壬生を去りて
第一部 集められた者たち
第一章 軽い夜
京の夜は、軽い。
江戸の夜は、もっと沈んでいた。音が下に落ちる。人の声も、足音も、地面に吸われる。だが、ここは違う。風が持っていく。残らない。
壬生の屯所の外へ出ると、夜気は思ったより冷えていた。昼のざわめきが遠い。町はまだ起きているはずなのに、ここまで来ると、人の気配は薄くなる。残るのは、土の匂いと、どこかで焚かれている火の気配だけだった。
芹沢鴨は、軒先の柱に肩を預けたまま、盃を指で回した。
酒はぬるい。
それでも捨てる気にはならなかった。口へ運ぶ。喉の奥に落ちていく味が、やけに軽い。江戸で飲む酒はもっと重かった気がする。腹に残る。だが京の酒は違う。飲んでも、どこか身につかない。
「……薄いな」
誰に言うでもなく、こぼした。
返す声はない。屯所の中では、まだ何人かが起きているはずだった。笑う声も、ときおり壁の向こうで動く気配もある。だが、外へ出ると、それらは薄い布を一枚隔てた向こう側へ退いてしまう。
芹沢は、もう一口だけ酒を含んだ。
京に入ってから、ずっと同じことを思っている。
軽い。
町も、風も、人の言葉も。何もかもが地に足をつけていないようで、手を伸ばしてもすり抜ける。江戸のように、人の欲や息が地べたに張りついていない。その代わり、目に見えぬものが上に浮いている。名分だの、朝廷だの、攘夷だの、そういうものが。
そういうものは嫌いではない。だが、腹に落ちぬものを振りかざされるのは好きではなかった。
盃を口から離した、そのときだった。
後ろで、砂を踏む音がした。
軽い。
振り向く前に、誰か分かった。
「芹沢殿」
清河八郎の声は、よく通る。夜気に吸われることなく、すっと耳まで届く。だが、どこか滑る。柱にも、地面にも、肌にも引っかからず、そのまま通り過ぎていくような声だった。
芹沢はゆっくりと振り向いた。
灯りの届く手前で、清河は立ち止まっていた。顔の半分が影に沈み、輪郭だけが細く浮いている。衣の乱れがない。旅でここまで来たはずなのに、くたびれたところが見えない男だった。
「……なんだ」
短く返す。
清河は一歩だけ近づいた。足音がやはり軽い。まるで土を踏んでいないようで、芹沢はそれだけで少し苛立った。
「少し、お話ししておこうと思いまして」
「今さら改まってか」
「明日のことです」
芹沢は盃を傾けた。酒が中で揺れる。
「新徳寺か」
「ええ」
それだけ言って、清河は黙った。
何か言葉を選んでいるふうではない。むしろ、もう決まっていることを口へ出す順を整えているだけの沈黙だった。芹沢はそれを見て、盃を持つ手を止めた。
風が抜ける。
清河の裾だけが、かすかに動いた。
「浪士組は、江戸へ戻ります」
芹沢は、すぐには返さなかった。
盃を唇まで持っていき、しかし喉へは落とさない。そのまま酒の匂いだけを吸った。
「将軍警護はどうする」
「別の形で果たします」
「別の形、か」
「我らの本分は、攘夷にあります」
夜気が、ひとつ冷えた気がした。
その言葉は確かに聞こえたのに、どこにも引っかからなかった。耳には届いた。だが、腹には落ちない。同じ言葉を使っているはずなのに、向いている先が違う。そんな感じがした。
芹沢はゆっくり顔を上げた。
清河の目が、まっすぐこちらを見ている。
濁りがない。
まっすぐすぎた。
その目は、今この場で芹沢を見ているようでいて、芹沢の向こうを見ているようでもあった。もっと先、もっと遠く、まだ誰も手をつけていない何かへ向かって伸びている。そういう目だった。
芹沢は、わずかに眉を動かした。
(……どこ見てやがる)
もう一度、清河の目を見る。
(……いやな眼だ)
清河は崩れない。こちらの気配に気づいているのか、いないのかも分からぬまま、まっすぐ立っている。
芹沢は、盃を柱の脇へ置いた。
小さな音が、妙に響いた。
「……なんだそりゃ」
声は低い。
清河は目を逸らさなかった。
「攘夷のためには、いま京に留まるより」
「いや」
かぶせた。
最後まで聞く気はなかった。
「違ぇだろ」
清河の口が、わずかに止まる。
それを見て、芹沢は鼻で笑うでもなく、ただ息を吐いた。
「江戸で言ってた話と」
それだけ言う。
将軍警護。上洛の供。京の治安。名目はいくらでもあった。だが少なくとも、浪士どもをここまで連れてきた筋道は、今、目の前で言われたものとは違う。芹沢はその違いを理でほどこうとは思わなかった。ただ、違うものは違う。それだけで足りた。
清河はしばらく黙っていた。
やがて、静かに言った。
「筋は同じです」
芹沢は笑わなかった。
「そう見えねえ」
「いずれ分かります」
その言い方が、また気に障った。説き伏せるでもなく、争うでもなく、ただ先の方からこちらを見下ろしてくるような口ぶりだった。芹沢は柱から身を起こした。
二人の背丈はそう変わらない。だが近づくと、清河の方が妙に細く見えた。細いくせに、折れそうには見えない。むしろ張りつめている。触れれば指を切りそうな細さだった。
「俺は残る」
言ってから、理由を考えたわけではないと気づく。
ただ、口が先に出た。
だが、それでよかった。
清河の目が、ほんの少しだけ細くなる。
「京に、ですか」
芹沢は答えなかった。
答えるほどのことでもない。戻る気になれない。それだけだ。理屈にすればいくらでも言えるだろうが、言葉にした途端に軽くなる気がした。
風が吹く。
京の夜は軽い。何も残さない。
だからなおさら、ここで足を引くのは気に入らなかった。
清河はしばらく芹沢を見ていたが、それ以上は何も言わなかった。諦めたのか、もとより説得するつもりがなかったのか、それも分からない。
その沈黙が、芹沢にはかえって気に障った。
「……好きにしろ」
自分に向けて言ったのか、清河に向けて言ったのか、分からぬまま口をついて出た。
芹沢は背を向けた。
足音が、地面に当たる。
今度は、ちゃんと重い。
振り返るつもりはなかった。だが、背中に視線を感じる。まっすぐ、まっすぐなまま、伸びてくる気がした。
芹沢は、歩幅を変えない。
そのまま、闇の方へ進んだ。
しばらく歩いてから、盃を外に置き忘れたことに気づいた。戻る気にはならなかった。
屯所の中へ戻ると、空気が違った。
外の風は入ってこない。
火の熱と、酒の匂いと、男の黙りが、低いところに沈んでいる。
こっちの方がましだ、と芹沢は思った。
京の夜は軽い。
だが、この火のまわりには、まだ江戸の重さが残っていた。
灯りの下で、何人かがまだ起きていた。壁にもたれ、刀を脇に置いて話している者。黙って火を見ている者。誰もが京に馴染みきらぬ顔をしている。
その中に、近藤勇の姿があった。
こちらに気づくと、近藤はすぐ立ち上がった。動きに無駄がない。しかも軽くない。
近藤が強いことは、ここにいる者はみな知っていた。だからこそ、本人は静かに人へ向く。
「芹沢さん」
「起きてやがったか」
「ええ」
それだけだった。
それだけなのに、言葉が床へ落ちる。
外のようには、滑っていかない。
近藤の後ろでは、土方歳三が柱に背を預け、片膝を立てていた。こちらを一度見たきり、何も言わない。目だけが動く。黙っている時ほど、よく見ている。
「清河先生でしたか」
近藤がそう言った。
芹沢は鼻を鳴らした。
「先生、ね」
近藤は笑わない。ただ、芹沢の棘をそのまま受ける。
「何か、話でも」
「明日、話があるそうだ」
それだけ言って、芹沢は火のそばへ腰を下ろした。近くの徳利を引き寄せる。今度の酒はさっきのよりましだった。重くはないが、まだ腹に落ちる。
土方が口を開く。
「面倒ごとか」
それだけだった。
だが、その一言のあと、土方は黙る。どう面倒なのか、誰の面倒なのか、自分では続けない。相手がどう埋めるかを見る。その癖を、芹沢はもう知っていた。
「京ってのは、どうも気に入らねえ」
芹沢がそう言うと、近藤は少しだけ眉を寄せた。
「町が、ですか」
「町もだ」
一口飲んでから、芹沢は徳利を置く。
「人もな」
土方の目が、かすかに細くなる。
「清河は」
そこで止める。
止めたまま、二人を見ている。
近藤はすぐに言葉を継がない。軽々しく人を決めないための間だった。
芹沢は火を見たまま言った。
「いやな眼してやがる」
近藤は黙って聞いている。
「どこ見てるのか分からねえ。こっち見てるようで、見ちゃいねえ」
土方が短く言う。
「先」
芹沢はそちらを見た。
土方はそれ以上言わない。ただ、どう返るかを見ている。
「先だと?」
「見てる先だ」
ぶっきらぼうに、それだけ言う。
芹沢は徳利を傾けた。残りはもう少ない。
「それが気に入らねえんだよ。今ここで話してるくせに、もう別の場所に立ってやがる」
近藤は、火を見たまま静かに言った。
「ですが、清河先生のお考えにも理はあるのでしょう」
芹沢がすぐに顔を向ける。
「理がありゃ何でも通るのか」
近藤は怒らない。目も逸らさない。
「通るとは言いません。ただ、聞かずに斬る話でもない」
芹沢は、ふっと息を鳴らした。
「お前はそうだろうよ」
言い方は荒い。だが、棘は浅かった。
近藤は少しだけ苦く笑った。
「そうかもしれません」
土方がそこで口を挟む。
「筋」
二人とも、土方を見る。
土方は視線を火に落としたまま続けた。
「筋を変えたか、変えてねえか。そこだろ」
芹沢は答えるより先に、近藤を見た。
近藤は少し黙った。それは言葉を探している沈黙ではなく、軽々しく決めないための間だった。
やがて言う。
「江戸で聞いた話と、今日の話が同じに聞こえるかと言われれば……違うでしょう」
芹沢の口の端がわずかに上がる。
「だろうが」
「ですが」
近藤はそこで一度、膝の上に置いた手を組み直した。
「だからといって、清河先生が己の利のために動いているとは、私にはまだ思えません」
土方の目が動く。
芹沢は徳利を床に置いた。
「そこなんだよ」
声は低い。
「利じゃねえ。あれは本気だ。だから余計にたちが悪い」
近藤は黙る。
その黙り方には、否定も嘲りもない。芹沢の言葉を、そのまま受け取っている。
土方が短く言う。
「本気なら」
そこで止める。
近藤がその先を取った。
「なおさら、こちらも軽々しくは動けない」
土方は何も言わない。ただ、近藤を一度見て、それから芹沢を見る。
芹沢はその視線を受けて、鼻を鳴らした。
「お前ら、似てるようで違うな」
近藤が少し首をかしげる。
「そうですか」
「お前は人を見る」
芹沢が近藤を顎で示す。
「こいつは腹を見る」
今度は土方を示す。
土方の眉が、ほんのわずかに動いた。
「で、芹沢さんは」
土方が言う。
芹沢は徳利を取り上げ、底を覗いた。空だった。
「気に入るか気に入らねえかだ」
近藤がそこで、はじめて小さく笑った。
「分かりやすい」
「分かりやすくて結構だ」
言ってから、場にまた沈黙が落ちた。
その沈黙はさっきまでより少し重かった。悪くない重さだった。
芹沢は、重い空気を振り払うように、そこで初めて声を立てて笑った。
「土方、相変わらず言葉が足りねえな」
土方は返さない。
返さないまま、火の向こうで二人を見る。
近藤が、困ったように笑った。
「歳は昔からこうです」
「知ってるよ」
芹沢は立ち上がった。
背丈のぶんだけ影が動く。
「だがな」
二人を見下ろして言う。
「気に入らねえってのは、案外、当たるぞ」
近藤はその言葉を、冗談として流さなかった。
まっすぐに見返す。
「覚えておきます」
土方が、柱にもたれたまま言った。
「明日」
近藤がうなずく。
「ええ」
「見りゃ分かる」
それだけ言って、土方は黙った。
芹沢は肩を鳴らした。
「お前はほんと、そればっかりだな」
土方は返さない。
だが、その口の端がほんのわずかに動いたように見えた。
火が、ぱちりと鳴った。
三人とも、もう喋らなかった。
明日のことを考えているのか、考えていないのか、それは顔には出ない。
外では、京の夜が相変わらず軽く流れていた。
だが、火のまわりだけは違った。
そこにはまだ、江戸の重さが残っていた。
第二章 新徳寺
新徳寺の広間は、乾いていた。
朝から人が出入りしているはずなのに、湿り気がない。畳は広く、天井は高く、声は上へ抜ける。壬生の屯所のように、火の熱や酒の匂いが床のあたりに沈んではいなかった。
芹沢鴨は座に着くなり、そう思った。
ここも軽い。
京という町の内側にあるものは、どうしてこう、手に引っかからないのか。
浪士たちは広間のあちこちに散っていた。膝を崩して座る者、妙に背を伸ばしている者、落ち着きなく指先で膝を叩いている者。集められたといっても、まだ一つの塊ではない。寄せ集めのまま、ただ同じ屋根の下に押し込められている。
芹沢の少し後ろに近藤勇、その斜め後ろに土方歳三がいた。
近藤は座りが崩れない。こういう場では、かえって目立たぬようにしているのだろうが、消えはしない。土方は黙っている。黙ったまま、広間の端から端までを、眼だけで拾っていた。
「乾いてやがるな」
芹沢が低く言うと、近藤が少しだけ顔を寄せた。
「寺ですから」
「そういう話じゃねえ」
近藤はそれ以上は返さなかった。分からぬなら分からぬなりに、軽く流さない。その律儀さが、この男の良さでもあり、面倒でもある。
土方が短く言う。
「言葉が」
それだけで止まる。
芹沢は鼻を鳴らした。
「お前はほんと足りねえな」
土方は構わない。
「残らねえ」
そこで終わった。
だが、それで十分だった。
この広間では、言葉が落ちない。畳へ、腹へ、骨へ。そういうところまで沈んでこない。上っ面をすべって、どこか高いところへ抜けていく。
近藤が静かに言った。
「皆、気を張っています」
「そりゃそうだろうよ」
芹沢は広間を見回した。
誰もが、何かが起きると思っている顔をしている。だが、それが何かまでは分かっていない。分からぬものを待つ顔だ。
そのとき、芹沢の目が、広間の奥で一度だけ止まった。
人影がある。
座の端、灯りの届ききらぬあたりに、ひとつだけ妙に大きな影が沈んでいた。
座っているだけなのに、そこだけ畳が狭く見える。
騒がず、動かず、ただいる。
だが、死んだようには見えない。
眠っている獣が、腹を地につけたまま、まだ起きる時ではないと待っている。そんな気配だけがあった。
芹沢は、それ以上見なかった。
広間の空気がわずかに寄った。
人の気配が一方向へ向く。
来たか、と芹沢は思った。
清河八郎が、ゆっくり座へ入ってきた。
やはり乱れがない。
着物の裾も、姿勢も、視線も、すべて整いすぎている。場に入ってきたというより、最初からそこへ向かって一本の線を引いてきたような歩き方だった。
芹沢は、その目を見た。
やはり、まっすぐだった。
まっすぐで、嫌だった。
清河が座につく。
広間のざわめきが、すうっと痩せていく。
そして、口を開いた。
「諸君」
よく通る声だった。
広間の隅まで届く。だが、やはり滑る。耳には入る。だが、そこに留まらない。
「このたび、将軍上洛の供として、諸君とともに京へ入った」
そこで一度、言葉を切る。
誰も口を挟まない。
「だが、我らの本分は、もとよりそこに尽きるものではない」
芹沢は、膝の上の手を動かさなかった。
来る。
そう思った。
「我らの志は、攘夷にある」
その一言で、広間の空気がぴたりと止まった。
近藤の気配が、後ろでわずかに固くなる。土方は動かない。
清河は続けた。
「ゆえに、浪士組は江戸へ戻る」
ざわめきが、今度は確かに起きた。
今まで上を滑っていたものが、ようやく畳に落ちたようなざわめきだった。
誰かが息を呑む。誰かが「何だと」と低く言う。あちこちで膝が動く音がする。
芹沢は笑いもしなかった。
ただ、ああやはり、と思った。
「江戸に戻り、機をうかがう。攘夷成就のため、あらためて力を蓄える」
清河の声は少しも揺れない。
自分の言っていることに疑いがない声だった。
そこが、いっそう気に入らなかった。
広間の中程から声が上がる。
「将軍警護はどうなる」
別の声。
「我らはそのために集められたのではないのか」
さらに別の声。
「話が違う」
今度は、その一つ一つがちゃんと重かった。怒りも戸惑いも、ようやく床に落ち始めていた。
清河はそれを見渡した。
見渡しはする。だが、受けてはいない。芹沢にはそう見えた。
「違わぬ」
清河は言った。
「道が違うだけだ」
後ろで、土方が短く言う。
「違うな」
小さい声だった。
だが、芹沢にははっきり聞こえた。
近藤が横目で土方を見る。土方は前を見たままだった。
清河はなおも続ける。
「将軍警護は幕府のためのものだ。だが攘夷は、天下のためのものだ」
その言葉に、広間のあちこちで顔が上がる。
大きな言葉だった。
大きすぎて、床につかない。
芹沢はそこで、初めて口を開いた。
「なら」
声は大きくなかった。
だが、近くのざわめきが止んだ。
「最初からそう言やあよかっただろうが」
清河の目が、まっすぐ芹沢へ向いた。
あの眼だ。
まっすぐすぎる、いやな眼。
「芹沢殿」
「将軍警護だの上洛だの、もっともらしい筋を立てて、ここまで引っ張ってきたのはあんただ」
広間の空気が寄る。
皆が、次の言葉を待っている。
芹沢は続けた。
「今になって攘夷が本分だと言われてもな。そいつは道が違うんじゃねえ。最初の話と違うってんだ」
ざわめきは起きなかった。
皆、聞いていた。
清河はしばらく黙った。
その黙り方まで崩れないのが、芹沢には癪だった。
やがて、清河は言った。
「筋は通っている」
カチ、と鳴った気がした。
誰の耳にも、たしかには届かなかったかもしれない。
だが、その場にいた何人かは、同じものを聞いたはずだった。
鍔に手が触れた、あの小さな音だ。
芹沢の口の端が、ゆっくり吊り上がる。
笑っていた。
大きく、獰猛に。
「そう見えねえって話をしてる」
言いながら、右手が刀へ伸びる。
その刹那だった。
広間の奥で、もうひとつ気配が起きた。
音はない。
だが、畳の上の空気だけが、わずかに沈む。
さっきまで眠っていた獣が、静かに眼を開けた。そんな気配だった。
土方が、それに先に気づいた。
「芹沢さん、駄目だ!」
声が、広間を鋭く裂いた。
普段のあの男からは考えにくいほど、ためのない声だった。
近藤も同時に立っていた。
半歩前へ出る。
抜かせまいとするのではない。
抜けば、その先はもう戻らぬと知っている顔だった。
芹沢の指が、柄にかかる手前で止まる。
広間じゅうの息が、そこで詰まった。
「ふん」
芹沢は鼻を鳴らした。
伸ばしかけた手を引く。
「気が早ぇな」
土方は何も言わない。
言わないまま、芹沢を見ていた。
近藤も、まだ立ったままだった。
芹沢はその二人を見て、ようやく少しだけ笑みを崩した。
「……抜きゃしねえよ。まだな」
そう言って視線を外しかけた、その時だった。
広間の奥の暗がりに、ふたつの眼があった気がした。
清河の眼とは違う。
まっすぐ先を射る眼ではない。
もっと低いところに腹を据え、飛びかかるでもなく、ただ機を待つ眼だった。
芹沢は、ほんのわずかに口の端を上げた。
(……もう一匹いるな)
近藤が、そこでようやく口を開いた。
「清河先生」
声は静かだった。だが、ちゃんと前へ出る声だった。
「お考えが攘夷にあることは分かります。ですが、我々に示された筋立てが違っていたことまで、違わぬとは申せますまい」
広間の空気が、少し変わった。
近藤の言葉は、清河を斬り捨てる言い方ではない。だが、受けたうえで逃がさない。正面から載せて、その重さを返している。
清河は近藤を見た。
たぶん、その時はじめて、清河も近藤を少しまともに見た。
「近藤殿」
「はい」
「そなたもまた、攘夷の志を持ってここにいるはずだ」
近藤は一拍置いた。
軽くうなずいたりはしない。
「志はあります」
そう言ってから、続ける。
「ですが、志があることと、筋を曲げてよいこととは別でしょう」
土方の目が、わずかに動いた。
広間の何人かが、息を止める。
芹沢は、近藤のこういうところを危ういと思う。真正面から受ける。しかも、受けたら逃がさない。強いからできる。だが、強いぶんだけ、相手の理まで背負い込む。
清河の目が細くなる。
「筋は曲げておらぬ」
土方が言った。
「なら」
それだけだった。
皆がそちらを見る。
土方は視線を上げない。
「何で戻る」
芹沢の口の端が、わずかに上がった。
そうだ。
そこだ。
土方はいつも言葉が足りない。だが、足りないぶん、要るところだけを刺す。
清河は土方を見た。
「京に留まることが攘夷の近道とは限らぬからだ」
土方は、そこで初めて顔を上げた。
「誰にとってだ」
広間の空気が、また少し沈む。
今度はちゃんと重い。
清河の攘夷は、誰のための攘夷か。
幕府のためか。朝廷のためか。天下のためか。あるいは、自分の見ている先のためか。
その問いが、ようやく畳へ落ちた。
清河は答えた。
「天下にとってだ」
芹沢は笑った。
短く、乾いた笑いだった。
「でけえな」
誰かが後ろで息を吐く。
誰かが苦く笑う。
大きな言葉は人を動かす。だが、大きすぎると、かえって人の足が離れる。
清河はなおも平然としていた。
その平然が、芹沢には気に障る。
この男は、本気だ。
本気で、自分の見ているものが正しいと思っている。
だから、たちが悪い。
近藤が、静かに膝の上で手を組み直した。
「私は」
その一言で、広間の空気がまた寄った。
近藤は声を荒げない。だが、荒げないぶんだけ、言葉が落ちる。
「私は、壬生に残ります」
ざわめきが立つ。
だが、さっきのざわめきとは違う。
今度のざわめきには、腹があった。
芹沢は横目で近藤を見た。
近藤の顔は穏やかなままだ。だが、その穏やかさの奥に、もう引かない線があった。
清河が言う。
「近藤殿」
「将軍警護のために京へ来た」
近藤は、相手の言葉を切らなかった。ただ、自分の言葉をまっすぐ置いた。
「ならば、その筋は通します」
芹沢は、そこで初めて少しだけ気分がよくなった。
土方が短く言う。
「俺もだ」
それだけだった。
だが、近藤の隣に置かれたその一言は、重かった。
清河は三人を見た。
その目は、なおもまっすぐだった。
まっすぐなまま、もう別の先を見ている。
芹沢はその眼を見返した。
やはり、いやだった。
「好きにしろ」
芹沢はそう言って立ち上がった。
近藤も立つ。土方も、音もなく続く。
広間のあちこちで、なお声が上がっていた。戻るだの残るだの、攘夷だの将軍警護だの、言葉は飛び交っている。
だが、三人の足音だけは、ちゃんと畳に落ちていた。
寺の門へ向かう。
そのとき、芹沢はふと足をゆるめた。
広間の奥の獣が、立っていた。
誰を脅すでもない。
誰に道を譲るでもない。
ただ、静かに起きていた。
大きい。
そう思うより先に、そこだけ広間が狭くなったように見えた。
騒がない。威張らない。だが、引かない。
虎だ、と芹沢は思った。
清河の眼が先を射るものなら、こいつの眼は違う。
いまを噛みしめたまま、動く時だけ動く眼だった。
「……まだいるな」
芹沢が低く言う。
近藤が振り向く。
「誰がです」
芹沢は答えない。
土方も何も言わない。
だが、門の陰から広間を見た土方の目は、確かに何かを見た目だった。
寺の外へ出ると、風が吹いた。
やはり京の風は軽い。
それでも、さっきまでの広間よりは、ましに思えた。
芹沢は歩きながら言った。
「近藤」
「はい」
「お前、ああいう時に引かねえな」
近藤は少し笑った。
「芹沢さんほどではありません」
「馬鹿言え」
芹沢は鼻を鳴らした。
土方が横から短く言う。
「同じだ」
「何がだ」
「引かねえ」
芹沢は一瞬黙り、それから初めて声を立てて笑った。
「土方、相変わらず言葉が足りねえな」
土方は返さない。
返さないまま、口の端だけをわずかに動かした。
近藤が困ったように笑う。
「歳は、昔からああです」
「知ってるよ」
三人の足音が、門の向こうへ消えていく。
広間には、まだざわめきの残りが漂っていた。
誰かが低く何かを言い、誰かがそれを呑み込む。畳の上に落ちた言葉が、まだ片付ききっていない。
清河八郎は、座を立たなかった。
騒ぎのあととは思えぬほど、姿が崩れていない。
その少し後ろ、広間の奥の暗がりで、ひとつ影が動いた。
ゆっくりと立ち上がる。
急がない。
急がぬまま、立つだけで、そのあたりの空気が少し沈む。
清河は振り向かない。
「見ていたか」
低い声だった。
問いというより、もう答えを知っている者の言い方だった。
影は二、三歩だけ進み、灯りの際で止まった。
「見ていた」
声は太いが、押しつけがましくはなかった。
ただ、そこにあった。
「どう見えた」
清河はそこで初めて、わずかに顔を向けた。
影の中の男は、すぐには答えなかった。
目だけが動く。
さっき門を出ていった三人の背を、まだ見ている目だった。
「進むものの目だ」
短く、そう言った。
清河は小さくうなずく。
「そうだ」
「地獄を見る覚悟の目じゃない」
「そうだ」
それだけだった。
だが、同じ「そうだ」ではなかった。
しばらく、二人とも黙っていた。
広間のざわめきも、少しずつ遠くなる。
やがて、影の中の男が言う。
「追うのか」
清河はすぐに答えた。
「追わぬ」
「斬る気もない」
「ない」
男は、そこでようやく清河を見た。
低く、深い眼だった。
飛びかかる前の獣の眼ではない。
腹の底で、もう何かを決めた眼だった。
清河は、その眼を受けて、わずかに言った。
「お前は」
男は黙っている。
「斬る気か」
少しの間があった。
広間のざわめきは、もう遠い。
男は答えた。
「避けはせん」
清河の目が、わずかに細くなる。
男は続ける。
「両刃交鋒、避くることを須ひず」
声は低い。
言い放つというより、腹の底からそのまま出てきたような言葉だった。
清河は、しばらくその顔を見ていた。
「お前らしい」
男は、そこで初めて鼻を鳴らした。
「先生は、その先ばかり見る」
清河の笑みが、わずかに消える。
だが、不機嫌にはならなかった。
「見ねばならぬ」
男は、その言葉をしばらく見ていた。
言葉そのものではなく、言った男の顔を見ていた。
やがて、低く言う。
「なら、見る先を違えるな」
清河は答えなかった。
答えないまま、まっすぐ男を見返す。
その眼を受けて、男はふっと鼻を鳴らした。
「……やはり、まっすぐすぎる」
それだけ言って、踵を返す。
大きな背だった。
だが、ただ大きいのではない。
静かに歩くたび、畳の下で何かが目を覚ましていくような背だった。
清河はその背を見送った。
広間の灯りは、もう半分ほど落ちていた。
その暗がりの向こうで、虎のような気配だけが、まだしばらく消えなかった。
