文学は心を扱う②
心をなくしたくはないよな。
心をなくした状態とは、単純に「心を殺している」というようなことから、「心を硬くしている」「心を見ないようにする」「心を構成する言語が乏しくなる」など、いろいろあると思う。
私には、社会人になって、心を硬くしていったところがある。
理論武装して、ビジネススキルのヨロイのようなものを着て、勇敢に社会の荒波を乗り越えようとした。
単純に忙しくて、想像力が貧しくなり、思いやりがなくなったり、考えている余裕がなくなる、ということもあった。
日記の量は減り、文学的な表現は消えていった。
日誌や記録のような文章だけを残すようになった。
今後、書いていきたい。
①なぜ働いていると本が読めなくなるのか
②社会人になる時に、心を硬くして武装するのはどういうことか
③日誌や記録は文献になりうるが、「文(献)学」は文学ではないのか。文学とは何か。私が言っている「文学的」とは、なよなよしたナイーブな、傷つきやすく感じやすい少年期の感性のようなものだけなのか。初期の村上春樹氏が感傷的に過ぎる、と批判を受けたことがあるが、「文学的」とは、それだけを指しているのか。
④村上龍氏は『エクソダス』で子どもの不登校問題を扱った。再読し、村上龍氏なりの、「平和で豊かになった国でなぜか14歳の少年が殺人事件を起こしたり、女子高生が売春したりする、そんな社会の中で、何が問題なのかを目を凝らして見ようとしている」ことについて。感じない子ども、こころを扱えない大人たちの、その後、つまり現在について。
⑤そんな時代とともに歩んできたアニメ、新世紀エヴァンゲリオンについて。
noteはSNSのような投稿形式をとっているため、タイムラインはひとつである。
毎日つぶやきのような書いているので、あとでまとめ直さないと、文章のつながりはなくなるかもしれない。
注意していこう。
ただ、noteのおかげで、書けている今。
心に無頓着にならずに、書けている今がある。
感謝申し上げたい。
