる。洋平の母親がリビングで寛いでいるようだ。洋平が母親と話をしなくなったのは、中学の終わり頃だっただろうか。母親が愚かに見え、見下し毛嫌いしていたからだが、今でも話をしないのには洋平なりの理由がある。
大学の話をするだけなら悲しむこともないだろうと、洋平は階段を下りて母親がいるリビングに向った。母親はソファで横になりながらスマホの画面を見ている。隣に座るのは抵抗があるので、洋平は壁にもたれながら母親を呼んだ。
「ママ……」
洋平が母親と話をしなくなったのは、この呼び方によるものが大きい。来月から大学に行こうとしている男が、母親のことをママと呼ぶのは恥ずかしいが、今さら呼び方を変えるのは照れくさい。オフクロと呼ぶのは昭和なイメージがある。お母さんだと優等生っぽい感じがして自分らしくない。
「洋平から話しかけてくるなんて、めずらしいわね」
「あのさ、大学の入学金っていくらくらいするもんなの?」
母親は久しぶりに話し掛けてきた息子の顔を見ていたが、洋平は目をそらすように宙を見つめていた。
「うん十万円よ。そんなの子供は知らなくていいのよ。ちゃんと勉強してくれれば」
「それってもう払ったの?」
「どうしてそんなこと聞くの?」
母親は洋平の顔を見つめ続けていた。
「別に……」
天井に視線を泳がせていた洋平だが、目の端に映る母親の直視に耐えられず、話を切り上げて自分の部屋へと戻った。――ママは自分の考えに気が付いたかもしれない。
ベッドに寝転がり布団をかぶりながら、聞かなければ良かったと洋平は思った。パパが帰ってきたらママは、大学のことを話すに違いない。パパに何か言われたら正直に話そう。言われなければ話さなくても良いか。
しかし家族が揃った夕食の時に、大学の話は出なかった。ママはなにも勘付かなかったのか、分かっていながらパパには話さず、話題にもしなかったのだろうか。
洋平は部屋の電気を消してベッドで寝ころんだ。外灯の光が洋平の部屋を仄かに照らす。ボート部の後輩から贈られたオールを象ったオブジェが薄く照らされている。――パパかママが何も言ってくれなかったら、俺はボート部がない大学に行かなくちゃいけないじゃないか。
父親と母親が自分の思いに気が付かないことに、洋平は寂しさと苛立ちを感じた。苛立ちを感じると昼間の空也とのことが頭を過り、不快な気持ちが胸のあたりから全身に広がっていく。洋平は不快感を閉じ込めるように、布団の中で体を丸めて寝ることに集中した。
アテンション・ゴー
枕元に置いたスマホの電話が鳴り、洋平は目を覚ました。LINEの着信ではなく電話が鳴るのは珍しい。真っ暗な部屋の中で鳴動と共にスマホの画面が光っている。窓の外は暗い。暗闇の中で光る液晶は、四時という文字と空也の名前を知らせていた。
昨日のイライラがよみがえる。机の上の写真立ては伏せられたままだ。空也がこんな時間に電話をしてきたのは大事な用件なのだろうと、通話ボタンを押した。
「洋平、起きてたか!」
起きているわけがない。朝早くに電話してきたことを謝るのが先だろうと、洋平は思った。
「寝てるに決まってるだろう。朝の四時だぞ」
「今すぐ江戸川に来い。艇庫の前だ」
「なんでだよ」
「いいから来いって、一生後悔するぞ」
こんな時間に電話をしてきて、用件を言わないのにも腹が立つ。
「海斗は、もう向かっているぞ」
部長である自分より先に、海斗へ連絡をしたのは昼間の一件があったからだろうか。洋平は渋々、ベッドから出て私服に着替えると、親を起こさないように爪先立ちで階段を下りた。
玄関のドアは、取りつけられた鈴が鳴らないように手で押さえながら開けた。庭に置いた自転車のサドルが濡れている。湿気が多いのだろう。洋平は手で露を払いのけてサドルに跨った。
急いで自転車をこげば、学校には一時間程度で到着する。洋平がこんな時間に学校へ行くのは初めてだ。三年間通っている通学路に人影はない。時折、新聞配達であろうバイクの音が遠くから聞こえる。朝の街灯に照らされるだけで、よく知る景色が異世界のように見えた。
家を出た時は真っ暗だったが、学校が近づくにつれ町並みが白んできた。自転車を立ちこぎする洋平の顔がしっとりと濡れているのは、汗をかいたからではなく靄のせいだ。国道の高架下を抜けるトンネルを抜けると江戸川が見えた。洋平は土手沿いに自転車を走らせる。
土手の下、艇庫へと続く階段の下に二台の自転車が止まっているのが見えた。空也と海斗の自転車だ。霧越しに二人の姿が土手の上に見える。向こうも気がついたのか、空也が洋平に手を振った。空也が早く階段を上れと手招きする。
洋平は階段の中腹で空也に声をかけた。急いで自転車を漕いだので息が乱れている。
「来たぞ。これで俺は後悔しないのか」
「まだ大丈夫だ。早く来い」
洋平は右手で膝を押し、疲れたような演技をしながら階段をゆっくり上った。海斗は洋平の方を振り返らず、ずっと土手下の江戸川の方を見続けている。最後の一段を登り上り切った時、洋平は思わず声を上げた。
「おおおおおおおおおお」
毎日のように見てきた江戸川が土手を壁にして、いっぱいの霧を溜め込んでいる。川霧だ。風が吹いていないのに、霧の上面がゆっくりとうねる様が川の流れのように見えた。普段なら土手の上から艇庫と江戸川へと続く砂利道が見えるのだが、うっすらと屋根が見えるだけだ。
土手を隔てた川の反対側には霧がなく、いつもの町並みが広がっている。自分たちしかこの絶景を知らない。そのことも洋平の心をとらえた。茫然。空也が肩を叩くまで、洋平は立ち尽くすことしかできなかった。
「どうだ? これを見なかったら後悔しただろう」
「あ、ああ」
洋平の怒りは消えていた。
「艇庫の前に行こうぜ」
空也に言われ、三人は土手を下りた。霧の中に入ると首筋がひやりとする。深呼吸をするたびに、自転車をこいで熱くなった身体が冷えていく。視界は思ったより悪くなく、艇庫はすぐに姿をあらわしたが様子がおかしい。
シャッターが半分だけ開いているのだ。空也と海斗はシャッターを開ける鍵を持っていない。部員は毎日帰る時に、顧問の教師に鍵を返却することになっている。昨日は洋平が鍵を返した。
「洋平、ボートに乗るぞ」
言いながら空也はシャッターを全開にした。艇庫の鍵が開いているということは、顧問から許可をもらったと思って良いのだろうか。洋平はその点を気にした。昨日のことがあるので、ボートには乗りたい。しかも霧の中での乗艇という三年間で一度もなかったシチュエーションだ。
「空也、艇庫の鍵は先生から借りたのか?」
「いいや、借りてないよ」
空也は悪びれるでもなく答えた。洋平に昨日の怒りが蘇る。
「じゃあ、どうやって鍵を開けたんだよ」
艇庫の中から足音が聞こえてきた。軽い金属ががチャラチャラとぶつかる音も聞こえる。洋平の見覚えのある顔が、暗い艇庫の中から現れた。ライダーシューズにブラックジーンズ、腰にはウォレットチェーンがぶら下がっている。
石渡先輩だ。一年生に見た頃より迫力が増している。洋平は慌てて頭を下げた。
「俺が開けてやったんだけど不満か?」
なぜ石渡先輩がここにいるのか? 洋平の疑問を察した空也が言った。
「おれさ、先輩と幼馴染なんだよ。ボート部も先輩に勧められて入ったんだ」
洋平が恐る恐る顔をあげると、石渡と目があった。
「不満か?」
「いいえ、不満はないです」
洋平は再び頭を下げた。石渡先輩が空也と幼馴染だと、なぜこんな時間に艇庫にいるのかはわからなかったが、一年生の時に聞いた石渡の怒声を思い出し、怖くて顔があげられない。下を向いたままの洋平の視界に空也のボート用のサンダルと、石渡のライダーシューズが並んだ。
「石渡先輩、ひとつよろしいですか」
「なんだ」
「先生はこのこと知ってるんですか?」
「俺の一存だ」
先生の許可なくボートには乗れない決まりだが、洋平に言い返す勇気はない。
「洋平どうするんだ。ボートに乗るか? 石渡先輩が許可してくれたから、俺は乗るけど」
いくらボート部のOBとはいえ、石渡先輩は部外者だ。ボートに乗っていいわけがない。空也だけなら殴ってでもボートに乗せないが、石渡先輩は怖い。空也を止めるのは石渡先輩に逆らうのと同じだ。
洋平は顔を上げると空也に向かって言った。自分ができる精一杯の行動だ。
「俺は乗らない」
「好きにしな。海斗、オールとボートを運ぶのを手伝ってくれ」
最後の乗艇の機会が再び自分に訪れたのは、空也なりの気づかいだったのかもしれない。しかし洋平はこのようなやり方は望んではいない。洋平は艇庫に背を向けて土手を上った。空也と海斗は何かを話しながら艇庫に入っていく。
土手を上りきると、洋平は遊歩道に座った。元部長として帰るわけには行かない。彼らを見届ける義務があると思った。ジーンズ越しにコンクリートの冷たさが伝わってくる。
艇庫から二本のオールが出てきた。霧に隠れているので誰が持っているのかはわからないが、肩に担いだオールのブレードが霧の上に見え隠れしている。恐らく空也がシングルスカルに乗るのだろう。
海斗はなぜ空也の手伝いをするのだろう。三年間、ダブルスカルでペアを組んでいた自分の気持ちを汲んでほしい。しかしそれは片思いであった。艇庫からもう二本のオールが出てきたのだ。ボート部にはシングルスカルが一艇しかない。
計四本のオールを出すということは、空也と海斗のペアでダブルスカルに乗るということだ。経験はなかったが、彼女を寝取られた時のような身悶えを胸の内に感じ、洋平は体を掻きむしった。
風は止んだままだったが、霧はたえず揺れていた。中でも四本のオールを包む霧がひときわ大きく揺れている。前を進んでいたオールが立ち止まった。後ろを歩くオールを待っているのだ。後ろを歩くオールが前のオールに追いつくと、四本のオールは並んで川へと歩き始めた。
『遅いな、早くこいよ』
『まだ眠いんだよ』
空也と海斗の声が、洋平には聞こえるようだった。自分が好意を持つ者と嫌悪する者が、共同作業をするのを見せられる苦しみ。洋平は足を抱え込み、膝頭に目を押し当てた。自分が何をしたいのか、わからない。顔をあげると、パンツの膝頭に大きなシミができている。声をあげて泣きたかった。
川辺に運ばれたオールが横に寝かされると、空也と海斗は艇庫に向かって走った。洋平のいる場所からも霧が大きく揺れるのが見える。艇庫から出されたダブルスカルが、新しいペアに運ばれていく。
土手を上ってくる石渡に気がついて、洋平は立ち上がった。「お疲れ様です」と声を掛けたが、返事はない。石渡は洋平の隣に立ち、紙タバコを一本取り出してライターで火をつけた。
「おまえは乗らないのか?」
「僕は良いんです」
石渡が燻らすタバコの煙が川霧と重なる。石渡が深呼吸をするように煙草の煙を吐き出すと、息吹が届いたかのように江戸川の霧の一部が揺れた。空也と海斗が乗るダブルスカルが出艇するのが見えた。
「石渡先輩、二人はダブルスカルに乗ったんですよね」
洋平の声は涙で震えていた。石渡は何も答えず、深呼吸をするように煙をふぅと吐き出した。
洋平は石渡に何も言わずに、土手の坂を駆け下りた。朝露で濡れた土手の雑草が洋平の足元を濡らす。洋平は昨日の空也のセリフを思い出した。「それを決めたのはお前だろう」。その通りかもしれない。
洋平は艇庫に入って二本のオールを担いで江戸川へと向かった。何かを考えての行動ではなく、身体が勝手に動いていた。川岸まで来るとダブルスカルが水の上を走るのが見えた。二人の掛け声も聞こえる。
洋平は川岸にオールを置くと、急いで艇庫にもどってシングルスカルを担いだ。洋平は入部当初から海斗とダブルスカルに乗っていたため、シングルスカルでの乗艇経験がない。
二人乗りが一人乗りに変わるくらいだろうと洋平は思っていたが、いざ艇を川に浮かべて乗り込むと、ちがいに驚いた。ダブルスカルと比べてシングルスカルは安定しない。
川面に接するオールの数が二本少ないだけで、艇は容易にひっくり返りそうになる。体勢を立て直しながら、自分は一人なんだと洋平は思った。シングルスカルが江戸川を滑り出した。
「そーれ」
バランスをとりながら洋平のシングルスカルが川霧の中を進む。
「キャッチ、ロー」
自分で声を出して、自分で行き先を決めながらボートを漕いでいく。洋平はレース用のスタート地点までボートを進め、下流へと舳先を向けた。
「アテンション……」
洋平が一人きりのレースをスタートさせようとした時、大きな鯉が空中に舞い上がりシングルスカルを越えて江戸川に落ちていった。どうやら観客はいるようだ。洋平はオールを握り直し、ブレードを川の中に沈めて停止した。
「ゴー!!」
洋平はストレッチャーに固定した足を蹴り、オールを強く漕ぎ出した。シングルスカルが川の水を切り、スピードを上げていく。洋平は背中で風を感じながら、大学のことを父さんと母さんに相談してみようと思った。
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