根本原理だって変化する──『中国哲学史』読書感想文(前)
書籍データ
哲学とは何なのでしょう?
古代ギリシアでは学問一般を意味し、近代における諸科学の分化・独立によって、新カント派・論理実証主義・現象学など諸科学の基礎づけを目ざす学問、生の哲学、実存主義など世界・人生の根本原理を追求する学問となる。
「この世で人間が生きるにあたっての根本原理を探る」ってことのようなのですが、その根本原理は哲学する人の生きる時代や立場によって当然ながら変化するというのが私の所感です。
なので、結局は根本原理ではなく「人間として生きていく上で、その時代の世間一般に一番共通理解の得られる行動の根拠(言い訳ともいう)」を探すことなのかなとも思ったりします。(怒らないでください)
この本の冒頭では、哲学は「時間軸」をベースとした体系と系譜があると述べられています。さらに、その思想は時代背景と大きく関わっているとも。
当たり前のようでいて実は、歴史×哲学を掛け合わせた考証というものは、今まであまりされてこなかったとのこと。歴史分野・哲学分野ときっちり線引きがされていたということでしょうか?
何だかすごく勿体無いように思います。
なので、この本で中国の古代から現代に至るまでの各思想家と相互の思想の影響・関係性が体系的に書かれたことはずいぶんと新しい取り組みのようです。
言われてみれば確かに「孔子」「孟子」「荀子」など各思想を解説したものは多く見ますが、こういう前後関係で系統づけてその変遷を取り上げる内容はあまり見たことなかったなあ。
……ということで、いつも通り本の中で特に気になった部分をピックアップしていきます。
一部要旨と感想
正しさとは何か
(古代中国では)政治は正しい秩序をこの世にもたらすものと考えられていた。これの実行にあたり、キーワードとなる語句が「正名」だ。
正名とは「君主を君主とし、家臣を家臣とし、父を父とし、子を子とすること」つまり「名と実質が一致している」ことをいう。
荀子はこの概念を、下記のように哲学的に整理した。
名という記号には、もともと固有の意味(宜)も固有指示対象である実在(実)もないが、約束という社会的な取り決め行為(約)によってそれらと結び合わされ、その結果が慣習として定着する。
著者も言う。
(名の定義は時代が変われば当然変化するものであるから、)正しさはその時代の社会的想像力の中で定義し直され、鍛え直されていくものである。
私たちは言葉や概念というものを今を生きる自分の視点で固定化しがちだが、時代や背景が変われば定義がぶれていくのは当然。
改めて思いしらせてくれる章段だった。
変化の哲学
孟子、荀子、荘子それぞれの「性」についての解釈を比較した章段。
道徳は、あらかじめ定められた素質としてしか、自然に備わっていない。また、本来備わっていても、それを可能にするかは私たちが決めるもの
という孟子の性善説。
それに異を唱えたのが、荀子の性悪説。
性は、天に由来する、人間を人間たらしめる条件であるが、そのままに従うと秩序が乱れた暴力的な事態が必ず生じてしまう
その「性」を変化させるために、荀子は「君主は思慮を重ねて礼儀や法規、言語の制定を実践する=作為」という方法を提唱した。
さらに、作為をなすためのアプローチとして「歴史に学ぶ」という考え方を採用した。
過去と現在と未来という違うあり方をしている世界をどう繋ぐのかという問い。礼儀や法規は過去を反復する度に変更されながら継続している。変更できない制度はどこにもないし、その変更に応じて世界のあり方はいかようにも変化しうる。
非常にひらけた、広い視点だなと思う。
上記のような「意図的」で「作為的」な変化(化性)に対し、荘子の唱える変化(物化)はいわゆる善などの倫理観を超越した変化であると著者はいう。
物化で有名なのは、
荘周が夢を見て蝶になったのか、蝶が夢を見て荘周になったのか
という『胡蝶の夢』の一節。
これは「二者の境界が曖昧」という解釈をされがちだが、荘子の言説の中では二者は明確に区別されており、他なるものに変化する、しかも変化するだけでなく、その物が属している世界そのものが変容しているという考え。
さらに話は生死に及んで、「死は生にあっては知ることのできない別世界である。だから必要なのは生にある時は生を、死にある時は死を肯定することで、その場その場での自己充足さえすればいい」という論になる。
このとても受動的な態度はたびたび批判されてきたらしいが、哲学を「人間として生きていく上で、その時代の世間一般に一番共通理解の得られる行動の根拠」を探ることだと考えれば、こういうひたすらに受動的な考え方がウケる時代もあったのではないかと私は思う。
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まだ本の1/3にも満たない序盤なんですが、続きは後編で。
