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振り回されるのではなく利用したい──『ジェンダーと脳』読書感想文


書籍データ

要旨と感想

性別は脳に影響をおよぼすが、「真の」男脳や女脳というものは存在しないというのが著者の主論。

「男性と女性の間に脳の差異がまったくない」といっているのではない。
性別は脳に影響を与え、女性と男性では多くの特徴において平均的な差異がある。しかしいずれにしても、性別と他の多くの要因との相互作用によって、性別 ──男性もしくは女性であること── の効果は、どの人の脳においてもその人独自の組み合わせで作用している。

そのような説が展開される中で、たぶん多くの人が抱えるであろう疑問が、本書の中でも取り上げられている。

「脳の構造を知っている場合にはその持ち主の性別がわかるのに、脳の持ち主の性別を知っていても脳構造を正確に予測できないのはなぜでしょう?」

これに対する答えとして、著者は「宇宙人が故郷の惑星の人々に地球人の衣服について説明する」というシチュエーションを例にとって解説してくれているのだけど、私にはちょっとよくわからなかった笑

むしろこういう風にまとめてくれた方がわかりやすいなと思うのだけど。

つまり、「脳の構造の男女差を把握するための項目は既にわかっているから、その項目だけを比較すれば良い。一方で性別がわかってもその人の脳の構造を理解することが難しいのは、それを把握する項目自体があまりに多く、またその判別も複雑だから」と。

著者が性差を指摘しているのは、脳の構造部分ではなく、脳の作用や導きだす結果部分であるということが本書を読む上でのポイントになる。


「男っぽい」「女っぽい」という幻想

あらゆる「男っぽい」「女っぽい」といわれる特徴において、男女間の性差はそれほど見られない。その個々の特徴は、個人によってモザイクのように濃度があるのだと著者はいう。

ではなぜ脳(の導き出す結果)に性差があると考えられているのか。
あるデータの見方に対して、本書は私たちに一つの示唆を与えてくれる。

2010年に行われたストレス・イン・アメリカという調査のプレスリリースではこのように冒頭で述べられている。
「男性と女性は精神的にも肉体的にもストレスに対して異なる反応を見せる」
その根拠としてあげられる調査結果の一つ、男性は「女性よりストレス・マネジメントをしていないという人が多い」という指摘(調査結果は男性が9%、女性は4%)。

しかし、これは男性と女性のどちらも90%以上はストレス・マネジメントをしているという結果でもある ──つまり相違点を強調することによって全体像が見えづらくなるという構図の一例だと著者は指摘する。

さらに翻っていうと、本書の主張を通すためにこのデータを活用する著者にも同じことが言えるが、このような既に決まっている結論にデータを寄せる活用は私たちもよくやりがちだったり本質を考えずに飲み込みがちだなと、本来の趣旨とずれて印象に残った箇所だった。


ジェンダーフリーってどういうこと

「男らしい」「女らしい」という意識や言葉は生きているとたびたび出会うけれど、そこには発言主のかなり自由気ままな解釈が含まれているのだと、本書を読むと改めて気付かされる。

「料理が好き」という女の子に、「女の子らしいね」とコメントする。
一方で「機械いじりも好き」と同じ女の子がいうと、「珍しいね」とコメントする。

では、その子は果たして「女らしい」のか「男らしい」のか。

そういう風に考えていくと、世の中の「女らしさ」「男らしさ」というフラグ立てはめちゃくちゃナンセンスだし、ある種占いのようないかがわしさに溢れているなと思う。(話題のネタとしての占いは私、大好きですけどね)

本当のジェンダーフリーとは、どういうことなのか。

私なりの今の考えをまとめると、
性別というバイアスの一つを取っ払うこと。
その人を「ひとりの人間」として見るということ
に尽きるのだろうと思う。

完全なジェンダーフリーの世界は、そもそも誰も「性別」に言及しない(そういう何かがあることにも気づかない)世界でもあるだろう。

でもそんな世界観にはどう考えてもいきつく気がしないから、
「身体的な性差はある(それも二分化できるわけではないけど)が、現代社会を生きるにあたって不必要な性差はなくしていこう」というのが今進めるべきジェンダーフリーの本質かなと。

あくまで一つの例ではあるが、家族内での役割でいえば、
(産むのはさすがに女性に限られるけど)誰が授乳しても、誰が子育てしてもいい。
誰が仕事に比重を置いても、誰が家事に比重をおいてもいい。
平日はほとんど家に顔を見せない母親が週末だけ子どもたちをアウトドアに連れ出したって、毎日父親が残業せずに家に帰ってきて子どものケアをしたっていい。

子どもの意思も含めて家庭内での取り決めさえできていて、それがその家庭の幸せの形なら、その役割の分担を誰もとやかくいう必要はない。

でも、頭ではそう考えていたとしても、この世を生きているとやっぱり「なんでだよ」って思う機会はめちゃくちゃあって。
それは多分私が女性だからじゃなくて、どんな性別を自認して生きていたって同様で。

……もうすぐ古希の母は、その世代の女性にしては珍しくジェンダーを意識した生き方をしてきた人だった(というか、男女雇用機会均等法の第一世代みたいなものなので、その時代に仕事と家庭の両立をしていた身としては否応なしに向き合わざるをえなかったというところが事実だろうけど)ので、よくこんなことを口にしていた。

「女性だからといって、仕事で意思を通すことを我慢する必要はない」

でも、一方でこんなこともよく言う。

「ちゃんと男性は立てなければいけない」

今の世の中に合わせて上手に生きていかなければいけない面は、どんな理想掲げたって往々にしてあるんだよなと思う。女性ならではのデメリットも多分にある一方で、女性ならではのメリットもある。それを、いかにうまく「活用するか」。

ある程度のマイナスは我慢して、でも自分にとって女性であることがトータルプラスになるようにこっそり調整する。

こういう考え方をしているからジェンダーがなくならないのだと怒られるかもしれないけど。

でもそうやってある程度"女性として"求められる振る舞いをしながらも、明らかに不必要なジェンダーは「馬鹿らしい」と一蹴していけば、それはそれで小さな一歩にはなるよね?

そう思って、私は女としてぼちぼち生きている。


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