歴史を学ぶ意味──『サピエンス全史(下)』読書感想文
人類の歴史とはなんだろう。
その時代を生きる人々が、時に自分の意思で、時にそこに現れる御しようのない事態に翻弄されながら一つ一つの生を積み重ねてきたその総体なのかな、と本書を読んで思った。
人類が生まれてから今までにこの世に生を受けた人間は、一説によれば1000億人超という。その莫大な一人一人の人生と一人一人の思想を重ねた結果が歴史と今だ。
そんな複雑なもの、一つに体系立てるのは無理だ。改めて、正直、そう思うしかなくなってしまう。
それでもなお、その時その時の社会のあり方、神仏に対する信心のあり方──つまり時代性を反映したイデオロギーについて、なぜそのように考えられていたのかということについての識者の見解を読むのはとても面白い。
本書はまさに「歴史に対する個人の見解と解釈を楽しむ」そういうことのできる本だった。
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気づきのあった箇所・面白かった箇所
自分と他者の信じるものの絶対的な共通点
特に一神教については、唯一神に対する信心は絶対と考えがちだが、実際は世俗の風習と各宗教の教義が複雑に絡み合ったモザイク型だという。
歴史にも地理にも境界がないように、宗教にも汽水域のように様々な融合や混沌が自然に存在する。
この世の宗教はすべて混合主義であると全員が認められれば、余計な争いをしなくても良い場面が多くなるのではないか。自分が信じているものは、決して100%の純度にはできないという点で、他者の信じているものとそう変わらないと。常にそれを意識して「絶対はない」と柔らかく認められるようになりたい。
じつのところ一神数は、歴史上の展開を見ると、一神教や二元論、多神教、アニミズムの遺産が、単一の神聖な傘下で入り乱れている万華鏡のようなものだ。平均的なキリスト教徒は一神教の絶対神を信じているが、二元論的な悪魔や、多神教的な聖人たち、アニミズム的な死者の霊も信じている。このように異なるばかりか矛盾さえする考え方を同時に公然と是認し、さまざまな起源の儀式や慣行を組み合わせることを、宗教学者たちは混合主義と呼んでいる。じつは、混合主義こそが、唯一の偉大な世界的宗教なのかもしれない。
今が一番わからない、は永久に変わらない
現代はVUCAの時代だといわれるが、いつの時代だって、「今」が一番わからないことは変わらないと思う。先がやすやすと読める、恒常的に安定している、混沌じゃない時代なんて、果たしてあっただろうか?
私が過去の事象──つまりすでに「歴史」となった本を好んで読むのは、相対している「今」への解像度の低さ・ままならなさというストレスを解消するために、当事者意識から逃れて傍観者としてぬくぬくと楽しむことができる世界に逃げられる、ということも一つある。
じつは、その時期を最もよく知っている人々、すなわち当時生きていた人々が最も無知だ。コンスタンティヌスの時代の平均的なローマ人にとって、未来は霧の中だった。後から振り返って必然に思えることも、当時はおよそ明確ではなかったというのが歴史の鉄則だ。今日でもそれは変わらない。私たちは世界的な経済危機を脱したのか、それとも、最悪の事態はまだこの後にやって来るのか? 中国はこのまま成長を続け、世界一の超大国になるのか?アメリカは覇権を失うのか? 一神教の原理主義の高まりは未来の波なのか、それとも局地的な渦にすぎず、長期的重要性などほとんどないのか? 私たちの行き着く先は生態学的大惨事なのか、それともテクノロジーの楽園なのか? こうした疑間のどれについても、説得力のある議論ができるだろうか、確実なところは知りようがない。数十年後、人々は今を振り返って、これらすべての疑問に対する答えは明日だったと考えるだろう。
今はわからない。明日はわからない。だからこそ、良く生きるためにはたくさんの見識を得て、自分なりの未来の仮説を立てておく必要があるのだと思う。
もちろん予測は外れるかもしれない。でも、闇雲に今だけを見るよりはだいぶマシだろうと思う。
文化は寄生体?
『大衆運動』を読んだ際に、大衆運動(潮流)にはいくつかのフェーズがあることを学んだ。
一部の人の企てた陰謀が文化の発端になるということは、私はあると思う。
しかしその先の、「潮流」になった時点で、確かにそれは誰の意思も反映せず寄せ付けない寄生体と呼ぶしかないようなものに変貌するというのも頷ける。
ここの段は真理をついているというより、著者の言葉の使い方がとても上手だと思った部分。
文化は一種の精神的感染症あるいは寄生体で、人間は図らずもその宿主になっていると見る学者がしだいに増えている。ウイルスのような有機的寄生体は、宿主の体内で生きる。それらは増殖し、一人の宿主から別の宿主へと拡がり、宿主に頼って生き、宿主を弱らせ、ときには殺しさえする。宿主が寄生体を新たな宿主に受け継がせられるだけ長く生きさえすれば、宿主がどうなろうと寄生体の知ったことではない。それとそっくりな形で、文化的な概念も人間の心の中に生きている。そうした概念は増殖して一人の宿主から別の宿主へと拡がり、ときおり宿主を弱らせ、殺すことさえある。
雲の上のキリスト教徒の天国という信念や、この地上における共産主義の楽園という信念をはじめ、文化的な概念は、人間を強制して、その概念を広めるのに人生を捧げさせることができる──たとえ命を代償に差し出さなければならない場合にさえ。人間は死ぬが、概念は広まる。このように考えれば、文化は他者につけ込むために一部の人が企てた陰謀(マルクス主義者たちはそのように文化を捉える傾向がある)ではなくなる。むしろ、文化は精神的な寄生体で、偶然現れ、それから感染した人全員を利用する。
科学革命で人類は無知を知る
科学の発展がもたらしたもの。
それは、人類が、人間的主観を脱した世界観を手に入れられたこと。
科学革命はこれまで、知識の革命ではなかった。何よりも、無知の革命だった。科学革命の発端は、人類は自らにとって最も重要な疑問の数々の答えを知らないという、重大な発見だった。
イスラム教やキリスト教、仏教、儒教といった近代以前の知識の伝統は、この世界について知るのが重要である事柄はすでに全部知られていると主張した。偉大な神々、あるいは単一の万能の絶対神、はたまた過去の賢者たちが、すべてを網線する知恵をっており、それを聖典や口承の形で私たちに明かしてくれるというのだ。
結果、傲慢さから逃れられたとは、言い難いような気もするが、しかしこの科学革命が人類にとって大きなインパクトだったことは紛れもない。
科学革命は、人類に「無知」を知らしめ、同時に「進歩」という考え方を提供した。
そこに科学革命が起こり、進歩という考え方が登場した。進歩という考え方は、もし私たちが己の無知を認めて研究に投資すれば、物事が改善しうるという見解の上に成り立っている。この考え方は、まもなく経済にも取り入れられた。進歩を信じる人々は誰もが、地理上の発見やテクノロジー上の発明、組織面での発展によって人類生産や交易、富の総量を増やすことができると確信している。大西洋を通る新たな交易ルートが栄えたからといって、インド洋の古い交易ルートが衰退するわけではなかった。新たな財が生産されたからといって、これまでの財の生産を減らす必要はなかった。
〜中略〜
他人を飢え死にさせなくても、人は太ることができる。グローバルなパイ全体が拡大可能なのだ。
すごい開眼だと思う。
しかし、先ほど「傲慢」について触れたが、現実は甘くない。
過去何十年もの間に、とりわけ一九四五年以降は、資本主義者の強欲ぶりには多少歯止めがかかった。それは共産主義への恐怖によるところが大きかった。だが不平等は依然としてはびこっている。二〇一四年の経済のパイは、一五〇〇年のものよりはるかに大きいが、その分配はあまりに不公平で、アフリカの農民やインドネシアの労働者が一日身を粉にして働いても、手にする食料は五〇〇年前の祖先よりも少ない。
農業革命とまったく同じように、近代経済の成長も大がかりな詐欺だった、ということになりかねない。人類とグローバル経済は発展し続けるだろうが、さらに多くの人々が飢えと貧困に喘ぎながら生きていくことになるかもしれない。
〜中略〜
経済のパイは水遠に大きくなり続けることが可能なのだろうか? どのパイにも原材料とエネルギーが必要だ。破滅の予言者は、ホモ・サピエンスは遅かれ早かれ地球の原材料とエネルギーを使い果たすと警告する。そのときには、いったい何が起こるのだろう?
進歩は全体の拡張を可能にするはずなのに、現実はそうでなない。
全体に益が分散しないこと=不平等が起こり、パイの限界も見えつつある。
科学革命を経て、進歩の可能性に気づき、進歩の道を歩んできた人類は、今やそのようなシビアな場面に直面している。
平和がはじめてメリットになる時代
戦争は採算が合わなくなる一方で、平和からはこれまでにないほどの利益があがるようになった。伝統的な農耕経済においては、遠隔地との取引や外国への投資はごくわずかだった。そのため、戦費の支出を免れることを除けば、平和にたいした得はなかった。
〜中略〜
ところが、現代の資本主義経済では、対外貿易や対外投資はきわめて重要になった。したがって、平和は特別な配当をもたらす。日本と韓国が友好的な関係にあるかぎり、韓国の人々は製品を日本に売り、日本の株式を売買し、日本からの投資を受けることで、繁栄を謳歌できる。
最後になったが、他に劣らず重要な要因として、グローバルな政治文化に構造的転換が起こったことが挙げられる。歴史上、フン族の首長やヴァイキングの王侯、アステカ帝国の神官をはじめとする多くのエリート層は、戦争を善なるものと肯定的に捉えていた。一方で、うまく利用するべき必要悪と考える指導者もいた。現代は史上初めて、平和を愛するエリート層が世界を治める時代だ。政治家も、実業家も、知識人も、芸術家も、戦争は悪であり、回避できると心底信じている。
国際関係が緊密になると、多くの国の独立性が弱まり、どこかの国が単独で戦争を仕掛ける公算が低下するのだ。大半の国々が全面戦争を起こさないのはひとえに、もはや単独では国として完全には成り立ちえないという単純な理由による。
人類が性質を変えて平和を愛するようになったからではなく、平和にメリットがあると確実に思える時代になったからだ。
競合より協調の方がメリットが大きいという考えが主流の時代。なんて幸せな時代に生まれてきたんだろうと思う。一方で、余計な敵対を煽るような思想は無くならない。
対立構図を自ら生み出してしまうこと。これはもはや人類の「性」なんだろうか。
感想
これまでにわかっているところでは、純粋に科学的な視点から言えば、人生にはまったく何の意味もない。人類目的も持たずにやみくもに展開する進化の過程の所産だ。私たちの行動は、神による宇宙の究極の計画の一部などではなく、もし明朝、地球という惑星が吹き飛んだとしても、おそらく宇宙は何事もなかったかのように続いていくだろう。現時点の知見から判断すると、人間の主観性の喪失が惜しまれることはなさそうだ。したがって、人々が自分の人生に認める意義は、いかなるものもたんなる妄想にすぎない。中世の人々が人生に見出した死後の世界における意義も妄想であり、現代人が人生に見出す人間至上主義的意義や、国民主義的意義、資本主義的意義もまた妄想だ。人類の知識量を増大させる自分の人生には意義があると言う科学者も、祖国を守るために戦う自分の人生には意義があると断言する兵士も、新たに会社を設立することに人生の意義を見出す起業家も、聖書を読んだり、十字軍に参加したり、新たな大聖堂を建造したりすることに人生の意義を見つけていた中世の人々に劣らず、妄態に取り憑かれているのだ。
その通りすぎて、笑うしかない。
しかし著者はこのことを別に悲観しているわけではない。
過去の膨大な経緯から、私たちは、多くの悲劇を生んできたその根元すべてが「妄想」なのだと気づくことができる。
私たち人間には自身の都合の良いように事実を解釈し、妄想を膨らませ、それを行動の正当化に利用するという本能が備わっているという理解することで、「いや、ちょっと待てよ?」と行動に一旦停止をかけることができる。
歴史を研究するのは、視野を拡げ、現在の私たちの状況は自然なものでも必然的なものでもなく、したがって私たちの前には、想像しているよりもずっと多くの可能性があることを理解するためなのだ。
「私たちは何を望みたいのか」を真剣に考え、それに向かい「自身の妄想で都合の良い解釈をしていないか」「それはどのような結果につながるのか」と常々内省と対話を行う。
「常識を疑い、一拍置いて考える猶予を持つべきなのだ」という知恵を歴史は私たちに教えてくれる。
歴史から学ぶことのできる状況にある現代人は、そのことを最大限活用しないすべはないのではないか?
私たちは天国と地獄の両方の入口に立ち、一方の玄関口と他方の控えの間とを落ち着きなく行き来している、と。私たちがどこに行き着くかについて、歴史はまだ心を決めかねており、さまざまな偶然が重なれば、私たちはまだどちらの方向にも突き進んでいきうるのだ。
一応、わたしたち人類には未来への選択肢が“まだ”存在する。
