長ーい人生、どう生きる?──『LIFE SHIFT2』読書感想文
ベストセラーは「多少踏まえておかねば」思考で、ブックオフで並んでいた「2」を買って読んでみた。
重複もあると思うけど、1に何が書いてあるか気になるなあ。。。
要は、社会変化の目まぐるしい今の時代、自分が人生を歩むための参考先として見ている一世代・二世代前とは状況が全く異なり、その状況を「幸せ」に生きるには、さまざまな考え方を一新・更新しながら生きていく必要があるという趣旨である。
現代人がライフシフトを迫られる主な要因は2つだ。
テクノロジーの進化
長寿化
以下、気になる箇所をピックアップしていく。
自分の年齢に対する考え方を変える
老い方は、自分が思っているより「一般化できない」。
齢年齢がイコール人間の老い方、その時の立ち位置のすべてだというバイアスを持っていると、そこに何も関与しようがないという諦めしか生まれない。
自分の振る舞い、努力で老い方は変えることができるという認識を持っておくことが、人生をより良く生きようという主体性につながる。
人がどのように老いるかは、変えることのできない運命ではない。ひとりひとりがどのような行動を取り、どのような考え方をはぐくむかによって、それは大きく左右される。
暦年齢重視の年齢観をいだく場合、すべての人が毎年同じペースで老いていくと考えることになる。しかし、年齢の可変性を前提にすれば、このような考え方は真実とかけ離れている。
興味深いことに、ある人がどのように老いるかを決める要因のうち、遺伝的要因の割合は4分の1程度にすぎないという。
〜中略〜
長寿化の恩恵を満喫したければ、年齢の可変性を前提に行動すべきだ。また、自分が取る行動の影響はやがて自分に返ってくるという点も、頭に入れておいたほうがいい。いまあなだがどのような行動を取るかは、あなたの未来と結びついていて、その未来に影響を及ぼすのである。この点を理解している人は、未来志向の考え方をし、過ぎてしまった日々よりも、この先に待っている日々に目を向ける。そして、未来のために大きな投資をし、新しいスキルを学び、新しい人間関係を築き、健康を維持するために努力する。
本書の中盤でも言及されるが、人の頭脳はいつまでも「可塑性」があるというのが最近の脳科学では主流になっている。
適切に訓練し、正しく用いれば、いったん失われた能力も取り戻せるというのだ。
〜中略〜
テキサス大学ダラス校の心理学者デニス・パークが指摘するように、「快適ゾーンにとどまっている人は、成長ゾーンに入れない場合がある」からだ。年齢を重ねた人が新しいことを学べないとすれば、それはその人が老いているからではなく、新しいことを学び続けてこなかったからなのだ。
どうやら今の時代、「年をとったから」は言い訳にはできないらしい。イソップ寓話のキリギリスのように「いや、お前が怠惰だったからだろ」って言われるのかな。
まあ確かに、そうなのかもしれない。
複利の魔法を味方につける
50年だった寿命が75年になり、75年だった寿命が100年になる時、私たちの生に与えられる時間が長くなるのは誰の目にも明らかだ。
経済に限らず、未来の投資は早ければ早く始めるほど益が大きくなり、その終わり(寿命)が遠くなればなるほど「やっていない」と「やっている」の差は大きくなる。
複利の魔法の益を最大化するなら、継続が必要。そして、たとえ小さなことでも積み重ねることを馬鹿にしてはいけない。
人生が長くなれば、複利の恩恵も受けやすくなる。退屈な話題だと感じるかもしれないが、物理学者のアルバート・アインシュタインは、複利を世界七不思議と並ぶ8つ目の驚異と呼んでいた。
複利の効果について考えてみるのも無駄ではないかもしれない。
複利の魔法がものを言うのは、資産運用だけではない。複利は、スキルや健康や人間関係への投資など、時間を味方につけられるタイプのほかの投資でも有効だ。新しいスキルを学ぶための投資を例に考えてみよう。あなたが現在55歳で、65歳で引退するつもりだとすれば、いま新しいスキルの習得に投資しても、それほど大きな恩恵は得られないかもしれない。しかし、75歳まで働くとすれば話は別だ。この投資が意味をもってくる。投資の恩恵を受けられる期間が長くなるからだ。
仕事時間と家族時間のトレードオフを迫られる
人生が長くなり、職業人生が長くなると、仕事をしている時間が長くなる。
キャリア形成の期間も自ずと延びると考えれば、長期的キャリア形成のために若手時代〜中堅といわれる年代に必ずしも仕事にフルコミットしなくても良いという選択肢も実はあるのかもしれない。つまり、子どもが幼いうちは家庭を優先し、子どもがある程度大きくなった後にキャリアを伸ばすという考え方も。
職業人生が長くなっても、子どもが赤ちゃんの間に一緒に過ごせる週末の回数は増えないが、生涯の間に仕事のイベントや打ち合わせに費やせる週末の回数は確実に増える。その結果、赤ちゃんと過ごす時間の価値が相対的に高まるのである。仕事の会合に出席する機会は、その後の人生でいくらでもある。マルチステージの人生で時間の使い方を再配分するうえでは、こうした変化が大きな意味をもつ。
自分の仕事を評価する他者という存在がいる限り、すべて自分のペースでキャリアをつくっていくのはかなり難しいと思うけど。でも、15年前、10年前と比べると「仕事」と「生活」に対する社会のバランス意識は確実に変化していると感じる。
働き方は一つじゃないし、働くことに求めるものも人それぞれ違う。“若い頃にがんばらないと”はもはや古のセオリーなのかもしれないな。
AIに淘汰されない仕事
オペレーションの自動化や、AIの導入などで「自分の仕事の危機」が話題に上ることは多い。
「AIに取って代わられる」は本当でもあるし、嘘でもある。私たちが正しく危機を感じるためには、ジョブとタスクを切り分けて考えることが必要だという。ここは本当にそうだと思う。
機械にもできる仕事を行うのではなく、管理しコントロールする側に回る、機械にできないことを見極めて主導する役割を担う。これからは、人間に本来求められている役割をより期待されるだけの話。
機械が現在と未来の職に及ぼす影響を正しく理解するためには、職(ジョブ)と業務(タスク)をわけて考える必要がある。機械が担うのは業務で、ひとつの職はいくつもの業務で構成されている。あなたの職が消失のリスクにさらされているかどうかは、あなたがその職でどのような業務を実行していて、それらの業務のなかのいくつが自動化される可能性があるかによって決まる。自動化と雇用消失の関係を研究した研究者たちは当初、ひとつの職は少数の明確な業務によって構成されていると考えていた。それを前提にすると、機械の進化により影響を受ける職の数はきわめて多いと推測された。
しかし、実際には、大半の職は複数のタイプの活動や業務によって構成されている。
自明ではあると思うが、自分の仕事がAIに取って代わられる可能性が高いかは、下記のように要因に左右されるという。
非定型的な業務が占める割合が大きいこと。
付加価値の高い業務に移行できる可能性が十分にあること。
その職の自動化を妨げるような環境があること。
自動化が費用対効果の面で得策ではないこと。
3つめと4つめは時代の変遷に応じて変化する要因だと思うが、1つめと2つめはマネジメントスキル(セルフ・チーム双方)とコミュニケーションスキルを高めることでかなりリスクを低減できると思う。
この二つのスキルはこれからの時代を生きるにあたって、必須で汎用的な二本柱ではないかと私は考えている。
ただこの二つ、人によって定義の異なる輪郭のぼんやりしたスキルの二大巨頭でもあるので、私の中での定義もちゃんと書き留めておきたいな。いずれ。
最後の最後に、幸せだったと言うために
長い人生を生きるうえでは金銭面の安定も重要だが、将来の生活資金を確保すること以外の活動がもたらす恩恵も見落としてはならない。人生の目的の追求や、さまざまな活動への参加、健康、パートナーとの関係といった要素のことだ。お金の面で未来の自分を苦境に立たせるような行動は避けるべきだが、それと同じくらい、ほかの活動をないがしろにして未来の自分を困った状況に追いやることも避けなくてはならない。資金計画が人生のストーリーを牽引するだけでなく、人生のストーリーが資金計画を牽引するようにもすべきなのである。
今の世の中を生きるために、お金は絶対に必要だ。
お金が極端になさすぎると、困窮し、社会から孤立したり疎外されたりし、逆にお金のみに執着するようになり、時に下してはいけない判断を下すなどの事態も起こり得る。そういう世の中もどうかと思うけど、実際にそういうことが起こるのだから目を背けてばかりもいられない。
しかし、給与がある程度の水準に達すると、人の幸福度は頭打ちになるというのもよく言われることだ。
しかし、チベット仏教のダライ・ラマ14世は、人間について驚かされるのはどの点かと尋ねられて、こう述べたことがある。「人は金を稼ぐために健康を犠牲にし、健康を取り戻すために金を犠牲にする。また、未来を心配しすぎるあまり、現在を楽しめない。その結果、現在を生きることも、未来を生きることもできなくなっている。そして、自分の命が永遠に続くかのように日々を漫然と生き、真の意味で生きることがないまま死んでいく」。ダライ・ラマにとって、金と幸福は関係がないものなのだ。
一方、精神指導者の言葉から味けない実証研究に目を転じると、人がたくさん金をもっていればいるほど、そして国の所得レベルが高ければ高いほど、概して人の幸福度が高まると言えそうに思えるかもしれない。しかし、話はそう単純ではない。一般的な傾向に当てはまらないケースがあるのだ。
人の幸せはお金だけでは決しない。これは正しいと思う。
カーネマンらが指摘しているように、「ある出来事に対する人の評価は、その出来事における最悪の経験と最終の経験に大きく左右される場合が多い」のである。この点を考えると、よい人生を生きられたと思えるかどうかは、最晩年の経験によって決まる面もあると言えそうだ。
「高齢者にとっては、いつ、何が原因で死ぬかも確かに重要だが、最大の関心事は、どこで、どのように死ぬかだ」と、老年学者のアンドリュー・エルダーは述べている。人生の終わりの日々は、きわめて重要な意味をもつのだ。
ここからは本書を受けての私観になるが、お金、仕事、家族……何かのために邁進することは人生を充実させる。でもそればかりに目を向ける生き方は、たぶん「現在」しか目に入っていない生き方になる。
わたしが100歳まで生きるとすれば、死ぬまでにはまるっと還暦分の時間がある。
60年。冷静に考えれば、自分もまわりも何も変化しないとはどうあがいても考えられないほどの長大な時間だ。
40年生きても、そんな長い時間が残されている(可能性のある)私たちの世代は、どうやら一生を通してずっと学び続けないといけないらしい。
必要なのは単に目の前に必要とされるジョブスキルの取得だけでない。
もっともっと長期的に実を結んでいくような知見──人間関係のつくり方、柔軟性・自在性、バランスの良い人間的スキル(STEAM)、新しいテクノロジーへの知見、社会全体の潮流や健康や経済の最新情報などなど。
しかも、ほとんどは得ても得ても“陳腐化”“旧態化”するものだ(自分が得たものが汎用性がある知恵か、限定的な知識かを判断する能力も必要になる)。
……考えるだに、しんどくなる。
でも、この学ぶこと・考えることの膨大さにゲンナリするのではなく、楽しまなくてはいけないんだろうな。
その複雑性や多様性を楽しめたもの勝ち。
それが現代の幸せな生き方なのかもしれない。
