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ハウ ルラ ポ (Haw rura po) 声を運ぶ子 第六章 

最終章 『四季へ置く』



包みを開いたのは、何年も後のことだった。

あの冬の朝、私はそれを胸に抱いて雪の中を歩いた。
シャクシャインが託した包み。
父が、火のあるところへ運べと言った包み。
シラリカが、まだ開けるなと言った包み。

布には、酒と煙と血の匂いが染みていた。
その匂いは、長いあいだ消えなかった。
春になっても、夏になっても、秋になっても、冬がまた来ても、包みを手に取るたび、あの夜の音が戻ってきた。

 刃が鞘を離れる音。
 酒器が床を転がる音。
 父の声。
 シラリカの息。
 雪を踏む追っ手の足音。
 氷の下で流れていた黒い水の音。

そして、佐吉の息。
斬りたくない。
そう聞こえたのに、止まらなかった足音。
私はそれも覚えていた。
忘れたかった。
忘れた方が、憎むのは簡単だった。
けれど、父は言った。
憎しみだけにするな。
だから私は、その息も捨てなかった。
許したのではない。
薄めたのでもない。
ただ、聞いたままに残した。
それが、私にできるいちばん難しいことだった。

私は包みを、火のそばに置いた。
祖母が大事な言葉を火の奥へ置いたように。
母が泣かなかった夜に針を置いたように。
父が黙って悪い鉄を見つめたように。
ただ、置いた。

それから年月が過ぎた。
村は変わった。
戻らなかった者の名は、火のそばで短く呼ばれるようになった。
子どもだった者は大人になり、大人だった者は火の向こうへ行った。

シラリカも、ある冬、火の向こうへ行った。
最後の夜、彼女はもう多くを話さなかった。
声の低い人だったから、最後の声は、ほとんど息と変わらなかった。
私は、その枕もとで低い歌を置いた。
秋に、彼女が私に教えた歌だった。
シラリカは、目を閉じたまま、かすかに拍を取った。
シラリカの息は、いつも、合った。
運べなかったと言った人の息を、私は最後に、ちゃんと運べた気がした。

私は、生き残った。
生き残った者は、ときどき、死んだ者よりも長く雪の中を歩く。
なぜ自分だけが、と何度も思う。
なぜ父ではなく私だったのか。
なぜシャクシャインではなく私が声を持って帰ったのか。
なぜ、もっと早く叫べなかったのか。
けれど、そう思うたびに、あの声が戻ってきた。

私の命を運ぶな。
声を運べ。

だから私は、生きた。

春には川へ行った。
祖母に教わった名を、もう一度呼んだ。
最初は声が震えた。
でも、呼んだ。

夏には人の声を聞いた。
交易の場で、誰が笑い、誰が嘘を飲み込み、誰が怖さを怒りに変えているのかを聞いた。

秋には歌った。
人々が互いの傷を思い出して刃へ手を伸ばしそうになるとき、私は低い声を置いた。
歌は争いをすべて止めなかった。
けれど、刃を抜く前の一呼吸を作ることはあった。

冬には火を守った。
火のそばで、子どもたちに言葉を教えた。

 川の名。
 山の名。
 風の名。

カムイへ置く言葉と、人へ渡す言葉の違い。

やがて、私の髪にも白いものが増えた。
手は母の手に似てきた。
火の前に座る背は、祖母の背に似てきた。
子どもたちは私を年寄りと呼ぶようになった。
そして、ある冬の夜、ひとりの子が聞いた。

「シャクシャインは、本当にいたの」

私は火を見た。
いた。
そう答えるのは簡単だった。
けれど、その名をただ「いた」と言うだけでは足りなかった。
あの人は、遠い物語の中の大きな影ではない。
秋の河原で私に「曲げるな」と言った人だった。
冬の宴で私に「声を運べ」と言った人だった。
自分の命ではなく、声を未来へ逃がそうとした人だった。
私は、子どもの問いにすぐには答えなかった。

火のそばへ手を伸ばした。
長い年月、そこに置いていた包みを取った。
布は古くなっていた。
色も変わっていた。
けれど、結び目はそのままだった。

私の手は震えた。
子どもたちは黙っていた。
長い沈黙だけがあった。
私は結び目をほどいた。
中に入っていたのは、小さな木片だった。
シャクシャインが夏に私へ渡したものと、よく似ていた。
けれど、これはもっと古く、何度も手に握られた跡があった。
細い溝が刻まれていた。
指でなぞると、音のない歌のように感じた。
もうひとつ、小さく折られた布があった。
文字ではなかった。
和人の紙でもない。
そこには、誰かの手で結ばれた糸と、短い印があった。
正しい読み方を私は知らなかった。
けれど、それが何を残そうとしたものなのかは分かった。

名だ。
忘れるなという印。
ここにいた者たちの名。
声を、季節へ置くための印。

私は木片を握った。
そのとき、シャクシャインの声が、長い年月の向こうから戻ってきた。

 春へ。
 夏へ。
 秋へ。
 冬へ。
 人は死ぬ。
 だが季節は戻る。

私はようやく分かった。
あの人が託したものは、秘密ではなかった。
敵を倒すための策でもなかった。
誰かを憎み続けるための証でもなかった。

声を残すための火種だった。
私は子どもたちに言った。

「シャクシャインは、いた」

火が小さく揺れた。

「けれど、私がこれから語るのは、あの人のすべてではない。私はあの人の戦をすべて見たわけではない。刀の行方も、最後に倒れた人々の名も、すべては知らない」

子どもたちは、じっと私を見ていた。

「私が覚えているのは、春の川だ。夏の声だ。秋の歌だ。冬の雪だ」

私は火に薪を足した。
火は赤くなった。
その赤さの中に、祖母の顔が見えた気がした。
母の手が見えた気がした。
父の冷たい手が、最後に私を少しだけ握り返した感触が戻った。

私は、四つの歌を置くことにした。
春には、川の名を。
夏には、人の声を。
秋には、立ち上がった背中を。
冬には、火の沈黙と、戻ってくる声を。

まず、春の歌を置いた。
それは、雪どけの水がまだ冷たい土を叩くような、短い調子だった。
川が目を覚ます音。
柳の芽がほどける音。
祖母が川の名を呼ぶ前に置いた、あの小さな沈黙。
私はその沈黙ごと、歌にした。
子どもたちは意味を知らなかった。
けれど、川が春へ戻る音だけは聞いていた。

「これは、何の歌」

ひとりが聞いた。

「春の歌だ」
「楽しい歌?」
「楽しいだけではない」

 私は答えた。

「川に杭が立つ前、川には名があった。杭が立ったあとも、名は消えなかった。そのことを思い出す歌だ」

次に、夏の歌を置いた。
それは、虫の声の多い夜に似ていた。

 近くの声。
 遠くの声。
 信じる声。
 疑う声。
 怒りを押し殺す声。

いくつもの声が、川の上を渡ってくる。
私は、その中に和人の硬い言葉も混ぜた。
杭を打つ音も混ぜた。
そして、佐吉の飲み込んだ息も、ほんの少しだけ置いた。
子どものひとりが、眉を寄せた。

「変な音があった」
「聞こえた?」
「うん」
「それも、夏の声だ」
「嫌な声?」

 私は少し黙った。

「嫌な声もある。怖い声もある。でも、聞いたなら、捨ててはいけない声もある」

子どもは分かったような、分からないような顔をした。
それでよかった。
すぐに分かるものばかりではない。

次に、秋の歌を置いた。
それは、鮭の背が夕日に光るような調子だった。
水に逆らう音。
石に体を打つ音。
それでも上へ向かう、あの銀の背。
途中で、歌は少しだけ低くなった。
刃に手をかけた男たちの息。
火のそばで顔を上げた女たちの声。
歌に合わせて、ばらばらだった呼吸が戻ってくる気配。
秋の歌は、明るくはなかった。
けれど、折れそうな橋の上に、足を一歩置くための歌だった。

「歌で、争いはなくなるの?」

子どもが聞いた。

「なくならない」

私は答えた。

「でも、刃を抜く前に、息をひとつ置けることがある」
「それだけ?」
「それだけで助かる命もある」

子どもは黙った。

最後に、冬の歌を置いた。
それは、ほとんど声にならない歌だった。
雪が降る音。
火が小さくなる音。
酒器が床を転がる音。
刃が静かに抜かれる音。
私は、その音をひとつずつ火のそばへ戻した。
子どもたちは身を寄せ合った。
冬の歌の中には、父の声もあった。
シラリカの低い息もあった。
氷の下を流れる黒い水の音もあった。
そして最後に、春へ向かう川の音を、ほんの少しだけ置いた。

「冬は怖い歌?」

子どもが聞いた。
私は少し考えた。

「怖い歌だ」

子どもの肩が小さく動いた。

「でも、それだけではない」
「どうして」
「冬の下には、春へ向かう川があるから」

私はそう答えた。
あの夜、私はシャクシャインを救えなかった。
父も救えなかった。
宴を止めることもできなかった。
それでも、声だけは逃がした。
泣く子どもたちの息を歌に変えながら。
父を置いた朝の痛みを胸に抱えながら。
声だけは、火のそばへ持ち帰った。
私は子どもたちに言った。

「負けた者に、何も残らないわけではない」

火が揺れた。

「土地を奪われることがある。川をふさがれることがある。名を曲げられることがある。けれど、誰かが覚えていれば、声は完全には死なない」

私は、シャクシャインの木片を子どもたちの前に置いた。

「これは、私が持っていたものではない。預かっていたものだ」
「誰に返すの」
「次に聞く者へ」

子どもたちは木片を見つめた。
その中のひとりが、恐る恐る手を伸ばした。
私は止めなかった。
小さな指が、木片の溝をなぞった。

「音がするみたい」

その子が言った。
私はうなずいた。

「そうだ。まだ声になっていない音だ」

その子の名を、私は知っていた。
シラリカ、と呼ばれていた。
死んだあの人の名を、誰かが、この子に置いたのだ。
私が頼んだのではない。
いつのまにか、名のほうが、低い声を探して戻ってきていた。
私は、その子の指が溝をなぞる音を聞いた。
低かった。

「私にも聞ける?」

その子が言った。

「聞こうとするなら」

子どもは木片を胸に近づけた。
その姿を見て、私はようやく、長い年月の重さが少しだけ軽くなるのを感じた。

私ひとりが持つものではなかった。
私ひとりで持てるものでもなかった。
声は、渡すものだ。

 春から夏へ。
 夏から秋へ。
 秋から冬へ。

そのとき、別の子が私を見た。

「あなたの名は」

私は息を止めた。
長いあいだ、その問いに答えてこなかった。
川の名は運んだ。
火の名も運んだ。
シャクシャインの声も、父の声も、シラリカの声も運んだ。
笑いながら嘘をついた和人の声も。
佐吉の止まらなかった足音も。
自分の名だけは、火のそばに置いたままにしていた。

私は火を見た。
祖母が、最初に私を呼んだ声を思い出した。
父が短く呼んだ声を思い出した。
母が怒るときだけ、最後まで呼んだ声を思い出した。
その名は、いつも誰かの声の中にあった。
けれど、まだ一度も、私の声の中にはなかった。
私は、火のそばに置いていた名を取った。


「……ハル」

私は言った。

「レラハル」

子どもたちは、その音をまだ知らない川の名のように聞いていた。

「父は、レラと呼んだ。母は、怒るときだけ最後まで呼んだ。祖母は、火のそばでレラハルと呼んだ」

声に出した瞬間、私の中で何かがほどけた。
名は、私だけのものではなかった。
祖母の声の中にあり、父の声の中にあり、母の声の中にあり、そして今、子どもたちの耳の中に渡っていった。

私は火を見た。

 祖母。
 母。
 父。
 シラリカ。
 シャクシャイン。

名を呼ぶと、胸の奥でひとつずつ火がついた。
私はそれらの名を、大声では呼ばなかった。
火へ置くように、低く呼んだ。
外の雪は、まだ降っていた。
けれど、私は知っている。
雪の下で、川は止まっていない。
冬の下を、春へ向かって流れている。
だから私は、もう一度だけ、子どもたちに向かって言った。

「聞きなさい」

子どもたちは顔を上げた。

「誰かの声を覚えるとき、自分のものにしてはいけない。奪ってもいけない。忘れたふりをしてもいけない」

火が、ぱちりと鳴った。
私はそれを、返事のように聞いた。
そして最後に、シャクシャインの声をそのまま置いた。

「曲げるな」

子どもたちは、その言葉を繰り返した。
小さな声だった。
まだ意味のすべてを知らない声だった。
けれど、確かに声だった。
私は目を閉じた。
その声は、火のそばから立ち上がり、煙に混じり、家の上へ抜けていった。

雪の降る夜へ。
川のほうへ。
まだ名を呼ばれるのを待っている、すべてのもののほうへ。
それでよかった。
私の役目は、終わったのではない。
渡ったのだ。

春へ。
夏へ。
秋へ。
冬へ。

そして、また春へ。





四季へ置く歌



第一節 春

モシㇼ パ ウン マッネㇷ゚、イカイタ カムイ コㇿ ペ ネ。
イコㇿ カ、アミㇷ゚ カ、カムイ オッタ ウㇰ ワ アン。
ポン ポ ウポポ コㇿ、ハウェ アヌ。
カムイチカㇷ゚ カ シノッ コㇿ イカシマ。
タネ クイタㇰ エラム オッタ アヌ。
オイナ イタㇰ エヌ ワ ピㇼカ。

第二節 夏

サㇰ フミ アン コㇿ、カムイチェㇷ゚ サッナイ ペッ トゥラシ アㇻキ。
カムイ コタン オッタ、カㇺ カ カㇷ゚ カ イコㇿ ネ コンド。
アニ ウポポ コㇿ、ペッ フㇺ トゥラ シノッ。
イノミ イタㇰ エヌ、カムイ カ ミナ。
タン ウウェペケㇾ エラム オッタ カッ。
ヌ ワ ピㇼカ、イタㇰ イカシマ。


第三節 秋

キムンカムイ ヌプリ パ ウン ワ サㇷ゚。
カㇺ カ フㇺ カ パセ イコㇿ ネ イ コンド。
ピㇼカ イオマンテ コㇿ、カムイ カ シンリッ オッタ ホリッパ。
アニ ウポポ ワ、モシㇼ ピㇼカ。
タン イトゥナンカラ エラム オッタ ヌイェ。
オイナ エヌ ワ、エカイ クキ。

第四節 冬

アペフチカムイ イヌ コㇿ アン。
アペ ネ ルウェ、イタㇰ エヌ ワ ピㇼカ。
エレレケ コㇿ シノッ、レラ カ ミナ。
イコㇿ ネ シキ アン ルウェ。
クイタㇰ エラム オッタ ウㇰ。
アシㇼ パ ネ ワ、エオッタ オイナ アン。



【著者注】

本作は、寛文九年のシャクシャインの蜂起(歴史的事実)およびアイヌの人々の豊かな精神性と文化に深い敬意を抱き、着想を得て執筆したフィクションです。文字を持たない文化の中で紡がれてきた「声」の尊さを描くため、一部劇中における詩的な表現や独自の演出を含んでおります。

作中のアイヌ語歌は、言語の響きの美しさに感銘を受け、物語の核として作者が創作したものです。

シャクシャインの蜂起は、土地と川と暮らしをめぐって、実在の人々が立ち上がった歴史です。本作はその再現ではなく、文字を持たぬ文化のなかで「声」がどう受け継がれていくのかを、ひとりの子どもの耳を通して想像した物語にすぎません。アイヌの歴史・信仰・言語については、外から学ぶ一人として、できるかぎりの敬意をもって向き合いました。なお、行き届かぬ点や誤りがあれば、すべて作者の責任です。実在のアイヌの文化に触れたい方は、ウポポイ(民族共生象徴空間・国立アイヌ民族博物館)など、継承に携わる方々の場を訪ねていただけたら幸いです。

ここまでお読みくださり、ありがとうございました。レラハルが運んだ声が、あなたの耳のどこかにひとつ残れば、これ以上の喜びはありません。


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