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家族にサルー!異国にささげた空手人生|Field-note

アルゼンチンの戦後移民の空手・古武道師範である仲里茂雄先生について書きます。2015年2月にインタビューしてます。ご本人はお亡くなりになられていて、ご家族(妻と3人の息子)への聞き取りでした。

そのまえに、アルゼンチン空手について重要な証言を紹介しておきます。かような事情があったので、沖縄で空手を学んだ人たちがおおっぴらに空手を教えることが憚られてきたのではないかと思われます。

  • 昔(戦前)は空手と呼ぶことはなく、「ティーナラトン(手を習っている)」「ティーチカヤー(手の使い手)」と言ったが、あまりいい意味ではなかった。特に「ティーチカヤー」の場合は、「乱暴者」「狼藉者」のようなニュアンスを帯びていたと思う。

  • アルゼンチンでは空手は隠された存在で、空手をしていたことは公にしなかった。これは「粗暴」という印象が空手にあったからで、沖縄での掛け試しの噂などが移民した沖縄人の心に影響していたからだと考える。

また、沖縄からのアルゼンチン移民の多くがクリーニング業に従事したのはなぜ?という質問がありました。直接的な答えではないかもしれませんが、次の言葉を紹介しておきます。

  • 当時のアルゼンチンは、サッカー観戦に行くときでもネクタイ着用の正装をするほど、身だしなみを大事にしていた。そういうフォーマルな国民性があり、貴重な衣類を大事に着用していたから、洗濯店の仕事は多かった。

では、インタビュー記録をまとめてみます(敬称略)。ちょっとだけ描写を追加していますが、固有名詞はいじっていません。

来歴と空手教授への道

1965年、仲里茂雄は南風原村兼城からアルゼンチンへ渡りました。その背中を押したのは、姉の夫である義兄・大城モリヤスの招きでした。異国の地での最初の仕事は、姉が営む洗濯店の手伝いでした。

しかし、仲里の真の情熱は別のところにありました。移住したその年、彼は空手と古武道の指導を始めます。最初の道場は、トゥクマン地区コンセプションにある姉の家の一角でした。この狭いスペースには柔道家・仲宗根カルロスら少数の生徒が集まりました。沖縄人、日本人だけでなく、アルゼンチン人の門弟も最初から受け入れました。

やがて道場はトゥクマン地区サンミゲルへと移転し、活動の場を広げていきます。仲里は地元のスポーツクラブ、日本人会館、さらには州警察にまで指導の場を拡げていきます。彼の武術は、単なる鍛錬を超えて護身術としても注目され、ブエノスアイレス警察や、どこの国とは言えませんがスパイ養成所でも指導を行うようになります。

1966年には妻・サナエがアルゼンチンに移住してきます。二人は1968年に結婚。翌年には長男が生まれ、同じ年に沖縄県人会館で古武道のエキシビションを披露しました。

道場での教え

道場には、最初は「強くなりたい」「ケンカに勝ちたい」と考える若者が多く訪れました。しかし、仲里の教えは違いました。彼は「空手は、人間を鍛えるためのものだ」と指導し、生徒たちはやがて強さだけではなく、人としての成熟の意味を学んでいきます。規律は厳しく、髪が長い者は必ず短く切らされました。

彼の空手のルーツについて、サナエは詳しくは知りません。ただ、「ウーグスク」(大城なら姓、御城なら家名か?)と呼ばれる師のもとで学んだと聞いています。彼自身は「少林寺流」「泊手」と語っていました。家族は彼の空手を、「昔の」とか「伝統的な」とか「武士道の精神を持つ」ものと捉えています。

沖縄空手をひとつに

流派の垣根を越え、沖縄空手をひとつにまとめる——それが仲里の夢でした。しかし、流派ごとの資金運営などの問題もあり、その夢は叶わなかったのです。

それでも彼は歩みを止めませんでした。8段までは沖縄に戻って昇段していましたが、それ以降は「アルゼンチンで昇段することが、この国の空手の発展につながる」と考え、同門の師範である又吉真豊や金城(政和か?)を招聘し、アルゼンチンで昇段試験を受けました。

1987年、彼はアルゼンチン選手団の代表として海邦国体に派遣されます。空手家としての歩みは、もはや南米の空手界と切り離せないものになっていたのです。

彼の3人の息子、ダニエル、ビクトル、ファビアンも幼い頃から空手を学びました。彼らはそれぞれ本業を持ちながら、余暇を利用して空手を教えていますが、これも仲里の教えのひとつです。

空手の記録と遺産

仲里の足跡は、紙の上にも刻まれています。彼の弟子の一人は、1975年から1993年までの新聞や雑誌の記事を切り抜いてコレクションしていました。彼女の死後、その貴重な資料は仲里家へ寄贈されています。

本人や家族が集めた写真も数百枚に及びます。その中でも特筆すべきは、2000人による団体演武の写真です。これを見た又吉真豊は、「アルゼンチンでこれほど空手が普及しているとは」と驚きを隠せなかったといいます。

興味深いのは、仲里が移住の際に沖縄から古武道の武具を持ってこなかったことです。しかし、必要なものはすべて自らの頭の中にあったのです。後年、近所の木工職人に依頼し、棒、トンファー、エークなどを作らせました。特に彼の棒は、通常よりも太く作られていました。「戦前の伝統的なスタイルだ」と、彼は説明していたそうです。

仲里茂雄の人生は、まさに「空手とは生き方そのものである」ことを体現したものでした。異国の地で、沖縄空手の魂を根づかせたその功績は、今もなお、彼の弟子たちの拳に生き続けています。


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