奪われたアオハル(こころを知っていくあの頃5)
時は無情な程に
すべてを洗い流してくれる
だからって、心を殺さなくてもいいんじゃないの?
この時間は尊くて、かけがえがなくて、かえがたくて。
過ぎていってしまったら、もう二度と取り戻すことはできなくて。
失うのが怖いから、深入りして、立ち入って愛すのもやめてしまうの?
だからって、心を殺さないの!
奪われた青春の、今の若い世代のことを想う。
コロナ禍の部活動の様子を、大塚製薬が動画にしてくれている。
今振り返ってみるに、涙なしには見れなかった。
文学に、コロナ禍の部活動生たちの鬱憤を晴らせたのか、知りたい。
私はコロナに握りつぶされた世代、そんな「可哀想な」世代、すでにしてそんな風に同情の上から目線で遠くから眺めているそんな子どもたちの世代ではないのだから、当事者たちの声を知りたい。
文学でなくても、このような映像で、人々の鬱憤を晴らすことができる時代だ。
ボカロPなど、自宅のパソコンで素晴らしい音楽を作れる時代。
アニメーションだって、タブレットで描くことができる。
大塚製薬の宣伝のためもあってであろうと、この動画郡が描いてくれたことは、少なくとも私の周囲の子どもたちや、それを見守る年老いた我々の心を勇気づけてくれた。
こういう映像を制作するには、たくさんの人手が必要だ。
いわば祭りだ。
祭りのように、盛況にすることができる。
小説のような文学は、ごく個人的な芸術である。
作者はひとりで、孤独に一文字一文字を刻むしかない。
孤独。
自立。
個人。
近代化、国家システムが個人を育成するかのような時代ののち、個人の時代がやってきた。
我々は自由であり、それだけに、何をしたらいいのか分からなくなっている。
国家は次なる目標を示してはくれないし、
そもそも我々はそれぞれ違っている。
何に喜んで、何に泣くのか、それぞれに違っている。
それぞれが固有のシステムであり、それぞれが固有の真実を見つけるしかないのだ。
隣の人のシステムは私には合致しないし、
私の真実は、隣の人には合致しないのだ。
そんな「個人」の生き方として、村上春樹さんに学んだことが多い。
文壇でつるまずに、自分の信じた道をいくこと。
自分の中で、いろいろな実験をしながら、進んでいくこと。
クールに、周囲との距離をものさしで測りながら、自分の価値観を育てていくこと。
ユーモアを忘れないこと。
など、など。
個人。孤独。
昔、『孤独であるためのレッスン』(諸富祥彦)という本に感銘を受けた。
孤独は、現代をタフに、しなやかに生きるための"能力"である
孤独の中の四つの出会い──自分、他者、普遍的なもの、"人間を超えた何か"との出会い。
充実した"ひとり"の時間をすごすために
自分を生きること、運命を生きること。
諸富氏はカウンセラーである。
他者と常につながっていたり、他者に評価や判断を依存せず、自分を自分として生きるために、孤独は必要である、と述べている。
村上春樹氏と共に、現在の私に、多大な影響を与えている。
コロナ禍は、人々を分断させ、孤独を強いた。
自分は何者かを考えさせられ、自分は何が好きなのかを明確にさせられた。
今日も救急車のサイレンの音を聞きながら、明日死ぬかもしれないとメメント・モリしながら、自分にとって何が大切なのかを考えさせられた。
自分はどう生きるべきなのかを考えさせられた。
