梯子の一番下に足をかけるための支援──『貧困の終焉』読書感想文
書籍データ
ネット上で、街中で、常日頃から途上国支援の広告をよく見かけます。
飢えている小さな子。病気で痩せ衰えた小さな子。
すぐに手を差し伸べなければ今日の命すら危ぶまれる絶対的弱者。
私たち先進国と呼ばれる国に生きる人が、少しのお金を出せば、救える命。
途上国支援の文脈では、よくそういう部分が切り出されてPRされます。
でも、ひとときの支援で、人々の飢えや病気が一時的に回避できたとして……支援者の気まぐれでその支援が打ち切られたら?
その人自身を永遠に貧しさのサイクルから救うことはできないよね、って。
この本を読んで、そのあたりのもやもやが少し晴れた気がします。
※当たり前ですが、飢えている子どもや圧倒的弱者に手を差し伸べ、直面している苦難から救うのが間違っていると言っているわけではありません。
要旨
自立の一歩
経済学者という立場で、さまざまな国・地域の事情を鑑みながら、自立に導くための支援をおこなってきた著者。
特に「最貧国」といわれる国々への支援に関する章段は、私にとって気づきが多かった。
最貧国にとっての大きな問題は、貧困そのものが罠になっているということである。極度の貧困に陥っている場合、貧しい人々はその窮地から──自分自身で──脱出する力をもたない。
貧困の度合いはいくつもあり、「一番下の梯子に足をかけられれば全く状況は違う」と著者はいう。一番下の梯子というのは、自立する術を手に入れること。
例として著者はバングラディッシュの縫製工場で日夜働く女性たちを例として挙げる。
就業上の環境などは(もちろんそれは別種の大きな問題を孕んでいるが)、自己選択すらできない絶対的貧困からの脱出の術を手に入れたということに比べれば些細なこと。
彼女たちは、労働により手に入れた賃金で、自分の部屋を持ち、誰といつデートし結婚するかどうかを決め、欲しいと思った時に子どもを産み、自分の生活をよくするために貯金を使い、とくに学校へ戻って読み書きなど仕事に役立つスキルを身につけるために貯金を使うことが多かった。厳しい暮らしとはいえ、これは経済の発展に向かう道の第一歩であり、ひと昔前の田舎の村では想像もできないことだった。
豊かな国の活動家がするように、ダッカのアパレル工場に対して、労働者にもっと高い賃金を払うか、さもなければ工場を閉鎖すべきだと抗議することが必ずしも正しいとは言い切れない。
なぜなら技能を身につけて自分で稼ぎを得るこの「梯子の一段目」こそが、これまで開発を順調に進めることができた国々が辿ってきた道だからだと著者は述べる。
貧しさから脱出する術がないほどの貧困
一方でその梯子の一段目にすら足をかけられない国々が存在する。
今日、それは主にアフリカに集中している。
それらの国々は、「努力不足」なのだろうか? 「怠惰」なのだろうか?
そうではない。
2004年。ケニアのサウリ村では、飢えとエイズとマラリアが蔓延していた。
村人に状況を聞きたいと開催された会合には、200人近くの人が集まった。
本書の内容からは、その人たちが現在進行形の飢えや病に苦しみながらも3時間半にも及ぶ視察団のヒアリングに熱心に参加し、かつ自分たちの苦境を明晰に理解し、直面する不幸にめげず、なんとか状況を好転させたいとがんばっていることが伺える。
「その日を生きることすら危うい」
そのような最悪の貧困に置かれる人にとって、自力で一番下の梯子に足をかけろというのは、あまりにも酷であることがわかる。
一番下の梯子に足をかけるためには、正しい外部支援が必要なのだ。
本書の中では(ちょっと端折っています)、下記のようなものが効果ある支援内容として挙げられる。
農業への投資。
肥料や技術を提供し、収穫量を上げることで、飢えを凌ぐだけでなく、貯蓄に回すことや市場で売って現金収入を得ることが可能になる。基本的な健康への投資。
エイズやマラリアの薬や予防策の提供。性や生殖に対する教育は、的確なバースコントロールに直結する。教育への投資。
子どもたちへの給食の提供。必要な知識や技術を身につけることで、自立への距離は格段に縮まる。インフラへの投資。
電力の提供はテクノロジー化を推進し、コンピューターの導入を可能にする。必要な明かりや井戸水を汲み上げるポンプ、冷蔵での安全な食物管理などにも利用できる。トラックが一台でもあれば、病人を街に運んだり、素早く大量のものを輸送したりすることができる。
安全な飲み水や衛生設備があれば、女性や子どもが水汲みに1日の大半を費やすことがなくなるし、無用の疫病を防ぐこともできる。
これらのサービスを前出のサウリ村の住民に提供するコストは、トータルで年間35万ドル、一人当たりにするとおよそ70ドル。少なくとも数年は投資が必要だが、結果何が生まれるかというと、先ほど書いたように疾病が制圧され、食糧の生産量は倍化する。同時に長期的な飢餓は大幅に減少する。村はいくらか現金収入を得られるようになり、子どもたちは教育に向かう時間を確保することができる。
しかしアフリカ諸国への先進国からの現状の援助では「明日がない一つの村を一番下の梯子に足をかけるところまで行かせることができる」、その最低限の資金すら確保できていない。
正しい支援を一貫して行うことが重要
さらに、このような支援は「闇雲に行えばいい」というものではなく、一貫した正しい投資が必要だということが本書が主張している大事な部分であることを忘れてはならない。
国際社会の行動はその一貫性を欠いていると著者は指摘する。
一方でミレニアム目標という大胆な計画を発表しているその裏で実際に貧しい国々に与えられるのは、明快な作戦ではなく努力しろという一言。
ドナー(援助する側)は往々にして援助を受ける国々にガバナンスを改善しろと強く求めるが、ドナー側もまた下記のような観点で援助が最適かを判断し、改善する必要がある。
規模:援助が十分な金額であること
期間:援助は長期に持続しなければならない
予測可能性:援助は計画的で予想可能である必要がある。気まぐれであってはならない
調和:援助は国連のミレニアム開発目標に基づく支援をベースにする。各援助期間の得意とするプロジェクトに偏らないこと
特に調和の問題は、貧困への援助に限らずこの世のどんなプロジェクトにも共通する。善意の間口がたくさんあればあるほど、一貫性のある的確な援助がしにくくなるという頭の痛い問題であることが理解できる。
貧しい人を救うことが、私たちの責任なのか
先進国は、いまでさえ難題が山積し、深刻な財政困難に陥っている。そんな先進国がいったいどうして、国境の外の何十億もの人びと、しかも急速に人口が増えつつある国々の責任を負わねばいけないのか?
この本での私の一番の気づきは、
「私たちが目標にすべきは、全ての貧困をなくすことではなく、極度に貧困をなくすこと」──自分では到底抜け出せない貧困の罠の中にいる人々を、自分の努力ができるところまで脱出するために手を貸すことなのだということ。
そして、今や先進国(本書の中の言葉で正確に言うと開発援助委員会のメンバーである22カ国)の2001年時点の所得のたった0.6%でそれが可能だという事実。
正しい資金の供出をし正しい使われ方をすれば、世界の貧困は本当になくすことができるのだと、本書は希望の光を見せてくれる。
一時の感情を煽るのではなく、辛抱強く効果の確実に上がる方法での真の自立支援を行わなければならないという本書のような内容が、もっと広く世の中に伝われば良いのにと切に思う。
知る気にならないと、本当に全然何も知らないままなんだなあって、反省。
