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mitei_narico
「文学的ではない」状態とは
私が「文学的に生きる」とは、どういう状態のことなのだろう。
逆に、「文学的ではない」というのはどういう時なのだろう?
いつだったか、袰岩奈々氏の『感じない子ども こころを扱えない大人』(2001)という本を読んで、それがずっと尾を引いている。
この本では、高度経済成長を経て、仕事優先、効率第一で感情をあとまわしにしてきたこの社会の中で、子どもが自分の感情をもてあまし、「こころ」をどう扱っていいのかわからなくなっている、そんなことについて、心理カウンセラーの立場から警鐘を鳴らされていた。
夏目漱石氏の小説に『こころ』というものがある。
日本人の「こころ」について再定義した作品だったのだと思う。
この、のっぴきならない、脳内の、あるいは胸の中、心臓の奥、取り出したり切り出したりできない場所にある「こころ」というもの、それについて考える時、あるいは「文学的に」という言葉が有効になってきたのかもしれない。
つまり、こころをなくしている(忙しい)、感情がない、感覚がない、情緒がない、道徳がない、
そんな、無味乾燥な状態のことが、私にとって「文学的ではない」という状態なのかもしれない。
