昔の人は虹をどう見ていたのか
5月2日。午前から降り出した雨は、昼頃に強くなり、強い風をともなって土砂降りとなった。夕方過ぎには雨雲が押し流され、ウソのように西の方から明るくなる。傘をもって散歩に出た。
陽がさしながらも、残された雲からは細やかな雨の糸がなびいている。風は緩やかで涼しい。遠くの空には、巨大な虹が二重の半円を描いていた。

付近の家々からは、スマホをかざしながら外に出てくるサンダル姿の人たち。きっと昔の人も、虹を珍しい現象として楽しんでいたのだろう思い、いや待てよ、と足を止める。
『万葉集』や『古今和歌集』などで、虹を扱った歌はあっただろうか、たぶん見たことがない。調べてみると万葉集4500首の中で、虹が出てくる歌はわずかに一首だった。
伊香保ろの八尺の堰塞に立つ虹の顕ろまでもさ寝をさ寝てば
訳 伊香保山の大きな堤防の上にかかった虹のように、人目につくまであなたと共に寝られたなら……。
古代人は虹を吉凶の現れとして見ていたようだが、この歌の解釈としては、「不吉な邪淫」と注釈されている(『万葉集 全訳注原文付(三)』講談社)。邪淫とは近親相姦など、道に外れた男女の情事のこと。話はそれるが、歌を音読した時のリズム感がすばらしい。

自然界の「いとおかし」を集めた『枕草子』にすら、虹はまったく出てこない(「枕草子 虹」で検索するという、雑な調べの限りではあるが)。
つまり昔の人にとっての虹は、歌の題材でもなければ、「趣」や「美」の対象でもなかったことを示唆している。
原理がわからない。そのうえ雨上がりなどにとつぜん現れる。そんな虹を見たとき、「綺麗だけど……なんだこれ?不気味だし怖いわ」という感想を抱くのが、自然な反応かもしれない。
東の空にかかる虹を、何度も振り返り見ながら河原に向かう。消え残った七色の根本には、何かとんでもないお宝でも埋まっているのではないかと想像する。海外の神話やおとぎ話でも、虹は畏怖を帯びた特別なモチーフとしてよく描かれる。
いつか鬼ヶ城で見た星空に恐怖感を覚えたように、極端な度合いのモノを目の当たりにすると、その凄まじさへの感嘆と一緒に、畏敬の念がわいてくる。すごい、怖い、けど嫌ではない、そんな具合。

今週のおすすめ本
『神道の逆襲』菅野覚明
日本の神道史を追いながら、日本人が目に見えない範囲のことをどのように解釈してきたのかを解説した本。伊勢神道から吉田神道、垂加神道へと、時勢や外来思想の影響を受けながら解釈を二転三転させてきた神道の歴史は興味深い。
日本の神様には善なる側面も悪なる側面もあるという多様性の面白さ、そんな神を正しく祀ることの大切さ、その影響が見てとれる昔話を取り上げて考察している章が面白かった。
