理想と現実のジレンマ──『エンデの遺言』
エンデの遺言といいつつ、ラストは完全に地域通貨制度のご紹介になってしまっているのが残念。
しかし、いろいろ考えさせられる本でもありました。
この記事では、「エンデの主張」「具体的施策としての「地域通貨」」「私たちには今何が必要なのか」の3つのテーマについて、つらつらと所感を交えて書きます。
書籍データ
エンデの主張
私が考えるのは、もう一度、貨幣を実際になされた仕事やものと対応する価値として位置づけるべきだということです。そのためには現在の貨幣システムの何が問題で、何を変えなくてはならないかを皆が真剣に考えなければならないでしょう。人類がこの惑星の上で今後も生存できるかどうかを決める決定的な問いだ、と私は思っています。非良心的な行動が褒美を受け、良心的に仕事をすると経済的に破滅するのがいまの経済システムです。
本書に取り上げられるNHKの取材インタビューにおいてエンデが最も言いたかったことは、「自明なことを、本当に自明なのかと疑う」という姿勢ではないかと思います。
法的に見て、銀行券とは何なのかを私たちはまるで知らないわけです。(多数の銀行家に問いかけても解答はまちまちで)定義は一度もされませんでした。私たちは、それが何かを知らないものを、日夜使っていることになります。だからこそ、『お金』は一人歩きするのです。
エンデは今の金融システムは「長期的な視野で本当に正しい行いをする人が損をし、短期的な利潤のために暴挙に出るような人が得をする」と述べた上で、このように理想的な金融の形態を述べています。
再度、貨幣を実際になされた労働や物的価値の等価代償として取り戻すためには、いまの貨幣システムの何を変えるべきなのか、ということです。
最近、私がふと頭の中に思い浮かべたことがリンクしました。
「株式」という仕組みについてです。
株式という仕組み上、その資本である株主の期待することは右肩上がりの成長(に伴う保有株式の価値向上)一択であり、しかし資本主義が成熟(完成・完璧に近くなったという意味ではなく、その波及範囲が地球上全てに及ぶようになったという意味です)した今、金融面においては各企業が「共に成長する」ことはほぼ不可能で、市場を「奪い合う」しか無くなっている。
本当にそれって、我々の一生の仕事として正しいんだろうか?
何だか踊らされているような感じがしないだろうか?
かといって、資本を確保できる資産家のみがマネーゲームに参加できる仕組みも違うし。とはいえエンデの主張するような「この時代に金が金を生むシステムを取っ払う」のは完全なるファンタジーに見えるし。
「もしかすると……確率は著しく低くてもそういう発想をたくさんの人が実践すれば……もしかすると」くらいの受け止め方になってしまいます。
SF思考的な発想なのだといえば今の時代、一部からは評価されるのかもしれないですけど。
いずれにせよ、本書のエンデの主張を受けて私たちが常に肝に銘じておかなけれないけないことは下記の点だと思っています。
事態の打開に対し積極的に取り組むか、流れに任せるかはあるにせよ、
当たり前に享受している社会の仕組みに疑問を持つこと。
今の常識は、未来の常識ではないと知っておくこと。
具体的施策としての「地域通貨」
ごく局所的な、でもある程度エンデの理想に近しい現実的な金融の形として本書内で紹介されるのがアメリカのNY州で実践されていた地域通貨イサカアワーです(今は廃れてしまっている様子)。
「実際になされた労働や物的価値の等価代償としての貨幣」として実践されていますが、決して公共通貨(この場合はドル)を否定するものではなく、役割を分けて両立する存在として使用されています。
この通貨のメリットとして著者は下記のような例を挙げています。
地域の経済活性
コミュニティの関係性向上
個人の生活の質向上
さらに話は、主にドイツで採用されている交換リングのシステムの例に移ります。
交換リングの流通メリットも基本的にはイサカアワーと同様ですが、既存通貨と異なる点として下記の仕組みが併せて紹介されます。
それぞれのサービスや物品の価格が違っていても、各自の口座残高がどうなっていても、交換リング全体の収支は、つねに原理的にプラスマイナス・ゼロになります。また、交換リングの単位には「利子」がつきませんから、会員は口座残高がマイナスになっても、金利で雪だるま式に増えることはありません。個人個人が自分の判断とペースで取引を継続するなかで、できるかぎりゼロに近づくように努めればよいのです。
このくだりを読んで、「ちょっと待て」と思いませんか?
個人の口座がマイナスになったとしても当人にとって不利益があるわけではない。そのような仕組みの中で、“自分の口座がマイナスである状態を常態的に許容する人間が一定数出ること”ことは自明だと思うのです。
周囲の人がそれを当然受け入れることを前提にこのシステムは組まれています。
それは、ある一定数の良識のある人に対し、コミュニティのために他者の傲慢に目をつぶれ(もしくは自分の損を許容しろ)と言っているに等しいと思うのですが、この論調がコミュニティ全体でまかり通ると思いますか?
私には、このような人の善意に完全にすがるタイプのスタンスを持つシステムが今の世の中全体に浸透するとは到底思えないのです。
平等がすべてではないと思いますが、ある程度の平等性を担保しないと、人間がこれほどまでに重要な役割を持つ当システムは広がらないし存続できないのではないかと考えます。
私たちには今何が必要なのか
「より良いあり方」を探った実験的な試みが一時的にでも世間に認められ、それを享受する人たちの生活が豊かになったのであればそんなに素晴らしいことはないと思います。
しかし、切羽詰まった状況になればなるほど、乗り越えなければならない課題は「その状態をどう存続させるか」になるはずです。
エンデも本書に取り上げられるインタビューの中で下記のように述べていました。
「システムの変革はそれほど困難ではない。しかしメンタリティの変革はそれより難しい」※一部要約
まさにそこだろうなと思います。
エンデは非常に人格者であり、人の善意を信じる人であると言葉の端々から感じられました。しかし、世の中には悪意もまた存在し、その悪意をどのようにうまくコントロールするかが世の中を動かす時の一番の重要ポイントなのだろうなと。
ニーズをもとにシステムを立ち上げれば、ユーザーはある程度囲い込める。
しかし、ユーザーが増えれば増えるほど、しかもそれが社会全体を巻き込まねば意味のない公共の仕組みの場合であればあるほど、徹底的にステークホルダー全方位に対してのメリットを提供できる姿を探らない場合、そのシステムは長くは存続できないと思うのです。
[付記]
小学生の頃、『はてしない物語』と『モモ』が本棚にありました。
前者は大好きで何度も読みましたが、『モモ』はその当時の私には良さがわからず、最後まで読んだことはなかったように思います。今回、改めて読んでみようかなと思いました。
本書の下記の言葉を心に留めながら。
エンデは日頃、現代人は大人から子どもまで「この本は何をいいたいのかという質問」にとらわれてしまったと嘆いています。陳腐な決まり文句や、簡単なメッセージに置き換えることが、一冊の本を理解することだとするのは時代の偏見であり、本を読むことは豊かな体験であって、作者と読者の個別的な関係を築いていく行為だというのです。
